歩兵第32連隊第2大隊 「前田高地からの撤退」                                     2010年作成

歩兵第32連隊第2大隊 「前田高地からの撤退」

4月25日から開始された前田高地の戦闘は、逐次米軍に包囲され、第62師団隷下の独立歩兵第12大隊・独立歩兵第14大隊、第24師団隷下の歩兵第32連隊第2大隊等の部隊は、大半が前田高地の地下壕に閉じこめられて孤立する状況に陥った。 5月4日日本軍は攻勢移転に失敗、
5月6日には、沖縄第32軍は攻勢転移の失敗に伴う新たな戦線を整理を実施した。
 前田地区の防御を担任する第62師団は、もはや前田高地の保持は困難と考え、5月9日前田高地の放棄を決定するとともに、前田高地所在部隊(独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊等)に対し米軍を突破撤退すべき事を命じた。同じく第24師団隷下の歩兵第32連隊第2大隊も連隊本部より徹底命令を受けた。
 撤退は10日未明に開始され、独立歩兵第14大隊を先頭に、独立歩兵第12大隊(賀谷大隊)、歩兵第32連隊第2大隊の順で前田高地を後にした。 尚、この撤退において独立歩兵第14大隊は大きな損害を受けなかったが、独立歩兵第12大隊は機関銃の集中射を受けて多大の損害を受けた。
 そして独立歩兵第12大隊に続行した歩兵第32連隊第2大隊は、更に大きな損害を受け、ついに撤退を断念して前田高地に引き返したのである。
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1 「前田高地からの撤退」時の彼我の状況


  
         5月6日 第1陣の撤退開始の日                 5月10日 前田高地主力部隊の撤退の日
     
 
          「前田高地からの撤退」の部隊となったのが、5月10日の地図中の黒四角で囲まれた地域である。

 (1) 5月6日は日本軍の攻勢移転が失敗した翌日で、米軍は現陣地を保持した態勢から攻撃を開始することはなかった。 この時点で、米307連隊   第3大隊は浦添国民学校の高台を確保している。
  (2)  5月7日以降、米軍は攻撃前進を開始する。 一方日本軍は歩兵第32連隊を基幹とした左地区隊で米軍を迎え撃つが、すでに攻勢移転の失敗   で戦力は大幅に低下しており、米軍の攻撃を阻止することは出来なかった。
 (3) 5月10日、米軍は更に南下し、前田高地に立て籠もる独立歩兵第12大隊・14大隊・第273大隊・歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)等は、日   米両軍の交戦ラインの後方約1kmに取り残された状況となり、前田高地は敵中に完全孤立する状況となった。


2 「前田高地からの撤退」を阻止された場所の説明

  
撤退行動が阻止されたのは、現在の浦添警察署(南側)前である。


   
       1945年1月に米軍が撮影した航空写真                         2009年撮影の航空写真 


 (1) 撤退経路は、4月28日に前田高地へ進出した際に使用した低地部の     逆経路である。
  (2) 浦添警察署の位置は、浦添国民学校から見て死角(崖下にある)に
  あたり、ここに撤退する日本軍将兵が集まって、道路を越えての南下
  の機会をうかがった。
  (3) 浦添国民学校前(南)の道路は切通しとなっていて、ここも浦添国民
  学校からは死角となっていた。
  (4) 米軍機関銃位置は、当時は小高い丘で、その周辺部は急な崖で
  あったが、現在は削り取られて平らな土地となり住宅の密集する地域
  となっている。
  (5) 記録によれば、「道を越えてさらに30mほど南下すれば、敵の機関
  銃の死角に入る」 とある。 南下して米軍機関銃位置の死角に入りさえ
  すれば、その先に米軍部隊は配置されていたものの、低地部を通り抜
  けて日本軍新陣地へと撤退することが可能であったようだ。
 (6) 尚、第一陣として6日に撤退した第7中隊の経路は別示する。



                     
撤退する日本軍は、国民学校に付近にいた米軍の死角に入っている。 一説では国民学校にある機関銃により撤退行動が妨害されたとされるが、志村大隊長の手記にもあるように、進路の右前方の機関銃により射撃を受けており、その位置が写真に示された「米軍機関銃位置(推定)」となる

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* 注意 *
  
 歩兵第32連隊第2大隊の前田高地からの撤退は5月10日未明とされる。 しかしながら、多くの証言を整理すると、第2大隊は 「同時撤退」の形態ではなく、「各隊毎の撤退」であった可能性が高い。 そこで、
第1節には第2大隊長(志村大隊長)及び第2大隊本部所属隊員の証言に基づく撤退行動を、第2節に「各隊毎の退却」 であったことを示す手記
記述した。



1 歩兵第32連隊第2大隊の撤退行動

  
 写真 : 米軍機関銃位置(推定)は現在では小高い丘を削り住宅地となっている。 撤退は浦添警察署から白いアパートを経て、更にその奥の
     低地部を目指したが、白いアパートの位置で米軍機関銃に阻止された。 尚、警察署右の住宅地も現在は削られて標高が低くなっている。


(1)
 第2大隊長志村大尉の手記

 5月9日、連隊本部から命令があった。 「連隊は戦線を整理し、勝山部落北端〜経塚の線を占領し、敵を陣前に破砕せんとす。第2大隊はなるべく速やかに経塚南東側に転進し、爾後の戦闘を準備すべし」。 これは全般状況から考えて、ある程度予期していたものであった。 しかし私はどうしても素直に転進しようとする気持ちになれなかった。何と無慈悲な命令だろうとさえ思われた。 この前田高地には、我が大隊の魂がこもっている。部下将兵のほとんどが尊い生命を捧げ、その血で守り抜いた地である。 現にそこかしこに、生々しい遺体が無惨に放置されているではないか。 いざ転進といっても、とうていついて行けない数多くの重症患者を抱えているが、彼らをどうしようというのか。 しかも後方の退路が完全に敵に遮断されている今の状況では、転進行動成功の確率は極めて少ないと言わざるを得ない。おそらくは転進途中において全滅的損害を被ることは明らかである。
 さて、ひとたび転進を決意した以上は、何が何でもこれを成功させなければならない。それが如何に至難のことであろうとも・・・・。 私は早速そのことについて賀谷大隊と所要の調整をすることにした。ところが、賀谷大隊はこのときすでに後退行動を起こしていたのであった。 ちなみに後日聞くところによれば、賀谷大隊の残存兵力約100名中、大隊長以下約30名が突破に成功したという。 ともあれ、賀谷大隊の後退行動によって、敵の退路阻止は一段と厳しくなり、わが大隊が行動を起こしたときには、まるで敵の待ち構えているまっただ中に向かって行くような羽目になってしまったのである。後退行動は後になるほど条件が悪くなるものだ。
 後退部署は、配属速射砲小隊を先頭に、各隊約30分の間隔を置き、それぞれ指揮者を指命して発進させた。もちろん大隊本部は最後尾である。 後退の経路は、概ね先に前田高地進出の際に通った経路と決め、縦長隊形で区分躍進の要領で突破することにした。 各隊の出発を確認した後、大隊本部が転進を開始したのは、夜も更けた午後11時ころであった。 夜空には例によって間断なく照明弾があがっていた。 照明弾が明るく地上を照らしている間に、じっと前方の地形地物を確かめながら、次の停止点を見定める。 そして照明が消えた瞬間、一気に早駆け前進するのだが、照明弾が不規則に打ち上げられるから、なかなか計算通りにはいかない。

   

 やがて大隊本部は、前田部落から安波茶に通じる小道を横断する地点にさしかかった。ここは前田高地に進出する際、仲間小学校の台上から機関銃の側射を受けた場所である。 この小道を横断すると仲間から経塚方向に伸びる稜線と前田南側台に挟まれた狭い低地となる。 その低地を少し前進したところ、不意に右前方に機関銃音。火光から見るとその位置は、我が経路にそって馬の背のように伸びている右前方の台上である。 照明弾のあかりで前方をすかして見ると、経路上の溝や窪みらしきところに、数名ずつの人員がへばりついている。なおよく眼をこらして見ると、その更に前方にも、長い小集団の列がうごめいている。 どうも大隊本部のすぐ前を前進した機関銃中隊ばかりではなさそうだ。その前の隊も、突破できずに逐次停滞をきたしている模様であった。
 匍匐しながら少し前進すると、さっきへばりついていると見た人員の内、半数は死体であった。 また右前方の台上から猛烈な機関銃掃射が始まった。 この状況ではあの機関銃を撲滅しないかぎり、匍匐でも早駆けでもとても突破できそうにない。 白兵突撃で排除するしかないと思っているとき、はるか右前方を数名の長い影が台上目がけて突き進んで行くのが見えた。 やがて「ウワー」とも「ワォー」とも聞き取れる突撃の声。 だが敵機関銃もますますキチガイのように乱射を続けている。問題の台地の正面は傾斜が急だから突撃も難しいに違いない。 また数名が突進する。今度は敵の左側背に回り攻撃前進して行く。 ややあって機関銃音の中に「天皇陛下万歳」という、全身の力をふりしぼったような絶叫が耳を突く。 
   「これはいかん、こんなことを繰り返していたら全滅してしまう。だが、今からでは経路変更は無理だ。転進を一旦中止するしかないな」、と思ったとき、前方から数名の兵が散を乱しバラバラと後退してきた。 傍にいた高田少尉が大声で「止まれ!志村大隊長は現在地にあり、どうしたのか?」と叫んだ。 「突破はとても無理です、皆次々にやられています。和田隊長殿も戦死しました」と訴えるのであった。 「何、和田中尉も・・・・」私は絶句した。 わが大隊の中隊長が相次いで戦死していった中で、唯一人生き残っていたのが機関銃中隊長の和田中尉であった。 彼は冷静沈着、、かつ勇敢な若き中隊長であった。 その和田中隊長戦死の報がきっかけになったのか、卒然として私の心は決まった。 私は思わず立ち上がって叫んでいた。 「大隊長は前田高地に引き返す。行をともにしようと思う者は続け!」  この声に応ずるように、今までそこかしこにへばり付いていた兵達が、反射的に立ち上がり、次々と私の方に集まってきた。 「田川少尉、先行して前田高地の適当な潜伏壕を選定せよ」 「高田副官は直ちに部隊を掌握せよ。負傷者も残さず連れて帰る」 私は矢継ぎ早に指示を与えた。 かくて転進行動を中止して前田高地にとって返した私以下約50名は、とりあえず高地南斜面の通称「乾パン壕」に入り、爾後の対策を練ることにした。 それは5月10日の明け方に近いころであった。
 
   



(2) 歩兵第32連隊第2大隊本部 中出上等兵の回想
 伝令が来た。本間曹長だったと記憶する。「歩ける者は後方に転進。連隊本部に合流せよ」との命令だった。ぐずぐずして居れん。早く本部壕に戻り身につける武器を持ってこないと遅くなる。素早く本部壕に戻る。壕内は既に転進せんと出入口から出る者、準備している者、大童だ。行動を共にさせてくれと頼む重患もいる。その体では敵中突破は無理だと宥める。衣類だな上段に掛けてあった拳銃を探す。あった。手榴弾も探すが無い。どうでもいい。今度は食糧だ。壕から出てカンパン壕へ下る。

カンパン壕は破壊され入口がわかりにくかった。出入口にしゃがみ敵情を観察。この数日
前田高地へ辿り着いた沢の経路が一番安全なようだ。経塚に出て、首里平良町へ進む道順も知っている。地形を確認する。カンパン壕内は重傷者ばかり。破傷風患者、ガス壊疽患者もいる。負傷兵達に「歩ける者は大隊本部と行動を共にしよう」と説得するが、戦意喪失の状態でついてくる兵がない。「治ってから行きます」と言う兵や「ここで、死なせて下さい」と言う兵。仕方がないとカンパン壕から下の畠に下りる。まてよ大隊長達は確かに辿りついて来た道を戻るに違いない。真っ直ぐ畠を横切り、道に出て溝に沿って右へ行けば小川の橋に出るはず。照明弾が上がっても道の陰になって敵に発見される恐れがない。予め頭の中へ入れておく。静かに、なるべく音を出さぬよう道に辿りつく。


 照明弾があがる。パパン、パパン。狭い沢に撃ち込んでいるらしい。突破するはずの沢に。大変だ、先発の誰かが発見されたな! 溝沿いに伏せながら進む。橋の付近で大隊本部に追いつく。思った通りの道を転進する作戦だった。既に先発の一隊は転進しているらしい。
 第2機関銃中隊長和田隊長等も脱出に成功したとの事。待機中の前方から順に、敵攻撃の隙を伺い土堤道を突っ走る。敵は土堤道付近を狙っているらしい。大隊本部は最後尾に伏せたまま、俺たちも後尾に付く。副官に「遅くなりました」という。「中出か、殺れたと聞いとったぞ」。誰かが「静かに。敵は沢の上から狙っているぞ」と制止する。前の一隊は射つ弾の中を潜り抜け走ってゆく。姿が闇の中に消えて行く。伏せている前方の位置付近は、敵に一番狙われ易い。もう
30m位行くと土堤道も急斜面の麓につき死角に入る。列の前列は、本道准尉、橋上上等兵等がいる。続こう。照明弾の消えた射撃の隙に、准尉達が突っ走る。敵は自分達の方角、畠道を盲射ちに射ちやがる。前列の准尉の一隊が突っ込む。暫く待機。
 
   
 
 誰だろう、静寂を破るが、ガサガサ沢の斜面をよじ登る音。沢上の敵機関銃座に斬込みをかけるらしい。敵も必死。斬込みの手榴弾が爆発する音。阿修羅のごとく突っ込むが、敵の攻撃は止まらない。失敗らしい。敵も死に物狂いに照明弾をあげながら射ちまくる。明るくて畠道の陰に伏せたまま動けない。
 「天皇陛下万歳」。絶叫が聞こえる。「行くぞ」、突っ込もうとする瞬間「やられた」「もうだめだ、突破できん」。戻ってくる兵達。機関銃の坂下伍長と津島上等兵だ。我が軍の行動を明らかにしてしまった。失敗だ。先に転進した将兵は突破に成功している。坂下伍長は右前胸部に貫通銃創を受け、弾の出た傷跡が12〜13センチも裂けている。如何に至近距離から撃たれたかが判る。突破不可能な状態になった。

 敵の銃座は仲間小学校に通ずる堀割の上、民家跡にある。射撃する光が見える。たとえこれを迂回しても一番危ない仲間小学校を通過しないと転進は無理だ。左は戦車を先頭に進撃中で突破は無理だ。強行突破しかないと判断した。「中出」と呼ぶ声がする。副官の高田少尉だ。「
あの右の堀割の坂道を進めるか確かめろ」「だめです。あそこが通過できても上は学校です」。今までの偵察で既に状況を報告済みのはず。何を考えているのであろうか。「壕内にばかりいるからだぞ」と言いたいくらい腹が立つ。副官は「最悪の状況になった」と呟く。 
   

 確かに、連隊本部と合流できない事は、大隊としては恥ずかしいことであり、且つ命令違反となる。極く少数ではあるが突破に成功している。後続の大隊長以下将兵は面子にかかわることだ。強行突破は中止、戻るしかない。
 俺のすぐ前の本道准尉までが突っ走って行った。次は俺だ。このときに坂下伍長が戻ってきたのだ。運命の分かれ道が自分と本道准尉との間に、目に見えぬ境となってあったのだ。生と死の思いというのはこの事だろう。まさに紙一重である。
突破した将兵は、激戦の彼我第一線として諸戦闘に戦い、島の南端に逐次追いつめられ戦死する。突破できなかった将兵は苦難の連続ながらも最後は米軍に投降して生きながらえる者が多かったのである。

 
 

歩兵第32連隊本部作戦主任高島大尉の記述
 
撤退中止後、第2大隊から連隊本部に対し大隊長以下八十余名、敵の重囲に脱出不可能となれり、大隊は現地に踏み留まり所在壕に潜伏、ゲリラ戦により敵の後方を攪乱すとの最後の無線を送り消息を絶った。この無線報告を受けた連隊本部は愕然とした。北郷連隊長も「すぐ第2大隊を呼び出せ!」と大声で命じたが幾度呼んでも応答がなかった。連隊は無線連絡を断念し「軍のじ後の戦闘に支障あり。大隊は万難を排し死力を尽くして転進せよ」との連隊命令を持たせた伝令3名を急派した。この伝令は死線を越えて現地に到着したが、壕に大隊は見あたらず命令伝達できぬまま連隊本部に帰隊した。


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2 他の証言・資料に基づく歩兵第32連隊第2大隊の撤退行動 

(1) 歩兵第32連隊本部作戦主任高島大尉手記
 5月6日夜、前田南側高地から撤退した連隊主力の第一線各部隊は、敵の重囲の中に激戦を交えつつ後退する状況となり、バラバラになった部隊の掌握は極めて困難であった。 
 連隊本部は各方面に伝令を走らせ後退してくる部隊の掌握に苦心した。 第1大隊とは連絡がとれたが、為朝岩(前田高地)の第2大隊、前田南側の第3大隊とは連絡が絶え、その消息すら不明であった。こうして部隊の掌握に躍起でいる頃、新配備に関する師団命令を受領した。 連隊は未だに第2大隊(前田高地から6日夜撤退予定)・第3大隊(6日夜撤退予定、本部のみ掌握せず)を掌握していなかったが、新配備の連隊命令を下達、各部隊は各々所命の如く配備に就いた。
 5月7日、勝山に集結した歩兵第32連隊の状況は次のとおり。
   第1大隊(伊東大隊) 第2中隊・第1機関銃中隊長戦死、小隊長以下の多数の死傷者を出し戦力は3分の1以下に減少。
   第2大隊(志村大隊) 各中隊長全員を失い、
辛うじて脱出して来た蔦原少尉(第7中隊)以下、各中隊の兵数十名
       
* 本手記では蔦原少尉を第5中隊としているが、蔦原少尉は第7中隊の先任であり、第5中隊という記述は誤りである。

 (2) 歩兵第32連隊第1大隊長 伊東大尉の手記
 沖縄第32軍が攻勢移転の総攻撃中止を命令したのは、5月5日1800であり、これに基づく連隊の撤退命令は、5月5日深夜から6日朝までになされた。第1大隊は5日朝に連隊と無線連絡がとてていたが、その後不通となり、6日午後に撤退命令を受領した。 したがって第2大隊への撤退命令の伝達は、5日深夜から6日朝になされている。 その証拠として第2大隊第7中隊は6日朝に命令を受領している。
 
第2大隊は、撤退命令受領後 「各隊毎の撤退」を指示している。第1大隊は結集して 「同時撤退」 であるが、そこに違いがある。 私の常識からすると、第2大隊の撤退時機は6日夜であるべきで、遅くとも7日夜には実施されねばならない。
 第2大隊各隊の撤退行動
   第7中隊
    前田高地進出時に中隊長戦死のため統制力を失ったが、その後態勢を建て直し、5月2日に大隊主力に合流した。(大隊本部とは別の壕)
    第7中隊は6日朝に撤退命令を受領後、機を失せずに6日夜に敵火網を突破して撤退に成功した。
   第2機関銃中隊
    現在の資料等では撤退日時は明らかでない。7日夜以降から9日夜の早めの撤退と思われる。 米軍の機関銃射撃を何とかくぐり抜けたも
    のの、その後の撤退経路上において大半が戦死している。
   大隊砲小隊
    小隊長日原中尉が負傷していたため、撤退行動を起こしていない。
   速射砲小隊(第2大隊へ配属)
    5月9日2300に撤退開始。
  第2大隊本部
    速射砲小隊に続いて撤退行動開始。 (5月10日未明)

  
第5中隊・第6中隊
    前田高地においてほぼ全滅している。僅かの生存者は第2大隊本部所属となっている。
 

 (3) 第7中隊の撤退行動
  
第7中隊は、4月28日の前田高地の夜間攻撃において中隊長が戦死し、そのため部隊は戦場パニックを起こして中隊としての組織的戦闘力を失った。 だが生存者である将兵は、その後何とか部隊としての機能を取り戻し、5月2日に第2大隊の立て籠もる前田高地に進出を果たした。 だが、不思議なことに、第2大隊長手記や回想においては第7中隊は全く触れられていない。 しかし生存者の証言などから前田高地への進出及び撤退行動について記録が残されており、その証言に基づいた撤退経路が右の経路図となる。

 ア 第7中隊は5月6日に撤退命令を受領するや、直ちに撤退行動を開始
    している。
 イ 前田高地進出時に、浦添国民学校の台上から米軍の射撃を受けたこと    から、撤退時においては低地部を撤退経路として選択しなかった。
 ウ 撤退経路は、浦添国民学校前の切通し経路、つまり米軍の展開する目
   の前の死角部分を選択し、ここを隠密裡に通過した。

 
  4月28日の夜間攻撃でパニックを起こして中隊機能を喪失したところまでの記録だけがクローズアップされ、その後の第7中隊についての
  記録はほとんどないが、実際は5月2日に前田高地に進出、5月6日に機を失せずに撤退している。 そしてその後は第1大隊に配属されて
  8月29日に連隊が戦闘を終結するまで行動を共にしている。



3 歩兵第32連隊第2大隊のその後

  志村大隊は5月10日以降、前田高地南側中腹にある壕で完全に孤立した。 連隊本部との連絡はつかず、残存兵力も激減して敵と戦闘を交えることは不可能であった。 昼間は洞窟に潜み、夜になると斬込(ゲリラ)をおこなった。 6月中旬になっても連隊本部と連絡はつかず、この頃から単独で国頭方面への転進を考えるようになった。
  志村大隊は7月7日に前田高地を脱出し国頭への転進を実行した。しかし警戒厳重な米軍を 突破できず北上原の新垣地区の壕で足止めされていた。7月30日に歩兵第32連隊からの 北上転進者と会合し、第32連隊の生存を確認した。 このため志村大隊の健在と国頭への脱出の中止を進言するために、本間曹長以下3名を連隊本部へ差し向けた。
  本間曹長以下は難航の末に連隊本部に辿り着いた。しかし、敵の重囲の中にあったにせよ、どんな理由があったとしても連隊の脱出命令に服せず、為朝岩高地に残留し、連隊主力に合流しなかったのに激怒したのか、連隊長は黙然として本間曹長の報告を受けようとしなかった。 後に周囲の懇請もあり志村大隊長の報告書を見て、連隊は国頭への脱出の企図を諦めた。 この志村大隊長の報告書は、結果として多くの歩兵第32連隊の命を救う事となったのである。


4月30日には独立歩兵第273大隊が前田高地に進出して独立歩兵第12大隊長の指揮下に入っている。

歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)の27日から29日朝までの戦闘及び行動については、歩兵第32連隊第2大隊「前田高地への進出」に記載している。












5月10日の図中、黒四角の中に米軍部隊がいなかったということではない。 赤い線は米軍部隊の最前線を示し、それより後方には第2線部隊や後方支援部隊などがいるが、それらは通常記述していない。

日本軍は部隊再編のため6日に後退したために、米軍は7日以降一気に南下した。
























浦添警察署周辺は、当時水田は畑の広がる平坦地であったが、西側が高台となっていることから、米軍の死角となっていた。



























米軍機関銃位置については、志村大隊長の進行方向右前方という証言や、学校へ向かう切通しの向こう側から攻撃を受けたという証言を参考にした。













































5月9日に連隊本部から撤退の命令を受けたとされるが、連隊本部作戦主任や第1大隊長の手記や証言などから、5月6日に命令が下達されたのは間違いない。

第62師団は、前田高地に孤立する部隊の救出のため、撤退開始前に独立歩兵第23大隊や第62師団輜重隊をもって救援攻撃を実施させている。 おそらく米軍をその救援攻撃に引き付ける間に、前田高地孤立部隊を脱出させる計画であったと思われる。

最初に撤退を開始したのは独立歩兵第14大隊で、大隊はほぼ無傷で撤退に成功した。 おそらく米軍は日本軍の撤退行動を察知し、その阻止のために機関銃などを指向したものと判断される。


















仲間小学校と記述しているが、当時は浦添国民学校であった。

前田高地進出時に機関銃射撃を受けたとされるが、進出時にはほとんど損害を受けずに前田高地に到達している。











第2機関銃中隊長 和田中尉はこの場所をくぐり抜けて脱出に成功している。この時点で和田中尉の戦死を知ることは出来ないはずで、他の証言でも「和田隊長は脱出に成功した」という話しだけが残されている。 多少疑問の残る記述である。













































































米軍機関銃位置までの距離は150m〜200mと思われる。機関銃の斜距離からすれば、超至近距離である。




















「命令違反」・・・戦後もこの前田高地からの撤退断念をめぐって、いろいろな論議となることが多いという話しを伺っている。






当時の命令違反が如何に重大な規律違反であったかを考えれば、歩兵第32連隊長の怒りがいかほどのものであったかが推察できる。







この記述から、5月7日には第2大隊の一部の将兵が撤退していることがわかる。 これこそが5月6日に前田高地からの撤退に成功した第7中隊のことである。
 このことからしても、第7中隊が6日に撤退していたことが裏付けられる。




第2大隊の撤退行動が、「各隊毎の撤退」であったことがわかる。
しかし、何故各隊の撤退日時を定めなかったのか・・・何故志村大隊長記述には「各隊毎の撤退」が記述されていないのか・・・・今となっては真相は闇の中である。
 「戦史叢書」は、志村大隊長の手記によって記述されているため、公式的には前田高地からの撤退は、「同時撤退」 とされるが、実際は「各隊毎の撤退」 であったと思われる。









第7中隊に関する記録は、戦史叢書をはじめとして一切なく、生存者による回想を第1大隊長がまとめられたものである。




















歩兵第32連隊第2大隊は、先に撤退した独立歩兵第12大隊長賀谷中佐の「志村大隊は大隊長以下全員前田高地で玉砕」という報告書により、全員戦死との扱いをしていた。 命令違反の重大軍規違反のそしりを避けるためにも、全員戦死の扱いが適切な処置だったと思われる。