歩兵第32連隊第1大隊長 伊東大尉 沖縄戦に関する質疑応答                 2003年〜2013年聞き取り
はじめに
 伊東大隊長は、沖縄第32軍高級参謀八原大佐から 「日本軍で最も優秀な大隊長」 と称
 され、日本はおろか、米国・英国などでもその戦闘は高い評価を得て、今日でも海外報道
 機関をはじめとして取材を受けることが多い。 また陸上自衛隊幹部学校(指揮幕僚課程)
 でも講演を行うなど、沖縄戦における指揮官としての実体験はあらゆる資料・記録を上回
 る貴重なものである。
  伊東大隊長には2003年以来、5度にわたる聞き取り調査をはじめとして、2005年に
 は現地で直接ご指導をいただき、それらを併せて一文として本HPに掲載した。



 
歩兵第32連隊第1大隊長の転戦概要
  1 昭和19年8月5日            満州から沖縄本島へ移駐、揚陸作業
  2 昭和19年8月7日〜12月5日    現在の恩納村と読谷村の境界付近(読谷山北側)で陣地構築
  3 昭和19年12月6日〜昭和20年4月22日       第9師団の抽出に伴い陣地変換。 現在の糸満市付近へ移駐、陣地構築
  4 昭和20年4月25日〜4月29日   第24師団の北転に伴い、小波津地区へ進出 「小波津の戦闘」
  5 昭和20年5月3日〜5月7日     日本軍の攻勢移転の突進部隊として棚原高地へ敵中突破、後に再度敵中突破して撤退
  6 昭和20年5月15日〜5月20日   「150高地の戦闘」
  7 昭和20年5月21日〜29日      石嶺高地南西地区で中地区隊として首里防衛戦闘
  8 昭和20年5月30日〜6月2日     津嘉山収容陣地で交戦
  9 昭和20年6月9日〜6月18日頃    「国吉(糸満市)地区の戦闘」
  10 昭和20年8月29日             武装解除



 注意事項
  1  当質疑応答の5回を総合して一文とした
  2  その他、手紙・電話による質問に対してのご回答も併せて盛り込んでいる
  3  個人的情報等に関しては筆者の判断で一部削除している
  4  当質疑応答については、伊東大隊長が執筆された 「沖縄陸戦の命運」 に基づいて質問している。 したがって付属の地図などを見て
    質問しているため、当HPではわかりづらいところがあるがご容赦願いたい。


1 経歴等
 
(1) 軍歴を教えて下さい
   横須賀出身で士官学校に入校。陸士55期。当初工兵を希望したが歩兵として配属された。 第32歩兵連隊に配属後、終戦まで転属なく32連
 隊に所属した。 歩兵第32連隊は当初第8師団(弘前)であり、第5歩兵連隊(弘前)、第17歩兵連隊(秋田)、第31歩兵連隊(青森)、第32歩
 兵連隊(山形)の4個連隊であったが、改編により第89歩兵連隊(旭川)、第22歩兵連隊(松山)とともに24師団として満州に移駐した。その関係
 で古参将校、下士官には山形出身者が多く、新下士官・兵は北海道出身者から構成された。 そのため粘り強いが融通性に欠くという特性があっ
 た。  
   将校になった頃、戦術を会得したいと思ったが、型にはまった戦術から抜け出せず苦慮したが、満州で中尉になった頃から時間の余裕ができ
 たために、戦史をひたすら読んだ。その結果、戦術は兵器の進歩と共に変化すること、型にはまったものではないことを理解した。
 
 
(2) 満州戦線での戦闘について
    満州では国境警備であり、小競り合い等の小規模戦闘も経験しなかった。
 訓練は雪原の中で夜間訓練を主体に実施した。このときに「陰影」に関して経験を積んだことが沖縄戦の夜間戦闘に有効に活用された。しかしな
 がら何の戦闘経験もないままに沖縄に移駐した。

 
(3) 通常大隊長であれば少佐クラスだと思いますが、大尉での大隊長はどういう経緯か
   大隊長は少佐クラスであったが、当時軍から大尉を大隊長に補任してよいとの指示があった。これは将校の人数が少なくそのための処置で
  あったと思われる。 ただし、同期であった志村大尉(第2大隊長)が先に大隊長となった。このとき連隊付将校であったために大隊長上番が遅
  れて悔しい思いをした。

 
(4) 石原将軍とのつながり、石原将軍とは
   父が日蓮関連のつながりで、石原将軍と共にとある師匠の弟子であったことから親交があった。時代の先を見た戦術家と言うよりも戦略家
  であった。 戦後病床にある際にお見舞いにうかがった。 平成20年には念願であった将軍のお墓(山形県酒田市)参りを済ませることができた。



2 島尻(糸満地区)での防御準備
 
(1) 糸満地区での陣地配備は対着上陸作戦用(水際防御)の陣地
     配備か

   対着上陸用(水際防御)陣地であった。
  糸満沖のリーフの存在から、米軍はここには上陸しないだろうという気持ち
     だったが、築城を進める意味合いから部下にはその考えは一切伝えなか
     った。 副官にさえ話したことはなかった。 

 
(2) 上記主眼に基づいた砲兵の使用は
    師団砲兵は内陸部に陣地配備し、第24師団が担任する島尻東部のど
   の海岸に上陸しても砲撃できるように準備された。32連隊正面のみという
   砲兵運用はない。

 
(3) 陣地の対空戦闘に関しては考慮されていたのか。また実際の対
     空戦闘部隊の配置
  
   (具体的回答は得られなかったが、大隊レベルでの対空戦闘対処はな
       されていないようだ)

 
(4) サイパン島での戦闘等から水際防御は艦砲で破砕されるため、
     縦深で防御するという発想が強くなったと聞くが、沖縄ではどのよう
     に考えていたのか。

   (やはり水際であったと推察、伊東大隊長の話からは内陸導入の話は聞
      かれなかった)
 
 
(5) 上級部隊は首里撤退後にこの陣地を使用する企図はなかった
     のか。

   なかった。

 
(6) 「これらの陣地はほとんど戦闘に使用されなかった」 とあるが、
    一部の照屋陣地などは使用したということか

   照屋は国吉の戦闘時に前進陣地として使用した。敵が海岸部から攻撃
     したために、既設の陣地はある程度使用できた。その他は使用できなかった。

 
(7) 国吉は第3大隊担任であるがやはり北からの進攻には不向きであったのか。
    詳しくはわからないが、既設の陣地は対着上陸用であったのでほとんど使えなかったと思う。

 
(8) 戦車断崖とはいかなるものであったのか。
   ただの穴(溝)であった。ほとんどを沖縄防衛隊の人々が構築した。 しかしながら、海岸から内陸に侵攻する敵戦車に対しての障害であった
  ため、海岸線に平行に構築しており、北から侵攻する敵に対してはほとんど効果は発揮できなかった。


 
(9) 各中隊の戦闘陣地はどう配置したのか
   本に掲載してある陣地図は、各中隊等に担任させて構築させた。したがって実際の戦闘においては、敵の規模等に応じて配兵をおこなったと
  思われる。陣地構築間は、担任の地域に兵舎を建ててそこに寝泊まりさせた。掲載図はそのときのものであり、実際の配兵ではない。

 
(10) この陣地を放棄して小波津への転進命令を受けたときの気持ちは。また兵の反応は
   (一度既成陣地を放棄して糸満地区へ転進しており、このときの落胆は相当のものだったと記述されているが)・・筆者談
   転進するも、他の地域にもこの程度の陣地はあるだろうと思っていたので、そんなにがっかりはしなかった。 しかし実際転進してみると、これほ
  どの陣地はなくその時初めてがっかりした。 この糸満付近の陣地は沖縄戦を通じ32連隊の拠点として使用した。 転進時には各陣地に数名を
  残置し、食料などの蓄えもあった。 実際に小波津などで負傷した兵は、これらの陣地に後送し治療にあたった。 国吉に転進してきたときもある
  程度の食料等はあったと思う。  



3 島尻(糸満地区)から小波津への移動
 
(1) 3本の道路で夜間機動をしたが、経路は?
    3本の道路を使用したことは覚えているが、細部は覚えていない。
  首里の南側に集合せよという命令をした。通常大隊程度では3つに区分することはないが、艦砲射撃などで一度に損害を受けることを避ける
  ためにこのようにした。連隊等の指示はない。

 
(2) 3本の機動経路は相互支援を考慮するのか。後方地域なので対空(艦砲)警戒のみか。
   (相互支援できる距離にないほどに大きく経路が異なっていたようだ。警戒もなく前進のみのように感じた)

 
(3) 3本の経路の相互距離は
   (1km以上はあったようである。)

 
(4) 当初第17機関銃大隊2中隊、爾後3中隊配属となっているがその理由は?
   小波津への連隊転進命令時に第3中隊配属となっていた。細部不明。

 
(5)  師団または連隊の梯隊区分はあったのか
    北方転移の部隊は第1大隊のみであり、師団・連隊が連携して機動したのではない。ただし一日橋付近から北は道路が混雑しており、島尻か
  らの部隊や62師団の後方部隊などが混在していたと思われる。

 
(6) 22連隊と89連隊の機動経路は
   細部不明。22連隊は4月12日に62師団に配属され幸地に移動した。



4 小波津の戦闘
 
(1) 弁ヶ岳から小波津への経路は
   弁ヶ岳からは地図上にある道路を使用した。しかしながらぬかるみと砲弾の弾痕で決して普通の状態の道ではなかった。将校は地図を持って
  おり、地図を見ながら各中隊毎に前進した。小波津での各部隊の占領位置は事前に示しており、小波津で集合して陣地を指示したわけでない。
  したがって各中隊は直接陣地占領をおこなった。

 (2) 連隊砲の到着日時は
   驚いたことに遅れずに到着した。大変な道のりだっただろう。

 
(3) 小波津地区の大隊の配備は地図とまちがいはないか。
    まちがいない。

 
(4) 細部陣地配備
    第1線の大山大隊は山すその平地部に2個小隊を配備したようだ。

 (5) 縦深に3線配備したがこれは現地を見ての即決か。
   事前に地図を見て考えた。この3個中隊を縦深に配備するという方法はロシアの戦術に
   あるということを知っていた。 また予備がないこと、受ける損害の点から (狭い地域に2個
  中隊配備では砲撃で損害を受けやすいと判断したようだ) この配備を採用した。

 
(6) チムニークラグ(小波津北西)も防御範囲だったのか。
      米軍が攻撃してきたことから、配備していたのだろう。(連隊との連絡に忙しく大隊長は直
  接第2中隊に行っていないようだ。そのため部下の激励のために副官を派遣している)。
  チムニーというから煙突のように尖った岩があったらしいが、私は確認していない。

 
(7) 敵と皮接した陣地は損害が軽微だったとあるが、前線は平地部であったのか。
   そのとおりである。米軍は山に陣地があると思ったのか、山ばかりを砲撃した。したがって損害は軽微であった。

 
(8) 小波津は貧弱な陣地とあるが、当初の予想はどの程度だったのか。また前任部隊はどこか。
   自分たちが糸満地区に構築したような洞窟陣地があると思っていた。ところが大隊本部位置に壕があるだけで、第1線陣地・第2線陣地には
  全く陣地がなかった。仕方なく急造でたこつぼを掘った状況であった。 前任部隊は独立歩兵第11大隊であったらしい。この後の戦闘を通じ
  独立歩兵第11大隊にはかなり迷惑を被った。

 
(9) 右側背に大きな弱点があるように思えるが、その対策は。
   (開豁地であるが、大隊長はさほど大きな脅威を
  感じていなかったようである。理由はこの地域を前
  進してくる戦車を連隊砲で撃破したこと、米軍の攻
  撃は幸地22連隊側から来るという思いにあると思
  われる。 しかしながら、右側から第1線の第2中隊
  が攻撃されるのを防ぐ目的で煙幕を使用した)

   煙幕は、大隊本部から早朝暗い内に出発して開
  豁部に赴き、草を刈って発煙弾を集めて火をつけ
  て撤収した。 これは第1線部隊の大山隊を少しで
  も楽にしてやろうという処置であった。 米軍として
  は煙幕下に日本軍が攻撃準備しているのではな
  いかと思っただろう。 その後近づいてこなかった。
   連隊砲は対戦車戦に効果を発揮した。32連隊
  の連隊砲は以前の射撃大会でも他の連隊の2倍
  の命中率を誇った。 前連隊砲将校が日頃から砲
  の整備を徹底したやらせた。 したがって砲の命中
  は整備+訓練であると思う。 しかしながらこれだけ大切な連隊砲は艦砲射撃で2門撃破された。 これは沖合にいた船舶を見ておりながら、艦
  砲射撃があるとまで考えていなかった私のミスであった。 たぶん船から直接この戦闘をみて射撃したものと思われる。 今になって考えても痛恨
  の極みである。 
   

 
(10) 大隊内の通信手段は。有線敷設担任は大隊本部であったのか。
     大隊本部までは師団であった。

 (11) 沖縄での戦闘を通じ、有線は有効であったのか。敵砲弾に対する保線方策は。
    当時師団司令部は津嘉山であった。 そこから有線を引くのだから大変な作業であったと思われる。 しかしながらこの距離を地中に埋設する
       ことはなかったであろうから、艦砲射撃などで断線した。 一日あたり30分も繋がっていることはなかった。 指揮命令等はほとんど無線であっ
       た。

 (12) 斬り込みは教範上の示された手段であったのか。戦闘力の逐次投入に感じるが。
    歩兵繰典にもない。 一度切り込みに出ると2・3日戻ってこないし、与える損害も多くは期待できなかった。したがってあまり有効な方法では
   なかった。 

 
(13) 小橋川北側の警戒陣地、呉屋北側高地が適切では。
    そのとおりである。この警戒陣地を小橋川に配備して、ほぼ全滅の損害を受けたことは痛恨の極みであり、今もって後悔している。この場所に
   警戒隊を置いたのは次の理由である。
    ア 無線により連絡は取れると考えていた。 大隊内の無線機は6号無線機であり性能上2000m電波が届くと思っていた。
    イ 独立歩兵第11大隊がまだウシクンダ原(157高地付近)にいるという期待をしていた。
    ウ 米軍はそれほど早く表れないだろうと思っていた。 米軍をなめてかかっていた。
    エ 山田小隊長が以前ここで陣地を構築したという理由で、この場所での警戒を申し出た。 
  
 (14) 警戒陣地の警戒方向は。側背から攻撃を受けたとあるがどの方向からか。
    陣地は中城湾からの敵の上陸を主眼として建設されたものであった。 本来ならば警戒方向はウシクンダ原から下りてくる道、北の方向で
   あったが、陣地の構成は東を警戒方向としてつくられていたようだ。 そのため北からの攻撃にうまく対応できなかったのではないだろうか。
   そのため測背から攻撃を受けたという伝令の言葉になったのではないだろうか。

 
(15) 警戒部隊の右側背は機動容易に思われるが対処方法は。
    右側背(平野部)には敵は進出していなかった。
   

 
(16) 小波津の戦闘開始前にすでに22連隊は幸地で防御していたと思われるが、正面から右翼(小波津)にかけて伊東大隊は展開
     を完了していない状況で右翼をどのように対処したのか。

    第22連隊は62師団に配属中であり、同師団の独立歩兵第11連隊がまだウシクンダ原にいると考えて右をあまり考慮していなかったのでは
   ないか。

 
(17) 第22連隊、89連隊との連係は師団から示されていたのか。 また直接連絡調整した事項はあるのか。
    本来やらなければならないのだろうが、まず連絡手段がないこと、伝令を使うという考えもあるが時間がかかり確実ではないことから億劫に
   なった。 第2の理由として、戦闘の終始を通じ自分の正面だけで手一杯という感があり連携は取らなかった。

 
(18) 「4月29日の軍砲兵の射撃は有効であった」 と記述しているが、それは28日の師団砲兵の効力に疑問があったため29日は
    軍砲兵に射撃要請したのか。あくまでも師団の処置だろうか。

    小波津では師団直轄であり、連隊が砲兵射撃を要求することはなかったと思われる。 28日が師団砲兵、29日が軍砲兵としているのは、
   実際に飛んできた弾の威力から判断した。 軍砲兵は15瑠弾砲であり明らかに威力が違う。 28日の砲撃は第1線陣地内に弾着した。
   このやろうと思ったが、砲兵を怒鳴りつけるわけにもいかないので、「400m延伸してくれ」と冷静に連絡した。 この後の日本軍の攻勢移転時
   にも師団砲兵が89連隊の頭上に砲弾を落下させていることから、射距離の判断をまちがっていると思われ、やはり28日は師団砲兵であると
   考えている。29日の射撃は見事であった。

 
(19) 砲兵射撃の際の観測は誰がどこで行っていたのか。観測員が大隊に随伴したのか。
    不明。大隊に観測員はいなかったし、観測員を見たこともなかった。直接視認して射撃しているのではないだろうか。

 
(20) 第1線陣地を少し後退させたい意向を第24師団は 「連係上無理」 と却下されているが、これは22連隊との連係か。 だとする
    と22連隊の幸地地区の戦闘と相互支援等の連係があったのか。

    22連隊との連携上と思われるが、細部不明。

 
(21) 擲弾筒の有効性は?
    有効ではあった。 旧軍では擲弾筒は直接照準射撃を行うものとされていた。 しかしながら、間接照準射撃も可能であるとわかったのが
   150高地の戦闘の時であった。 そのため小波津の戦闘などでは、直接照準で身を乗り出すために損害も大きかった。 擲弾筒は敵戦車を
   撃破するよりも、迫撃砲弾と思わせて敵が退却することを願って撃った。 つまり欺騙効果を狙ったのである。

 (22) 89連隊との交代の必要性。89連隊到着まで伊東大隊が先行できたので配置されたのか。
    師団として島尻地区でまず北転させることができたのが32連隊第1大隊であった。

 
(23) 89連隊丸地大隊との陣地引継要領。
    引き継ぎ時間だけを示したので、その要領は大山隊長が指示したはずだ。

 
(24) 津嘉山収容陣地で師団通信下士官との会話で「あんなに無線連絡が上手く行ったのは・・・」 との記述があるが、警戒隊との
     無線途絶後、主陣地での戦闘が始まる頃には無線は回復していたということか。

    通常師団と連隊及び大隊の間は5号無線機、大隊内は6号無線機である。師団には頻繁に連絡をとって戦況を報告した。
    (このとき第1大隊は師団直轄であった)



5 146高地の戦闘
 (1) 小波津撤収後に146高地を見て敵兵を確認しているが、どの場所から見たのか。
    現在の地形ではこの付近としか言いようがない。
  (地図を指さして説明。146高地の西側である)
  ただし89連隊第2大隊は前日からこの場所に来
  ていたので146高地、120高地が敵の占領下に
  あることを知っていたはずである。要はこれを知り
  つつ撃退しようという意志がなかったと考えられる
  のだ。 皆損害が大きく自分の部隊のことで手一
  杯だったと思われるが。

 (2) 大隊砲の夜間射撃の準備はどのように行
   うのか。

   目標だけを朝のうちに指示をした。時間は十分に
  合ったはずであるが細部の準備事項は不明。 詳し
  くは生存者である山形県の清水氏に聞いてみると
  わかると思う。

 (3) 目標の小さな丘とはどこになるのか 
    146高地から西に延びる稜線上であり、細部は不明。 付図では大隊本部から目標まで直接前進しているが、実際は1中隊の場所に一旦
   行ってから目標に向かって前進した。  戦闘は低いところから高所を見るという夜間攻撃に適した場所であったため比較的簡単に占領できた。
 
 
(4) 第2中隊、第17機関銃大隊第3大隊はいつ掌握できたのか。
    攻撃開始まで掌握できなかった。(夜間に小波津を離脱しており、その後昼間は動けなかったと推察する)



6 棚原の戦闘
 (1) 89連隊第2大隊が120高地に対しての夜襲を、4月30日を延期して5月1日に実施している。 30日の延期・1日に不成功は
   歩兵第32連隊長は承知していたのではないか。(30日に成功したと師団に報告したが実際は延期した) 
   1日の不成功を知っていれば5月2日の攻勢に関する連隊命令にはたとえ師団命令がどうであれ、120高地に対する補足命令が
   出るべきでないだろうか。 それとも1日に攻撃を延期をしたことを知ってはいたものの、実行の確認を怠ったということだろうか。
     連隊長の要旨命令を見る限り89連隊第2大隊の失敗を知らずにこの命令を発したように思える。 しかしながら、3日夕の恩賜
   のタバコの配布に際しては89連隊第2大隊には敢えて配布しなかったとあるため、連隊はその失敗を知っていたはずである。
   たとえ師団命令であれ、砲兵支援のない120高地攻撃の困難性は連隊も承知していたはずで、師団に対する具申等はできなか
   ったのだろうか。


    連隊は最後まで第89連隊第2大隊の120高
  地の攻撃不成功を師団に報告しなかった。 連隊
  長は「第2大隊長にだまされた」と戦後に語ってい
  たが、これは無責任な発言である。 連隊の虚実
  の報告が師団、しいては軍の攻勢判断に大きな誤
  りを与えた。 連隊命令には120高地に関しての
  処置指導事項が全く含まれておらず、4日黎明
  攻撃をおこなうにあたって大隊は120高地を占領
  しなければならない(または突破)ということになっ
  た。 しかも報告上120高地はすでに32連隊が占
  領しているとなっているため師団砲兵等の火力支
  援も得られない状況であった。
   連隊命令は、前田東側高地及び棚原の奪取であ
  った。 当時前田高地は第2大隊の志村大隊が一
  部占領していたが、この東側高地(魔の高地) は
  未占領であった。 最終的に棚原へ突進を指示して
  いるのに、途中寄り道をしてこの前田東側高地の
  奪取に戦闘力を指向することに大きな疑問を感じ
  た。 この命令のとおりに実行に移すとたぶん前田
  東側高地の攻撃で衝力を失ってしまい、日本軍の
  攻勢移転に寄与することは出来ない。 私は沖縄
  の戦闘を通じ、「この命令どおりに攻撃するか、命
  令違反と知りつつも前田東側高地には目をくれず棚原に突進すべきか」 で最も苦悩した。 攻撃が3日夜に頓挫したことから、その後は少しでも
  早く棚原に行かなくてはという念に駆られた。
   この連隊命令はその後の調査の結果「前田東側高地」を攻撃するようにはなっていなかった。 しかしながら大隊長は確かにこの命令を受け
  取った。 そこで戦後志村大隊長にこの件を問うたところ 「『攻勢時に前田東側高地に伊東が来る』という印象を持っていたので、そういう命令を
  受けたと思う」 という返事であった。 私一人の思いこみでないことがわかった。

   かのような実情を踏まえない連隊長の戦闘指導には甚だ疑問を持つところである。 私は戦闘の終始を通じ各中隊に直接出向いて状況を確認
  するか、副官を派遣して確認をさせるかをしていたが、連隊は沖縄戦を通じ連隊付将校をわが大隊に派遣するこを一度も実施しなかった。
   志村大隊においても同じことである。死の高地に中隊を次から次に投入して全滅させたが、一度たりとて大隊長が自ら現地に赴くこともしな
  かった。 これでは現地の状況がわかるはずがない。自ら現地を見て「ここは占領できない」と判断すれば、また別の方策を考えるはずである。
  それをしなかった。 「死の高地」は実際はサンゴ礁の大地であり、短時間で工事をすることも出来ず、加えて砲弾の落下によってサンゴ礁が
  砕け散り、砲弾の殺傷効果を倍増させるという地形であった。 もしそういうことがわかっていれば、中隊で夜間攻撃をさせた後、一個分隊を現地
  に残置すれば、同じ効果でもっと長期にわたってこの高地を保持できたはずである。

   120高地攻撃時に連隊の火力を指向できなかったかという質問であるが、連隊にはもはやその戦力がなかった。 連隊砲は2門を小波津で
  失っている状況であった。
   

 
(2) 3日夕に大隊長、3中隊長、1機関銃中隊長、大隊砲小隊長の4名が打ち合わせを行っているが、この時1中隊長(146高地?)
   2中隊長、17機関銃3中隊長は未集であるが、伝令を使っての命令下達・打ち合わせであったのか。このときの2中隊長位置は。

     第2中隊長、独機3中隊長は未着であり、伝令を使って命令下達を行った。
   第3中隊長には夜間攻撃の先頭を前進させるので、この時に細部指示をしようと思ったが、今更余計な口出ししない方がよいだろうと思い何も
   言わなかった。 一方第3中隊長は先輩の将校でもあり、私としては遠慮したという気持ちがあった。残念である。

 
(3) 3日の攻撃で3中隊は攻撃方向が右にずれたということだろうか。もしくは敵と遭遇しても反撃をせずに低地を前進することを期待
   したのだろうか。

    右にずれたということである。命令下達時にあれほど低地部を前進せよと念を押したにもかかわらず何故この方向に向かってしまったのか今
   だ持って疑問である。しかしながらこれが結果として威力偵察となり、敵の勢力・位置等が判明した。
   威力偵察に関しては当時陸軍にはこの考えがなく、私はロシアの教範からこのことを知っていた。しかしながら実戦での使用については考え
   がそこまで至らなかった。短時間で敵の勢力・配置を知るという利点を生かし、各戦闘でも戦法として使用すれば良かったと今になって残念に
   思う。敵情を知ることに関しては斥候に頼ったが、将校斥候の場合でも時間がかかるし全般が解明できるわけでなかった。

 
(4) 4日の攻撃再興時に2中隊長と直接会って指示したのだろうか。
    会って話し、先頭を前進することを伝えた。
 
 
(5) 戦闘時「退却」という言葉に士気が低下、あるいはパニック状態に陥るという話を聞いたが真実と考えていいか。
    真実である。私は敢えて「攻撃発揮位置に戻る」ことを指示した。パニックになると部隊は攻撃も出来ず退却もできないという状況になる。
   私の言葉で部下は整然と後退した。 

 
(6) 棚原攻撃時の携行弾薬・食糧は。通常の携行弾薬数は。(自衛隊小銃弾120発)
    小銃弾120発。携行糧食は後続して部隊が進出してくると考えていたため、最小限でたぶん3日分くらいだと思う。敵中を突進するので
   武器・弾薬を主としてなるべく軽くしたように思う。

 (7) 突入時に第17独立機関銃大隊第3中隊を1機関銃中隊より先頭付近に配置した理由。
    
穿貫突破で火力に重点をおけば1機関銃でもいいのでは。それとも2中隊と機関銃3中隊が小波津以来ともに戦ってきた点を重視
   したのか。 

    小波津で第2中隊に配属したままであったので、そのままこの態勢で前進させた。 攻撃前進に関しては防衛庁資料、富士学校資料などでは
   4列縦隊のような記載になっているが、実際は散開して行動している。

 
(8) 146高地の第1中隊には、追従時期を明示した上で146高地を離脱させたのか。爾後の146高地の守備はどのように対応した
   のか。(22連隊が守備を継いだとあるが、師団命令にも明示があったのか)

    そもそも146高地は22連隊の守備範囲であった。第1中隊が攻撃している間はひとつ後方のコブに22連隊の一部がいた。 第1中隊の
   占領後、22連隊の一部も前進してきた状況であった。 したがって第1中隊には離脱指示はなく、棚原への攻撃命令のみを下達した。

      

 (9) 円陣防御時に南側から戦車の攻撃を受けたと
   あるが、この戦車は前田から転戦してきたもの
   か。または翁長からのものか。

    不明である。しかし南側から攻撃されたことで、四
   周を敵に包囲されたことを悟った。 ちょうど攻撃前進
   してきた方向から射撃を受けた。
 
 
(10) 大山隊長や他の隊長の最期はわかりますか
    直接は見ていないが、中隊の話によると、2中隊
   長は部下のところに行こうとした時に狙撃されたとい
   うことであった。

 
(11) 戦闘間で米軍を捕虜にしたという事例がある
   か。

    ない。棚原前進時に第1中隊が陣地中央の低地
   部で水浴をしている米兵を発見した。米軍は手を揚
   げたが全員を刺殺した。 
       当時の状況下では、捕虜を確保して作戦を遂行することは極めて困難であり、捕虜にするという考えもなかった。自分たちが食べることで精一
       杯の状況で、捕虜の衣食住を考えることは全く出来なかった。 たとえ捕虜を確保しても、戦後虐待で戦犯容疑に問われるような状況であった。

 (12) 「暗号書紛失の理由を知らせよ」の電報や転進命令等は生文で送信されてきたのか。
    この後連隊との通信は途絶した。後に聞いた話では連隊本部はこの時米軍の攻撃を受けている状況であり、通信出来る状態ではなかったら
   しい。なお大隊は、この後暗号を使用できるようになったので、攻勢中止転進の命令などは暗号で受信した。

 (13) 攻撃時の月齢
     私の方で調査した結果月齢21の半月であったことをお伝えした。大隊長は「そうでしたか」と言われ、「月が大きく見えたので満月であった
   と思い込んでいました」と話された。 当日の月の出は那覇市で午前1時14分であり、棚原の南西部で大隊長が部下に 「あの月に向かって
   進め」と指示した時間から考慮して、月の出後の大きく見える時間帯であり、その印象が強かったものと思われる。また当夜の絵があったが、
   月は満月に画かれており、これを知った伊東大隊長は「修正しないといけない」とおっしゃっていた。
   

 (14) 第17独立機関銃大隊第3中隊の石少尉は5月4日棚原にて戦死となっているが、この日付は正しいものか。純然と4日であれ
   ば、22時に前進開始しているので棚原に辿り着く機動間に戦死されたとも考えられるが、この機動間に戦死傷者はどのくらいので
   あったのか。 また棚原という地名、4日という日付も正しいのだろうか。 実際真面目な戦闘が開始されたのは5日の黎明時くらい
   であり、5日の戦闘も4日と記された可能性はないか。

    まず石少尉については覚えがない。独機17大隊3中隊は糸満からの転進時に配属になったことから隊長と1名の小隊長くらいしか覚えがな
   い戦死日時に関しては、戦後生存された独機17大隊長が生存者達から聞いたものを公式の戦死日時・場所として戦後報告したものである。
   生存者も数名であり、したがって日時に関しては多くの場合、最も激烈な戦闘が行われた日が印象的でありその日を戦死日としていることが
   多いように思われる。 ただし、5月4日は大隊が146高地付近から棚原へ攻撃前進した日であり、このときに棚原までに損害を受けた部隊は
   第1中隊のみであったと記憶している。
    独機17大隊3中隊に至っては中隊長、小隊長とも全員生存して指揮機能を保持していた記憶がある。 また独機17大隊3中隊は5月5日に
   最も激しい攻撃を受けており、この日の損害が甚大であった。 さらにこの中隊には最後まで陣地変換を指示していない。 したがって「戦死5月
   5日、場所棚原部落北西、第1中隊と第2中隊の陣地の中間地点が正しい」 と思われる。


 (15) 退却にあらず突破である、この突破を強調
    されたが、実際指導要領でも反映されたの
    だろうか。退却には残置後衛部隊を伴うが
    突破にはない。

     退却は敵に気づかれていないと判断したので
    後衛は設けず、一気の突破を選択した。

 
(16) 帰還時に146高地南300mの22連隊
    第1線の後方に帰還したとあるが、146高
    地は第22連隊にすでに託してあったはずで
    はないのか。 だとすれば、1中隊離脱後は
   予定通り22連隊へ引継ができていなかった
   のではないか。

    敵情から判断してすでに22連隊は146高地を
   占領されているだろうと考えた。そのため直接
   146高地に戻ることなく、さらに後方の地域を目
   指して前進した。事実この時146高地は敵に占
   領されていた。



 
(17) 独立29大隊が後方に兵を集結して、1大隊が敵と交戦するに至ったが、その際の各中隊に対する戦闘指導はどのように実施し
   たのか。状況を説明する時間もなかったと考えらえるが。

    29大隊は右第1線として、我が大隊の前方にいた。しかしながら13日夜(14日)には連絡なく撤退したため、我が大隊正面が敵の攻撃を
   受けるようになった。また我が大隊に配属された右小隊は敵の戦車を見たという理由で独断撤退した。あとで殴りつけた。 戦後戦場道義が
   問われることとして他部隊で問題になったが、実際は皆自分正面しか考えられない、自分のことだけで手一杯の状況であった。



7 150高地の戦闘
 
(1) 140,150高地は未熟地とあるが、小波
   津などはスムーズに進出したように感じるが
   その違いはどうであったのか。

    夕方に進出命令を受けたために、いきなり行く
   と方向を間違える可能性があったので、まず
   130高地に向かって行き、次に横へ移動する
   (140,150高地方向)つもりであった。 
    当夜は米軍がまだ北の方にいたために、照明
       弾が少なく歩きやすかった。 130高地の方向か
       ら見て、140高地・150高地は暗闇にそびえる
       ように際立って不気味な感じがした。



 (2) 「140高地の確保と150高地の奪取」という考えれば2つの目的が含まれた命令をどうらえたか。戦力の集中の点から140高地
   に確固たる地歩を確保した後、150高地奪取に向かうという捉え方ではいかがなものか。 または最初から反斜面での相互支援を
   意図して残置したのか。

    140高地には頂上部に工兵がいた。したがって兵力増加で済むと考え
   た。150高地は反対斜面に22連隊の渡辺中尉が残存していた。 頂上部
   には米軍がいたのでこれは早く駆逐しなければと考えた。理由は火力が
   ない我の状況では米軍の駆逐も2日目の攻撃では困難、3日目では完全
   に無理となるからである。むしろ逆襲という感じで早め早めに攻撃しないと
   ダメであろうと考えた。反斜面での相互支援は最初から意図していた。
   
   ※ 反斜面での防御は防御本来で目指すものではない。あくまでも開豁地
      に火力を指向することによって最大限の出血を強要させることが第一の
     考え方である。反斜面陣地は、完璧なまでの洞窟・築城が必要であり、
     それなくしては防御としての効果は少ない。

    130高地=Wart   西部130高地=Chocolatedrop  140高地=Flattop  
    150高地=Dick right + Dick center + Dick left


 (2) 22連隊は相互支援の意図はなかったのだろうか。

    不明である。 ただし、130高地・140高地・150高地は扇型の地形で防御からすると非常に相互支援のやりやすい地形であった。十分な
   火力さえあれば徹底して防御できた地形である。

 
(3) 140高地確保とあるが、機関銃中隊は150高地に同行できなかったか。(結果的には相互支援の観点から残置したことが重要
   な意味を持ってくるが)

    (最初から残置する考えだったようだ)

 (4) 130高地をワート、西部130高地をチョコレートドロップと解釈
   して良いか。

    そのとおりである。八原参謀は著書の中で間違った認識をしている
   勉強不足である。 また地元では西部130高地を弁ヶ岳と呼んでい
   たこともない。

 
(5) チョコレートドロップは戦後訪れたことがありますか。
    ない。戦後一度沖縄を訪問したが、遠くからこの地域を見ただけであ
   った。遠望からでも住宅地に変貌していることがわかったので見る価
   値はないだろうということで通り過ぎた。


 (6) 米軍側はチョコレートドロップに関する記載が多く、ワートに関しては少ない。反対に戦史叢書では130高地に関しての記載が
   多く、西部130高地に関しては記載が少ない。 この捉え方の差はなぜだろうか。

    日本軍にとって130高地(ワート)は140・150高地は相互支援にそれぞれが重要な地位を占めているが、西部130高地は当初から防御
   困難と思われていた。 反対に西部130高地は戦車機動を行う米軍にとっては機動軽路上を見下ろす緊要地形にあったために、その奪取に力
   を注いだと思われる。

 (7) 130高地南コブとはどの位置だろうか。
    130高地南にある小さな丘である。(大正8年地図には確かに表記されている)

 (8) 独立29大隊が130高地南コブから撤退したのは連隊命であったか。
    連隊命令ではないだろう。やはり寄せ集めの部隊であったために、武器も不足していたし、なにより訓練を行っていないために仕方のない面も
   ある。  (130高地の喪失が地域一帯の相互支援を瓦解させることは連隊も知っていたと思われる)

 
(9) 戦史叢書では29大隊は20日まで130高地を固守したとの表現であるが、図の5月17日〜18日の撤退は第29大隊の主力で
   ないと考えて良いか。

    主力の撤退であった。国の戦史関係では明らかに出来ない面もあるだろう。17日には右からの射撃ばかりでなく、左からも射撃を受けるの
   で観察したところ、130高地に米軍の存在が確認できた。 さらに夜に入り重田中尉が増援70名を率いて150高地に前進したが、やはり
   130高地から射撃を受けて四散している。 このことからも既に17日の内に130高地は敵の手中にあったことがわかる。 むしろ17日には撤退
   したと考えていい。

 (10) 22連隊が150高地から撤退したとの記述があるが、戦線整理のための撤退か。だとすればどこに撤退したのか。これは
   22連隊命令か師団命令に基づいたものか。

    命令でも何でもない。戦意を喪失し無断で撤退したのである。 ただし150高地南側高地には小城大隊長が(22連隊)いた。
 
 
(11) 観測将校がやって来て状況を見て行ったとあるが、この時期になると弾着修正を行いながらの砲兵射撃はもはや実施できな
   かったのか。

    出来なかった。(現在のように無線で弾着修正を行うことは困難と思われる)  しかしながら効果的な射撃であった。

 (12) 米軍公刊戦史では砲兵射撃は弁ヶ岳からの迫撃砲弾とあるが。
     弾着の威力から考えてもまちがいなく砲兵射撃である。15榴程度であったので軍砲兵だと思われる。

 (13) 右からの狙撃(P139)とあるがこれは東(ゼブラ・ベーカー)からの射撃か。
    ディックセンター付近からの射撃であった。

 (14) 130高地南コブからの敵射撃を受けた時
    点で、130高地・140高地・150高地の
    相互支援は崩され、左側背からの攻撃、退
    路遮断に繋がるため、大きな脅威ではなか
    ったか。

    退路がなくなるということは考えていなかった。
   包囲されてもどこでも破って逃げられると考えて
   いた。 ただ戦闘ができなくなることを考えていた。



 (15) 米軍は140高地と150高地の隘路を戦車が通過した時がこの戦闘のターニングポイントだと記述しているが、大隊長としてどこ
   がターニングポイントと考えているか。

    同じである。
    その後、敵の20m下で無線機を作動させたが、このときは「えいままよ」という気持ちであった。 米軍も夜明け前であるし150高地の戦闘が
   一段落付いたという気持ちで緊張感がなかったのであろう。 このとき連隊に援軍を要請し泣き言を加えたのは戦闘を通じ最初で最後であっ
   た。 泣き言を言って恥ずかしいと思っている。
   




8 中地区での防御戦闘
 (1) 新陣地は堅固であったという記述があるが、墓地利用でない洞窟陣地であったということか。その陣地は北東からの敵に対して
   対応できる陣地であったのか。

    洞窟陣地でかなりしっかりしたものであった。米軍の攻撃はなく、第29大隊前面に一度斬り込みをかけたくらいであった。 この間に負傷者
   の治療、後方からの回復者の帰隊、小銃等の収集、部隊の再編成にあたった。 また補充兵等に対して、これまでの戦闘の話を聞かせるなど
   して精神教育を実施した。 このとき元配属の工兵隊長からテンプラの差し入れがあった。何のテンプラだったかは覚えていないが、何か野菜
   だったのだろう。 同じ洞窟にいたもので分配したのでひとり一口だったと思う。 工兵隊長は実に勇敢な人で、砲弾が落下する中でも平然と立
   姿でいた。 自分だけが伏せる訳にもいかないので我慢して立っていた。

 (2) 戦史叢書・米軍公刊戦史を見ると、第29大隊の「ドロシー」が中地区の核となって防御したような記述になっているが、実際の
   戦闘はどのようであったのか。

    実際その状況は見ていない。それが事実だったのかもしれない。この期間は雨連日降り泥濘化して戦闘は困難だったという理由もあろう。
   第29大隊については、17日夜に130高地から撤退したため、我が大隊は大きな損害を受けることとなった。したがって、中地区隊に配備さ
   れたときに既に29大隊が配備完了していたのを見て非常に苦々しい思いがした。
 
 (3) 左戦車27連隊陣地前縁と大きな開きがあるが、防御上の処置はあったのか。
    地形上の理由であり、防御上の処置はなかった。

   




9 津嘉山収容陣地での戦闘
 
(1) 海軍部隊や特設部隊が右翼を守ってくれるだろうという期待を持っていたようだが、これらの情報は(敵情)、継続的に入手できた
   のか。 小波津の戦闘から始まり、戦況情報の入手というものは継続的に出来ていたのか。

    連隊命令の中に「状況」があったので大きな情報だけは入手できていた。

 (2) 150高地以降、配属等で寄せ集めの編成になって行くが、これらの兵に対し大隊長の統率方針とか、大隊の任務等を浸透させ
   る機会はあったのか。

    中地区隊のときに実施していた。 このころから疲労が極に達していたためにその熱意も少なくなってきた。疲労のためほとんど寝ている状況
   で、副官は動かない私を見て不満に思っていたようだ。 副官は大変体力があり最後まで元気に動いていた。

 
(3) 重田中尉指揮の部隊配備の正確な場所はどこになるか。
    戦史叢書では一番右の丘には独立歩兵第22大隊が配備された
   となっているが、現地にはいたのかもしれないが部隊の姿は見えな
   かった。
    したがって一連の右の丘も我が大隊が配備した。 それが重田中
   尉指揮の部隊であった。 重田中尉は主計将校であったが、非常に
   戦闘向きの人であった。 頭も良かったが目が悪かったために主計
   学校に入ったということであった。 それさえなければ士官学校に入
   学していた人材であった。
    左第1線の斉藤准尉隊、右の重田中尉隊ともに開豁地を前進す
   る米軍に大きな損害を与えたが、その後右第1線が突破され大隊
   本部付近まで敵が浸透してきた。
    重田中尉は担架で収容されたが、その後についてはまったくわか
   らない。 斎藤准尉は重傷を負って津嘉山の壕にいたが、撤退に当
   たり捜したが見当たらなかった。 患者収容隊に収容されたとか、手
   榴弾で自決したとの噂があったが、確かめることは出来なかった。
 

 
(4) 首里から島尻への転戦(撤退)に関して、兵には敗走の感がなかったのだろうか。 特に収容陣地から国吉へ後退するときは、
   米軍に退路を遮断されるという危機感の中その思いが強かったのではないかと推察する。

    もう一戦の意識があった。 したがって敗走という感はなかった。 国吉への転進は、まったくの無人の世界を後退していった。
    (八原参謀の「沖縄決戦」などから、後退する部隊でごった返していたと想像していたが、最後尾部隊だったためか、意外な感じがした)

   




10 国吉地区での戦闘
 
(1) 照屋の前進陣地の撤収時期はいつだったのか。
    小波津の警戒陣地と同じで的確な指示が必要であったと考えている。 体力・気力とも衰えていたため考えが至らなかった。
   照屋の前進陣地設定は連隊命令による指示であった。

 
(2) 照屋からの撤収がうまくいかなかったが、本来の前進陣地の任務は主陣地の欺騙 (過早の主陣地の暴露を防ぐ、敵に過早に
   展開させる) を主とするが、すでに十分な装備がなく本来の任務が果たせないと察するが、この場合戦力の分散につながらないだ
   ろうか。

    連隊命令で指定された陣地であった。 陣地自体は以前に構築したものであり、海岸から攻撃してくる敵に対して構築されていたために、海
   岸線を北から進攻する米軍に対して有効であったと思われる。

 
(3) 自衛隊では1個中隊防御正面400〜700m
      とあるが、いたしかたないが残弾数および兵
   力からすれば防御正面が広すぎると思う。
    処置した事項があるのだろうか。

    ひとえに戦力がないからである。 もはや第2線
   を配備したり、反斜面を準備したりという戦闘力
   はなかった。 反斜面陣地には堅固な側防火器
   が必要である。 このような時に大隊本部を後ろ
   に配置したのでは大隊の士気に影響するし、少
   ない戦力を補うために大隊本部も第1線に配備し
   た。




 (4) 米軍は国吉正面の開豁地で煙幕を張って前進を試みたが、日本軍はこの煙幕の中に機関銃弾を撃ち込んだとあるが、これは
   第3大隊に渡した軽機4を指しているのだろうか。 1大隊の軽機も同様に正確な射撃をおこなったのだろうか。

    軽機の数は4取られた結果5になった。しかし実際は軽機は重いし大きいために敵の目標になりやすくほとんど役に立たなかった。 米軍の
   戦史に記載されているのはほとんどが重機関銃のことである。

 (5) 戦史叢書ではこの国吉が本来第24師団の陣地であったことから、数日は頑強に抵抗できたという旨の記述があるが、対着上陸
   用の陣地であって果たして有効に活用できたのであろうか。

    11日の戦闘は日本軍が勝ったと思う。12日からは前日の戦訓を生かし、米軍は戦車を投入してきたために劣勢に陥った。

 
(6) 縦深のない陣地での抵抗において何日敵をくい止められると思われたのか。
    完全編成なら何日でも防御できると思っていた。

 (7) P166で副官と3中隊長との間に激烈な書簡のやりとりが・・とあるが内容は。
    伝令によって主陣地に戻って来いと言っていたが、伝令によって敵に包囲されて脱出不可能との返答が来た。 副官は伝令が往復できるの
   に何故脱出できないのかとのやりとりをしていたらしい。 3中隊としてはしかるべく陣地もあるし、食糧等の蓄えもあったものと思われる。
   本部に来たとしても居住空間もないし食糧は不足するので、その気持ちはわからないでもなかった。

 (8) CGS学生に質問された事項で、大隊長の決心として現在はどれが適切だったと思われるのか。
    戦力さえあれば 「最後の戦力を結集しての決戦」。 これをやりたかったなあ。 師団長は「まだ32連隊はがんばっているぞ」と言ったらしい。

   




11 沖縄第32軍の戦闘終了後の出来事
 
● 志村大隊長(第2大隊長)との面会
    連隊長の命令をもって面会した。何を話したかはあまり覚えていないが、武装解除の方法を聞かれたので、伊東大隊は2日間米軍に猶予を
   もらったことなどを伝えた。
 
● 収容所で
    戦闘の記録を新しいうちに書き留めなくてはいけないと思い、紙と筆記具を要求したところ快く引き受けてくれた。 あの当時にあの紙の量と
   筆記具を与えてくれたことに感謝している。 米軍は非常に紳士的に接してくれた。 敗者を哀れむこともしなかった。 その意味でアングロサク
   ソンは優秀だとおもった。


12 復員
 ● 遺族の方々へ 

    遺族に珊瑚礁を砕いて手紙を書いた。 ただ沖縄防衛隊の方々は連絡先がわからなかっ たことが残念です。
 ● 連隊長 
    復員後、連隊長と同じ復員関連の事務所で仕事をすることになった。師団長の遺族にご報告をする際にも、連隊長は行かないと言ったことで
   憮然とした。 他の連隊長は戦死されているので、当然32連隊長がご報告に伺うと思っていたが、それをしないということで憤然としたことを
   覚えている。結局私がお伺いした。
 
● 八原高級参謀 
    八原参謀とも同じ職場であった。 知り合いの娘を嫁にもらえと言ってきたが、八原さんの取りなしだと後が大変だろうと思って逃げた。



13 戦後から現在
 
(1) 自衛隊へは
    誘われもしなかった。志村大隊長は自衛隊に入隊して将補までやった。

 
(2) その後沖縄を訪問されましたか。
   一度だけ訪問した。自衛隊の人に案内してもらった。沖縄防衛隊の方にもお会いできた。

 (3) 生存者の方は
     副官・大場さん・広瀬さん・など数名になってしまった。
   独立速射砲の広瀬さんは国吉の陣地で最後に砲を埋めた。 沖縄を訪ねた際にその場所を掘り返したが発見できなかった。 石切場のように
   なっていたのでその際に掘られたのではないかと思っている。

 
(4) 自衛隊での講演は
    幹部学校・富士学校・幹部候補生学校・防衛大学などで講演した。
 


14 総論
 
 連隊長はとにかく戦術的な面に欠けていた。 2・26事件当時大隊長をしていて責任をとらされた経緯もあり、自分の出世のためには事故を
   おこさせないのが第1であるというような考えをしていた。 沖縄戦の司令部壕の中でも戦闘のことより、ろうそくで火事が起きないように部下に
   注意していたということであった。 戦闘時にそんなことはどうでもいい。戦闘の終始を通じ戦後までどうしても相容れないものがあった。

 
  戦場では勇者と臆病者を生む。しかし死は公平に訪れる。いや勇者から見ると不公平なのかもしれない。

 
 歩兵は4個中隊編成に限る。1個中隊は予備にとられることを考えると4個編成がよい。 紙一枚で1コ中隊を引き抜かれるのは非常に痛手
   であった。

 
 米軍も勇敢であった。勇敢さに差はない。
   ただ、文化が違っていて合理的である面が米軍を卑下することになったと思う。 彼らは武器にこだわらなかった。 命さえあればまた戦えるとい
   うことだろう。 反対に日本軍は武器にこだわった。 

 
 牛島将軍には大隊長以上の指揮官の集合教育時に声をかけてもらった。 「伊東、元気にしてるか」 と言われた。なぜひとりだけ声をかけら
   れたのかわからなかった。 第24師団長とは満州から九州に来て、その後沖縄に舟で移動する際に同じ舟になった。 当時最新鋭のディーゼ
   ル船であったのに、沖縄沖で故障して入港が遅れたことを覚えている。 船上でも気さくに話をする方であった。

 
 「沖縄陸戦の命運」は言いことも隠したいこともなるべく事実を書いたつもりである。
    しかしながら、生存者や同期などに関しては、どうしても書けない面がある。これが限界だろうと思う。 戦後書き綴ったものは、戦後50年を経
   て世に出そうと思っていたが、病気のため少し遅れてしまった。 防衛庁の戦史叢書などにも伊東大隊のことが書かれてあるが、若干事実と
   異なっている点もある。 しかしながらこの「沖縄陸戦の命運」はそれらも修正し、限りなく史実に近いものである。 しかしながら主観や意見が
   入っているために戦史とはならず、戦記となるということである。
    あと5年は生きてこれらのことを伝えたいと思う。集めた資料は整理してそのうち防衛研究所に寄贈するつもりである。

 
 樫木副官が棚原の戦闘に関する「感状」を持っている。
    本にも載せているが、配属部隊の所を消している。 これは配属部隊の中に本来配属されているのに記載されていない部隊があるためであ
   る。 しかもこの部隊には生存者がおり、彼自身は感状を授与されたことを誇りに思っているために、このような処置をしなければならなかった。

 
  樫木副官はほんとうによくやってくれた。
    部隊のことは彼に任せておけばよかったので、私は戦闘戦術に傾注していればよかった。 足腰も強くて、沖縄戦を通じて彼が転倒したのを
   見たのはただの1回だけである。



2003年8月29日(金)〜30日(土) 横浜市金沢区の御自宅にて聞き取り
  昼鰻丼、夜ステーキ、翌昼焼き肉をごちそうになった。  最後にタクシーに向かってずっと手を振ってくれた伊東大隊長が印象的であった。



 

























































糸満地区での陣地構築は当初の計画通りに完成している。 第1大隊がこの地を離れた後も、備蓄食糧等が残されていたため、負傷した兵士は後送された際には野戦病院ではなく、この陣地群まで後退して治療にあったっている。























































































































































































































































棚原の戦闘は5月4日から開始された日本軍の攻撃移転(総反撃)の中の一戦闘である。










中央の青線が沖縄第32軍司令部が彼我接触線と考えたライン。 ところが120高地は実際には米軍が保持していた。
 したがって、歩兵第32連隊第1大隊は彼我接触線(120高地)から攻撃を開始するのではなく、まず120高地を奪取する攻撃から開始しなければならなかった。
 120高地は米軍が占領していたにもかかわらず、歩兵第32連隊本部は第24師団司令部、沖縄第32軍司令部に正確な情報を報告していなかったことに起因する。