伊祖高地の夜間戦闘                                                                2006年1月作成


独立歩兵第21大隊第3中隊 「伊祖高地夜間攻撃」

 −戦史叢書(日本軍公刊戦史)より抜粋−
独立歩兵第21大隊の夜間攻撃(4月19日〜20日)
 4月13日〜17日の間、米軍は局部的の攻撃を実施したが、わが戦線には大きな変化なく、米軍の攻撃準備が観察された。沖縄第32軍は米軍の次期攻撃に備えて防備の強化を続けた。
日本軍の西部戦線では、一部主陣地帯を占領されたものの、牧港〜嘉数〜西原の線で頑強に抵抗を続け、米軍の侵入を許さなかった。

4月19日
 牧港及び伊祖付近は歩兵第63旅団と歩兵第64旅団の戦闘地境となっていた。4月18日夜一部の米軍があたかもこの境界の弱点に乗ずるかのように牧港付近から伊祖付近に侵入し、19日未明わが陣地を奇襲した。
 この方面の独立歩兵第21大隊長西林鴻助中佐は、米軍侵入正面の第1中隊に対しその撃退を命令した。米軍侵入の報を受けた第62師団長は歩兵第64旅団長に即時陣地の奪回を命じた。旅団長は西林大隊長から独力をもって撃退する旨の報告を受けたため特別の処置をしなかった。
 第1中隊の逆襲は失敗に終わり、19日朝48.9高地、伊祖部落北側高地付近(伊祖城趾)は米軍に占領され、城間北方にも米軍が侵入して来た。この方面の米軍は逐次増強し混戦状態となり終日戦闘が続いた。
 19日夜、西林大隊長は第3・第4・第5中隊をもって陣地奪回の逆襲を実施し、天明まで近接戦闘を繰り返したが、多大の死傷者を生じ、逆襲は失敗に終わった。この戦闘において、第3中隊は中隊長長澤中尉以下約150名、第4中隊は150名、第5中隊は中隊長以下ほとんど全員が死傷し、大隊の戦力は半数以下に激減した。    

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第3中隊の夜間攻撃命令下達
 伊祖高地の奪還命令は19日午後6時長澤隊に下達された。
「長澤隊は伊祖高地に馬乗り占領せる敵を攻撃。一挙に牧港の河川以北に撃退すべく夜襲せよ」
長澤中隊長は第3小隊の洞窟陣地に分隊長以上の中隊幹部を集めた。ここは伊祖と安波茶の中間にあり、目標の伊祖高地には最も近い陣地である。薄暗い壕内には一本の裸蝋燭が明滅している。外は轟々と米軍の砲撃が渦巻きかえしている。

 中隊は今夜10時伊祖高地に対して斬込みを敢行する。第1小隊は右第1線、第2小隊は左第1線を攻撃、指揮班及び第3小隊は中隊長が率いる・・・。攻撃発起の時刻は午前2時。

第1小隊は安波茶、伊祖の稜線を前進して蘇鉄林の手前堀割で待機。
第2小隊は安波茶陣地より伊祖部落南方の凹地を迂回して西方地点で待機。
第3小隊及び指揮班は高地に連結する凹地を前進して、公会堂附近の広場で待機。

各自軽装、消音に留意せよ。帯剣は靴下で剣鞘を覆い、軍靴は地下足袋にかえよ。背中には目印の白布を装着し合い言葉は山と川。火光は絶対に厳禁せよ。
中隊長の顔に悲壮なものが滲んでいる。「皆今日までよくやってくれた。これが最後の別れになるかもしれないが、立派に戦ってくれ。いいか・・・」。隊長の手から恩賜の煙草が回された。
 各隊の攻撃発起は20日午前2時。一同不動の姿勢で命令を胸に畳んだ。

          

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第3中隊指揮班及び第3小隊の夜間攻撃(織田兵長)

 午後10時、各隊は陣地を出る。月はない。漆黒の闇。誰も一言も発しない。足音もない。敵の射出する照明弾は安波茶、伊祖の稜線、窪地を隈無く照射した。各隊照射時には匍匐に移り、切れ目を待って前進した。

 縦隊は伊祖公会堂南側の凹地を廻り、北側の井戸附近で停止した。攻撃発起の午前2時を待つのである。仰げば伊祖高地は夜闇の中に黒々と山裾を拡げている。「行くぞ」押し殺したような隊長の声。右は生い繁った樹林。左は甘藷畑。前方、坂の上は鬱蒼として真っ暗な森。一気に駆け登って樹木の陰に伏せた。敵影なし。もう台地は近い。突っ込むぞ。
 パーン。 頭上に照明弾が上がった。しまった。崖上の敵から丸見えである。隊長殿がぐいっと身を起こした。私のすぐ左である。「突っ込め!」軍刀を振りかざした。同時に台上の敵は自動小銃を乱射した。何名かが倒れた。猛烈な火線が前後左右に走り硝煙が立ちこめる。
「おい!医務室の壕に入れ」崖下から東田少尉の声である。一団となって、壕に雪崩れ込んだ。12〜13名であっただろう。頭上では敵が自動小銃、軽機関銃を乱射している。再度態勢を整えた。敵の射撃の合間を見計らい、私たちは壕外に飛び出した。一斉に手榴弾の安全栓を抜き、台上の敵軍に投げた。激しい閃光と爆発音が続けて起きた。敵兵の叫びが聞こえた。
 駆け登って高地を占領した。しーんと嘘のような静寂。敵影はない。台地の崖を飛び降りて、一同隊長の所へ駆け寄った。そこは台地の直下である。崖から突出した大岩の上に、中隊長は軍刀を構えて伏せておられた。この突出した岩に片足をかけ、左手に草を掴み、右手に軍刀を振り上げ、まさに一跳にして米軍に斬り込もうとした時、台上からの一斉射撃に晒されたのである。壮烈な戦死である。
                             

                             
 一分の猶予してはいられない。私達は塚穴を掘った。崖下から正確に左へ30m寄った甘藷畑。そこで私達は深さ四尺、幅4、5間の横に長い穴を掘った。5名のうち隊長と鈴木伍長は確認したが、他の3名は戦闘下であり夜間のため記憶が定かでない。遺体の埋葬が終わった時、東の台上が明るい金色の輪に染まった。
 第1小隊、第2小隊はついに台上に到着しなかった。
* 第1小隊は堀割で交戦となりほぼ全滅。第2小隊には生存者なく細部不明である。

戦後25年の昭和45年12月
 車は牧港会員会館の横を入って伊祖高地に近づく。大きな高圧線の鉄塔が見える。真新しい住宅が台地の中腹まで及んでいる。高地の入口に着いた。坂の上では大勢の人々が作業をしている。車の扉をあけてぐるりと高地を眺め渡した。
 ああ、25年前の戦場・・・。この道は私達が隊長殿を先頭に、暗夜一気に駆け登った地獄の道。私は地下足袋を用意してきたのに、履き替えるのも忘れて一散に坂を駆け登った。隊長殿、隊長殿。織田が参りました。おおい、戦友。織田兵長が迎えに来たぞ!汗と涙が一緒に吹き出した。大勢の人目がなければ、私は地を打って慟哭したに相違ない。
 畑から目測で右へ30m歩く。左手に大隊本部壕があった。壕口は大石に覆われ内部は密閉されて入れない。ここだ。隊長殿の戦死された場所へ出る。あの大岩は苔に覆われ、鮮やかな緑が木漏れ日を静かに射返している。歩数にして正確に60歩、30mである。「織田よ、来てくれたか。ご苦労だったなあ」 隊長殿の眼が笑っている。鈴木伍長が起きあがってしがみついてくる・・・。
 収骨が終わった。5体のご遺骨を五つの麻袋に収めた。
「隊長殿、4人の戦友達よ。伊祖の風霜に耐えて永いながい歳月。どんなに日本へ帰りたかったであろう。さあ一緒に帰ろうぜ」

 長澤隊(独立歩兵第21大隊第3中隊)は昭和20年6月17日に島尻の糸須で生存者17名を確認している。その後も戦闘行動を続け11月に最後の兵が投降した。約300名の中隊将兵のうち生存者は10名であった。

                       

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第3中隊第1小隊の夜間攻撃(鈴木伍長)

 真の闇である。野畑萬治小隊長を先頭に、小隊は一列縦隊で黙々と前進した。どれ程歩いたであろう。野畑少尉の右手があがって、小隊員は音もなく地上に伏せた。堀割の三叉路である。
4名が小隊長とともに前方に進出することに決した。小隊長は中腰で堀割の土手を登る。私達4名が後に続く。土手の上に出る。「鈴木、左前方に蘇鉄林がある。あそこへ行け」。私は肯いて歩き出した。3m後方に野畑少尉。その後も3m間隔で3名が続く。ふと立ち止まって後ろを振り返った時、私と野畑少尉の間に何やら黒い物が立ちはだかっているようだ。5人はピタリと立ち止まった。黒暗たる闇である。「誰か」野畑少尉が低く誰何した。答えはない。「誰か」何の答えもない。約20秒も経過しただろうか。突如、足下から切り裂くような火光が起こった。自動小銃である。私は伏せた。頭上を走り抜ける敵兵の影が見える。続いて蘇鉄林から射撃音が起こった。足から血が流れている。野畑少尉の叫びが聞こえた。2回聞いた。
 照明弾が上がった。周りが明るく照らし出された。野畑少尉、小林兵長、小野田兵長がうつ伏せに倒れている。私は手榴弾を側方に投げた。そして走った。曳光弾が赤い糸を引くように私の足下に集中した。私は堀割まで退がった。堀割附近では敵との接触が始まっていた。すごい火力である。頭を上げることも出来ない。見る間に小隊の損害は増えて行く。突如一団の敵兵が飛び出して来た。自動小銃を腰だめで撃ちつつ走り寄ってくる。畠山軍曹が叫ぶ「軽機。あれを撃て!」。初年兵の軽機手は完全に気を呑まれている。あっという間に14〜15名の敵兵に囲まれた。畠山軍曹は初年兵から軽機を奪い、仁王立ちになって腰だめで掃射をやる。一斉に敵兵が倒れた。小隊の損害は刻々に増した。

              














中隊定数189名(実際はそれより少ないと思われる)のうち150名が戦死は、近代戦ならば全滅を意味する。現在は中隊の10%が死傷すれば戦闘能力喪失と判定される


独立歩兵第21大隊の記録「黄塵と珊瑚礁」より抜粋






















第3中隊長は築城に関しての指導者であり、別記の独立歩兵第15大隊にも築城の方法を教育することがあったという















夜間攻撃は筆者の経験からも低い場所から高い場所を攻撃する方が有利である。敵は空際線上に見えるためである。しかし照明弾下ではその有利性を失う。






































昭和35年の大晦日NHK「紅白歌合戦」の終わりに、芸能局長が出演者代表に優勝旗を手渡した。そのとき、その芸能局長の表情・歩き方・身体つきが中隊長その人であった。字幕に「長澤芸能局長」と出た。姓も同じだった。中隊長のお兄様であったという。


結局5名のうち3名の方の氏名は不明であった。真っ暗闇の中敵の砲火を避けながらの埋葬であった。



































足下に敵弾が集中する時は敵も相手を確認して射撃している時である。この場合至近距離で双方が立ち上がって戦闘している白兵戦である