義烈空挺隊                                                                          2010年作成

義烈空挺隊の戦闘

1 義烈空挺隊とは
 昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。この米軍基地に対し、強行着陸して飛行機を破壊し、搭乗員を殺傷する目的で、昭和19年12月上旬第1挺進団 (現在のパラシュート部隊) から選抜した空挺特攻隊が編成され、「義烈空挺隊」と称された。
 「義烈空挺隊」とは、第1挺進団第1挺進連隊第4中隊の選抜要員+陸軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
しかし、準備したサイパンには使用されず、次いで硫黄島への進撃も中止となった。最終的には昭和20年5月24日に沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。


 ●義烈空挺隊の編成・装備
  
   義烈空挺隊 隊長 奥山道郎大尉(26才)以下120名
                 (陸軍中野学校出身諜報要員10名を含む)
        指揮班1 小隊5(1個小隊20名の2個分隊編成)
           分隊装備:軽機関銃1・擲弾筒1
          個人装備:機関短銃・小銃・拳銃・手榴弾・爆薬

   ■第3独立飛行隊 隊長 諏訪部忠一大尉(26才)以下32名
        97式重爆撃機2型12機



2 義烈空挺隊概史
 (1) 母体「挺進第1連隊」
    昭和15年12月、陸軍は落下傘部隊を新設することとなり、浜松陸軍飛行学校内に基幹要員を配した「挺進練習部」を創設した。この時の
    教官要員に、後の「義烈空挺隊隊長 奥山中尉(当時)」がいた。昭和16年5月には満州の自城子飛行学校に移駐、しかし冬期の訓練に問
   題があることから、9月には宮崎県の唐瀬原(現在の航空自衛隊新田原基地の北方)に再度移駐し、11月に正式に落下傘部隊である「挺進
   第1連隊」が編成された。(奥山大尉は第4中隊長)
        昭和16年12月8日開戦。 挺進第1連隊は9日に新田原を発ち、門司港から輸送船に乗船して南方へ向かった。しかし1月3日に輸送船
   に火災が発生、海難に遭遇して部隊は戦力を失った。 このため、後世に語り継がれる「パレンバン降下作戦」は、次編成である「挺進第2連
   隊」によって実施されている。
    挺進第1連隊はプノンペンに進出して戦力の回復を図り、ようやく戦力が整ったのは昭和17年2月下旬であった。その後ビルマで空挺作戦
   が企画されるも、降下までには至らず、結局8月に再び宮崎県唐瀬原へ帰還となった。 その後昭和18年7月から再度南方へ移 駐するも、
  守 勢に回った日本軍には空挺部隊を投入する戦機は訪れることなく、昭和19年8月に再び本土へ帰還した。

 (2) 義烈空挺隊創設
    昭和19年6月15日、米軍はサイパン島に上陸を開始し、激闘の末20日後に占領した。サイパン島を確保した米軍は占領直後からB−29
   戦略爆撃機の中心基地として飛行場の拡張に努め、日本本土の空襲を準備した。日本陸軍はこの脅威に対して、陸軍機をもってサイパン島
  を 空襲して米軍基地の壊滅を計画したが、実際は陸軍機は長距離の洋上飛行に熟知していなかった。 そこで陸軍の各飛行学校から優秀な
  搭乗員を選抜し、7月20日に3つの飛行隊を急遽編成した。
     ・ 第2独立飛行隊(浜松陸軍飛行学校)  97重
     ・ 第3独立飛行隊(鉾田陸軍飛行学校)  百式司偵
     ・ 第4独立飛行隊(下志津陸軍飛行学校) 百式司偵
  昭和19年11月2日、第2独立飛行隊9機がサイパン島アスリート飛行場を低空で空襲し一応の成功を納め(帰還機3機・未帰還機5機・故障
  機1機)たため、その後も空襲を継続した。 だが写真偵察の結果からアスリート飛行場は着々と整備され、B−29が多数集結していることが
  判明 し、優秀な搭乗員を失うばかりの空襲では、もはや敵の企図を阻止することは不可能と判断された。
   ここで生まれた発想が「空挺部隊」を敵基地に降下させ一挙に敵を壊滅させるという案であった。
   しかしならが、当時の輸送機の性能上、空挺部隊を降下させた後に基地に帰投することが困難であったため、ならば飛行機を強行着陸させ
  て攻撃しようという計画が生まれた。これが「義烈空挺隊」であった。 昭和19年11月27日、サイパン島アスリート飛行場に強行着陸攻撃実
  施のため搭乗部隊1個中隊を差し出せという命令が発せられた。 この時に選ばれたのが挺進第1連隊第4中隊である。 奥山大尉は中隊か
  ら126名を選抜、12月5日夜に唐瀬原を出発して埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校に向かった。

   一方、昭和19年11月、陸軍中野学校二俣分校で卒業式が行われた。卒業後は各方面へ配属されるが、この中の6名だけが大本営陸軍
  部付(見習士官)の辞令を交付された。 さらに中野学校本校から2名(少尉)及び中野学校出身の通信下士官2名が加わり総員10名となっ
  た。 彼らにはサイパン島強行着陸後に潜入諜報員としての任務が付与され、奥山隊に合流した。

   奥山隊は豊岡で実物大のB−29を使用して爆破訓練を重ねた。 12月中旬には浜松から第3独立飛行隊(指揮官諏訪部大尉)が飛来し
  た。ここに奥山隊・陸軍中野学校10名・第3独立飛行隊による「義烈空挺隊」(義烈空挺隊の名称が使用されるのは12月17日から)の編成
  が完了、12月24日にサイパンへの突入が計画された。 だが、航空軍司令部は第3独立飛行隊の技量に疑問を持ち実施決定を下せなか
  った。 現在と異なり航空援助施設もない長距離洋上飛行を夜間に行うという熟練操縦士でも困難な飛行を、経験の浅い操縦士達に託する
  ことには無理があったと思われる。 決行日は延長されたが、昭和20年1月13日に義烈空挺隊は浜松基地に移駐。 17日には軍装検査
  (出撃直前に行われる装備品等の点検)を終了して待機態勢をとったが、この頃には燃料補給の中継基地である硫黄島が米軍の攻撃で
  使用は困難となり、結局1月27日にサイパン攻撃の中止が指令された。
   
       義烈空挺隊奥山隊 : 写真説明として下部に、奥山大尉 ・ 第1小隊長宇津木中尉 ・ 第3小隊長渡部大尉が記されている

 (3) 硫黄島突入計画
    義烈空挺隊の奥山隊は再度宮崎県唐瀬原に戻り、実爆を行う厳しい訓練を続けた。 昭和20年2月19日、米軍が硫黄島に上陸。この時再
  度義烈空挺隊の投入が計画され、3月8日頃に唐瀬原から茨城県西筑波飛行場に移動となった。奥山大尉は航空軍司令部へ出頭のため
  上京したが、この時に3月10日の東京大空襲に遭遇している。 3月17日、硫黄島の栗林中将が最期の突撃を敢行して硫黄島は米軍の手
  に落ち、このため3月21日に義烈空挺隊の硫黄島攻撃は中止と決定された。 奥山隊は再度宮崎県唐瀬原へ、第3独立飛行隊は浜松基地
  へ戻ることとなった。 米軍の侵攻は沖縄へと向けられた。

 (4) 義烈空挺隊沖縄突入へ
     4月1日に沖縄本島へ上陸した米軍は、直後に北飛行場・中飛行場を制圧した。13日の偵察の結果ではす
    でに150機の敵機が配備されているのが確認された。 この間、陸軍・海軍ともに多くの艦船攻撃機や特攻
  機を出撃させたが、いずれも多大な損害を生じていた。 これは敵のレーダーに捕捉され、北・中飛行場の戦
  闘機 に邀撃されているのが原因と推察された。 そこで台頭したのが両飛行場制圧のために義烈空挺隊の
  投入であった。
     5月2日、義烈空挺隊はそれまでの航空総軍から第6航空軍司へ編入された。5月3日、奥山大尉は第6航
  空 軍司令部から出頭を命ぜられ、そこで北・中飛行場制圧のため義烈空挺隊を投入する考えがあることを伝
  えられた。 この作戦を義号作戦と称した。 だが既に沖縄本島から本土決戦に目を移していた大本営からの
  決裁が下りない。 もはや勝算なしとした沖縄戦に精鋭部隊である義烈空挺隊を投入することを躊躇したもの
  と思われる。 だが、第6航空軍は強く実施を求めた。 そのために5月8日に奥山隊を唐瀬原から、5月19日
  に第3独立飛行隊を浜松から健軍飛行場への移動命令を一方的に発出した。 ついに大本営は5月18日に
  
義号作戦の認可に踏み切った。 当初、第6航空軍司令は、敵情の如何に係わらず、5月22日の出撃を決定したが、21日 に天候判断により
  5月23日に延期された。







第3独立飛行隊が 「義烈空挺隊」 に属するかという点については、飛行場着陸後に搭乗員も戦闘に加入するということで同一部隊とした。




中野学校出身者が空挺隊に加わった理由は、降着後に敵地に潜入して戦果・その後の敵情を収集するための潜入諜報員としての任務遂行であった。 中野学校では「死に急ぐな」「名もなく死ね」という一般将兵とは異なる死生観を薫陶した。









挺進第2連隊は、その後「空の神兵」として、太平洋戦争緒戦時の英雄として持てはやされた。 当初パレンバン降下を計画されていた挺進第1連隊の心中は穏やかならぬものがあったであろう。












第4中隊からの選抜にあたって、妻帯者の部下を選抜したことを奥山大尉は最後まで悔やんだと伝えられる。

卒業式後の赴任先別の分校長への申告に際して、分校長はひとりひとりの手を握り、「名もなく死んでくれ」という言葉を贈っている。

奥山・諏訪部両大尉の初対面の会話は、奥山「どうかね。サイパンまで行けるかね」、諏訪部「全機は無理です」というものであった。推測の長距離洋上飛行の困難性を諏訪部大尉は正直に語ったと思われる。


























またしても中止の命令を受けた義烈空挺隊隊員は、自ら「義烈空挺隊」をもじって 「愚劣食い放題」 と称して自嘲した。



出撃をためらう大本営に対して、第6航空軍司令官は 「義烈空挺隊は特攻に指定されて半年、計画して取りやめになること再三であり、その心情は忍び難い」 として出撃の決裁を求めた。 冷静に考えれば、果たしてこの時点で精鋭部隊を死地に投入することに意義があったのか、多いに疑問の残るところである。

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義号作戦計画抜粋

 1 部隊はx日日没頃、熊本を出発し海上を超低空飛行し、2320頃主力(8機)が北飛行場  (現:読谷飛行場)、一部(4機)が中飛行場(現:嘉手納基地)に強行着陸を行う。
  2 強行着陸後、直ちに所在敵機更に集積軍需品、施設を爆破する。また可能な限り飛行場付近に存在して敵の飛行場使用を妨害する。
  3 第3独立飛行隊隊員は着陸後、義烈空挺隊長奥山大尉の指揮に入る。
  4 諸隊の行動
   (1) 離陸時より薄暮後期まで戦闘隊が掩護
   (2) 重爆隊は、空挺隊の着陸より30分前から北・中飛行場を爆撃。1機が残波岬上空に照明 弾を投下し、空挺隊の変針目標とする。また一部をもって空挺隊の着陸及びその後
   の状況を観察する。
 
     計画では、5月23日に陸軍航空部隊の第8次攻撃・海軍の菊水第7号攻撃に組み入れて実施し、飛行場の制圧を利用して24日に陸海軍航空部隊の総攻撃とされた。そして
  義烈空挺隊の出撃を1800と決定した。
   


義烈空挺隊攻撃計画 (防衛省戦史研究室に保管されているもので、原文はカナ書き)
1 方 針
     隊はX日Y時を期し我爆撃隊主力の制圧爆撃に膚接し、主力を以て北飛行場、一部を以て中飛行場に強行着陸し、一挙に敵
 飛行基地を爆滅す。爾後遊撃戦闘に移行し、敵飛 行基地及び後方を攪乱し全般の作戦を有利ならしむ。

2 攻撃実施
  (1) 第一期攻撃(飛行場並びに周辺地区攻撃)
  ア 戦闘指導要領
  (ア) X日Y時を期し、主力8機を以て中飛行場に強行着陸し、重点を在地敵飛行機並びに軍需品の破壊焼却に置き、併せて
   揚 陸場付近の物資集積所を攻撃し、一挙に敵飛行基地を 攻撃滅す。
  (イ) 北飛行場攻撃隊は強行着陸に膚接の重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及び同地周辺地区の軍需品集
    積所を攻撃す。
  (ウ) 着陸直後、有力なる一部を以て敵司令部及び通信所を急襲し、高級将校及び指揮中枢を崩壊せしむ。
  (エ) 爾後、海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点付近の物資集積所を攻撃す。
  (オ) 中飛行場攻撃隊は、強行着陸に膚接し、重点を在地飛行の破壊に置き、併せて同地周辺地区の物資集積所を攻撃し、
    爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
  (カ) 予定滑走路以外に着陸せる場合においても、速やかに担任地区に至り、任務完遂に努めしむ。
  (キ) 目的達成せば(我爆撃隊の制圧爆撃下)、一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に終結し、第二期
    攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期は(X+1日Y+6時と予定し)青吊を併用す。
  (ク) 3Fs八搭乗機毎に一組となり、各分隊と共に戦闘せしむ。
   イ 部 署
    (ア) 北飛行場攻撃隊
          長 義烈空挺隊長
               指揮班 第1小隊 第2小隊 第5小隊 独立分隊
                  攻撃部署別紙要図第1〜第6の如し
    (イ) 中飛行場攻撃隊
          長 第3小隊長
               第3小隊 第4小隊
                 攻撃部署別紙要図第7〜第9の如し
  (2) 第二期攻撃(遊撃戦)
  ア 戦闘指導要領
  (ア) 220.3高地〜160.0高地東側谷地に遊撃拠点を占領し、有機的攻撃により重点を北・中飛行場に置く。敵飛行場後方攪乱に置き敵の心胆を寒からしめ補給を困難ならしむ。 
    (イ) 拠点占領地域は別紙第下の如し
  (ウ) 攻撃要領
     a 220.3高地〜160.0高地の線、及び越来村北側地区に推進拠点を推進し、北・中飛行場及び物資集積所に対し攻撃す。 
         b 攻撃地区の配当は概ね第一期戦闘に準ずるも、細部は現指示による。
  (エ) 攻撃時期は部隊の集結状況に応じ決定するも、概ねX+3日以降とし、時刻は夜間とす。
  (オ) 攻撃目標は在地飛行機輸送機関、物資集積所とす。
  (カ) 企 秘匿に関しては、特に拠点並びに連結位置の秘匿に重点を置く
  (キ) 連 絡 
           各隊間は努めて相互連絡により確保すると共に、左記要領による。
      a 連絡場
            久保南方200m断崖部東端 比謝川最上流源点
     b 時 刻
            日没1時間後より1時間 日出2時間前より1時間
     c 要 領
            各拠点毎、連絡者を派遣し、命令報告通報伝達す。
   (ク) 栄養補給
         各拠点毎に現地物資資材の獲得により、極力蓄積し持久性を保持せしむ
   (ケ) 速やかに該方面に行動しあると予想せらる球部隊との連絡に努む。

3 連 絡
  (1) 合言葉    奥山
  (2) 友軍記号  音光共に「・−」
  (3) 標 識  一般略帽の夜光物 将校右以外に、右腕夜光
  (4) 引上信号  青吊星
  (5) 友軍自動車 片目警笛「・−」
  (6) 隊長位置  赤吊星
  (7) 無線に関しては別冊

4 給養別紙第1の如し 
               

5 衛生別紙第2の如し
               

6 編成装備搭乗区分 別紙第3〜第6の如し
  北飛行場(読谷)攻撃隊 1〜8番機、  中飛行場(嘉手納)攻撃隊 9〜12番機
    
             
 注釈               
  (1)   編隊構成要領は、第1悌隊1〜3番機 ・ 第2悌隊4〜6番機 ・ 第3悌隊7〜8番機 ・ 第4悌隊9〜12番機であった。 
  (2)   6540号機(4番機) および 6001号機(10番機)は予備機としても記載されているが、その正誤は不明である。 当初から不調であったため、予備機の中から選定して計画に
   示したとも考えられる。 
 (3)   8番機および10番機の正副操縦士は階級下位のものが正として示されているが、その正誤も不明である。
 (4)   12番機の機番は空白である。
 (5) 攻撃隊の氏名一覧は階級の並びがまちまちに見えるが、実際は3人一組として行動するための並びにしている。 例えば曹長−伍長−伍長のような構成としている。
 (6) 6番機攻撃隊の 「津隈伍長」 は実際の計画書では明確に記入されていないが、戦死者名簿から確認した上で上記の表に記載した。
 (7) 「編成装備搭乗区分 別紙第3〜6の如し」とあるが、残された計画書では別紙第4〜6は欠である。

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 (5) 沖縄突入
 
  5月23日1700格納庫前に集合、軍司令官の激励の辞があり、続いて乾杯・万歳三唱が行わ
     れた。 ところが沖縄の天候が悪く、海軍から菊水第7号攻撃を一日延期する旨の電話 が入っ
  た。  陸軍は既に出発していた重爆隊の反転を命じて作戦は翌日に延期された。
     5月24日、天候良好との報告があり、昨日と同様に重爆12機が先行して沖縄の飛行場を爆
     撃、ついに義烈空挺隊に発進命令が下された。 5月24日1800、11機は滑走路の東端に向
  かったが、1機だけが始動出来なかった。 このため急遽予備機に乗り換えた。 経路上、義烈空
  挺隊は企図秘匿のため、変針時・本島到着・突入の3回のみ無線を使用することになっていた
  が、変針時・本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。作戦室は重苦しい雰囲
  気に包まれた。 そして2200の突入予定時刻になっても無線の入電はない。 だが突然に
  「2211ただ今突入」の無線がスピーカーから流れた(健軍と知覧で傍受)。 2225、戦果確認
  のため同行した110戦隊草刈機が 「諏訪部隊着陸成功」と 報告。 2245、通信所敵信傍受
  班は、米軍の「北飛行場異変有り」「在空機は着陸するな」等の無線を傍受、それから米軍は
  続けざまに異変の報を流し続けた。 同行した状況視察任務の重爆は、着陸を意味する赤信号
  灯が北飛行場で4個、中飛行場で2個確認したと報告した。
 
  義烈空挺隊12機のうち、目標である沖縄に達することが出来ずに4機が不時着している。
  1機は隈の庄飛行場に着陸したが、他の3機は飛行場以外の場所に不時着した。うち1機は熊本県八代市郊外に不時着、飛行隊の水上曹長
  が火災機から脱出できず死亡している。 また遅れて離陸した1機は敵艦船の対空砲火に被弾して引き返し、福岡県大牟田市付近に不時着し
  た。


米軍側の記録

 5月24日、日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)の爆撃に成功した。第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり、2330頃伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊がこれを要撃、飛行場付近で4機が撃墜したが、最後の1機が読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功した。少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機破壊炎上、26機に損害を与え、さらに7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。調査によれば、胴体着陸機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。他の突入機4機には、それぞれ14名の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。したがって確認されたのは合計69名である。翌日1名の日本兵が残波岬において射殺された。(したがって合計70名となり日本軍側の記録と一致する)
(中飛行場に関しては記述なし)
 
    


沖縄第32軍八原高級参謀の記録より
  特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍の戦闘に直接的に貢献した
 とはいえぬ。 五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件であ
 る。 むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉し
 かったのである。
  だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。 わが空挺隊が敵飛行場に降下
 し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。 連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降
 下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜で死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたの
 である。
 


義号作戦は連合艦隊の指揮下における陸軍の作戦であり、この義号作戦に併せて海軍の菊水7号作戦が実施される予定であった。海軍の一日延期の決定で陸軍義号作戦も延期せざるを得ないことに、陸軍は海軍に対して大きな疑念を抱いた。


突入については、下段の 「義烈空挺隊降着(沖縄県読谷飛行場)」 に詳しく記した。








義烈空挺隊突入に際して、第6航空軍は120機の特攻機を準備した。しかし天候不良で離陸できたのは70機であり、そのうち突入と報告されたのは24機であった。 尚、米軍側では特攻機の突入は13機で、これが12隻の艦艇に命中したとの記録が残されている。

義烈空挺隊の戦闘により、読谷飛行場は滑走路上に散乱した破片等により5月25日0800まで完全に機能を停止され、その後の完全復旧は5月27日1410であった。











八原参謀の義烈空挺隊に対する思いがストレートに表現されている。




                                  義烈空挺隊出撃 (熊本県健軍飛行場) 

1 義烈空挺隊出撃の地、熊本県健軍飛行場概史

   昭和16年、三菱重工業・名古屋航空機製作所分工場の建設が開始され、併せ
て健軍飛行場が整備された。昭和19年にようやく三菱重工業熊本航空機製作所
が完成、終戦までに四式重爆撃機「飛龍」を42機製造している。
 健軍飛行場は当初熊本製作所の付属飛行場ではあったが、同時に旧陸軍によ
って軍用飛行場として使用された。特に満州・朝鮮半島や日本全土から南方戦線
へ向かう航空機の燃料補給基地として、福岡県大刀洗飛行場とともに重要な地位
を占めた。
 戦後は、昭和31年から熊本空港としての建設が開始され、昭和35年に開港、
昭和46年まで使用された。



 写真左 : 昭和23年撮影の健軍飛行場一帯
    大きく二つに区分されるが、上部が健軍飛行場、下部が三菱重工業熊本
    製作所敷地である。 この二つの区画が一本の移動用道路で結ばれている。

 写真右 : 昭和34年作成の健軍飛行場(熊本空港)付近地図
    健軍飛行場跡地外郭がそのまま残されているのがわかる。熊本空港の滑走
    路は1200m×30mで、これは旧軍健軍飛行場で使用されていた滑走路を
    ほぼそのまま使用している。(戦時下は未舗装)。 なお、熊本製作所跡は、
    陸上自衛隊健軍駐屯地などとして使用されている。





2 戦時の健軍飛行場と現在の状況
 健軍飛行場の施設状況は詳しい記録が残されていない。
  ここでは、飛行第60戦隊に所属していた方の記憶から施設等の細部位置を記述している。 飛行第60戦隊は義烈空挺隊の誘導及び地点標定のための照明弾投下・北中両飛
 行 場の爆撃を実施した部隊である。


           

  写真上左  : 終戦直後の航空写真に義烈空挺隊関連場所等を
           記入したもの  

   写真上右  :   同地域の現在の衛星写真
   右地図    : 義烈空挺隊関連場所の細部位置
   写真下   :  八反田に残る飛行第60戦隊使用の無蓋掩体壕
           市街地化した健軍飛行場周辺に残された唯一の
          戦争遺構である。

 
  



3 義烈空挺隊出撃直前の状況
 (1) 義烈空挺隊整列 
  5月23日1700頃から第6空軍司令官菅原道大中将への申告・激励の辞が執り行われた。 義烈空挺隊の出撃前の写真は23日と24日に撮影されているが、菅原中将の
   激励の辞は23日のみ記録が残されていることから、この申告の写真は出撃1日前の23日撮影となる。


        

写真上左 : 5月23日軍装検査後に申告・激励の辞を受ける。部隊中央指揮官が奥山大尉
写真上右 : 義烈空挺隊整列場所の現在の状況
         当時の写真の背景である集落手前のクリークからの距離を勘案すれば、写真中央
         の軽トラックの位置付近が奥山大尉の位置となる(推定)。

写真右  : 戦闘指揮所のあった地点に建つ市営長嶺西団地から見た整列場所の全景

 ある文献によれば申告は 「格納庫前」 とするものもあるが、生存者の方は具体的に戦闘指揮所
に隣接した場所であるとの証言をされている。 実際に申告の場面の写真を検証してみると、背景
に集落があること、奥山大尉の影から部隊は西向きに整列していること、集落の手前に低地(クリ
ーク)があることから、背景の集落が八反田集落であると判断できる。
そして戦後の航空写真・クリークからの距離・背景遠景等を考慮して割り出したのが、現在の写真
の場所である。




 (2) 出撃準備・最後の別れ
   23日には航空機搭乗その時に一日延期が指示された。したがって、下の写真が23日か24日かは判然としない。 しかしながら、同行した取材記者によれば、兵士達に悲壮感は
   なく、和気あいあいとした雰囲気に記者の方が戸惑ったという。 写真を見ても悲壮感はなく、整斉と行動する姿が見て取れる。

 
            




写真上左 : 航空機に向かう義烈空挺隊員。背後に格納庫の一部が見える。
写真上右 : 証言などから推定した航空機の配列場所。 上記写真の位置とほぼ一致
        すると思われる。
写真右   : 最後の挨拶は生存者から飛行場東側格納庫前との証言を得ている。 
        上右の写真に見える8階建てのマンションが概ね格納庫の位置となる。 
      最後の挨拶は概ねこの付近で行われたものと思われる。証言から、各航
      空機毎に隊員がひとかたまりとなって、それぞれの故郷へ向かって最後の
      別れの挨拶をおこなったという。 
        現在のこの場所には当時の面影は全くなく、この場所でそれぞれの故
       を思い、別れの挨拶を行ったことを知る人はほとんどいないのであろう。





 (3)  出 撃
   1840、健軍飛行場離陸。
   記録上は12機が離陸とされているが、実際には同時に離陸したのは11機であった。 この11機のうち1機 (9番機・中飛行場突入隊隊長渡部大尉機) は始動後にエンジン
  の調子が悪く、急遽予備機に乗り換えた。(したがって渡部大尉機は6547号機ではなく予備機4機の中の1機に搭乗したことになる)
  一方、同時離陸出来なかった1機 (8番機・機長山本曹長・北飛行場突入隊) も予備機を探して搭乗し直した。ところがこの予備機と思った航空機は先ほどエンジンの調子が悪
  く乗り捨てられた航空機(6547号機)であった。 それに気づいたものの1機のみ離陸が遅れている状況で、さらに乗り換えているわけにもいかず、反対する整備員の発言を押さ
  えて機長の山本曹長が 「もう時間がありません。この飛行機で行きましょう」 と発言して離陸が決定している。(敵艦船の対空火器により被弾し帰投、福岡県大牟田市に不時着) 


    
                           
  写真左 : 搭乗直前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)
         取材カメラマンからあらかじめ航空機の横で握手をするように依頼されていた。 ところが一度握手をしたもののカメラマンとのタイミングが合わず、要望により再度
         握手をしたときの写真。 奥山大尉が 「千両役者は忙しいなぁ」と発言して握手した瞬間で、諏訪部大尉他周囲の隊員からも笑みがこぼれている。
   写真右 : 発進する義烈空挺隊機
         キャノピー上に隊員の姿が見えていることから、滑走路へ向かって移動を開始した時の写真であると思われる。 
       
 
      

写真左 : 市営長嶺団地付近から西方向を見る
      遠方中央に熊本赤十字病院が見える。写真の県道は滑走路の側道に当たる部分で、滑走路本体はこの道路右(アパートの部分)にあった。
写真右 : 市営長嶺団地内から西方向を見る。
      写真中央奥に熊本赤十字病院が見えるが、この部分が健軍飛行場及び旧熊本空港の滑走路に当たる。 義烈空挺隊機12機はこの場所から西に向けて離陸して行っ
      た。


                                                       義烈空挺隊降着 (沖縄県読谷飛行場)

1 義烈空挺隊突入の地、沖縄県読谷飛行場概史

 「読谷飛行場」は昭和19年1月に軍に接収されて建設が開始された。当時、基地設定用の機材は装備されておらず、多数の一般住民の労力に依存しながら急ピッチで建設された飛行場である。日本軍での正式名称は「沖縄本島北飛行場」であり、昭和19年9月頃から飛行場建設の部隊等(重機材はない)も投入され、「沖縄本島中飛行場」(現在の嘉手納空軍基地)よりも一足早く完成している。 開戦前のこの飛行場には、一時台湾第8飛行師団隷下の独立飛行第23中隊(飛燕12機・99式双翼軽爆機2機)が配置されいたが、その後は米軍の空襲・艦砲射撃によって使用不能となった。
 米軍上陸直前の昭和20年3月30日に、米軍に使用されることを恐れて飛行場の破壊命令が出されたが、この大規模な飛行場を短時間でしかも人力で破壊できるはずもなく、概ね原形を保ったまま4月1日の米軍上陸直後に占領された。 米軍は占領直後から整備拡張を進め、数日後には自軍の航空機が離発着できるようにした。 
 戦後は米軍航空機の緊急着陸飛行場・パラシュート降下訓練場などとして使用されて来たが、昭和40年4月から逐次日本に返還され、平成18年12月31日についに悲願の全面返還が完了している。
 現在は飛行場の名残としての主滑走路やハンガーが道路として使用され、周辺には総合運動施設等も建設された。この主滑走路も、近く国道58号線が建設されるために将来的には国道として改修されて姿を消す可能性が高いようだ。



 写真右   : 昭和20年1月の米軍航空偵察写真による 「読谷飛行場」
 地図下左  : 現在の読谷地区地図に旧軍滑走路を転記したもの
  写真下右 : 同上地区の衛星写真。南北の主滑走路だけが残されて道路として使用されている。読谷村役場の南北の線は米軍が拡張したハンガー(駐機場所)で、現在は道路と
         して使用されている。


           




2 義烈空挺隊の戦闘

 義烈空挺隊からのの無線は、2211「ただ今突入」を最後に途切れている。 次に記録として表れるの
が、2225に同行の戦果確認機から発せられた「諏訪部隊着陸成功」の電で、この後、2245に米軍の「北
飛行場異変有り」の無線を傍受している。 一連の時間経過から2225着陸は概ね正確(米軍の記録は
2230頃)なようで、その後に義烈空挺隊が機外に飛び出して米軍航空機を破壊してゆく状況を、米軍が確
認したのが2245だと思われる。 米軍の「8名が着陸機から飛び出し、25日午前0時55分に最後の日本
兵を射殺した」 という記録から、約2時間強で合計33機を破壊・損傷させたことになる。
                   
             
               


    
       写真左 : 着陸に成功した義烈空挺隊の機体。機体は北東から進入して滑走し、最終的に南東向きで停止した。 なお機体に546の数字が見える。 
             手前に日本兵の遺体が確認できる。米軍の撮影した多数の写真を見る限り、日本兵の遺体は5〜6名までが確認できる。(散乱状況から正確な数は不明)
       写真右 : 当時の写真を同じ撮影場所から同じアングルで撮影した。 滑走路は一面のさとうきび畑となり、当時を偲ぶものはない。



    
   写真左 : 義烈空挺隊が破壊した米軍機。この機体向こう側に多くの米兵がいるが、彼らは散乱する日本兵の遺体を見ている。この場所に日本兵の遺体が集中している。
         なお、破壊された機体付近の地面が白っぽく見えるが、これが滑走路である。米兵が多くいる場所は滑走路外である。
   写真右 : 同じアングルの写真。中央の舗装していない道が当時の滑走路の側道である。写真右端の茂みの中に、「義烈空挺隊玉砕之地」の碑が朽ち果てて建っている。
         この碑の建立者は正確にこの場所を特定していたことになる。 

   写真下 : 義烈空挺隊が破壊した米軍機。 米軍側の戦死者は2名、負傷者は18名であった。
                

      

                                                      義烈空挺隊突入に関する考察

義烈空挺隊12機の消息
  各記録を分析して筆者が作成した資料である。
                      
 注 釈
  地上墜落 : 記録(写真)等により地上部に墜落したことが確認できた機。
  海上墜落 : 地上墜落の米軍記録がなく、かつ帰投・不時着の記録がない機。
  墜落     : 地上または海上に墜落しているが、いづれかが判然としない機。 北飛行場攻撃隊3機がこれに該当するが、このうち2機は陸上、1機が海上に墜落したと思われ
         るが、詳細な記録がない。
  帰投    : 被弾・機体故障などで突入することなく引き返した機。 4機が帰投したが、11番機機長水上曹長のみが死亡している。 したがって、作戦終了時における生存者
         は、この帰投機による55名である。


1  熊本県群飛行場から突入まで
    記録映画などには12機が同時に離陸とあるが、実際は1機が乗り換えのために遅れて離陸している。 
   (1) 9番機 「6547」 は、エンジン不調で予備機に乗り換えている。 しかし、どの予備機を使用したのか不明である。
    (2) 8番機 「4475」 は、エンジン始動出来ず、急遽予備機に搭乗し直したが、実はこの乗り換えた航空機は9番機が不調のため放棄した機体であった。したがって8番機は
     「6547」である。
    (3) 攻撃計画では、4番機「6540」が、予備機「6540」と重複している。 上記2機以外に乗り換えた事実はないことから、実際は搭乗機「6546」を「6540」と記入ミスしたと
      思われる。
    (4)  「義烈空挺隊名簿」 と 「義烈空挺隊戦死者名簿」 を比較すると、帰投した4機が判明する。 帰投(不時着)機は、5番機・8番機・10番機・11番機である。
    (5)  したがって、2211の突入電以降に飛行していたのは、北飛行場攻撃隊6機、中飛行場攻撃隊2機である。
 
2 北飛行場攻撃隊
 (1) 97式爆撃機には1機当たり14名が搭乗し、 北飛行場には6機(8機中2機が途中帰投)が突入した。
 (2) 米軍の記録では、「北飛行場には日本軍機5機が突入してきたが、4機は飛行場周辺で撃墜した」 とある。 したがって、記録にない1機が海上に墜落したことになる。
 (3) 飛行場周辺で撃墜された4機のうち、米軍の記録写真に 3番機 「4136」 と 7番機 「6156」 が撮影されている。
 (4) 米軍記録写真から、
突入着陸に成功したのは 4番機 「6546」 である。
 (5) 5番機・8番機が帰投していることから、1番機・2番機・6番機のうち、2機が陸上に墜落、1機が海上に墜落したものと思われる。
 (6) 合計5機(着陸1、撃墜4)が飛行場及び周辺に着陸(墜落)したことから、戦死者数は70名となる。 米軍側記録では69名の遺体を確認し、さらに残波岬での射殺1名を
   加えると合計70名となり、日本軍側の記録と一致する。 このことからも1機が海上墜落したことがほぼ確実である。

     
   写真左 : ひとつだけ見える数字が「6」 であることから、3番機 「4136」である。 機体には下3桁がマーキングされていた。 米兵が放出された日本兵の遺体を見ている。
   写真中 : 写真とは別に米軍は記録映画としても撮影しているが、その際に明瞭に 7番機 「6156」であることが判別できる。 手前に放出された遺体がある。
   写真右 : 墜落した機体であるが、機番等の識別は不能である。 明らかに他の2枚の写真とは異なるため、残り2機のうちの1機だと思われる。


3 中飛行場攻撃隊
   中飛行場は米軍側に突入の記録がないことから、2211には2機(4機中2機は途中帰投)が飛行していたが、いずれも海上に墜落したものと思われる。 

  


                                  奥山大尉遺書

遺書 

 昭和20年5月22日

 此の度、義烈空挺隊長を拝命御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します。 絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります。 只々感謝感激の外ありません。幼年学校入校以来12年諸上司の御訓誠も今日の為のように思われます。 心成以て御恩の万分の一に報わる覚悟であります。 拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます。 二十有六年の親不孝を深くお詫び致します。    道郎
 御母上様


奥山道郎大尉旧墓石(2010年撮影)  

 三重県津市大谷町1丁目 「彰見寺」内