第4遊撃隊の戦闘                                                                     2005年作成

青は日本軍公刊戦史記述、黒は飯田邦光氏著「沖縄血戦」から抜粋して記述した
第4遊撃隊の拠点となる恩納岳は現在米軍演習場内であり、現地の実踏調査はできなかった


第4遊撃隊の戦闘(隊長 岩波壽大尉以下3個中隊計393名)

第4遊撃隊(第2護郷隊と呼称)は昭和20年1月以来 、恩納岳、石川岳地区に遊撃拠点を設け、同地区及び中頭地区における遊撃戦を準備しており、中頭地区には情報収集班を配置していた。

4月1日
 
岩波隊長は恩納岳拠点において無線によって米軍の嘉手納上陸を知り、自らも山上から目視した。岩波隊長は中頭地区において遊撃戦を実施する企図をもって、1日夜第1中隊を恩納岳に残置し、第2・第3中隊を率いて石川岳に前進した。しかし中頭地区への斥候及び中頭地区の情報収集班からも情報を得ることができなかった。

4月2日
 
米軍進出の妨害のため、石川及び仲泊付近の橋を破壊させた。また軍司令官は国頭支隊長に対し「4月3日以降遊撃隊の一部を持って北・中飛行場方面に秘密遊撃戦実施すべき」ことを命じたが、この命令は岩波隊長には届かなかった。


4月3日
 
このころから北・中飛行場方面から後退してきた特設第1連隊の諸隊が逐次石川岳付近に集まってきた。

4月4日
 
朝、石川付近に進出してきた米軍は石川岳地区に砲撃を加え、石川岳北側沿岸道にも米軍の進出が見られた。4日午後大鹿秀秋中尉の指揮する第44飛行場大隊の約100名が石川岳に到着し、岩波隊長の指揮下に入った。岩波隊長は第44飛行場大隊を大鹿隊、田中隊(大隊副官)の2個中隊に編成して石川岳に配備した。
 岩波大尉は中頭地区から後退する部隊に対し戦意のある部隊には食糧を支給するという要領で処理し、戦勢を建て直す方針を採った。岩波隊長は4日夕、米軍が東海岸においては屋嘉地区、西海岸においては谷茶に進出したことを偵知した。
 岩波隊長は米軍との戦闘を避け、奇襲攻撃の遊撃戦を企図していたが、石川岳が中頭地区から後退する友軍の通路となり、追尾する米軍の攻撃を受けるため、石川岳を拠点とする遊撃戦は困難と判断して恩納岳の本拠に後退することに決し、4日夜部隊の集結を命じ、恩納岳への移動を部署した。岩波隊長は部隊を指揮して4日夜半石川岳を発し、途中米軍と遭遇し戦闘を交えつつ一部は5日昼間、主力は5日夜恩納岳に集結した。


               



第1次恩納岳の戦闘(4月12日〜30日)

4月12日
 
昼頃、金武方面の米軍約300名が恩納岳南東角(眼鏡山)を二方向から攻撃してきた。第4遊撃隊は交戦3時間にして米軍を撃退した。米軍は更に戦車3両の援護射撃下に再攻してきたが、死傷者を収容した後金武方面に後退した。

4月13日
 
米軍は戦車数両の援護射撃下に眼鏡山を攻撃してきたが、直ちに応戦して撃退
14日〜17日は米軍は戦車及び迫撃砲の射撃を加えたが、歩兵攻撃は実施しなかった。岩波隊長は眼鏡山を放棄して防御正面を縮小し、陣地の強化に努めた。

また16日には国頭支隊本部との無線通信が途絶したが、これは支隊本部が八重岳を放棄し転進したためであった。

4月18日
 
17日安富祖付近に戦車を伴う100名の米軍が集結した。この部隊は18日朝から攻撃を開始したため、岩波隊長は第1中隊をこの方面に配備して防戦した。

4月19日
 
大鹿隊正面(三角山)は、眼鏡山に沿う地区から戦車、迫撃砲に支援された有力な米軍の攻撃を受け、激戦は夜まで続きようやく撃退したが、彼我ともに損害が多かった。

4月20日
 
正午頃から米軍は再び大鹿隊正面に猛攻してきた。大鹿隊は勇戦敢闘したが遂に三角山を米軍に占領された。岩波隊長は20日夜第3中隊主力をもって三角山の奪回攻撃を実施したが損害が多く失敗した。岩波隊長は徹底的抗戦により米軍をなるべく長期間吸引するという方針の下に、陣地を恩納岳を中心とする縮小配備とし防備の強化を図った。  

4月25日
 25日ころから恩納岳周辺の山麓一帯にかけて鋭い銃声がときどき聞かれるようになり、それがやがて、わが軍の前哨戦と米軍斥候のわたり合う、まるで豆を煎るような銃声へと変わっていった。夜こそが我々の活動どきであったが、敵は我隊が恩納村方面へ下ってゆくところの山麓の要所要所をことごとく火炎放射器の赤い炎で焼き払い、付近に強力な陣地を構築して封鎖、その後米軍斥候が尾根伝いに、あるいは谷間を深く縫ってしだいに日本軍陣地に近づいてきた。


4月27日
 
三角山及び山麓の米軍は撤収を開始したため、岩波隊長は第2中隊を三角山に配備して陣地を占領した。

岩波隊長は恩納岳周辺の米軍撤退に伴い遊撃戦を再開した。特に5月4日から18日にかけて恩納・安富祖方面、久志・金武の米軍を襲撃して米軍車両・施設・橋梁などを再三に渡り襲撃した。このため米軍としても南北移動が活発化してきたこの時期に国頭地区の日本軍により妨害を受けるため、この地区の掃討を実施せざるを得なくなった。5月20日には国頭地区の掃討を住民に公言し、恩納、屋嘉付近に兵力を集結させ、道路沿い陣地を構築して恩納岳周辺に厳重な警戒態勢を採った。

    



第2次恩納岳の戦闘(5月24日〜6月2日)


5月24日
 
米軍は恩納岳に迫撃砲を集中し、四周から恩納岳を攻撃した。

 5月23日、24日早朝から、先ず観測機が数機、恩納岳陣地上を執拗に旋回して偵察した。米軍は日本軍の掃討を住民に公言し、恩納、屋嘉付近に兵力を集結すると共に、屋嘉〜屋嘉田道、金武〜安富祖付近に陣地を構築し、恩納岳周辺に厳重な警戒態勢をとりつつあった。その兵力6千という情報であった。
 

5月25日
 
特設第1連隊長青柳中佐が石川岳から転進して恩納岳に到着した。(23日夜には独立歩兵第12大隊第2中隊〔山添隊〕が到着)。青柳中佐から山添隊を併せて指揮することを命じられた岩波隊長は、戦闘力の優れた精鋭な山添隊を岩波隊第2中隊正面に配備し、第2中隊を予備とした。

 5月25には両海岸方面から迫撃砲を集中し、四囲から恩納岳攻撃の火蓋を切ってきた。敵の攻撃はまるで潮が差してくるように、尾根伝い、谷間を深く縫って包囲網を縮めて登頂を試みる。東面の護郷隊(第4遊撃隊)と西側の我が隊との接触が始まり、機関銃が全面的に火を噴いた。沖縄は本格的な雨期となり、カビの生えた深山の腐葉土の臭いに、人間の死臭が重なって漂い、戦いをいっそう陰惨なものにした。両軍の間を逃げてくる避難民が、我が陣地のすぐ前で敵弾を浴びて悲しい最期を遂げた。なおも友軍を頼って陣地へ入ってくる住民は絶えず、陣地はごった返した。老人をかばい、子供の手を引き、食を求めて恐怖におののきつつ、髪を振り乱し、濡れた体で彷徨う住民の姿はまさに見るに忍びない地獄絵図である。 

5月26日
 
大鹿隊、田中隊は陣地に近迫した米軍を伏撃して戦果を挙げると共に、夜間米軍陣地を攻撃するなど敢闘した。

 夜が明けると砲煙が山頂にも谷間にも立ちこめて、全山に反響する銃声がひっきりなしに鳴り、どこかで激しい戦闘が続いている。恩納岳の完全掃討を決意している敵は、谷間を一つ隔てた密林をノコギリを使って樹を切り倒し始めた。迫撃砲を発射できるように啓開しているのだ。予期していたように敵はやがて迫撃砲を撃ってきた。迫撃砲陣地から撃ち出す敵の発射音がカポン、カポンと連続して聞こえてくる。昨日とは異なり今日は猛烈である。
 敵の主攻勢としているところは、恩納岳の西北側に富士山のように優雅な三脚を伸ばしている瀬良垣登山道のようであり、またもや我が隊と護郷隊第1中隊の正面のようにも思えた。
迫撃砲の猛射が止むと、敵は一斉に登山道の峻険な稜線伝いに、自動小銃や機関銃をまるでホースで水をまくように肉迫してきた。敵はなかなか勇敢だ。じりじりと頂上に追い上げられ、恩納岳は危機にさらされた。このとき田中隊本部は頂上から南に幾分下がった稜線上に展開していたので、この登頂してきた敵に対して右側面から応戦した。お互いそこには、生きるという尊厳も、人間という尊厳も一顧だにされない戦争という、悪虐無道の歴史の一コマがあるだけだ。


5月30日
 5月29日から恩納岳に対する米軍の砲撃はいよいよ激烈となり、30日米軍は眼鏡山のわが前進陣地を攻撃してきた。岩波隊長は同日眼鏡山の守備部隊を撤退させた。

5月31日
 
薄暮に田中隊は前面の米軍に攻撃を加えたが、隊長田中中尉以下の戦死者を生じた。

田中隊は払暁を期し、西側一帯に取り付いている敵に対して、乾坤一擲の総攻撃を敢行することになった。毎日が飢餓線上すれすれにある我々は、この攻撃に心から賛同した。うまく行けばすばらしいルーズベルト給与にありつけるという夢と狂暴性がごっちゃにあった。擲弾筒を全弾撃ち尽くした後、機銃・小銃を総動員して撃ちながら突撃していった。8合目あたりまで下ってきた時、敵陣の一斉機銃の猛射を受け、同時に迫撃砲が頭上に狂い飛び交じった。この戦闘中、田中隊長が背部に迫撃砲弾の破片を受けて重傷、多数が戦死を遂げ、この突撃は完全に頓挫した。
ものすごい十字砲火であった。生き残ったのが奇蹟である。負傷者は頂上からの急造の担架で包帯所に運んだ。
 田中隊長は、死期を悟ったのか、見守るひとりひとりの手を握って訣別した後、午後4時半頃安らかに息を引き取った。立ち会いの島田准尉が階級章、軍服のネーム、小指を切断して缶に入れたものを遺品として保管した。沖縄戦後に川崎市の田中隊長の生家を訪ねて、ご遺族にどどめなく流れる涙と共に、その遺品をお渡ししたことを付記しておく。


6月1日
 
濃霧であった。1000頃から米軍は迫撃砲の集中射撃とともに飛行機数機の協力の下に三角山正面に猛攻を開始した。数回にわたり撃退したが三角山陣地は砲撃により破壊され遂に米軍に占領された。

 明るくなるに従って昨日の激戦の後がいたたましく目に映る。雨が強く降って、陣地はまるで田圃のようだ。雑草も一本もなく、丸い堆土は草むす屍と化した戦友が永久に眠っている墓地である。


6月2日 
 
早朝から恩納岳西方の田中隊正面は米軍の猛攻を受け、勇戦したが死傷者多く陣地の一角は占領された。田中隊は残存拠点及び大鹿隊の拠点を利用して防戦に努めた。
 夜、青柳中佐は岩波隊長の意見も聞き、久志岳に移動して遊撃戦を実施することに決した。恩納岳所在部隊は企図の秘匿に努めつつ陣地を撤収し、零時頃山添隊を尖兵中隊とし一列縦隊で久志岳に向かって前進を開始した。途中金武〜安富祖道の米軍警戒は厳重で、各所で戦闘が起こり、尖兵中隊と部隊主力との連絡が途絶した。部隊主力は戦闘を交え、あるいは潜伏し米軍警戒線を突破し、6月18日頃ようやく安仁堂付近に達した。
 青柳中佐は部隊の軽快性及び食糧収集の容易などを考慮し部隊を区分することとした。青柳中佐は第44飛行場大隊を指揮して恩納岳に復帰し、岩波大尉の指揮する第4遊撃隊は国頭北部へ、要塞建築第6中隊は同隊主力の所在する久志岳に向かいそれぞれ転進した。

今日こそはと上場の完全占領を目指す敵は、迫撃砲弾を頂上に集中、まるで耕すように瀬良垣登山道から猛攻撃を開始してきた。わずか100mくらい下方から、カポンカポンとひっきりなしに発射音が鳴り、ヒュルヒュルと空気を引き裂いて弾丸が後方へ抜けてゆく時の気持ちはたとえようもなく、全身の筋肉が凝縮する思いだ。近距離からの正確な砲撃であった。
 最期の関頭に立った。陣地を放棄することに決し、頂上から北西側山脚の尾根に布陣している護郷隊第1中隊の中に飛び込んだ。この間にも米軍は無尽の火力にものを言わせて頂上の一角に取り付いたらしい。裂け散る閃光のなかに、迫撃砲弾が谷間を狂気のように飛び、米兵たちの怒声が手に取るように聞こえる。最早や恩納岳の命運も尽きたようだ。戦いに力尽きた今、もう悲憤の涙もでない。



 第4遊撃隊は7月10日久志岳東方地区に達し、第3遊撃隊長村上大尉と会い軍主力の玉砕を確認した。岩波大尉は秘密遊撃戦に移行することに決して以下のように部署し、7月16日部隊を解散した。
1 有銘西方山中に秘密拠点を設置。第4遊撃隊本部基幹要員数名を残留
 2 各隊員は出身部落の家族の下に帰還し、家業を行いつつ情報を収集する

 各隊員は帰村して家業に就くとともに、中隊長、隊本部に情報と食糧を適宜提供した。 
岩波大尉は8月15日終戦の報を聴取した。9月に入ると住民を通じて米軍からの下山勧告もあり、遂に10月2日各中隊長とともに米軍収容所に入った。


 



  



石川の橋は「石川橋」であると思われる。「石川橋」については「第1特設連隊の戦闘」中に記述している





石川岳では状況は混沌としていた。岩波隊長とは石川岳では会っていないという証言もある。実際バラバラに石川岳に到着したため人員の掌握は困難を極めたに違いない







仲泊の橋は当時海岸線にあった。背後は山が迫っておりこの橋を迂回して進撃することは困難である。しかしながら米軍側の公刊戦史で見る限り、さしたる抵抗もなく北上している記述がある。米軍は部隊の先頭に工兵隊を随行させており、橋の修復を行いつつ前進したようだ






































日本軍は食料を得るために度々南側の県道を越えて集落に侵入した


























日本軍は陣地配備を行って防御戦闘を実施しているが、実際は相互の陣地に連絡手段もなく、各個に戦闘を行っていたというのが実相のようである。残された手記等を見ても、他の陣地の状況まてふれられたものはほとんど無い







































田中隊長は特設第1連隊第2大隊長副官であった