日本軍の攻勢移転 にほんぐんのこうせいてん 2008年1月作成
日本軍の攻勢移転 (5月4日〜5月5日) 沖縄戦における「攻勢移転」は5月4日〜5月5日にかけての攻勢を指す。 1 概 説 沖縄第32軍は、4月1日の米軍上陸以来3回にわたって攻勢に移転する計画を立案(2回実行)した。 第1回目は4月7日夜と決定された。これは米軍上陸以来、第十方面軍(沖縄第32軍の上級部隊)、連合艦隊、第八飛行師団(台湾)などから飛行場確保のため強硬な攻勢移転の要請があったためで、戦略持久を唱える高級参謀八原大佐などの反対を押し切って決定された。しかしながらこの計画は4月4日夜に沖縄本島南部に上陸を企図すると判断された米軍機動部隊の情報が入手されたために結局一時延期とされた。 第2回目は4月8日夜と決定された。これは第1回目の攻勢の延期を受けたもので、この攻勢に関しても、各方面からの督促によるところが大きい。しかしながらこの攻勢も浦添地区に米軍上陸の企図が濃厚とされたため、総攻撃から第62師団の一部による攻撃に変更され、結果としては失敗に帰している。 第3回目は4月12日夜に大規模な夜間攻撃を実施することが計画された。この攻撃も八原大佐は反対意見を述べたものの、結局長参謀長の主導するところとなり決定された。この計画は第62師団の右に第24師団を並列させて夜間攻撃を行うという大規模なものであったが、八原大佐が一部部隊に対して兵力の同時大量投入を避けるよう指導するなど、沖縄第32軍司令部の意志統制に欠ける部分が見受けられた。しかも第24師団は南部から進出した直後のために地理にも未熟であったため、攻撃部隊は各所で撃破され、殆ど戦禍を得ることなく兵力を消耗して終了することになった。 米軍側の考察 (4月12日に日本軍が大規模な攻勢をとれば米軍は窮地に陥っていたであろうという見解) 日本軍の攻撃時機の選定は時宜に適していた。米軍は多大の損害を受け、その増援は到着していなかった。4月9日から12日にかけての戦闘は嘉数付近だけでなく全戦線において行われ、米軍は日本軍陣地正面において失勢の状態に陥っていた。米軍の攻撃失敗と日本軍の不屈の防御戦闘によって4月12日の日本軍逆襲は最良の時機となっていた。 2 攻勢移転(5月4日〜5月5日) 4月29日、沖縄第32軍司令部において幕僚会議が行われ、今後の戦況の見通しと攻勢移転問題が論議された。その結果、攻勢移転の案が決まり、同日牛島軍司令官は5月4日に軍主力による攻撃を実施することに決定した。 この攻勢移転については、「現状をもって推移すれば軍の戦力は枯渇し、軍の命運の尽きることは明白である。攻撃戦力を保有している時機に攻勢を採り、運命の打開を策すべき」 という長参謀長の意見に大方の幕僚が賛同して決定された。ただ八原高級参謀のみがこの意見に反論を唱えた。八原高級参謀は「全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢な米軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」 こと等を説いて強く反対している。 ![]() 一人攻勢移転に反対し、軍の方針決定後も積極的な作戦立案に当たらなかったことを牛島司令官に叱責された際の言葉 「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んで行くでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下がご決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職務に鑑み、全力を尽くしております。また私の態度については、今後十分注意いたします」 3 攻撃計画 「第32軍は5月4日黎明右正面から攻撃に転じ、大規模な煙の使用と相まって、昼夜連続北 方に対して攻撃を続行し、普天間東西の線以南において米第24軍団主力を撃滅する」という方針の下、主として沖縄本島東部の第24師団が攻勢の主力部隊とした。また独立混成第44旅団を戦果拡張部隊として後方に残置、第62師団は現在の戦線を保持して米軍を吸引するという作戦を採用している。この際、船舶工兵部隊や海上挺進戦隊約1200名を米軍の後方に逆上陸させるという方策を講じた。 ![]() 5月3日夜半から各連隊は攻撃準備を整え、4日黎明をもって攻撃を開始した。歩兵第22連隊は1個中隊が攻撃したが攻撃開始直後にほぼ全滅、、歩兵第32連隊は第1大隊(伊東大隊)が攻撃したが、攻撃発揮位置が米軍に占領されていたために実際に攻勢に転じたのは5月5日になってからであった。 したがって、「5月4日の攻勢移転」の実態は、全軍の一斉攻撃ではなく、歩兵第89連隊の2個大隊が米軍部隊に突進したというのが実態なのである。 ![]() 5月4日 歩兵第89連隊の攻撃要領図 1 本攻撃図は歩兵第89連隊第1大隊第1機関銃中隊 藤江中尉が作成した攻撃要領図を筆者が現在の地図に転記したものである。 2 藤江中尉の図では攻撃開始線(5月4日0500)の位置は一本北側の川となっているが、この川は当時にはなく、小波津川は上記地図の位置が正しいため 筆者が修正した。 3 棚原の米軍戦車の位置は藤江中尉はもう少し右に記入していたが、第9中隊もこの戦車部隊に攻撃されたことからすれば、筆者の記入した位置でなければ射撃できない (現地調査の結果) ため筆者の判断で当地図の位置に修正した。 4 第1大隊は地図上では運玉森付近から北上しているように記載しているが、実際はその主力は小波津地区で米軍と接触したまま攻勢移転となっている。 5月4日(攻勢移転) 攻勢移転における歩兵第89連隊(第24師団主力)は 「第一線をもって棚原北東側に進出せば、各々同地付近に対戦車陣地を編成し、敵の反撃に備えると共に一部をもってまず北上原付近及び北上原西方1km付近の各交通要点を確保して爾後の突進を準備し、同時に斬込隊を更に敵中に投入し普天間東西の線以南の有利なる目標を攻撃」 とした。 右突進隊である歩兵第89連隊は4月30日以来、小波津の陣地において激戦中で、運玉森に配置された第3大隊(和田大隊)も4月30日以来、我謝付近に進出して来た米軍と小戦闘を交えている。 ![]() 第3大隊(長 和田博大尉) 配属部隊 独立機関銃第3大隊第3中隊、独立速射砲第23中隊の1個小隊 小波津川の線に0300までに攻撃準備を完整、0500攻撃前進し、101.3高地を奪取して155.2高地に進出する ![]() 第1大隊(長 丸地軍治大尉) 配属部隊 独立速射砲第23中隊の1個小隊 現陣地付近で攻撃準備を完整、0500攻撃前進し、呉屋北側高地を突破して156.8高地付近に進出する。 ![]() 第二線攻撃部隊 第2大隊(長 深見八千代大尉) 第一線大隊上原高地に進出後、第一線を超越して南上原方向へ突進を準備する。 連隊砲中隊 桃原付近に陣地占領 第一線大隊に協力 速射砲中隊 安室付近に陣地占領 第一線大隊に協力 ![]() ![]() 5月4日の総攻撃(第11中隊第3小隊長見習士官 山之上 昇) 5月4日午前3時、小波津川の線に集結し、未だ夜が明けきらぬ中を進撃した。私は右小隊長として進撃。小那覇部落前の川の付近で敵の迫撃砲射撃を受けたが、私の小隊に戦死者はなかった。 0600頃、私は先頭を切って第1分隊の14名のみを率い小那覇の部落に入り、部落の外れの内間に通ずる道路に出た。このとき私は自動小銃の弾丸を左足に受け、当番兵が小那覇外れの家に収容してくれた。出血がひどく布団の上に1時間くらい寝ていた。小隊のことが気になるので当番兵と家から這い出し、さとうきび畑に入り移動したが、その度にライフルの射撃を受けたが、米軍がどこにいるのか全く不明であった。 1000頃、米戦艦・巡洋艦の水上偵察機が我等のおる小那覇の西側を50mくらいの高度で偵察していた。第3大隊の主力は小那覇西側にいることをこれにより察知したが、他のことは一切わからなかった。私の小隊付軍曹が指揮を執って内間に向かったものと考えられた。 1200頃、小那覇の元の家に戻り様子を窺っていたが、その後迫撃砲の射撃はなかった。 5月5日も小那覇にいた。通りがかりの兵より第3大隊の全滅を知り、51.9高地に帰れとの命令を聞いた。当番兵と後退中、軽迫撃砲12発の砲撃をうけ、さらに臀部、左足を負傷した。 5月4日の総攻撃により第11中隊は小波津の台地の登り口付近の掛保久部落で全滅。中隊長清岡中尉は腹部に重傷を負い拳銃にて自決されたと聞く。 ![]() このようにして歩兵第89連隊の攻撃は、一時左第一線第1大隊が棚原南東台上(沖縄キリスト教学院大)に進出したが、4日夕刻には両大隊共全滅的打撃を受け、攻撃は失敗した。 ![]() ![]() ![]() 丸地大隊長の最期(歩兵第89連隊史より抜粋) 5月4日、払暁を期して前進を開始する予定が大隊長の命令により、それより早く突撃を開始。撃っては進み、突いては進み、敵中を突破したが、夜明けと共に敵の弾幕は物凄く、前進することも出来ず全く釘付けとなってしまった。 時が経つに従い、敵の攻撃は激しくなるばかり。飛行機や戦車の攻撃目標になることは必至。作戦計画では援護射撃の重砲と共に煙幕による隠蔽がなされる予定であったが、煙幕の展開が全く行われず、裸同然に敵中に置かれる結果となってしまった。大隊長は連隊本部に戦況の報告に行くよう、また煙幕展開が速やかになされるよう、援護射撃が如何になっているか、伝令を走らせた。 敵の弾幕はますます激しく、釘付けが続いた。丸地大隊は戦死者が続出した。報告のため大隊長の所在する位置に進出。しかし大隊長は腹部に数発の弾丸を受け、苦しい身を起こし 「御苦労であった。俺はこれ以上指揮を執れなくて残念だ。一人でも生き残り、この状況を本部に連絡してくれ。俺は先に行く」 と言い、自爆したのであった。 日本軍の攻勢転移(米軍側資料) 5月3日から4日にかけて第7師団の戦線に受けた砲撃はそれまでの太平洋戦争中に経験したことのないものであった。日本軍はあらゆる火器を使用して一晩に五千発以上の砲弾を撃ち込んで来た。 暗がりを利用して日本軍地上部隊は米軍の最前線に向かって接近し、0500の赤色の吊光弾を合図に攻撃を開始した。敵の砲撃が激しさを増すにつれ、翁長北側高地を占領していた第17連隊A中隊は稜線上から後退してこれを避けざるを得なかった。A中隊はこの砲撃が終了するまでは日本軍地上部隊の進撃はないと踏んでいたが、日本軍はこの砲撃に皮接して進撃を開始した。そのうち軽機を携えた日本兵数名が稜線を越えて現れた。日本兵は少人数のグループに別れて稜線を越えて来た。すぐに中隊全体が戦闘状態に陥ったが、日本兵は3挺の軽機関銃、迫撃砲4門と弾薬などを遺棄して後退した。 他の場所では日本軍の奇襲攻撃が成功しつつあった。翁長から東へ約1kmの台上には第184連隊I中隊がいたが、その場所に日本兵が駆け上がってきた。あまりに早い進撃に2つの重機関銃陣地がその場所から撤退。そのひとつは機関銃を置いたままにしていたため、日本兵がそれを奪い、中隊に対して掃射をはじめた。稜線上にいた中隊長は残余の機関銃を指向してこれに対応した。その後1〜2時間にわたって日本軍は次から次に稜線を駆け上ってきたが、結局それより先には進むことができなかった。 夜明けまでに東部の日本軍の攻撃の概要が判明してきた。第184連隊正面を攻撃した日本軍歩兵第89連隊は「援護射撃下に敵に接近せよ」と指示して運玉森東側から出撃、平野部を匍匐し翁長の東側にあるY字型の稜線付近で陣形を整えた。敵は小波津地区に展開していた第184連隊3個中隊をかいくぐり、幸地地区の第17連隊の第一線大隊に向かおうとしていた。また第7師団正面に対しては日本軍の主力部隊が小那覇地区の高地帯に突入した。 ![]() 第184連隊第3大隊は200名からなる日本軍の攻撃を撃退したが、この部隊は廃墟となった小那覇集落に撤退して迫撃砲射撃を準備した。射距離は250m内外であった。これに対しては第32連隊第3大隊が集中射撃を加えた。日本軍は沈黙したかに見えたが、直後に開けた場所に日本軍将校が軍刀を振りかざして部隊を集結させている様子が確認できた。これに対しても頃合いを見て迫撃砲射撃を集中させて撃退した。日本軍将校は4度にわたって部隊を集結させようとしたが、その都度撃退され、最後にはその将校も戦死した。 0800までに第7師団の第一線では日本軍をある程度撃退した。しかし日本軍は攻撃を諦めなかった。おそらくは最後の一兵まで戦えと命じられているのだろう。彼らの失敗の原因は開豁した平野部から攻撃を開始したことにあった。まさに米軍の格好の餌食であった。今や日本軍は攻撃前進も出来ず、組織だって撤退することも出来なくなった。彼らの撤退経路は重火器で完全に遮断した。もはや打ちのめされたアヒルのようにアメリカ軍のまえに横たわっていた。 ![]() 5月5日(攻撃再行と中止) 歩兵第89連隊は4日夜全滅に瀕した両第一線大隊の収拾に手一杯の状況で、4日未明運玉森に到着した第2大隊(深見大隊)だけがすぐに使用できる兵力であった。しかし深見大隊を直ちに第一線突破大隊として使用するには準備が極めて不十分であり、小波津西側高地に侵入している米軍に対する防御に使用する状態となった。 5日1800の攻勢中止命令により、歩兵第89連隊長は第2大隊をもって連隊全正面の防御を担当させ、第1・第3大隊を運玉森南西側地区に撤収させて部隊の整理を行った。第1・第3大隊の健在者は各中隊10名内外で、将校は数名に過ぎなかった。軍及び師団から補充要員を受け、5月10日頃両大隊は再編成された。 歩兵第89連隊第1大隊長の後任として第24師団兵器勤務隊長田中信造大尉、第3大隊長後任として歩兵第89連隊副官佐藤長丸大尉が臨時に補職された。 |
当初沖縄第32軍は大本営直轄部隊であった。ところがその後、西部軍や第十方面軍隷下となった。直轄部隊であるというプライドと現場にない司令部(九州や台湾)に対し、沖縄第32軍は必ずしも従順ではなかった。 八原大佐が指導をしたのは歩兵第22連隊であった。しかしながら、その指導内容は現在から見れば至極当然なものであった。 牛島司令官が八原高級参謀を叱責したのは後にも先にもこの一度であったという。八原高級参謀は戦果拡張部隊である独立混成第44旅団の位置について、攻勢移転が失敗することを前提に計画(現陣地から動かさない)したが、これに対して長参謀長などは直ぐに投入できる位置に動かすよう意見したことによる。 逆上陸部隊は結局ほぼ全滅となった。 歩兵第22連隊は4月10日より第一線で戦闘を継続してきたために戦力は低下し、大規模な攻勢をとることは不可能であった。 歩兵第32連隊は第1大隊が攻勢に加わる予定であったが、連隊と第24師団間の米軍進出状況の解明が統一を欠き、第1大隊(伊東大隊)は4日にはほとんど動けない状況であった。 平地部からの攻撃開始については、敵が頭を上げることの出来ない程の集中射撃、大規模な煙幕の使用、そして奇襲が要訣となるが、日本軍はその全ての面において満足し得る要因を持たなかった。 第3大隊は4月30日以来、我謝地区で米軍と戦闘を交えたが、最も戦力健在の大隊であった。 第1大隊は4月30日以来、小波津において激戦中で損害が非常に大きくしかも米軍と接触中の中から攻勢移転を行った。 第2大隊は2日まで歩兵第32連隊に配属されており、前田高地南側の120高地の奪還攻撃に失敗したところで歩兵第89連隊に復帰した。事実上即応できる状態ではなかったと思われる。 写真から見ても、第3大隊は攻撃開始から常に米軍に見下ろされていたことがわかる。 本来ならば、攻撃開始までは味方部隊に近い所に砲弾を落下させ、攻撃開始とともに遠方へ砲弾を落下させる。ところが射距離測定の誤りか、味方である第1大隊の頭上に砲弾を落下させるという最悪のシナリオからの攻撃開始となっている。 この平野部から味方砲兵の支援射撃も受けられないまま、米軍の弾雨の中を山上に走るしかなかった将兵の気持ちは如何ばかりであっただろうか。 沖縄キリスト教学院大が一番高い所にあるように見えるが、実際は以下の写真でもわかるとおり、ひとつ谷があって目標の棚原高地や南上原高地(琉球大学医学部や157高地)がある。 米軍は棚原高地に戦車部隊を前進させ、沖縄キリスト教学院大の丘を越えてきた日本軍を攻撃した。左側方から戦車の攻撃を受け、正面の南上原高地からは機関銃・小銃・迫撃砲、そして航空攻撃まで受け、日本軍は前進も後退も出来ない状況に陥った。 沖縄第32軍司令部は5月4日1100の電報で、右突進隊(歩兵第89連隊)の攻撃が成功しつつあることを打電し、司令部内でも攻撃成功の確信を持っていた。 しかしながら、昼前にはすでに第1大隊・第3大隊とも全滅の危機に瀕していたのである。 第17連隊A中隊と交戦したのは歩兵第89連隊第1大隊第1中隊である。 第184連隊 I 中隊と交戦したのは歩兵第89連隊第3大隊第9中隊である。 第184連隊第1大隊A中隊は、前日まで歩兵第89連隊第1大隊(丸地大隊)と交戦状態にあった。 第184連隊第3大隊が撃退した200名というのは歩兵第89連隊第3大隊第9中隊であろう。第9中隊は一部が沖縄キリスト教学院大東側に進出していることから、攻撃途中で部隊が分散したことがわかる。 各中隊10名程度の健在者では、ほぼ全滅と称して間違いない。ちなみに歩兵中隊の定数は179名である。 |