特設第1連隊の戦闘                                                                   2005年作成

特設第1連隊の戦闘

特設第1連隊の概要
 米軍の上陸海岸(嘉手納正面)では当初の計画通り、特設第1連隊と独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)が戦闘を実施した。特設第1連隊は3月30日まで北・中飛行場の整備・特攻機の発進に協力し、30日夜から読谷山地区の陣地配備についたばかりで、米軍上陸時には防御配備の組織化も出来ていない状況であった。
 特設第1連隊という名称ながら、その基幹は飛行場の建設・維持管理、飛行支援を担当する部隊であり、編成されたのは米軍上陸直前の3月20日であった。装備および平素の戦闘訓練等は不十分であり、上陸米軍約4個師団と直接交戦するには極めて脆弱な戦闘力しか保持していなかった。
 

特設第1連隊の編成  
長 青柳時香中佐
連隊本部(第19航空地区司令部)  約45名

第1大隊
長 黒澤巌少佐
第56飛行場大隊 約370名
第503特設警備工兵隊 約800名
* 第1大隊は4月2日喜名東側海軍洞窟付近でほぼ全滅した

第2大隊
長 野崎眞一大尉
第44飛行場大隊      約390名
第504特設警備工兵隊   約800名 (2日夜戦線離脱)
要塞建築勤務第6中隊 約300名
誠第一整備隊
学生隊           約170名 (2日夜解散)

独立歩兵第12大隊第2中隊  米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入
特設警備第224中隊 米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入




特設第1連隊の行動(戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦より抜粋)

 
特設第1連隊は4月1日猛烈な砲爆撃下に米軍の上陸を迎えたが、砲兵もなく、夜間を待って斬込みを実施する以外に打つ手がない状態であった。連隊本部と各部隊の連絡も断絶し、各部隊各個の戦闘に陥った。夜までに青柳連隊長が掌握したのは独立歩兵第12大隊第2中隊及び要建第6中隊だけで、その他部隊の状況は明らかでなかった。
 2日0200頃、青柳連隊長は要建第6中隊に速やかに兼箇段付近を占領すべきことを命じた。同中隊は0630頃、兼箇段に到着して陣地を占領した。2日青柳連隊長は「特設第1連隊は国頭支隊長の指揮下に入り遊撃戦を実施すべき」旨の軍命令を受領(受領時刻不明)した。2日夜青柳連隊長は中頭地区を突破して軍主力に合流することを企図し各隊に南部転進を命じた。南部転進命令は各隊への徹底が極めて不十分であった。しかも実施した部隊はその大半が途中米軍と遭遇し多大の損害を受け、南部転進は失敗した。青柳連隊長は2日夜石嶺久得から池原(兼箇段北西)に移動した。


 3日0100頃、青柳連隊長は要建第6中隊に池原西方の56高地の占領と池原南方部落入口の県道橋の破壊を命じた。夜、池原において独立歩兵第12大隊第2中隊、要建第6中隊、大鹿中尉の指揮する第44飛行場大隊を掌握し、石川岳への転進を命じた。
 4日0330頃、独立歩兵第12大隊第2中隊を尖兵中隊、要建第6中隊を後衛として池原付近を出発して国頭への転進を開始した。しかし転進開始直後有力な米軍と遭遇し各部隊各個の戦闘に陥り部隊は分散した。
 独立歩兵第12大隊第2中隊主力の石川岳集結は4月9日、要建第6中隊は4月10日であった。連隊本部の石川岳到着日時は不明である。

 


特設第1連隊第2大隊の戦闘
  * 特設第1連隊の行動には詳細な資料が無く、第1大隊は全滅したために資料がない。従って本文は第44飛行場大隊 大隊本部 飯田邦光氏「我が部隊かく戦えり」及び「沖縄血戦」を抜粋して資料とさせて頂いた。

  第2大隊の編成(388名)
  第2大隊長 野崎真一大尉
  作戦主任 岡崎粂次郎中尉
  大隊本部 田中和雄中尉以下86名
      補給中隊 岩崎伊一中尉以下120名 航空機整備を主体とした技術部隊
  警備中隊 大鹿秀秋中尉以下184名 飛行場警備。機関砲・小銃を装備








3月24日
 部隊は中飛行場周辺(現在の嘉手納基地)。米軍の艦砲射撃が始まる。第1特設連隊命により予備陣地への食糧集積が開始される。比謝川畔の自然洞窟より非常用糧食3ヶ月分・兵器などを220高地南東の倉敷陣地へ急送する。この輸送には尚謙少尉指揮の沖縄県立農林学校生徒隊170名があたり、栄橋〜牧原〜屋良久得〜御殿敷(うどんしき)高地を経由した。

                               


3月25日
 激しい艦砲射撃下、警備中隊の1個小隊が米軍偵察隊の上陸を警戒するため水釜地区の海岸線へ緊急配備された。また警備中隊第3小隊が米軍の上陸とともに秘密兵器「桜花」及び燃料弾薬の爆破任務のため石山の洞窟陣地へ前進した。
夕刻、台湾に向かうために給油を行う武剋飛行隊(九九襲撃機 広森達郎中尉指揮)9機が中飛行場に強行着陸した。

3月26日
 熾烈な艦砲射撃が続く。
 午後4時頃、屋良の大隊炊事場の谷間において広森隊長以下9名が、比謝川畔に設けた大隊入浴場の入浴を済ませ、軍刀を鷲づかみにして一列縦隊で宿舎(比謝川上流、久得橋付近の渓流沿いにあった)へ帰るところに出会う。荒れ狂う艦砲射撃の中、直ぐに挙手の敬礼をしたところ、隊長も何故か停止し、私の顔を凝視しながら答礼された。その崇高な態度、今生のお別れの眼差しは私の脳裏に深く刻み込まれ生涯忘れることができない。

                             

3月27日
 広森達郎中尉以下の9機は250キロ爆弾を装備して離陸。嘉手納沖敵艦船に突入。
中飛行場常駐の飛行第46中隊鶴見国四郎少尉以下7機の「赤心隊」突入。その後数日にわたり4隊19機が中飛行場から出撃した。夜、嘉手納海岸水釜の警備1個小隊が撤収。



3月29日
 特設第1連隊長より「特設第1連隊は速やかに北・中飛行場を破壊したる後、既定の新配備に就くべし」との命令が下る。敵上陸を間近にしての後退であり、これで当面の危機は避けられたという感が皆にあった。連隊は各陣地へ後退し、第2大隊は御殿敷高地に移動した。この地域はかつて第24師団が陣地を構築、その後第9師団の台湾抽出に際して放棄された陣地であった。なお、飛行場の破壊は補給中隊から中飛行場爆破隊20数名が滑走路を爆破し、その後に本隊へ合流することになった。






3月30日
 中飛行場爆破隊は夜になって作業を開始した。飛行場は採石場から採石した石を細かくして滑走路上に引き詰め、それをローラーで固めたものであったために20数名ではとても破壊できるものではなかった。破壊には大量の人員と爆薬を必要とした。手作業でしかも海岸からは夜間とはいえ照明弾下に絶えず射撃を受ける状況下では全く破壊できず、ついに滑走路脇の土の軟らかい部分(路肩)のみを破壊するにとどまった。
 御殿敷陣地の第2大隊には驚くべき命令が下された。「敵上陸の算なし。第2大隊は速やかに所用の兵力を旧屋良兵舎付近に進出して、中飛行場の機能再開を準備すべし」。納得できない命令でありながらも本隊を御殿敷に残して屋良へ向かった。野崎大隊長の指示により、栄橋の上流、左岸一帯にかけて屏風のようにそそり立っている隆起の丘の崖下に、要塞建築隊が残していった洞窟に避難して待機した。31日もこの洞窟の中で過ごすこととなった。



                     
4月1日
 
快晴の空の下、朝から猛爆撃が開始された。午後になってこの猛爆撃が遠のいた。比謝川の対岸から軽い機関銃音が聞こえてきた。その場所には日本兵の配兵はないので不審に思い洞窟入口から川下をのぞいたところ米兵が確認できた。大隊長もさすがに驚き緊張した声で「夕暮れを待ち万難を排して御殿敷に脱出する。脱出途中敵に遭遇したときは全員斬込隊となって突撃し活路を開く」と指示した。夕暮れが近づき3名・5名の組となって洞窟を出た。一時の不気味な静寂が続いてるとき、いま大隊長たち一行が前進して行った方向で突然、「カタカタカタカター」と機銃音が鳴った。田中副官が前進を躊躇したので「副官殿、この先の久得橋を渡る経路にしましょう」と意見具申したところ副官も同意した。私は山間の低地にかかる久得橋を超えて一隊を誘導した。あたりは鼻をつままれても判らないような真の闇夜、比謝川の渓流の瀬音のみが不気味に聞こえてくる。ここの低地から右岸一帯は雑木林で、登り勾配になっている高原地帯の中の小径を無言のままに進んだ。栄橋から御殿敷への脱出については絶妙のタイミングでまさに生死紙一重であった。


          


3月25日に「桜花」及び燃料弾薬の爆破のため中飛行場に配置された警備中隊第3小隊が夜爆破を開始する。燃料弾薬の爆破を実施する分隊と「桜花」を爆破する分隊に分かれ行動し、終了後に役場で合流し御殿敷に向かう予定であったが、小隊長以下の分隊は到着しなかった。藤波晴喜少尉以下13名が未帰還であった。
 敵の戦車を伴う進撃に際しては重火器のない第2大隊が御殿敷陣地で戦うのは地形上脆弱であることを考え、第2大隊は最後の抵抗線である倉敷陣地へと移動を開始した。








4月2日
 倉敷陣地に布陣していた夕刻、特設警備第504工兵隊と要建隊の老兵の計約1100名が無断で戦線を離脱する。陣地には残された生徒隊だけが残るという状況になったため、大隊長は「学生隊を米軍の矢面に立たせる訳にはいかない。ここは飛行場大隊だけで守備し米軍の北部進攻を玉砕をもって阻止する。学生隊は国頭に待避して解散せよ」と命じた。
 2日夜半、軍命令「特設第1連隊は国頭支隊長の指揮下に入り、遊撃戦を実施せよ」が偶然伝えられた。当初命令通り北進の方針を採用しかけたが、夜明けまで時間がないことと日中の行動は状況が許さないことなどを考慮し、3日は倉敷陣地にて米軍の攻撃に耐えて夜間に北進を図ることに決定した。 



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特設第1連隊第1大隊の戦闘 (資料はほとんどなく、以下が日米両軍の公刊戦史及び生存者の手記である)

 大隊長黒澤巌少佐は北飛行場東方1kmの海軍洞窟で戦闘を指導した。2日朝大隊本部は米軍の攻撃を受け、大隊長以下多数戦死し部隊は分散状態となった。
第4連隊は日本軍の激しい抵抗に遭遇した。連隊長は0730に前日と同じ隊形のまま攻撃開始を命じた。1100第4連隊第3大隊の1個小隊は急峻な谷の入口に達したところで谷間の両側の洞窟陣地から激しい小火器射撃を受けた。この戦闘で12名の負傷兵が孤立し4時間にわたり援護することもできなかった。どのような方策でも撃破できず、最終的には1個小隊が渓谷の入口に突進し、1個小隊が渓谷の稜線から谷に駆け下りて包囲する形の万歳突撃のような戦闘を選択した。
4月2日早朝、米軍は喜名陣地へ迫ってきた。敵戦車の轟音に混じって発射音がタンタンタンと響く。壕から急造爆雷を背負った数人の兵士が飛び出したが、米軍は自動小銃をで銃弾を浴びせかけた。午前11時、迫撃砲の重囲に落ちて壕は身動きできなくなった。部隊の命令はなかなか出ない。さらに時間が経過して壕の入口付近まで迫撃砲が暴れ回った。何時忍び寄ったのか数人の米兵が壕の上に姿を現していた。「米兵が・・・」夢中に口走る。黒澤大隊長も皆、壕から
押し出されるようにして壕外へ出てしまった。自動小銃の流れが頂上から降りかかってきた。手榴弾を投げる。
田圃の中にはやられた兵隊が大勢バタバタ手足を動かし、口々に何かを叫んでいた。兵隊はほとんど倒れ、田圃の水は数百人近い人間の血で赤く染まった。


      
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4月3日
 1000頃、倉敷陣地に戦車を含む車両約30両の米軍車両が近づいてきた。不意急襲的に攻撃を開始し米軍の進撃を一時停滞することに成功したが、主力機関砲が全弾撃ち尽くした後は敵の意に任せる他にすべが無く、陣地は死傷者が続出して次第に沈黙した。着剣し白兵戦に備える頃に夕刻を迎え銃声も下火になった。大隊350人中戦死38名、負傷者は80名前後であろうと推察される。夕刻、大隊長より「大隊は夕暮れを期して、北部恩納岳に向かって転進せんとす」の命令が下った。


 第7連隊は右翼の複雑な地形で敵の散発的な抵抗を受けながらも前進を継続した。しかしながら攻撃大隊が約2500m進撃したところで、敵の強固な拠点から重迫、20mm機関砲や小火器の攻撃を受けた。ある程度敵を減殺したところで穴を掘って防御態勢に移行した。午後遅くに予備の第7連隊第3大隊が前線を超越して東海岸を望む高地帯である東恩納に向かって中隊が前進した。

 

日没後各部隊は北進の準備実施した後、補給中隊・大隊本部・警備中隊の順で行動を開始した。敵の照明弾下に重傷兵を担架に乗せての隊列は遅々として進まず、途中機関銃の連射を受けたりしつつ約1qを3時間以上かかって北進した。西原部落を左に見て進撃するうちに敵の占領地域を離脱したのか、それ以降は照明弾と砲兵射撃が主体となり隊列は凄絶なものに化した。
 やがて大隊は礎南部落に差しかかった。この三叉路で尖兵の補給中隊がどちらに進撃したのか不明となり後続部隊は一時行軍を停止したが敵の砲兵射撃に部隊は四散する状況となった。





         


運命の別れ道。やがて倉敷から2.2km東方、運命の分岐点、楚南部落に差しかかった。
部隊が人気のない三叉路に差しかかったた時、尖兵補給中隊がどちらへ向かったのか判らなくなった。後続隊も途切れたので、部隊本部は追従を待つために壊れた部落の石垣の陰で待機することになった。照明弾が真昼のように打ち上げられ、砲弾はますます激しく炸裂。野崎大隊長、岡崎大尉は鉄兜の首に日章旗を巻き付けた姿で、私と2m離れていない石垣の陰で、眼光けいけい、激しい砲火を浴びていた。
                  



                        

 楚南、何という凄まじい砲撃だろうか。皆、部落の石垣にへばり付いて動かない。砲弾が炸裂しようものなら、それが近かろうが、遠かろうが、皆反射的に身を伏せた。「このままいたら危ない」私は咄嗟に道路向う端の溝に身を伏せた。頭を上げた途端、北面に広がる水田の畦道を着剣した兵たちが一列縦隊になって目的地の方に向かって逃避して行くではないか。私も本能的にこの一隊の後に続いた。照明弾が私たちの行く先々を恰も先回りするように撃ち上がり、その後を砲弾が暴れ回った。水田地帯を突破して対岸の雑木に被われた、流れの急な、小さな小川に飛び込んだ。皆、夢中になって水を飲んだ。
 一部は4月4日早朝に石川岳に達するが大部分は周辺地域に分散し各個に石川岳を目指した。後衛の警備中隊は3日夜に池原で特設第1連隊長と接触したが、どのような経路で池原に達したのかは不明である。


      


4月4日
 楚南三叉路を右に進撃した補給中隊(先頭中隊)は途中単独行動になっていることに気づいたが、栄野比部落三叉路に到着し海岸線を石川に向け北進、石川の手前約1.5kmのところで日出となった。路上斥候を命じ、0745石川部落の安全を確認した後に石川橋まで進出した。この後しばらくして池原から反転した警備中隊(後衛中隊)が石川部落に到着した。このとき警備中隊120名、補給中隊94名が石川橋際で休憩をとった。その時であった、突然米軍の車両1両が石川橋に向かって進撃してきたのである。周囲は交戦状況となり米軍将校2名を捕虜として確保(尋問後に石川橋を渡り100m石川岳方向の場所で銃殺)した。上空に偵察機があらわれ、米軍地上部隊の接近も近いと判断され、各隊は石川橋を渡河し石川岳山頂を目指した。


           

                         


 0900頃補給中隊主力(岩橋中尉)が石川岳主峰に到着。この時石川岳は他に大隊本部の一部、警備中隊の一部の合計100名程度が集結を完了した。米軍は追撃を続け戦闘が開始された。右前方500mの独立した150高地の尖った山も攻撃を受けた。そこには石川橋からの逃避に間に合わなかった日本兵が拠点を構えていたようであった。四周から米軍の攻撃を受け7時間半にわたる激戦となったが、密林と地形の不利から米軍はそれ以上接近することが出来ずに夕暮れを迎えた。夜になり恩納岳への転進を図るために石川岳を出発するが、この時の人員は約70〜80名であった。


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 第1大隊長 野崎大隊長の最期

  4月3日夜、大隊の北部転進が途中で支離滅裂になった礎南部落から、大隊長一行30名は激しい弾雨下を負傷者を抱え、道に迷いながら金武湾が見える場所まで来た時に夜が明けた。4日の日中は雑木林に潜み、日没を待って県道上を北進したが、東恩納付近の道路上において、道路を遮断して封鎖中の米軍と遭遇し激しい手榴弾戦となった。隙のない米軍の配備により石川への突破を断念した大隊長は、生き残った数名の部下を率いて後退し、県道上を横切っているとある川の上流1kmのところまで来てから一同に対し「多くの部下を死なせて遺族に申し訳がない、私としては責任上、これ以上生き残ることはできない。皆はできるだけ自重して北部でも首里軍司令部でもよい、友軍部隊に合流してくれ。呉々も健闘を祈る」と結び、恩賜の煙草を一本づつ配って訣別し、付近にあった住民の防空壕内に入って、拳銃をとり従容として自決を遂げた。
場所は天願川の上流、山城という地名の防空壕内であった。
 
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沖縄第32軍にとっても米軍の上陸を阻止するような戦闘は全く期待していなかった。むしろ陸軍上層部・海軍などに対して飛行場を保持する姿勢を見せるために配備した感が強い



特設第1連隊は主として米海兵隊と交戦した


編成から見ても歩兵戦闘を実施できるものではない。先にこの読谷・嘉手納地区には第24師団が陣地構築していたが、第9師団の台湾抽出に伴い、全部隊が沖縄南部へ移転した。住民は残った部隊を見て非常に不安を感じたという


















何故、、命令に背いて青柳連隊長は南進しようとしたのか、大きな疑問であるが、もはや解き明かす手段はない

日本軍側公刊戦史「戦史叢書」は全体として部隊や個人の名誉を重んじる記述をしている場面が非常に多い。一見して各部隊が連隊長の指揮の下、整斉と後退したかのような印象を受けるが、実相は全くの敗走に近い状態であった。




特設第1連隊第2大隊については将校の行動について疑問がもたれ、最終的に裁判にまで発展した





特設第1連隊第2大隊は屋良集落近傍に展開していた。特に比謝川流域は水が豊富なために炊事所や入浴所が設定されていた。当時湧き水は3カ所出ていたらしいが、今では1カ所しか確認できなかった






栄橋は日本軍が後退時に爆破したという記述が数多く見られるが、軍関係の記録にそのような記録は見つけられない。実際に、左記の場合も車両で移動しているので橋は健在であった。さらに3月末にも橋を渡った記述がある。米軍上陸の4月1日にはすでに周辺に爆破をできるような日本軍は存在していない。 むしろ米軍の艦砲射撃で破壊されたというのが正しいのではないだろうか。




広森中尉以下は3月26日に沖縄に到着したというのが公式の記録である。しかしながら、3月25日到着し26日いっぱいかけて航空機の整備・補給をしたという記述に信憑性があると考え、ここでは25日到着とした。

















敵の艦砲射撃・航空攻撃下に全く未知の地域に配備されたが、陣地の構築位置さえわからず、利用できたのは限られた一部の陣地にとどまった





公式的には中飛行場は破壊されたのである。しかし実相は地元住民を大量動員して建設した滑走路を敵の徹底した艦砲射撃下に20数名の人員で破壊できるものではなかったのである。すなわちほとんど無傷で米軍に占領されたのであった。

「敵上陸の算なし」とは一体何を根拠として判断されたのか。敵の砲弾下に身を置く大隊長としては全く理解できない判断だったに違いない







ここでは久得橋も健在であった記述である。
























地図や下記の写真でも判るとおり、御殿敷付近はなだらかな地形であることがわかる










特設警備第504工兵隊はその後国頭のタニヨ岳まで後退しそこで戦闘加入している。戦線離脱はそもそも重大な命令違反であるが、その部隊でさえも使わざるを得なかったことで日本軍の窮状が見てとれる



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この部分のみ第1大隊について記述した










特設第1連隊第1大隊は第6海兵師団(4連隊・22連隊・29連隊)の行動地域に配備され、第2大隊は第1海兵師団(1連隊・5連隊・7連隊)の行動地帯に配備されていた。
 第1大隊は喜名地区で第6海兵師団第4連隊第3大隊?の攻撃を受け、第2大隊は第1海兵師団第5連隊  (第2大隊は上陸時比謝川にいた)の攻撃を受けたと判断できる。




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海兵隊公刊戦史と一致する部分。日本軍には重迫撃砲はなく、擲弾を射撃している。重迫撃砲と判断した米軍はある程度戦力を持った日本軍が守備していると判断したのだろう。







この三叉路で大隊は組織的な戦闘力・行動を失ったのである





倉敷から楚南に向かう道路は楚南周辺のみ一般車両が通行できる。しかしながらこの道は今でも軍用道路であり、道路の使用はアメリカ軍が主導権を持つという。 そのため戦後返還された楚南集落地区であったが、道路の整備や使用ができず、ついに楚南集落は戦後復興できず廃村となってしまった



楚南集落は赤い瓦屋根と緑の生け垣が美しい小さな集落であったそうだ









戦後この付近には点々と日本軍兵士の遺体が残されていたらしい。それらは戦後に全て収容され、県南部の魂魄の塔に葬られたという















後衛の警備中隊は楚南から南下して池原に到着している。まさに混乱した後退であったと言えよう





楚南から山城までは開豁地であり、米軍の射撃から身を防ぐ手だては走ることだけであっただろうと推察される










石川橋から石川岳の間は米軍の砲撃に追われ、各個にバラバラで前進という様相になっていた

現警察学校付近まで点々と日本軍将兵の遺体が置き去りにされていた



















旧石川橋は2日に第4遊撃隊によって爆破されている


川は浅く、膝くらいまでの深さであったらしい