独立歩兵第21大隊の戦闘                                                            2006年1月作成

歩兵砲中隊 山中明少尉 「沖縄作戦と各中隊戦闘概史」

「沖縄作戦
軍甲号戦備下令と同時に上陸地点は当然我が部隊正面なりと全員玉砕を覚悟して水際陣地を始め第2、第3陣地に一同満を持す。3月26日慶良間列島に米軍上陸。
4月1日沖縄本島嘉手納に米軍上陸。北進する敵を我が部隊前面で阻止せんものと必死の努力を傾注したり。4月19日数々の友軍陣地を突破したる敵は遂に我が部隊第一線陣地(第3中隊担当)に侵入し来れり。第3中隊長長澤中尉以下第3中隊200余名は伊祖高地に夜襲を決行す。夜陰に乗じての襲撃は遂に近接戦となり、手榴弾・自動小銃の音は伊祖高地に呀して20日早朝まで続けり。夜間の為戦果は確認し得ざりしも相当の損害を与えたるものの如く一度は後退せしも、敵は再び新手を加えて早朝戦車迄加えて攻撃し来たり。第3中隊も20日朝までに長澤中尉以下約150名を失い遂に20日第一線陣地を突破せられたり。伊祖高地に彼我の死体が累々として横たわるを見る。「伊祖」に至りて敵は二手に別れて、一方は西海岸道を、一方は「伊祖」を突破したる方は次の部落たる「城間」に向かって前進。この間第2中隊を残して大隊本部、第1中隊、第4中隊、第5中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、それに配属部隊たる速射砲中隊、独立機関銃第1大隊がこの敵を迎えて「城間」「湊川」「屋富祖」「安波茶」「44高地」に壮烈なる戦闘が開始されたり。


第1中隊は湊川に向かって前進する敵戦車隊に對し果敢なる肉迫攻撃を行い伊祖高地下において6両の戦車を擱坐せしめ、21日夜第1中隊及び機関銃中隊の一部が湊川の敵に對し夜襲を決行。大隊本部及び第4中隊の一部は城間において迎撃。第5中隊は44高地に対して全員斬込を敢行。4月21日〜27日迄付近約6km内外の地点は彼我入り乱れて死闘は続けられたり。此の間昼は消極的戦闘を夜ともなれば三々五々兵は敵陣目がけて果敢なる斬込を敢行せり。然れども制空権、制海権なき小島の作戦は我が軍に利あらず、戦車を戦闘に前進する敵歩兵は新手を続々と繰り出し、水陸両用戦車を含むM4戦車約70両を撃破、重機、迫撃砲等多数の戦利品を挙げ得たりと雖も、約700の尊き犠牲者を出したり。


 4月27日部隊は生存者全部を統合し「宮城」及び付近の「58高地」の陣地に後退せり。4月29日、「58高地」陣地を発見せる敵は、海空砲爆撃を以て一斉に攻撃、遂に銃砲眼よりも砲弾突入するに至り、約1時間半の一斉射爆撃の後、白煙弾落下愈(いよいよ)敵身近に迫るを知るや、将兵は皆露出陣地に出でて散見する歩兵群に対して攻撃、就中飛行機よりの攻撃は熾烈を極め、爆撃に倒れるもの続出。敵も戦死者多数を出したるものの如く、9時頃一時攻撃を中止せり。10時攻撃を再開せる敵は兵力を増強し2方面より攻撃し来たりて無数の白煙弾攻撃と共に一挙に戦車を先頭に陣地に突入せり。戦車砲は銃砲眼より陣地内に撃ち込まれ、此の戦車に対し内部より行う肉迫攻撃は奏切?せず。徒(いたず)らに尊き犠牲者を増すばかりなり。加えて東部陣地入口より火焔放射を行いたるため、陣地内は熱気とガス充満し生き地獄を現出。尚も屈せず生存者は西部入り口より出撃、陣地内に対し砲撃し居る戦車に肉攻を加え4両を撃破せり。午後16時頃まで戦闘は続行され、本部及び配属工兵隊の大部分(9分通)戦死せり。その夜生存者の殆(ほとん)どは前面の敵に対して斬込を敢行、付近陣地にありし第2・第3中隊・機関銃中隊の一部も当日の昼間戦闘に協力、夜間斬込に出撃、重機・軽機・迫撃砲・自動小銃等多数の戦利品及び敵の死傷も亦大なりしが、事実上独立歩兵第21大隊は当戦闘に於いて全滅したと稱(称)するも過言なきものと認めらる。後日再編成の独立歩兵第21大隊となれり。

 前述の如く独立歩兵第21大隊は創立以来6年の浅きに其の歴史を閉ず。祖国盛衰に併せて敗戦の今日、遠き昔の夢物語の如く繰り出(いづ)るままに往時を追想せば又感慨無量なるものあり。当時の将兵が万雷の歓呼に送られて遠き華北に沖縄に唯命令を遵奉し、身命を祖国に捧げて敢闘しものなり。21大隊の歴史も浅きときは謂(い)え血に彩られし祖国の一負なり。

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各中隊戦闘概略


第1中隊(加藤隊)戦闘概略
4月19日
早朝敵牧港を突破前進中との報15時に受く。中隊は城間、第1小隊(新岡中尉)久喜岬32高地、第2小隊(宮本少尉)牧港、第3小隊(伊藤少尉)久喜岬、戦闘配備に付く(此の時4時頃)加藤中隊長戦死。
正午には第2小隊(宮本少尉)陣地附近にて白兵戦展開、半数戦死負傷者を出す。

4月20日 
 24時中隊全員斬込此に於いても中隊の半数戦死。
4月21日
 港川方面より前進、久喜岬より前進の敵に對して白兵戦を行うも新田中尉、伊藤少尉戦死。
 宮本少尉重傷、各々小隊長を無くし一大混乱に落ちる。
4月25日
 将校?なき兵隊は大隊本部に集結す。白兵戦夜間斬込を続行、半数の数は負傷す。
4月27日
 中隊は部隊本部と共に58高地に後退す。
4月29日
 中隊は沢岻に後退。首里前方の整備に附く。


第2中隊戦闘概略
4月19日
 早朝敵牧港を突破、城間に向かって前進中との報を中隊は16時頃受く。中隊は宮城(仲西飛行場西方)附近の即設陣地にて戦闘配備に付く。

4月22日
 1時頃城間澤附近の敵に對し中隊全員斬込を敢行のため、中隊は屋富祖58高地に集結。命令変更のため中隊指揮班は屋富祖58高地に、第1小隊(1分隊欠)は城間澤附近に、第2小隊は宮城北方に、第3小隊は屋富祖部落西端に位置し抵抗線に付く。第1小隊第2分隊は海岸線警戒のため元陣地に復帰。

4月24日
 13時第1小隊(小隊長今村少尉)は城間澤附近に於いて白兵戦を展開、相當なる戦果をあげるも15時頃迄にほとんど全滅す(今村少尉以下)。此の戦闘に於いて脱出者4名。14時頃今村小隊苦戦の報に第2小隊立岡少尉以下急(救)援。救援した立岡小隊も半数以上の犠牲者を出す。
20時頃第3小隊高松少尉以下全員城間高地に斬込を敢行す。多大なる戦果を得たるも高松少尉以下ほとんど戦死。生存脱出者3名。

4月25日
 海岸線警備の一個分隊も25日13時頃より戦闘開始。兵力僅少のため逐次後退。26日宮城元中隊指揮所附近にて激戦の後、○○○撤退。4月25日現在中隊生存者は中隊長以下約50名。宮城北端、屋富祖附近にて抵抗線に付く。敵は逐次前進。25日〜26日にかけて宮城附近に於いて局部的に戦闘す。 

4月29日
 中隊残存者は中隊長位置屋富祖58高地に集結。兵力約30名。部隊本部と共に58高地最後の攻撃をなす。



第3中隊戦闘概略
 中隊は甲号戦備下令直ちに安波茶附近の設設陣地に戦闘配備に付く。
4月19日
 夕方伊祖方面第一線は白兵戦展開、敵に大なる損害を与えるも我が部隊の損害も相当なる報を受く。22時頃伊祖と安波茶の中間の川上小隊の陣地に中隊の主力を集結、伊祖に向て斬込を敢行す。 編成 指揮班  中隊長以下15名位
    第1小隊 野畑少尉以下28名
    第2小隊 城戸少尉以下30名位
    第3小隊 川上少尉以下30名位

4月20日
 1時頃指揮班・第3小隊は伊祖の正面を攻撃開始す。第1小隊は右第一線を攻撃開始す。
第2小隊は左第一線を攻撃開始す。2時30分頃より敵多数と戦闘を交え至る所で手榴弾戦を展開せり。4時頃までに敵に甚大なる損害を与えたり。我が方も此の戦闘に中隊長、野畑少尉、城戸少尉、以下多数の犠牲者を出す。東田准尉は負傷兵多数と生存者と共に約15名位を指揮し伊祖の壕を占領し朝より馬乗り戦法となり、火焔放射器等で相当に敵の攻撃を受けるも22日15大隊の救援を受け25日夜脱出すると共に、屋富祖の58高地にて部隊本部と共に戦闘を続行、4月28日頃全滅となる。

4月21日
 一方其の壕の外に居た兵士は部隊の命令に依り、木村曹長の指揮に入る。木村曹長は生存者約35名位を安波茶中隊の指揮班に集結せしめ城間32高地附近の警備にあたる。

4月23日
 城間32高地附近に戦車を伴いたる敵と戦闘し、夜間は敵陣地に斬込を敢行。敵に相当大なる損害を与えたり。戦果も機関銃、自動小銃、弾薬、糧秣等多数占領せり。其の勲大なり。

4月29日
 夜、木村曹長以下2名(独立機関銃の者と)脱出す。其の後沢岻にて部隊の生存者と共に戦闘す。 


機関銃中隊概略
 機関銃中隊長 中島中尉
 指揮班 河本井野准尉以下   第1小隊 河本中尉以下  第2小隊 大河内少尉以下
 第3小隊 小島少尉以下  第4小隊 梅沢准尉以下
 装備 銃機関銃9、軽機関銃1、擲弾筒1、小銃若干。

4月19日
 湊川西部海岸に水陸両用戦車5、兵100見ゆ。10時頃第2小隊より正面に敵発見の報来る。以後消息不明、全員戦死せるものの如し。11時頃第1小隊久喜岬須藤分隊は戦車攻撃を受け指揮班に引揚ぐ。12時頃機関銃中隊指揮班にて一個小隊を編成し、29高地の攻撃をす。壮烈なる手榴弾戦を展開、敵を後退せしむ。我の損害も亦大なり。やむなく機関銃指揮班まで後退す。同夜部隊の総攻撃に第1小隊は参加、全員戦死。同夜の攻撃までに重機3を犠牲にす。

4月20日
 夜、旅団の主力を以て伊祖〜牧港稜線を総攻撃す。第4小隊は此の攻撃に参加す。重機1を犠牲にす。此の間第2小隊は小隊独自の戦闘を行い約半数を犠牲にす。馬乗り攻撃を受け、からくも機関銃指揮班まで引揚げる。重機1を犠牲にす。4月20日より24日迄、機関銃指揮班、第1小隊城間陣地、第1中隊陣地、32高地陣地と協力し連日馬乗り攻撃を受くるも、良く戦闘を続行し多大の戦果を揚ぐるも、中隊の殆ど又壮烈なる戦死を遂ぐ。

4月25日
 中隊は残存者○○部隊主力と合し58高地に後退す。

5月10日
 沢岻付近の戦闘にて中隊長中島義一壮烈なる戦死を遂ぐ。


歩兵報中隊概略
編成 指揮班 中隊長 田中中尉
    大隊砲第1小隊 小隊長 栗原少尉
    大隊砲第2小隊 小隊長 山中少尉
    連隊砲第1小隊 小隊長 磯田少尉
    連隊砲第2小隊 小隊長 ○○准尉
    混?分隊 分隊長 天野曹長

4月19日 
 牧港〜伊祖間稜線敵潜入。第4中隊の攻撃に協力し射撃するも砲陣地は馬乗攻撃を受け、砲は使用不可能となり破壊し、生存者は○設後退大隊砲第2小隊と合す。大隊砲第1小隊(44高地附近)栗原少尉は4月25日宮城で戦死。連隊砲第2小隊(29高地附近)。敵我射程距離に近接、戦車を先頭に前進。連隊砲陣地北方より敵近接するに及び射撃が不可能となり分隊長中島軍曹以下は砲と壮烈なる自爆を遂ぐ。大隊砲第2小隊伊祖南方附近。伊祖城趾附近に於ける第4中隊の戦闘に協力す。同夜部隊の総攻撃を掩護射撃す。連隊砲第1小隊は仲西飛行場西端、敵我が部隊警備地域に潜入するも小隊は依然海○に○し警戒を続ける。

4月20日
 夜、旅団主力を以て伊祖〜牧港稜線を総攻撃す。小隊は依然該陣地よりこれに協力す。  

4月24日
 部隊主力29高地(宮城東北方)に集結。部隊最後の抵抗線に配備す、依て小隊は29高地南側に陣地を占領し城間東南方附近の戦闘に協力す。

4月25日
 仲西小学校附近に陣地を変換し宮城付近の戦闘に協力。

4月27日
 内間北方に陣地選定。仲西附近の戦闘に協力。

4月28日
 敵陣地前に近接し射撃不可能となり、内間北方に陣地を変換、58高地の援護す。

4月29日
 部隊主力最後の斬込を敢行、殆ど戦死す。


山中少尉の手記を原文に基づいて記載した。原文は漢字とカタカナで記載されているが、筆者がひらがなに変換した。

沖縄戦開戦時には対着上陸戦等を準備していたことがうかがえる。実際に左地図にもあるとおり、海に向かっての陣形であった。米軍が嘉手納正面に上陸したため、結果として陣地は右側背から攻撃されることになり、十分な陣地の効力が発揮できなかったと思われる。






写真の港川地区で第1中隊による必死の白兵戦が展開された

米軍は伊祖を占領するも、城間地区で日本軍の巧みな戦闘により大きな損害を受ける。詳しくは「城間の戦闘」を参照。





城間を突破され、独立歩兵第21大隊は残存者を58高地に集結して最後の戦闘に挑んだ。










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山中少尉が各中隊の戦闘を記したものであるが、第4中隊・第5中隊の記述がない。第4中隊・第5中隊とも生存者がなく、聞き取りができなかった結果ではないかと推察する。


「15時」という記述は不自然であるがそのまま記載した



第1中隊は3日間港川付近で戦闘を実施した。米軍側の記述では20日にはすでに城間の戦闘が開始されており、第1中隊は敵中に孤立して戦闘したものと思われる。








第2中隊は米軍が牧港・伊祖を突破した後も対着上陸作戦準備を継続している。第1中隊が敵中に孤立・第3・4・5中隊は夜襲により殆ど全滅するなか、第2中隊のみが既存の陣地で戦闘を行うこととなった。第2中隊はこの後、「城間の戦闘」で大きな役割を果たすことになる





















「伊祖高地の夜間攻撃」参照






残存者は第2中隊守備地域に合流した。城間32高地は本来第1中隊の陣地であったが、第1中隊は港川付近で全滅したため、この32高地は第2中隊が配備されていた。32高地は現在米軍牧港補給地区内であり、立入はできない。







機関銃中隊の配備は分隊位置まで判明しているが、ここでは割愛した






























44高地は現在の「浦添市立港川小学校」の位置である。