屋富祖58祖高地の戦闘                                                            2006年2月作成

屋富祖「58高地」の戦闘

 
独立歩兵第21大隊は4月19日以来、大きな損害を受けながらも米軍と交戦を続けてきた。4月27日には生存者全部を統合し「58高地」陣地に後退した。「58高地」での戦闘は冒頭に記載した歩兵砲中隊 山中明少尉の手記に詳しい。ここではその戦闘後に「58高地」に戻った井土(山内)邦一氏の手記を抜粋記載した。

−戦史叢書(日本軍公刊戦史)抜粋−
月26日
 西海岸道方面においては、城間陣地は米軍の包囲攻撃を受けて苦戦に陥り、陣地の大部を米軍に占領された。

4月27日
 城間地区は27日引き続き戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、陣地の大部は破壊された。同夜残存部隊は屋富祖東側の58高地附近の陣地に後退し主力と合した。

4月28日
 屋富祖南側高地付近は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けて陣地の一角を占領され、また南飛行場(仲西飛行場)南端にも米軍が進出して来た。28日屋富祖付近の戦闘において独立歩兵第21大隊残存者の大部は死傷し、司令部勤務人員などを部隊に復帰させたが、その兵力は約100名、連隊砲1、大隊砲1、機関銃1という戦力であった。

 第27師団の行動地帯の中央部に位置する第106歩兵連隊第2大隊は、4月27日から28日にかけて屋富祖付近で激しい戦闘を繰り広げた。
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58高地。そこは小高い丘で仲西の飛行場がすぐ目の前にあった。その向こうには見事なエメラルドに輝く南国の海が果てもなく拡がっていた。丘上には琉球松と蘇鉄が一面に繁って、一見なんの変哲もない丘陵であったが、実はこれこそ自然が設計した洞窟陣地であった。3カ所の入口は外部から全く見えなかった。ただしこの58高地には重機1、軽機2、擲弾筒2の装備、後は小銃と肉弾だけという状況であった。大隊本部・各中隊の生存者は200名もいただろうか。しかし大半は負傷者であった。
 アメリカ第6海兵師団は、我が陣地から北東500mの麦畑に展開していた。その海兵師団が明日29日には攻撃を開始するであろうことを、私達は知り過ぎる位知っていた。
 午後8時10分、大隊長に呼ばれ戦闘詳報と現況報告書を旅団長に届けよという命令を受けた。これが私にとって実に運命的な命令となった。


4月29日
 旅団司令部にて旅団命令の下達を待つ。午前10時高級副官が私の前に立った。「西林中佐から打電してきたが、感度不良で何度かサラしたが電文がとれない。所々は判読できるのだが最後の・・・閣下・・・祈る・・・だけが不思議にとれたのだ。お前は伝令とともに司令部と行動を共にせよ。西林大隊は全員散ったのだ。ご苦労であった」。全員散った・・・嘘のようである。夢のようである。私は自分の血が静かに逆流するのを覚えた。
 夕刻、私は高級副官の前に不動の姿勢をとっていた。「自分は21大隊の一員であります。全員玉砕したと言っても、まだ現地の状況は判っておりません。壕にはまだ生存者がいるかもしれませんし、部隊長以下の消息も不明です。自分は今から58高地に行き、大隊の最後を見届けて来ます」と。私は伝令の与那嶺1等兵と司令部の壕を飛び出した。

 敵の歩哨線を何とか突破し、58高地の大岩が見えてきた。二人は陣地入口に突進した。
屍臭、そして青臭い戦場の臭いが一面に漂っていた。あれほど生い繁って高地を覆っていた松夜蘇鉄は激しい砲爆撃に殆ど吹き飛んでいた。陣地は一変している。ああ、戦友の屍が5体、7体。我々は壕の入口へ来た。次々に上がる照明弾に照らし出される、この地獄絵図はどうだ。入口に向かって左側は屍の山である。入口に浅田中尉。おお石岡曹長。小田桐曹長。腹を撃たれて内蔵の露出した屍。火炎放射を浴びたであろう真っ黒な屍。北支以来昨日まで同じ飯盒の飯を食い、共に弾雨の下をくぐって来た兄弟なのだ。伊藤よ、杉浦よ、原田よ。今は照明弾がありがたかった。戦車砲の直撃を受けたであろう顔のない屍、手のない屍、さそ無念だったであろう。
 陣地の中に入った。右側の部隊長室には12〜13人が斃れていた。薄ねずみ色の壕壁を背に多くの屍が散乱していた。動けない負傷者が自決したのであろうか。戦車砲の直撃が何発となく壕内で炸裂したのであろう。天井の岩壁が落ちて戦友の屍を埋めている。凍りつくような鬼気を感じた。
 奥へ入る。白くかすかに動く物を捕らえた。誰かいる。生きているのだ。「誰か」と声をかけると「K中尉」。力はないが比較的明瞭な声である。しかしもう長くは持たない生命であろう。

「お前は誰か・・・」「山内です」 これはいかん。死期が近い。私は戦闘状況を知りたいのだが、負傷者と一緒にいたK中尉にはおそらく戦況は判らないであろう。「おい、ミズヲクレ・・・」私は中尉の目を見た。その眼は虚ろであった。中尉は兵隊に好かれるタイプの将校ではなかった。悪い人柄ではないが、兵との間に断絶があった。死の直前の人に酷いとは思いつつ「中尉殿、戦闘の状況をご存じでしたら教えて下さい。大隊長殿はどうなされたのですか。自分の申し上げることはお判りになりますか」。 屍臭と硝煙の混合した異臭。私の大きな声は壕壁に響いた。「ミズヲクレ・・・ミズヲクレ・・・」負傷者が水を要求するのは当然だが、今水を飲ませたら中尉は目の前で死ぬ。私は聞きたかった。大隊長殿の安否は、生存者は何名くらい、そして何時何処へ脱出したか、等々。中尉は答えなかった。「水だ、ミズだ・・・ワカランのか」。そして「命令だ・・・将校の命令だ・・・将校の・・・」。この人の断絶はここにあったのだ。私は上級者に対して失礼と承知しつつ
「中尉殿、あなたはもう何分も生きられません。将校の命令とは何ですか。死ぬ時位本当の人間に返ったらどうですか。自分はもしかしたらと思って、装具は捨てて水をいっぱい持ってきました。中尉殿、飲んで下さい腹一杯。長い間ご苦労様でした。自分も遠からず参ります。さあ、中尉殿、水ですよ」。悪いとは思ったが一気に言った。言うだけのことを言うと急に中尉が可哀想になって、急いで水筒を中尉の唇にあてがった。
 静かに水は唇の中に流れていった。私は中尉の手を握りしめた。冷たい手であった。久しく忘れていた涙が私の頬を濡らした。冷たい手が私の手を弱い力で握り返してきた。嬉しかった。結果は目に見えていた。呼吸が早くなった。呼気が少なくて、吸気のみ多くなった。「ヤマウチ・・・アリガトウ・・・」。 最期であった。誰も知らないであろう。この地底で私に手を取られ、華北戦線以来の勇士K中尉の魂は永遠に去って言った。ああ、独立歩兵第21大隊は、ここに組織的戦闘の最後の幕を閉じたのである。

 さあ、報告だ。壕を出た。58高地の戦友よ。何もしてやれなくて残念だ。相変わらず宙空の照明弾は憎らしい白夜を演出している。
 帰途、私は与那嶺を失った。腹部に艦砲の破片が命中したのだ。「ハラが痛いです・・・」それが最期の言葉であった。ああ忘れ得ない58高地よ。合掌







































実際は第106連隊第2大隊が攻撃を行った。海兵師団の投入は4月30日からである





































井土邦一氏に実際にお話をお伺いしたかったのですが、すでに故人となっておられました。