東部4島の占領                         2014年作成
東部4島の占領 (伊計島・宮城島・平安座島・浜比嘉島)

  注意 : 東部4島の占領に関しては日本軍側の記録はなく、米軍側の記述(米陸軍公刊戦史及び米海兵隊公刊戦史)のみを掲載した。



1 占領までの概要 

    4月1日に嘉手納海岸に上陸した米軍は、当初の計画よりも順調に進撃
  を継続し、4月3日には海兵隊の一部が早くも東海岸(金武湾)に到達した。
  米軍は、当初から、東海岸にも海軍艦艇の泊地(停泊地)を構成し、そこから
  物資等の補給を計画していたため、その安全性を確保することが重要な懸   案となった。
  東海岸には久高島・津堅島をはじめとして、東部4島(伊計・宮城・平安座
  ・浜比嘉)があったが、4月5日に津堅島に接近した米艦艇が、島から砲撃
 を受けたことで、6日には津堅島へ小規模の偵察部隊が上陸した。 津堅島
 には日本軍部隊が配兵されていたため4月10日〜11日にかけて米軍が
 上陸し戦闘が行われている。
    東部4島には、4月7日から、米海兵隊の海兵偵察大隊が上陸を開始、
 4島に対して偵察活動を行い、その結果、日本軍部隊の配兵がないことを
 確認して一連の偵察行動を終了、後に一時的に海兵部隊が配置された。


2 海兵偵察大隊の部隊編成
   海兵偵察大隊
     大隊長 James L.Jones 少佐  
     副大隊長 Earl R.Marquardt 少佐
         作戦担当   Leo B.Shinn 中尉
           大隊本部中隊長 James R.Bentley 中尉
          A中隊長       Merwin H.Silverthorn,Jr 大尉
          B中隊長       Russell E.Corey 中尉

3 日本軍部隊
 (1) 伊計島
    当初、砲兵1個大隊が駐屯したが、後に津堅島へ移駐。 その後何度か1個小隊程度の部隊が駐屯したが、最終的には1個分隊(12名で全員
  伊計島出身者)が残されたようだが、その後の記録はない。
 (2) 宮城島
    昭和19年6月に、第24師団から1個中隊が駐屯する計画があったが、その後撤回されている。
 (3) 平安座島
    日本軍に関する記録なし。
 (4) 浜比嘉島
    日本軍に関する記録なし。   


 



東部4島の占領

1 「米陸軍公刊戦史」から
   4月6日午後から海兵偵察大隊は4島に対する調査を開始した。 
   4月7日0015、大隊本部及び本部中隊が最北の伊計島に上陸を
 開始した。 だが日本兵の姿も、軍の施設もなく、年老いた民間人がひ
 とり発見されただけであった。 
   B中隊は宮城島に0530に上陸した。 しかし完全に脅されたような
 200名だけがその島の住民であった。 同じ頃A中隊の2個小隊が平
 安島に上陸、0800にはゴムボートを使用して海を渡り、浜比嘉島に上
 陸した。 偵察の結果、日本兵は駐屯していないことが確認できた。 
   これらの島は、その後第5海兵連隊第3大隊が17日から23日まで
 駐留した。



2 「米海兵隊公刊戦史」から

   4月7日0015に伊計島に上陸し、島民1名のみが在住していることを確認した。 大隊長は同日早朝に隷下の2個中隊を投入、A中隊を0545
 に平安座島に上陸させたが日本軍は確認できず、0800にはさらに海を隔てた浜比嘉島に上陸した。ここでは約1500人の住民を確認した。
 B中隊は伊計島の隣の宮城島に0530に上陸、約200名の島民を確認し、大隊長に対してその旨が報告された。

  

  
   浜比嘉島の上陸海岸 : 平安座島からゴムボートにより浜比嘉島に上陸した。当時の海岸は現在は護岸工事がなされ道路となっている。


3 第5海兵連隊第3大隊K中隊 (「泥と炎の沖縄戦・あるマリン兵の回想」から抜粋)

   ルーズベルト大統領死去の報せ(4月13日)があってから、ほどなく前進準備の命令が出た。部隊に不安が出始めた。 この命令で、いよい
   よ南部の地獄行きは確実だと誰もが考えた。 ところがである。 私達の予想に反して、この命令は沖縄島東部の島嶼を占領せよというもので
   あった。 わがK中隊は宮城島に上陸することになった。 情報によると、この島には日本兵はひとりもいないらしい。 とはいえ、それをまともに
   信じるわけにもいかない。 これまでも沖縄は「不思議な戦場」であった。 何も起こらないかもしれないが、同時に何が起こるかわからない。
   大隊はトラックに分乗して東海岸へ向かった。 そこで水陸両用車に乗り移り、まもなく宮城島についた。 他の中隊は別の島々に向かった。
  宮城島では幅の狭い、きれいな砂浜に上陸した。 左側には大きな岩山があって、ちょっと不安になった。 と言うのは、その岩山からはビーチ
   は射程距離内にあるからである。 だが幸いにも敵からの抵抗はなかった。 島をさっと突っ切ったが、やはり日本兵はいない。 民間人が数人し
   かいないことがわかると再びビーチにとって返し、陣地の設営にかかった。 分隊は岩山の急斜面に陣取った。 ここならビーチも金武湾全体も
   見渡せる。 ちょうどよい具合に迫撃砲も岩と岩の間に適当な場所を見つけて固定した。
   丘の麓からそう遠く離れていない海上に、小型駆逐艦が停泊していた。 おそらく、こちらが上陸を開始したときから、数日間ずっと見張ってい
   てくれていたのだろう。 天候は問題なく、青空の下でのびのびと眠ることが出来た。 何と気持ちのよいものか。 万一の場合に備えての見張り
   当番を置くこと以外、これといった任務もない。 手紙を書いたり、本を読んだり、近くをぶらついたりの毎日だった。

                               東部4島への海兵偵察大隊上陸図
 
                               東部4島への海兵偵察大隊上陸図

 






















B中隊はこの後、7日2300に久高島に上陸。島に島民しかいないことを確認した後、8日0100には島から撤退している。

































「海兵偵察大隊」
 VAmphibious Corpsを第3海兵軍団と訳しているため、それに従いAmphibious Reconnaissance Battalionを 「海兵偵察大隊」 と訳している。











































第5海兵連隊第3大隊が、東部4島に上陸し、一時的に駐屯している。 宮城島に上陸したのがK中隊であるが、その他の島へはどの中隊が上陸したのかは不明である。


K中隊が上陸した場所は、砂浜と岩山がある場所から、海兵偵察大隊B中隊が上陸した場所と同じだと思われる。




















海兵隊公刊戦史の図では、浜比嘉島上陸地点を「勝連浜」(島の北西端)としているが、いずれの島にも集落に直接上陸していない点、記録写真の上陸点が集落とは異なる海岸線であることから、記録写真の上陸地点から2方向に分進したと考えられる。
 上陸後の記述でも、険しい岩山を通過して進撃したとあることから、右部隊は海岸線を通らずに勝連浜方向へ進出したと思われる。