歩兵第32連隊第2大隊 「魔の高地(130m閉鎖曲線高地)」                                 2010年作成

歩兵第32連隊第2大隊 「魔の高地(130m閉鎖曲線高地)」

 4月27日夜(28日未明)、前田高地への進出を企図した歩兵第32連隊第2大隊 (志村大隊) は、敵情不明のまま夜間突撃を行ったが、第一線中隊である第6・第7中隊は甚大な損害を受けて失敗に帰した。 しかし28日夕刻から逐次部隊を掌握した志村大隊長は、その日の夜に米軍の間隙を縫うようにして前田高地に進出、所在の独立歩兵題12大隊と合流して前田高地の守備にあたった。 そのような中、為朝岩の東にある130m閉鎖曲線高地 (米軍呼称 Hill 150)が、米軍戦車部隊等の前田集落への進出を阻止できる緊要な地形であることから、志村大隊に対して、この高地を絶対確保すべき命令が下されたのである。

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注意 
  下記文中、
青色で記述した文章は、志村大隊長の手記や回想を表し
    黒で記述した文章は志村大隊長以外の将兵の回想
等とした。




「魔の高地」
 (志村大隊長の手記による)



 
前田高地の東側、為朝岩の東側約250mのところに閉鎖曲線の台地があった。 当時、所在の第62師団の将兵が「魔の高地」と呼んだ場所である。 (日本軍呼称 130m閉鎖曲線高地または前田北東閉鎖曲線高地、米軍呼称 Hill150)。  為朝岩から仲間高地にかけては、その北側が一連の断崖になっていて、敵は縄ばしごを使わなければ高地台上を攻略できない地形であったが、この 「魔の高地」 正面東側は比較的なだらかで、戦車の機動も可能であった。 
 したがって、我々にとってこの戦車の機動が可能な地域が、前田高地の弱点であった。この高地が占領されると、敵に前田高地の背後に回られ、前田高地が孤立して、その確保が危うくなる。 この高地は、4月28日にすでに敵手に陥ちたため、現にこの場所から戦車が侵入して前田高地南側に迫り、南斜面にあるわが陣地は、激しい戦車砲の射撃に脅かされていた。


    

 
4月30日昼頃、連隊本部から 「現在敵に占領されている130m閉鎖曲線高地を奪回せよ」との命令が下達された。そこで志村大隊長は30日夜、第5中隊長(大場中尉)に夜襲を命じた。(当初大隊長は白昼強襲案であったが、第5中隊長が「白昼強襲は無謀である。ただ兵を犬死にさせるばかりだ」と反対した)

田川少尉(大隊本部付)談

 「大隊長の白昼戦車攻撃命令に、大場中隊長は 『昼間の戦車攻撃は無謀であり、兵を犬死にさせるだけだ』 と攻撃に反対し、再三の命令に大場中隊長は兵を出さなかった。上官の志村大隊長は士官学校出たての24歳、兵出身の大場中隊長は実戦経験もある42歳、意見が合わず激論になった」

 
大場中尉は諸準備を整え、夜になるのを待って前進を開始し隠密に敵陣に近迫、不意急襲果敢に突入し敵を撃破占領して攻撃は成功した。ここで軽微ながらも陣地を構築し夜明け後の敵の砲爆撃に耐えうるよう準備にとりかかったが、この高地は岩石の台地で、兵のスコップや十字鍬ではタコツボさえ掘れない。そればかりか遮蔽物も無く、兵達は台上に裸で伏せている状況であった。 沖縄戦においては、一般に奪取された局地の陣地を夜間攻撃で奪回することは、比較的容易であった。 問題は、奪取後の確保にあったのである。 既成陣地があったところでも、徹底的に破壊しつくされて利用できず、夜間のことでもあり、十分な防御工事など出来るものではない。 したがって、明け方になって十分な掩蔽を得られないまま、砲撃の集中火に曝されたのだから、ひとたまりもない。 夜が明けるや否や、猛烈な集中砲火と戦車砲で叩かれ、あっという間に(生存者によれば5分で全滅した)中隊長大場中尉以下殆ど死傷し全滅の損害を出して敵に占領された。
      

 
5月1日、連隊本部から、再び同高地を攻撃奪回するよう命令が来た。私は大隊長として何とも言いようのない苦悩を覚え、沈痛な気持ちでその実行について考えた。 部下中隊に夜間攻撃を命ずることは至って簡単である。 また、攻撃を実施すれば一時はこれを奪回することも可能であろう。 しかし、その後の運命はあまりにも明らかである。 必ずや、前日の第5中隊と同じ経過をだどることとなろう。 中隊長に攻撃命令を下すことは、即 「お前とお前の部下はあの高地で死ね」 と命ずることなのだ。 軍隊の宿命とはいえ、同じ人間同士として考えた場合、これほどの非情、これほどの過酷な仕打ちが他にあろうか・・・。 指揮官とは何とつらいものであろうか。 ついに私の決心は決まった。 「第6中隊に攻撃を命じよう」。 夜間攻撃をさせることに意を決した私は、命令下達のため、菊地中隊長を大隊本部に招致した。 「菊地中尉、ただ今参りました」 「おお、連日御苦労さん。今から貴官に大事な命令を下す」。 私はしばし間をおいて、昂ぶる気持ちを落ち着けた後におもむろに任務を与えようとした。 それまで黙って私の顔を見つめていた菊地中尉は、このとき静かに口を開いた。 「大隊長殿、魔の高地の夜間攻撃ですね。ご心配は無用です。菊地は喜んで参ります。 どうか私にお任せ下さい」。 彼はすでに連隊本部から命令が来たことを知っていた。 そして私の苦悩を十分に察した上で、自分が進んで行くべきだと覚悟を決めていたのであった。 「・・・・・・」。 私の眼にドッと涙が溢れた。 「たとえ半日でも2時間でも、あの高地を押さえることは極めて意義あることだと思います。 私は、必ず成功してみせます。これをやるのは私しかおりません」。 彼はキッパリとこう言い切ったのである。 「ありがとう、頼んだぞ」。 かくて、あとは細部の命令も指示も不要だった。 2人で本部壕の外に出て、「魔の高地」 を遠望しながら、静かに水盃を交わしたのであった。

 
私は、占領後の掩護に問題があるとして機関銃、大隊砲を支援射撃に配備した上で第6中隊の夜間攻撃を行った。 第6中隊の支援に当たった機関銃の威力は凄まじく敵兵をバタバタ倒したが、戦車には歯が立たなかった。 菊地中隊の夜間攻撃は見事に成功した。 しかし翌5月2日、「魔の高地」 は凄まじい集中砲火を浴び、半日の間、砲煙と土煙に覆われていた。 そして、その日の午後、高地上に遠望されるのは米軍の兵士と戦車のみであった。 第6中隊長菊池中尉も第5中隊と同じく玉砕するに至った。 私は暗然として、ただ天を仰ぐのみであった。 第5・第6中隊の相次ぐ全滅は、全般戦局のためとはいえ、はじめから悲惨な結末を覚悟の上の決死行であった。 命のままに攻撃に任じ、命のままに死んでいった中隊長以下の心情を想うとき、心を鬼にしてこれを命じなければならなかった大隊長の胸中は、まさに断腸の思いであった。 先に第7中隊を失い、ここでまた第5・第6中隊を失うことで志村大隊(第32歩兵連隊第2大隊)は戦力極度に減少し、残ったのは機関銃中隊、大隊砲小隊、配属の速射砲隊、独立機関銃中隊の合計200名程度となった。




志村大隊長の回想

第5中隊が全滅して「魔の高地」と言われた意味が初めてわかった。何としてもこれを確保しなければ前田高地が危ない。5月1日の昼過ぎに連隊本部から「何としてもその高地を確保せよ。今夜再び夜襲をして占領せよ」との命令が来た。
 この時つくづく指揮官の辛さ、指揮官は孤独なりということを痛感した。命令とはいえ全滅することは目に見えている。 しかし、たとえ全滅しても攻撃すること自体が米軍の進出を1日遅らすことになり、それだけ前田高地の確保が延びるわけである。そのうちに友軍が進出して来るに相違ない。したがってたとえ大隊が全滅しても、とにかくこの魔の高地を反復攻撃しなければならない。
その必要性は十分わかる。 しかし次々と部下を見殺すことになる。大隊長としてどうしたらよいのか。他に手の打ちようがない。言いようのない苦しみを味わいながら、大隊長として次々と部下中隊を死地に投ずる他はなかった。 この苦悩を十分に察した第6中隊長は「大隊長殿、よくわかります。私には何も命令は要りません。私はあそこに行って命のままに死んできます」と答え、二人で黙って水杯を交わして、その晩第6中隊は魔の高地へと向かった。 そして翌日、第6中隊は遂に魔の高地で玉砕した。敵の砲爆撃・戦車の集中攻撃を受けて、大隊として増援しようとしても昼間は身動きできない状態で施す術もない。またまた優秀な中隊をみすみす見殺しにしてしまった。

 


歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)の27日から29日朝までの戦闘及び行動については、歩兵第32連隊第2大隊「前田高地への進出」に記載している。

















日本軍側では、この130m閉鎖曲線高地(魔の高地)の確保を非常に重要視しているが、米軍側の記述には登場しない。 米軍は戦車や歩兵部隊が前田集落方向に進出する昼間にさえ確保していればいいという姿勢で、夜間は日本軍の逆襲を恐れて、敢えて高地から後退していた。 そのため、志村大隊(第5中隊・第6中隊)の夜間占領が容易だったのである。



























第5中隊は、第2小隊を本隊の掩護のため前田高地側(為朝岩付近)に残置、その掩護下に中隊本部・第1小隊・第3小隊が「魔の高地」に向けて前進した。その後に、第2小隊が続行したようである。





前田付近の高地一帯は、隆起珊瑚礁で形成されていたため、砲弾が着弾と同時に細かい岩石が飛び散り、一種の破片効果となって犠牲者が増大した。














日本側公刊戦史である「戦史叢書」における5月1日の前田東方高地(130m閉鎖曲線高地)に関する記述は、「前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷を生じ成功しなかった」・・・の僅か3行である。





第6中隊長菊池中尉は、志村大隊長が隊付見習士官の時の中隊付准尉(教育係)であり、後に少尉候補者となり、やがて志村大隊の中隊長となった。





















果たして、「魔の高地」を確保するために中隊規模を進出させる必要があったのか、結果を見れば小隊規模を毎日進出させれば、何日も「魔の高地」に進撃することが出来たのではないか・・・と連隊の戦闘指導に疑問を持つ生存者もいることも事実である。