第3遊撃隊の戦闘                                                                     2005年作成

第3遊撃隊の戦闘 (隊長 村上治夫大尉以下4個中隊計約500名)

 第3遊撃隊(第1護郷隊)は20年1月1月中旬以降、タニヨ岳(隊本部・第2中隊))、名護岳(第1中隊)、久志岳(第4中隊)、乙羽岳(第3中隊)に遊撃拠点を設け、同地区における遊撃戦を準備した。 
4月3日頃から名護付近には、中頭地区で米軍の攻撃を受け指揮官を失った無統制の兵が相当数集まり混雑を呈した。兵の中には既に戦意を喪失し、食糧あさりをしている者もあった。村上隊長はこの状況を見て大いに憤慨するとともに、これら士気喪失した兵の言動が、一般住民はもちろん自隊の士気にも影響することを憂慮し、無統制な兵を叱咤激励して戦意を高揚させ、食糧を与えて原所属部隊に復帰するように指導した。




タニヨ岳付近の小戦(4月9日〜10日)
 4月9日
 4月9日米軍の偵察隊はタニヨ岳周辺に侵入して来た。0900頃第1中隊第1小隊は喜納股付近に侵入して来た米軍約30名を伏撃し、交戦30分にして分隊長を失いタニヨ岳の後方拠点に後退してきた。また0900頃タニヨ岳北北西2km付近を警戒中の第2中隊の山川小隊は、仲尾次方面から侵入して来た約50名の米軍と交戦し、小隊長負傷し2名が戦死した。
 名護岳の第1中隊拠点も米軍約30名と交戦し、3名の戦死者を生じた。村上隊長は名護岳の拠点が名護町に近く拠点の秘匿困難と考え、第1中隊をタニヨ岳南西1kmの川上開墾付近に移動させた。


 4月10日
 4月10日0900頃米軍約1個中隊が稲嶺方面から喜納股付近に侵入して来た。喜納股南東付近に潜伏配備されていた第4中隊の比嘉小隊は、米軍の先頭約30名に対し急襲射撃を浴びせ相当の損害を与えた。米軍は逐次増加して包囲態勢を採ったため比嘉小隊は逐次後退した。

          




真喜屋・稲嶺・源河の遊撃戦(4月17日)
第3遊撃隊は4月1日から6月23日までの間、主な遊撃戦だけでも34回(記録が残されていない遊撃戦は多数ある)の戦闘を実施した。その中で詳しく記録に残る戦闘として真喜屋・稲嶺・源河攻撃を取り上げる。

攻撃要領
 4月17日黎明、部隊主力をもって真喜屋・稲嶺・源河の米軍を急襲する。攻撃時間は30分間と予定する。
兵力部署
 真喜屋攻撃隊
   第1中隊第3小隊、第2中隊第2小隊、第4中隊第3小隊。
   主目標は警備兵、糧食及び燃料集積所
 稲嶺攻撃隊
   特設警備第225中隊
   主目標は警備兵、部落北側の砲兵及び弾薬集積所
 源河攻撃隊
   第504特設警備工兵攻撃班
   (第44飛行場大隊の指揮下部隊であったが、2日夜無断で戦線を 
   離脱し後に問題となった)  主目標は源河橋梁の爆破と主力の右側掩護


 村上隊長は4月16日夕刻、各隊をタニヨ岳東側に集合させて各隊幹部に命令下達した。この際に稲嶺攻撃隊長西銘中尉から仲尾次方面からの逆襲を考慮し、真喜屋西方の橋梁爆破の必要性があるとの意見がありその処置を採ったが手遅れとなった。この橋梁を爆破できなかったことが後の米軍の反撃を許す結果となった。16日2300源河攻撃隊出発、2400主力は稲嶺攻撃隊を尖兵として行動を開始した。
前進中に村上隊長は稲嶺攻撃隊の潜入偵察の報告を得た。
 1 米軍は真喜屋・稲嶺の山麓に警戒網を張り、特に真喜屋神社付近は一般住民の通行も近している。
 2 稲嶺の学校付近に50〜60名の米軍。
 3 稲嶺北側の砲兵陣地には高射砲らしきもの2門、車両6、兵員40〜50、弾薬山積みが2カ所あり。


 稲嶺攻撃隊は途中から分進し、本隊は第1中隊第3小隊を尖兵として前進した。村上隊長は真喜屋近くに到着したと思い、部隊を停止させて真喜屋神社付近を偵察させた。0300頃、前方警戒兵から目的地までははるかに遠いとの報を受け、部隊を急進させ自ら先頭に立って部隊を誘導した。予定よりやや遅れて攻撃発起位置につき、擲弾筒の射撃開始と共に真喜屋の攻撃を開始した。奇襲攻撃は完全に成功し攻撃は順調に進んだ。村上隊長は真喜屋南側高地から各隊の攻撃を指導し、米軍の敗走する状況などを視察した。



                    

    

 攻撃時間を30分と命令したにもかかわらず、調子に乗った攻撃隊は1時間を経過しても攻撃を続行した。やがて懸念した仲尾次方面から装甲車両で米軍の救援隊が進出してきた。村上隊長は攻撃を終えて帰ってきた部隊をもって仲尾次方面の米軍を攻撃させるとともに、真喜屋攻撃隊の撤退を督促した。米軍はますます増強し、米軍機3機が真喜屋の爆撃を開始した。
 攻撃隊は逐次集結地に後退してきた。村上隊長は集結完了した部隊から順次拠点に帰還させた。

  真喜屋攻撃隊 戦死8名、負傷15名、未帰還2名
  稲嶺攻撃隊  戦死1名、負傷3名
  源河攻撃隊  資料なし




村上隊長の名護襲撃(4月23日〜26日)

4月23日正午から、タニヨ岳周辺は米軍の猛烈な集中砲火を受けた。本部において研究の結果、名護付近の砲兵陣地破壊のため強力な挺進斬込隊を派遣することに決し、第3遊撃隊長村上大尉がこれを指揮することとなった。村上大尉は第3遊撃隊第2中隊長菅江少尉にタニヨ岳の死守を命じ、60名(軽機2、擲弾筒3)を指揮し23日1500頃タニヨ岳を出発した。
 挺進隊は23日2000頃タニヨ岳南方の第1次集結地に達して潜伏した。24日の昼間は情報の収集にあたり、2200頃に第1次集結地を出発し名護攻撃拠点に向かった。
村上大尉は25日昼間は名護の敵情を偵察し、1800頃から3人1組とする挺進奇襲班数組を各目標に向かって出発させ、自らは掩護班を率いて名護南東側高地に前進して攻撃状況を視察した。


 4月25日2300過ぎから名護に潜入した攻撃班の爆破音が次から次と聞き、名護の混乱が目視され攻撃成功と観察した。ここにおいて村上大尉は掩護班に撤退掩護射撃(擲弾筒)を開始させた。米軍は山地に向かって機関銃・迫撃砲などを乱射してきた。村上大尉は頃合いを見て掩護班に撤退を命じ、予定集合地に急速に後退した。26日0800頃予定集結地に全員が負傷者もなく集結した。

           




タニヨ岳の失陥(4月24日)
         


 4月24日米軍はタニヨ岳に猛砲撃を加えると共に、各方面から攻撃前進してきた。タニヨ岳の戦闘は激烈となり、24日夕刻米軍と至近距離に相対して夜に入った。村上大尉からタニヨ岳死守を命ぜられた第3遊撃隊第2中隊は勇戦奮闘し中隊長菅江少尉以下10数名が戦死した。
 宇土支隊長(八重岳の戦闘から後退し21日未明にタニヨ岳に到着している)は24日夜、各部隊に転進目標を示し、タニヨ岳からの移動を命じた。25日米軍は引き続き掃討を実施した。
 村上大尉は26日朝に攻撃後の予定集合地においてタニヨ岳からの伝令から宇土部隊のタニヨ岳からの移動を知らされた。村上大尉はこの報告を受け、宇土部隊の士気の低下を慨嘆した。


 村上隊長は現在地を連絡基地として分散した部隊の掌握に努めた。また士気の振作に努力し、各隊に果敢な遊撃戦の実施を命じた。「食糧の不足、これ遊撃戦の常道なり」としてその後も遊撃戦を継続、ついには5月5日に全中隊を掌握するに至った。  

 村上大尉は名護岳付近に拠点を設けて遊撃戦を実施しつつ潜伏した。その後終戦の報に接し宇土支隊長以下の大部が下山したことも知った。また下山説得のため収容された日本軍将校が数回訪れたが、降伏を承知せず拠点に潜伏を続けた。
 昭和21年1月2日、日本軍将校が村上大尉を訪ね、八原高級参謀の手紙を手渡した。八原参謀が生存していることが村上大尉に大きな衝撃を与え、結果1月3日村上大尉は意を決して下山した。


    



タニヨ岳は現在地図表記では「多野岳」となっているが、戦史叢書の記述どおり、「タニヨ岳」として記載した






この頃、米軍は八重岳の攻略が主目標であり、タニヨ岳や名護岳については、日本軍小部隊の封じ込めを主眼としていたと思われる











この戦闘は敵後方攪乱の典型的な戦闘である。この時期多くのゲリラ戦を実施し成果を上げているが、戦闘行動が明白なこの事例を取り上げた



第504特設警備工兵隊については特設第1連隊の戦闘中に詳しく記してある











































攻撃は順調に進捗したことがうかがえる。戦場心理として攻撃時は時間が短く感じ、防御時は長く感じるのが常である

橋がどの程度の橋であったのかは不明であるが、爆破できなかった理由は不明である。








この頃タニヨ岳は西方に米軍が侵入しており、4月15日から19日にかけて数度にわたり交戦していた。したがって敵との遭遇を避けるために、大浦に向かって一度南進したと思われる

隊長自らが拠点を離れて襲撃を指揮を執ったが、その間にタニヨ岳が失陥している。この決心に至る状況は不明ながら、果たして正しい決心であったかは疑問の残るところではある

























タニヨ岳は現在スポーツ施設などが集まるリクリエーション地域と変貌しており、当時の様相はほとんどない








第2歩兵隊の各中隊は、4月16日まで八重岳で戦闘を行っており、すでに人員・装備とも十分でなかったと思われる。菅江少尉戦死後は、急速に士気が低下し、タニヨ岳死守の気概はすでになかったと思われる