我如古・西原高地の戦闘 (がねこ・にしはらこうちのせんとう)                                            2009年作成

我如古・西原高地の戦闘

 我如古・西原高地の戦闘は、独立歩兵第14大隊が担任した。 その戦闘の特徴は、日本軍第一線陣地(主陣地)の中央部に位置していたために、両翼に隣接する部隊があり、常にそれらの動向を見極めつつ戦闘を継続せざるを得なかったところにある。 つまり、たとえ苦しくとも隣接部隊のことを考えると簡単には撤退出来ず、仮に撤退するにしても乏しい通信事情の中で隣接部隊との連携をとらなければならなかったのである。 実際には通信手段など無く、とれる手段は 「死守」のみであった。
 この西原高地は、西側に隣接する 「嘉数高地」 と同じ並びにあり、「嘉数高地」 との相互支援によって米軍の攻撃をことごとく退け、4月6日から23日の間、西原地区を確保し続けた。記録に残る激戦と言われる 「嘉数高地」の戦闘は、実にこの西原高地の戦闘によって成り立ったと言っても過言ではない。
 しかしながら、西原高地前面にある比屋良川は、嘉数高地前面の状況とは異なり、大きな障害ではない。これをカバーしたのが我如古の日本軍陣地であった。実際に西原高地に米軍が辿り着いたのは4月19日で、それまでは我如古東側高地・我如古南西側高地の部隊が米軍の接近を防いだのである。 他の戦闘と比して取り上げられることはないが、僅か2個中隊程度でさしたる地形障害もないこの小さな丘で、約2週間を戦い抜いたのである。




日本軍の編成
  
 独立歩兵第14大隊
(5個歩兵+1個機関銃中隊編成で総員1233名)  大隊長 : 内山 幸夫大尉
      
第1中隊は161.8高地の戦闘で残存約30名であり、実質上戦闘力はない。
       第5中隊は南上原地区で交戦中であり、西原高地の戦闘時は不在である。
       機関銃中隊は142高地で交戦中であるが、19日夜に西原地区へ後退。 (生存者記録では後退は24日以降となっている) 

        配属部隊 :  師団工兵の一部、 (仮編迫撃砲第2大隊)
                 
* 仮編迫撃砲第2大隊は実際上、独立歩兵第12大隊への配属であったと推定する。  
       協力部隊 :  第14機関銃大隊本部、同第2中隊、独立速射砲第22大隊本部及び大隊の一部
       砲兵支援 :  独立重砲兵第100大隊、野戦重砲兵第1連隊、野戦重砲兵第23連隊、独立臼砲第1連隊1個中隊
                
 * 砲兵の支援は全般支援の中の一部が充当されており、独立歩兵第14大隊のみの支援ではない。

西原高地の地形変遷
    
  
   大正末期に作成され、日本軍が戦時に使用した地図                国土地理院2万5千分の一地勢図(平成17年)
 戦時は集落を除けば、水田と畑地であった。米軍にとって嘉数高地・西原高地とも平地部に忽然とそびえる壁のような障害に感じたであろう。 現在、我如古東側高地・我如古南側高地を国道が貫き、143高地は削られて住宅団地に、「GATE」付近は沖縄自動車道が走り、戦時の面影はほとんどなくなった。 





4月6日

 
日本軍第一線陣地の右翼(東側)に位置する独立歩兵第14大隊正面は戦車を伴う有力な米軍の猛攻を受け、大隊左翼の第4中隊陣地は突破され、第4中隊と大隊本部との連絡は絶えた。尚、この日161.8高地も米軍の占領するところとなった。

 
4月6日から8日には第382連隊が宜野湾街道の東側をゆっくりと前進した。日本軍は我如古北側及び西側の高地で頑強に抵抗し、ツームストンリッジとその南西の西原高地からも猛烈な射撃を加えて来た。南進する米軍部隊はあらゆる種類の火器から狙われたのである。手探りの状態で少しづつ前進したが、犠牲者が増えるばかりであった。4月8日夜までに連隊はようやくツームストンリッジの前面に展開を完了した。






4月7日

 独立歩兵第14大隊正面においては、左第4中隊は6日以来主陣地内に敵が侵入し混戦状態を続け、陣地は分断されながらも我如古北東側高地、120m閉鎖曲線高地(棚原北東2km)拠点によって奮戦した。大隊本部との連絡は絶え、大隊本部も状況が把握出来なかった。右第5中隊の北上原陣地(161.8高地南西1.5km)では戦車約15両を伴う米軍の攻撃に対し、巧みに歩戦分離を図り、戦車3両を破壊し、2回にわたって米軍を撃退したが遂に同地は占領された。
 歩兵第63旅団長は独立歩兵第14大隊正面の戦況が急を告げたため、幸地付近にある独立歩兵第12大隊第4中隊を独立歩兵第14大隊長の指揮下に入れ、155高地付近の陣地を強化させた。
        
                                                 4月7日の日米戦況概図 
沖縄国際大学付近の陣地は独立歩兵第14大隊と13大隊の境界部にあったが、この日には米軍に突破されている。 尚、日本軍側の陣地に関しては正確な記録が無く、独立歩兵第13大隊が西原地区も担任していた昭和20年2月頃の記録を元に作成した




4月8日

 4月8日朝から、宇地泊〜嘉数〜我如古〜南上原〜和宇慶のわが陣地は全線にわたって米軍の攻撃を受け激戦が展開された。
 独立歩兵第14大隊正面においては、我如古北側陣地(第4中隊)付近は混戦を続け、我如古東側及び我如古南側高地を保持して米軍の進出を阻止した。



4月9日
 我如古正面においては、攻撃前進した米軍を我如古南東の陣地及び西原高地陣地から有効に阻止した。


 
軍団の中央部を担任する第96師団第382連隊は4月9日から12日にかけて他と同じように殆ど進撃することが出来なかった。第382連隊は4月10日までは東から第3大隊・第1大隊・第2大隊の順で並列に配備していた。西端の第2大隊は5号線 (宜野湾街道) 沿いに攻撃する第383連隊とかろうじて連絡をとっていたが、東端では第7師団第184連隊との間に距離があった。第382連隊正面の地形は複雑であったが、身を守りやすい地形でもあった。敵は我如古南側に北東から南西にかけて走る低い丘「ツームストンリッジ」を西原高地や嘉数高地のように要塞化していた。




4月10日
 我如古正面の米軍は10日に攻撃を再開し、その一部は西原高地北側谷地に進出して来た。
我如古東側高地陣地(第14大隊第2中隊、独立速射砲第22大隊第1中隊等)は正午頃には米軍の馬乗り攻撃を受けるに到った。我が部隊は米軍に対し、急襲火力を加え、逆襲を実施し、臼砲・迫撃砲の有効な支援を得て夕刻までには撃退した。


右の地図は4月10日の戦闘を概略表記したものであるが、米第382連隊第1大隊の戦闘地域だけを拡大して中隊規模まで記載したのが下段の地図である。





 
第382連隊の戦闘は4月10日から始まった。この時西側に位置する第381連隊と第383連隊は嘉数高地攻略に全力を傾注しているところであった。第382連隊は3個大隊を並列にして南西方向に攻撃前進を行った。西側に位置する第2大隊は数百メートル前進して渓谷を越えたが、その直後には正面及び側面から敵の銃撃を受けて停止した。連隊の東側では第3大隊が「ツームストンリッジ」の東にある丘陵のひとつを確保したが、激しい雨と悪視程に敵の激しい反撃が加わって攻撃開始位置まで後退せずを得なかった。



 10日の攻撃で最悪の事態に陥ったのは第382連隊中央部を攻撃前進した第1大隊であった。連隊の攻撃地域全体を見下ろせる 「ツームストンリッジ」 は第1大隊が担当したのだ。0840、A中隊が「ツームストンリッジ」の北端部に取り付いたが、稜線上かのら敵の小銃射撃と激しい砲迫射撃を受けて停止した。これを見て連隊長は我如古西側に位置したB中隊とC中隊を「ツームストンリッジ」の北西から攻撃させた
(地図;下段左)。B中隊もC中隊も全くの静寂の中を稜線上にまで進出したが、その時突然としてあらゆる場所から15分間にわたる敵砲迫の集中射撃が開始された。
 第1大隊は大混乱となった。反対斜面から至近距離で機関銃射撃を受けた。アメリカ兵は携帯火炎放射器で反撃しようとしたが、日本軍も奪い取った火炎放射器で反撃してきた。擲弾筒も稜線付近に着弾し始めた。大隊長は先ほど撤退してきたA中隊をB・C中隊の右側(南西)に向かわせた
(地図:下段右)。だが無駄であった。北東側にいた日本軍の機関銃は射撃方向を変えて射撃してきた。アメリカ軍は絶望的な中にも少しでも前進しようと試みた。1415、大隊長は進展のない戦況を見て撤退を決意した。全将兵は我如古の北側に整然と撤退したが、撤退中も敵の砲弾は落下し続けた。そんな中で誰もが冷静でいられたのは、全員が疲労困憊で言葉を交わすことも出来なかったからであった。 
                

             



4月11日

 我如古付近の米軍の攻撃行動は活発でなかった。

4月12日
 局部的な戦闘は行われたが、米軍の攻撃行動は活発ではなかった。

4月13日〜18日
 米軍は局部的な攻撃を実施したが、我が戦線には大きな変化なく、米軍の攻撃準備が観察された。この間、第62師団は戦線整理に充当した。



4月19日
 19日未明に米軍は牧港付近で渡河し、日本軍第一線陣地帯の最西端部に侵入して来た。
日本軍はこれに対処するため独立歩兵第21大隊を充当するが、強力な米軍に侵入を許し、ここに第一線陣地崩壊の危機が訪れた。

 西原高地、我如古東側高地、142高地、南上原にわたる正面には独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊を基幹とする部隊が防御を担任していた。
 4月19日米軍は0600頃からわが陣地に猛砲撃を加え、0630頃から全正面を攻撃して来た。西原高地は西側及び北側から米軍の猛攻を受け、同地付近所在の独立歩兵第14大隊等が勇戦したが、米軍は逐次西原高地頂上付近近くに進出して来た。予備であった第1中隊を増強し、各大隊本部も近接戦闘を実施し、夕刻までには米軍を撃退して西原高地を確保した。
 我如古南東高地(ツームストンリッジ)の陣地(独立歩兵第14大隊第2中隊の一部)も猛攻を受け、後方及び側方からの我が火力支援を得て勇戦したが、西側斜面は米軍に占領された。
                

 第96師団は左(東)に第382連隊、右(西)に第381連隊を配置して攻撃を行った。第382連隊は「ツームストンリッジ」と棚原高地の奪取を、第381連隊は「西原高地」と更にその背後の浦添丘陵の奪取を命じられた。第381連隊第3大隊は特に「嘉数高地」と「西原高地」の間を通り抜けてその背後を東へ進む計画であった。この第3大隊担任地区に対峙するのは日本軍の独立歩兵第14大隊に配属されて中央部を守備する独立歩兵第12大隊(第1機関銃大隊配属)で、その総員は約1200名とされた。

第382連隊の攻撃 (ツームストンリッジの攻撃)
 第382連隊第2大隊は0640から攻撃を開始し、敵が保持していた一連の小さな丘陵の占領を画策した。しかし左手の「ロッキークラグス」から激しい射撃を受けて犠牲者が増えた。戦車が前進すると道路脇の壕から爆雷を持った肉薄兵が飛び出した。また道路上には戦車の機動を阻止する障害が効果的に配置されていた。敵の抵抗は少なかったものの、計画した800m前進は達成できなかった。
 その頃、西側の第382連隊第1大隊 C 中隊(左)と A 中隊(右)はほとんど抵抗を受けることなく「ツームストンリッジ」(名前のとおり墓地が集中してる)の北端を挟み撃ちする形で前進を開始した。高さは約25mで南北に約1kmほどの細長い丘陵であるが、その地区では目立つ地形であった。A中隊・C中隊が日本軍の陣地付近に近づいた瞬間に静寂が破られた。C中隊は機関銃と迫撃砲射撃によって丘陵の東側に足止めされ、A中隊は手榴弾によって丘陵の西側で停止した。 1200頃、A中隊の一部が西斜面から丘陵の頂上部に対して攻撃を仕掛けたが、頂上部に止まることも反対側の斜面に駆け下ることも出来なくなった。中隊長は頂上部付近で戦死した。この攻撃中にも戦車が敵の対戦車火器から射撃を受けて撃破された。夕刻までに第1大隊は「ツームストンリッジ」の北西突出部とその西斜面にかろうじて取り付いた。「ツームストンリッジ」の奥まで進んだ訳ではないが、そこには地下で結ばれ、どちら側にも移動できる相互支援可能な強力な陣地が隠されていることは明白であった。
      
                  当時と現在の航空写真(米軍側から日本軍側、つまり北から南を見た写真)
「Tombstone Ridge」(我如古東側高地)が削られて国道が走っていることがわかる。中部商業高校校舎群はその稜線部にあたり、双方の白い三角点が最高度点(日本軍第2中隊陣地附近)である。米第382連隊第1大隊の軍の攻撃方向は上記地図を参考のこと。


第381連隊の攻撃 (西原高地の攻撃)
 「ツームストンリッジ」の南端には渓谷があり、それを隔てて「西原高地」が東西に延びている。この「西原高地」の前面にある渓谷は、嘉数高地前面の渓谷の上流部に当たる。嘉数高地との間には狭い隘路があって、そこを宜野湾〜首里を結ぶ5号線(宜野湾街道)が走っている。
 我如古の北にあった第381連隊第1大隊は我如古の南東から機関銃射撃を受けながらも、集落の西側を通過して前方へ進出した。左のC中隊は「ツームストンリッジ」に近く、そのために真横から撃たれて自由に行動することが出来なかった。釘付けにされる場面も多く、1045からは発射音が聞こえる至近距離から擲弾筒の攻撃を受け始めた。大隊の一部が「西原高地」の北側に辿り着いたが、結局夕刻には撤退することになった。
 
 第381連隊第3大隊は、渓谷の南側の土手で第1大隊の進出を35分間待ったが、結局第1大隊は現れなかった。そのため第3大隊は単独で攻撃に移行した。左にK中隊、右に I 中隊を配置した。両中隊が土手を上って前方へ移動を開始するや、K中隊に対して、そこらじゅうの墓地や壕から機関銃や擲弾筒射撃を受けた。ある分隊は敵の陣地に近づいて5名の日本兵を殺害して機関銃や擲弾筒を破壊したが、その直後から第2波・第3波の波状攻撃を受けて5名が戦死、2名が負傷した。そんな激戦の中、0830に2個小隊が西原集落を真下に見下ろす稜線上に辿り着いた。しかし進撃もここまでであった。その後は前方に迫撃砲弾や手榴弾で構成された弾幕が形成され、左右からは機関銃射撃を浴びた。生存者は這って稜線から後方へ下がり、そこで穴を掘って救援部隊を持った。K中隊はその日だけで2度指揮官が交代した。一人目は戦死、二人目は負傷して現在は3人目であった。

 右の I 中隊の先頭を前進した3名は 「西原高地」 前面の低い円丘を越えようとしたときに、射撃を受けて戦死した。敵の機関銃射撃は「西原高地」の西端正面からと、5号線(宜野湾街道)の向こう側の 「嘉数リッジ」 から撃ち込まれた。敵に姿を見られることは、戦死か負傷を意味した。その場所は第96師団と第27師団の境界線付近であり、西原高地と嘉数高地の間の隘路を走る5号線の少し西側にその境界線があった。第381連隊第3大隊長は朝の失敗をくり返さないためにも、第27師団の左翼部隊との調整の必要性を痛感していた。彼は隣接する第27師団第105連隊のC中隊長の所へ出向き、連隊長の許可した戦車5両を含んだ協同攻撃を協議した。だが105連隊側が嘉数高地攻略のために西方向へ攻撃準備に取りかかっていることを理由に実行には到らなかった。昼になっても嘉数地区の攻撃が進展しないのを見て、第3大隊は撤退を決定した。撤退に先だって5両の戦車が隘路付近に進出したが、すぐさま西原高地の先端部から肉薄攻撃を受けて1両が破壊された。
 予備であったL中隊が第1大隊と第3大隊のギャップを埋めるために前方へ移動することになった。この移動は敵の射撃目標となったが、何とか渓谷に辿り着いて掩体を構築した。そこから撤退してくる部隊の掩護を行ったが、擲弾が降り注いで何人かが生き埋めになった。この日、「西原高地」正面の第381連隊には約2200発の迫撃砲弾が落下した。1700までに第3大隊は戦死者16名を含む85名が死傷している。

第3中隊は独立歩兵第14大隊中「最優秀」であると言われていた。それは中隊長千葉中尉の人格・指導統率のなせるもので、「うちの中隊長となら死んでもいい」 と部下将兵が常に口にしていたくらい慕われていた。 第3中隊は「棚原高地」に居たのであるが、事態の悪化と共に、大隊長の命により我如古にて苦戦を続ける第4中隊救護のため、中隊長は部下精鋭を引っさげて戦火の荒れ狂う我如古に赴いた。この時の千葉隊長の目に映じた新戦場はおそらく想像以上のものがあったことであろう。彼はその時 「よき死に場所を見つけた」 と部下に言った。  千葉中尉は自ら先頭に立ち敵弾の降りしきる中を抜刀して突進した。間もなく中隊長は蜂の巣の様になって戦死した。中隊幹部は同じように次々に斃れていった。 「中隊長を渡すな」 と部下は肉迫したが、残念ながらその目的を達せずして無念の叫びと共に敵弾に倒れねばならなかった。 
     


4月20日
 西原高地は20日早朝から米軍の攻撃を受けた。これに対し我が迫撃砲、機関銃、臼砲の支援を得て米軍に多大の損害を与えたが、米軍は高地頂上北側に進出し、西原陣地の我が部隊と至近距離で相対した。我如古南東側高地のわが陣地は昨19日西半部を米軍に占領されたため、20日早朝奪回攻撃を行ったが失敗した。その後、同高地は遂に米軍に占領された。
                                   

第382連隊の攻撃

 
4月20日早朝、第382連隊第1大隊は前日確保したはずの「ツームストンリッジ」で日本軍の逆襲を受けていたために、代わって第3大隊が0730から「ツームストンリッジ」の北端から南進を開始した。L 中隊は「ツームストンリッジ」の南端の少し東側にある樹木のある小さな丘の所で前進が停止し、そこで午後一杯も激しい戦闘を交えることとなった。日本軍は強固に保持していたが、最後には擲弾筒射撃の最中に着剣してL 中隊に襲いかかってきた。L中隊は32名の死傷者を生じながら1700に撤退した。次の日もこの日本軍の陣地は「西原高地」に対する作戦を妨害した。一方、I 中隊は「ツームストンリッジ」上を南進して敵の壕や墓地を駆逐しながら南端に到達、そこからL中隊に対して援護射撃を実施した。しかしL中隊正面の日本軍陣地によって第3大隊は「ツームストンリッジ」と「西原高地」の間の渓谷を越えることが出来なかった。
   

第381連隊の攻撃

 第381連隊第1大隊は「ツームストンリッジ」の南端部で、第382連隊第3大隊と並列の形になり、1100から攻撃準備射撃なしで進撃を開始した。この攻撃は日本軍に対して奇襲の形となり、第1大隊A中隊とB中隊は1125には「西原高地」の稜線にまで到達することが出来た。 だが第382連隊第3大隊が「ツームストンリッジ」南の渓谷を通過して前進することが出来なかったために、第381連隊第1大隊は左翼を敵に晒すこととなった。C中隊にこの左翼を掩護するよう命令が下達されたが、渓谷を渡る3時間半の間、敵の激しい攻撃を受け多数の死傷者を生じた。しかしならが1600には「西原高地」上のA中隊の左側に進出して並列となった。午後の戦闘でA中隊長が戦死、高地北側斜面で3個中隊を4名の将校が指揮することになった。
 第381連隊第2大隊は、第1大隊が 「西原高地」 に到達したことを受けて1300から攻撃を開始し、第1大隊の右側に進出することを命じた。だが「嘉数高地」頂上付近の日本軍火器はこの攻撃を予期していたために、一番嘉数側にいた小隊は「西原高地」まで約250m付近で攻撃を受けて戦闘力が半分にまで低下した。
    
 第381連隊第3大隊は師団担任地区の右側地区、つまり嘉数と西原の鞍部で動きが取れなくなっていた。
 「西原高地」地区には終日臼砲射撃が繰り返され、その一弾が381連隊第2大隊E中隊のど真ん中に落下、4名が戦死、6名が負傷した。第2大隊は右翼を嘉数からの激しい射撃に晒され、加えて迫撃砲の集中射撃を受けたが、E中隊とG中隊は何とか進出してその場を確保した。

 この日、熾烈な敵の臼砲・迫撃砲・擲弾筒射撃に加えて止むことのない機関銃射撃などによってアメリカ軍側に多くの戦闘疲労(精神障害)者が生じた。4月20日の戦闘では第96師団・第27師団の死傷者数は沖縄戦の期間で唯一日本軍のその数を上回ったと思われる。
 「西原高地」への機動は困難であった。第96師団左翼では「ロッキークラッグズ」が第382連隊第2大隊を制して、その行動や偵察を阻んでいた。師団右翼では第27師団の行動地域内にある「嘉数リッジ」の頂上部からの射撃によって第381連隊第3大隊は身動きできない状況であった。これでは中央部に攻撃重点を置くしかなかった。実際に20日の攻撃では「西原高地」の西側で一部攻撃が進展したことからもわかる。後はこの地点から戦果を拡張して「西原高地」稜線を東に進むのが最も適切な方策だと考えられた。



4月21日
 西原高地は昨20日頂上北側に進出した米軍と早朝から近接戦闘を展開し、一時頂上付近を米軍に占領されたが善戦して撃退した。棚原北側高地に来攻した米軍に対し3次にわたり昼間逆襲を決行し、その攻撃を阻止した。
                                    
第382連隊の攻撃
 
4月21日0720、第382連隊第1大隊は「ツームストンリッジ」の南端で第382連隊第3大隊と交代した。第382連隊第3大隊は一旦後方へ向かい、西側へ大きく迂回して第381連隊地区を通り抜けて「西原高地」に辿り着いた。第381連隊第1大隊C中隊(嘉数地区の一番東側を攻撃中)の左に進出し、ここから第3大隊は東に向かって攻撃を開始した。1245までは順調に地歩を獲得していたが、ここで日本軍の逆襲に遭遇した。最初の小隊規模の逆襲は撃退したが、続く1330の西原集落からの中隊規模の逆襲に対しては苦しい近接戦闘に陥った。大隊長は中隊から中隊へと飛び回り、必死に部下の指揮を鼓舞した。M中隊の重機関銃が急な北側斜面を登り切り、背後から友軍の攻撃を掩護した。だが大隊は完全に混戦状態に陥った。I 中隊の武器小隊長は稜線から少し下ったところで友軍の迫撃砲弾の直撃を受けて戦死した。別の場所では迫撃砲の角度を86度に設定し、わずか30m前方の日本軍擲弾筒陣地を攻撃した。それほどまでに彼我混戦となっていたのである。この日本軍の逆襲で約150名の日本兵を殺害した。3回目の逆襲は西原集落の南約400mにある143高地から行われたが、これは簡単に撃退できた。
 第383連隊第3大隊が第382連隊第3大隊の左側に進出して日本軍の逆襲阻止を図ろうとしたが、秘匿された機関銃や迫撃砲によって渓谷付近で進出が阻止されていた。

第381連隊の攻撃
 師団の中央部右側を攻撃する第381連隊第1大隊と第2大隊は21日0630から連係を取りながら前進を開始、西原集落の占領を目指した。第1大隊が左(東)、第2大隊が右(西)の並列であった。「西原高地」の斜面があまりにも急であり、戦車部隊との連係が取りにくいことから歩兵単独の行動となった。第1大隊と第2大隊E中隊が「西原高地」の稜線にたどり着いたが、そこで激しい敵の射撃を受けて停止した。両大隊の一番右にあったG中隊だけが西原集落の南西端に達したが、ここで嵐のような迫撃砲射撃を浴び、さらに左右前方から敵の急襲を受けた。この戦闘の最中にG中隊に配属されていた重機関銃は脚を外して手で持ち上げ、、まるで軽機関銃のようにして集落の石壁を射撃した。だがG中隊は嘉数高地の頂上付近及び「西原高地」の南斜面から機関銃の十字砲火を浴びた。1400、煙幕が張られる中を大隊は稜線を再び越えて撤退した。この際、ポンチョなどを利用して戦死者や負傷者を収容した。この日も「西原高地」南斜面と西原集落は依然敵の手中にあった。
 この日までに第382連隊の戦闘力は50%まで低下したため、4月22日には第383連隊と交代することになった。ただし第382連隊第2大隊は前日までほとんど損害を受けていなかったため、第383連隊に配属されることになった。
   
 
写真左 : 米軍公刊戦史中の写真。「4月21日第382連隊第3大隊」と説明がある。であれば西原高地上には第381連隊第1連隊がいるはずだ。
 写真右 : 同じ場所から撮影した現在の写真。一面の水田は住宅地に変わった。当時の写真中央に流れる比屋良川は今も同じ場所を流れる。



4月22日
 西原高地においては22日依然として頂上付近至近距離で米軍と戦闘を交え、敢闘して米軍の進出を阻止した。この日、西原高地と棚原高地の中間の鞍部(ゲート)に対する米軍の攻撃が活発であったが、隣接友軍陣地からの側射火力に支援され鞍部の陣地を確保した。

4月22日。第383連隊は「西原高地」に連なる「ゲート」に向かって進撃することになった。「ゲート」の左はそのまま棚原高地に続いている。右に位置する第383連隊第2大隊は1100に一度「西原高地」から下って「ゲート」に向かった。前日激しい戦闘が行われた「西原集落」はE中隊が難なく占領し、G中隊は143高地を望む高台を確保した。F中隊は稜線を越えて南斜面に出ようとしたところで激しい砲撃を受けて、わずか30分の間に中隊の指揮官クラス4名を失った。
 「ゲート」の左に位置する第3大隊はほとんど地歩を拡張することは出来なかった。小さな丘の横にいたL中隊長を含む10名の将兵の大半が負傷した。さらに左にいたI 中隊は棚原高地に配備されていた10挺の敵機関銃から猛烈な射撃を受け、この戦火から逃れようと徹底命令を発する以前にほとんどの小隊長が戦死した。軽戦車部隊が渓谷まで進出して来たものの、渡河することができなかったため、その場から何千という機関銃弾を撃ち込んだがほとんど成果は上がらなかった。
   



4月23日
 西原及び棚原の高地帯においては23日激戦が続き、我が部隊の戦力が極端に低下していたが、勇戦して辛うじてその陣地を保持した。

4月23日、装甲ドーザーが進出し渓谷を渡る準備を行った。第763戦車大隊B中隊の中戦車がこれを渡河して直撃弾射撃を受ける中を棚原高地目指して突進した。火焔戦車もこの攻撃に加わり棚原高地の北斜面から「ゲート」の西側に至るまでの間を焼き尽くした。戦車や火焔戦車の活躍に比して、歩兵部隊の進出が限定的であった。日本軍は高台の拠点を守り抜き、手榴弾や爆雷で反撃を行った。23日午後になって西原〜棚原の敵防御ラインはほとんど潰滅したと思われた。4個歩兵大隊が稜線を確保していたが、残りの棚原高地と嘉数に接する「西原高地」の西端の一部だけが確保できなかった。この二カ所は翌日に日本軍が撤退したために何の問題もなく確保することが出来た。 
  


 
4月23日、敵は間近に迫っていた。自動小銃の音が豆をいる様に聞こえてくる。私達は最初からこの洞窟と運命を共にする覚悟で死刑囚が刑の執行を待つ様な心境でいた。23日の夜は最後のタコツボを掘った。何かしら悲愴なそうして無気味な空気が洞窟内に漂っていた。私達の顔はこわばって無理に笑おうとしても笑うことが出来ないほど、迫り来る死の現実のために緊張し体中の血の騒ぐのを抑える事が出来なかった。
    「独立歩兵第14大隊 大隊本部 衛生下士官 大西氏の手記より」






4月24日

 日本軍はこれまで第一線で奮戦を続けていた第62師団の戦力低下に伴い、第24師団を東第一線に進出させ、第62師団の担任地区を西半分に縮小した。併せて、嘉数、西原、棚原、157高地などから部隊を撤退させた。これに伴い、撤退した地区に米軍が進出して来た。
  

  























戦史叢書では4月7日以降、独立歩兵第14大隊は独立歩兵第12大隊の指揮下におかれたと推定している。 しかし、地勢的な観点や大隊の独立性から、筆者は指揮下に置かれたのは一部の部隊に限られたと推察している。


























戦史叢書には第4中隊と記載しているが、生存者の手記では第4中隊は我如古南西側高地に陣地占領している。我如古北東側陣地はその規模からしても1個中隊を配置するのは戦術上からも妥当性を欠くことから、おそらく第4中隊の一部を我如古北東側陣地に配置して敵の前進を妨害したものと思われる。

尚、161.8高地は第1中隊が防御戦闘を実施した。






独立歩兵第14大隊は、その編成装備から適切と考えられる防御担当正面以上の広大な地域を担当した。この 「我如古・西原高地の戦闘」 には大隊本部・第1中隊・第2中隊・第3中隊・第4中隊が登場するが、第5中隊は北上原地区、機関銃中隊は142高地と、他の戦場で同時に戦闘を実施している。 あまりに広い地域に分散したため、大隊長は各中隊との連絡を保持するのに非常に苦労したようである。


















我如古北側陣地は地形的にも防御戦闘には脆弱なため、第4中隊の一部はむしろ警戒陣地として米軍の接近を妨害したと考えられる。











ツームストンとは墓石という意味であり、現在でも周辺には墓地がひろがっている。日本軍はこの沖縄独特の墓を利用してこの小高い丘陵を要塞化した。







我如古東側高地・我如古南側高地の戦闘を成り立たせたのは、その右側方に位置する 「142高地」 である。 主として機関銃中隊が守備をした142高地は我如古東側高地・我如古南側高地の右翼を掩護して、米軍の進出を徹底して阻止した。
 142高地については、HP中  「142高地の戦闘」 で詳しく記述する。








米第382連隊第2大隊は、正面に地形障害等が無いために、一気に西原高地付近に進出できたが、これ以降は西原高地及び嘉数高地から徹底して射撃を加えられ、この西原高地の戦闘の終結時までほとんど動くことができなかった。






























米軍側には、その行動を秘匿できるような地形はなく、戦闘の終始を通じて日本軍は米軍の行動を常時監視して戦闘の主導権を確保したと考えられる。 米軍側の記録を見る限り、歩兵部隊を支援する砲兵射撃や煙弾の使用はなく、歩兵単独の攻撃であった。












13日未明に日本軍の夜間攻撃が実施されたが、主体は嘉数高地であり、一部西原高地西側地区(嘉数隣接地区)で日本軍が攻勢に転じたものの、この頃の戦闘の中心であった我如古地区では大きな動きはなかった。













地図を見てわかるとおり、全線にわたる米軍の攻撃を、日本軍はすべての地点で撃破している。西原高地及びその西側の嘉数高地においては、まさに日本軍の完勝であった。











この日の米軍の攻撃準備射撃(攻撃開始前に日本軍陣地を破砕する目的での射撃)は太平洋戦争中で最大の射弾量であった。米軍としてはその自信から4月10日とほぼ同じ要領での攻撃を繰り返している。



































写真では第1大隊と第3大隊が同時に進撃しているように見えるが、実際は第1大隊の進撃は計画よりも遅れ、先に第3大隊が西原高地に向かって攻撃を開始している。









他の連隊との境界線に近い部隊が、その連携に苦労するのはよくあることである。 I 中隊(第96師団第381連隊) は道路ひとつ隔てて全く指揮系統の異なる部隊(第27師団第105連隊)という状況で、攻撃の連携に非常に苦労した記述である。 加えて、日本軍は嘉数高地と西原高地の間を走る宜野湾街道に集中的に火力を配置していたために、I 中隊は全く身動きがとれない状況に陥った。

同時刻に宜野湾街道上を戦車30両が突進しているが、当然I 中隊との連携などはなく、米軍は自ら戦車と歩兵の連携した攻撃を放棄し、それぞれが大きな損害を受ける結果となった。




第3中隊の夜間攻撃は生存者の手記では21日とあるが、21日は我如古地区に進出できる状況ではなく、さらに日本側の公刊戦史からも19日夜から20日朝にかけての攻撃であると判断した。















4月19日に米第382連隊第1大隊が我如古東側高地に取り付いたのが西原高地日本軍陣地の瓦解につながった。 我如古東側高地及び我如古南側高地に米軍が進出したことによって、西原高地正面の米軍(第381連隊第1大隊・第2大隊)は左側面からの攻撃を受けることなく攻撃展開出来るようになったのである。









この地区の守備部隊は第4中隊である。 第4中隊は翌21日にほぼ全滅している状況から、この日の戦いが我如古南側高地における最後の抵抗であった。 尚、中隊長の戦死は22日であり、最後の2日間は馬乗り攻撃を受け、地下に閉塞された戦いであったと思われる。









第382連隊第3大隊の進出が遅れたことで、第381連隊第1大隊が左からの側面射撃を受けるが、上記の第382連隊第3大隊 I 中隊が我如古南側高地の南端部に進出することによって、この弱点は解消された。






















「西原高地の戦闘」 は西から嘉数高地、東から142高地の掩護を受けることで防御戦闘が成り立っていた。そのため掩護が得られない中央部、つまり西原高地前面が弱点であった。 その弱点を補っていたのが我如古東側高地・南側高地であったが、それを失ってからは、その弱点が露呈して米軍の攻撃が中央部に集中するようになった。












米軍の主攻撃が西原集落の東側、つまり 「The Gate」 付近に集中し始めるのが見てとれる。 この地区は戦車も接近できる地形的に脆弱な場所であった。









迫撃砲の射角が90度であれば、撃ち上げた砲弾はそのまま撃った場所に落ちるのである。通常86度の射撃はあまりにも危険で通常では考えられない。












西原高地の斜面は非常に急で、戦車などの登坂は不可能である。現在でも麓から高地頂上に直接伸びる道路はない。












西側の嘉数高地や、東側の142高地などからの側面攻撃を受けにくく、かつ戦車機動も可能な「ゲート」付近に米軍の戦闘力が集中するのは当然の流れであった。



このとき棚原高地に陣地を構えていた日本軍の部隊名の詳細が不明である。当初独立歩兵第14大隊第3中隊が配置されていたが、第3中隊は上記にあるとおり19日〜20日にかけてほぼ全滅している。 4月13日に 「棚原正面増強」 のために独立歩兵第12大隊や歩兵第22連隊第2大隊(17日に原隊へ復帰)が配置されたようであるが、詳細な記録は残されていない。










写真で 「ゲート」 の更に右奥に見える建物や塔が首里である。「ゲート」を突破して初めて米軍は首里を見通すことが出来たはずである。










ついに 「ゲート」 が米軍に奪取された。南側に143高地があるが、日本軍にはそれを陣地として抵抗するだけの戦力がすでになく、第一線部隊の撤退は必至の状況であった。







沖縄自動車道の貫通でゲート付近の地形は一変した。



























写真から、ゲートを突破されて、そこから部隊がなだれ込めば、西原集落も棚原高地も一気に背後から責められることがよくわかる。