城間の戦闘                                                                  2006年2月作成

 「城間の戦闘」については、日本軍側の戦闘状況には日本側公刊戦史(城間の戦闘に関する記述が少ない)に独立歩兵第21大隊大隊史を加えた。
 
       
 
            

             

4月20日

19日に牧港を渡河し伊祖丘陵を突破した米軍(第165連隊)はその日のうちに城間集落東方まで進出して来た。
 城間方面においては、米軍と近接戦闘を交えたが陣地を確保し南進を阻止した。
(公刊戦史)

第1中隊は24時から全員斬込み、中隊の半数戦死。
第3中隊は0100頃から指揮班・第3小隊は伊祖の正面を攻撃開始す。第1小隊は右第一線を攻撃開始す。第2小隊は左第一線を攻撃開始す。0230頃より敵多数と戦闘を交え至る所で手榴弾戦を展開せり。0400頃までに敵に甚大なる損害を与えたり。我が方もこの戦闘に中隊長、野畑少尉、城戸少尉、以下多数の犠牲者を出す。東田准尉は負傷兵多数と生存者と共に約15名位を指揮して伊祖の壕を占領し、朝より馬乗り戦法となり、火焔放射器等で相当に敵の攻撃を受けるも、22日に独立歩兵第15大隊の救援を受け、25日夜脱出。
(独立歩兵第21大隊史=以降「大隊史」

 日本軍陣地の中央部には目標地域7777のI地区、すなわち軍作戦名「アイテムポケット」が存在した。ポケットは敵の陣地の核心であり、4つの低い丘陵とその間の峡谷が集約される中心に存在した。それは北東の「チャーリーリッジ」、南東には「城間リッジ」、南西に「ライアンリッジ」そして「ブリュワーズヒル」から成っていた。これらの丘陵の両側には渓谷があり、北には「アンダーソン」南には「デッドホース」と名付けた。日本軍はこららの渓谷や丘陵をトンネルで結び攻撃性の高い防御を実施した。特に「ライアンリッジ」は防御陣地は蜂の巣状に構築されていた。「アイテムポケット」からは北の海岸線や1号線から東側の開豁地を一望に収めることができた。日本軍は北海岸への上陸および北からの攻撃を考慮していたようで、米軍の上陸数ヶ月前から労働者を投入して陣地を構築していた。この地域は独立歩兵第21大隊の2個中隊が守備していた。

4月20日、第165連隊に対して2個大隊並列(左第1大隊、右第2大隊)での攻撃準備命令が下達された。この地域の日本軍の配備や詳細な地形は明確にはされていなかった。攻撃開始直後、城間の北側の錯雑地で強力な反撃に遭遇する。第1大隊は1号線(現在の国道58号線)を南下したが、日本軍の迫撃砲と機関銃で主力は分断されて5名が戦死、22名が負傷した。夜のうちに城間の東に進出したが、第1大隊と第2大隊の連携がとれなくなった。
          
 第165連隊第2大隊は第1大隊の右側で行動し20日には「ポッターズリッジ」の南東部先端までの日本軍陣地の破砕を計画したが、終日ほとんど前進できなかった。左の第1大隊と連携をとろうとしたが「アイテムポケット」の左後方から側防火器による激しい射撃に晒され、3時間の交戦後12名の死傷者を出して「ポッターズリッジ」に退却した。

 さらに西側に進出した歩兵は何とかアイテムポケットの西側の「フォックスリッジ」に辿り着いた。第2大隊長はE中隊に対し、「フォックスリッジ」からの掩護下に「ライアンリッジ」を北から攻撃するよう命じた。先遣小隊が「ライアンリッジ」を斜面を駆け登ったときに、日本軍は迫撃砲や機関銃射撃を一斉に開始し、E中隊の後続部隊と分断した。中隊は混乱のうちにフォックスリッジに後退したが、先遣小隊だけは這いつくばって前進した。小隊長は絶え間ない敵の射撃下に部下8名と共に何とか頂上部に辿り着こうとした。彼は無線で増援が来るまで保持せよと命じられた。しかし日本軍兵士に取り囲まれ激烈な白兵戦の下、2名が戦死、2名行方不明、2名が負傷となり、小隊長は生存者を率いて夜のうちに撤退した。
     



4月21日
米軍は引き続き全正面を攻撃してきた。城間・伊祖・安波茶地区では終日死闘が繰り返されたが、城間陣地と安波茶陣地を確保して米軍の進出を阻止した。
 
 (公刊戦史) 
 第1中隊は、港川方面及び空寿岬より前進の敵に対して白兵戦を行うも新田中尉(1小隊長)、伊藤少尉戦死(3小隊長)。宮本少尉(2小隊長)重傷、各々小隊長を無くし一大混乱に陥る
 第3中隊の生存者(*壕の外で戦闘を実施した者)は、木村曹長の指揮に入る。木村曹長は生存者約35名を安波茶の中隊指揮班に集結せしめ、城間32高地付近の警戒にあたる。
(大隊史)


 4月21日0630、第2大隊は「アイテムポケット」の河口側を越えて再度攻撃を開始した。対戦車火器が「アイテムポケット」の拠点を直接射撃しつつ第2大隊の掩護を実施した。戦闘開始から10分で大隊の左翼は集中攻撃を受けた。敵の弾幕を越えて更に前進しようという努力も空しく、朝のうちに「ポッターズリッジ」に撤退した。午後になって大隊の右翼は「フォックスリッジ」からの攻撃により「アイテムポケット」を封じ込め、水陸両用車両により数百ヤード前進することが出来た。しかし東から「アイテムポケット」を攻撃しようとする企図は破砕された。歩兵が海岸崖を登ろうとすると「ライアンリッジ」の日本軍は4度にわたり砲撃と軽火器を使用してこれを破砕した。最初は照準も不正確のため安全に撤退できたが、その後は照準も正確となった。大隊は「フォックスリッジ」まで後退した。




        


 このようにして日本軍は「アイテムポケット」を西から攻撃しようとするアメリカ軍の攻撃をさしたる困難もなく排除した。敵の防御は東側でも同じように効果的に威力を発揮した。第1大隊は補給に苦しんだ。「アイテムポケット」の東側の1号線に架かる2本の橋が破壊されたため、車両による補給が出来なくなった。前日の夜、工兵小隊がこの箇所の補修に向かったが、小隊長が戦死。21日の早朝にはベイリー橋の専門家である少尉が10両の車両に資材を積載して到着した。工兵は直ちに架橋にとりかかったが、1時間もしないうちに「アイテムポケット」からの連続的な射撃により作業は中断した。連隊長は他の渡河点の偵察を命じた。ブルドーザーが「アンダーソン渓谷」近傍の鉄道付近にバイパスを通したが、1000頃にこの操縦手は射殺された。第193戦車大隊長(アンダーソン中佐)はこのバイパスに戦車部隊を投入し一気に通り抜けようとした。大隊長自身もドーザーに乗り込んでバイパスを完成させようとしたが、日本軍の集中攻撃を受けて大隊長は戦死、このバイパスも放棄された。

 この1号線の補給の停滞は、城間東側の戦闘に大きな影響を与えた。第1大隊長は21日朝に城間に向かって南西へ進撃した。しかし戦車も砲兵の支援もなく、右後方の「アイテムポケット」から攻撃を受け一歩も前進できなかった。
連隊長は第1大隊と第2大隊との間隙を心配し、第3大隊に対しこの間隙を埋めるべく「アイテムポケット」に食い込んで両大隊の連携を保持させようとした。第1号線を攻撃発起位置と定め、L中隊は「デッドホース渓谷」を通り西へ進撃し、「アンダーソン渓谷」を火制する日本軍を包囲しようとした。同時に左翼K中隊は、「グスクマリッジ」沿いに「アイテムポケット」へ向かって北西へ攻撃前進を開始した。しかしこの地区ではあらゆる日本軍の火力により攻撃発起位置に到達することさえ困難であり、攻撃開始は1515となってしまった。

                        
 煙幕下、L中隊は「デッドホース渓谷」に沿いつつ前進を開始した。しかし45分後には軽火器により低い弾道での集中射撃を受けた。兵は地を這って穴に潜り込んだ。煙幕がなくなると、日本軍の機関銃射撃はこの地域を完全に火制した。暗くなって中隊は来た道を後退した。
 K中隊は大隊の攻撃の先鋒として行動した。中隊は日本軍の「グスクマリッジ」への射撃下に城間部落の東側に沿って進撃した。中隊長は1個小隊とともに「デッドホース渓谷」へ攻撃前進を開始、残りの部隊は稜線上から渓谷に向かって支援射撃を実施させた。この大胆な攻撃によりK中隊は「アイテムポケット」の拠点へと迫ったが、1時間で6名行方不明、3名戦死、15名が負傷という結果となった。中隊はもはや日本軍の防御を打ち破って前進する力はなかった。夕暮れの煙幕下に中隊長は部下を率いて「グスクマリッジ」まで後退した。
 K中隊はその後4時間にわたる日本軍の逆襲に対して、「グスクマリッジ」上の岩盤に穴を掘ることも出来ずに交戦することとなった。最初は砲撃に晒された。渓谷にいた兵は全滅した。弾薬は底を尽きて負傷者が増大、K中隊は日本軍の砲撃と正確な小銃射撃に晒された。2300には城間部落と渓谷の両方面から日本軍の攻撃が開始された。機関銃は破壊され、アメリカ軍は組織的戦闘力を奪われた。中隊長は残余の兵を率いて何とか200ヤード南側の第1大隊の地域へ後退した。K中隊の戦闘力は半減した。
 次の朝、日本軍は負傷して渓谷の穴に潜んでいたアメリカ軍兵士を掃討した。手榴弾を投げ込み、彼らはその中で戦死した。

                                
       



4月22日
 城間・伊祖・安波茶地区で戦闘が繰り返されたが、わが部隊は各陣地を確保した。(公刊戦史)

 第2中隊は0100頃城間付近の敵に対し中隊全員斬込みを敢行のため、屋富祖58高地に集結。第1小隊は城間付近、第2小隊は宮城北方、第3小隊は屋富祖部落西端に位置し抵抗線に付く。第1小隊第2分隊は海岸線警戒のため元陣地に復帰。
(大隊史)


 偵察隊による日本軍の配備状況に関する情報に基づいて次の日の計画が策定された。I 中隊は「ポッターズリッジ」の先端から進撃を開始し、「アイテムポケット」の裾を横切って「ライアンリッジ」の前面を確保する。一方C中隊は1個小隊を「ブリュワーズヒル」にs進出させ、そこから「アイテムポケット」に向かって駆け下りる。その際には I 中隊は「ライアンリッジ」を保持しつつK中隊と連携を取り、南飛行場に向かって進撃する。特別攻撃分隊は「ライアンリッジ」前面に橋頭堡を確立する。この特別攻撃分隊は13名、重火器や対戦車火器、火炎放射器などを装備させる。




4月23日
 米軍は全戦線にわたり攻撃を続行した。これに対しわが部隊は城間北側陣地及び安波茶陣地を依然確保して米軍の突破を阻止した。
(公刊戦史)

第3中隊(木村曹長以下)は城間32高地付近で戦車を伴いたる敵と戦闘し、夜間は敵陣地に斬込みを敢行。敵の相当大なる損害を与えたり。戦果も機関銃・自動小銃・弾薬・糧秣等多数占領せり。其の殊勲大なり。
(大隊史)


 4月23日朝、特別攻撃分隊は「ポッターズリッジ」の先端の墓地を通り抜け、麓の開豁した場所に出た。「アイテムポケット」の真上にいた日本軍の迫撃砲観測員は「ライアンリッジ」の迫撃砲陣地に対して迫撃砲射撃の開始を要求した。分隊長は目標を指示し、部下をその目標に向かわせた。一人ずつ「ライアンリッジ」に走り出した。日本軍の2カ所の機関銃が射撃を開始した。分隊は「ライアンリッジ」の麓に辿り着いたが、低地部の日本軍の機関銃も射撃を開始した。分隊は増援も得られない状況に陥った。
 「ライアンリッジ」の岩肌をよじ登り、迫撃砲陣地の40ヤードまで近接したが、頭上から手榴弾を投げ込まれ、前進は頓挫した。分隊長は4名を右に、2名を左に配置し、バズーカ砲の射手には敵の迫撃砲陣地に対し直接射撃を実施するように配備した。前進は不可能であった。この地域一帯は日本軍が支配し、特別攻撃分隊に対して攻撃が集中されつつあった。分隊長は砲兵に対し、自分達の前方40ヤードにいる日本軍に対して射撃するよう要求した。残りの I 中隊は「ポッターズリッジ」にあり、日本軍への射撃には遠すぎた。「アイテムポケット」周辺は今や小銃と機関銃の射撃によって地獄の様相を呈した。

               
 3時間にわたり特別攻撃分隊は釘付けとなった。1300には分隊長はI中隊に対して、3名が戦死、7名が負傷、戦闘可能人員が3名になったことを無線報告してきた。I中隊から支援小隊が派遣されたがすぐに前進不能となった。C中隊からの1個小隊は「ブリュワーズヒル」の頂上に達したが、急な崖のため下に下りることは出来なかった。爆雷をロープで下方に降ろして、洞窟の入口で爆破させたりもしたが、効果はほとんど得られなかった。分隊長は負傷兵と共に退却せよとの命令を受けた。退却中に2名が戦死したが他の負傷者は脱出できた。無傷なのは分隊長以下2名のみであった。 
            



4月24日
 
(公刊戦史記載なし) 

  第2中隊は1300頃、第1小隊(小隊長今村少尉)は城間付近において白兵戦を展開、相当なる戦果をあげるも、1500頃までにはほとんど全滅す。この戦闘に於いて脱出者4名。1400頃に第1小隊苦戦の報に第2小隊(小隊長立岡少尉)以下救援。救援した立岡小隊も半数以上の犠牲者を出す。2000頃、第3小隊(小隊長高松少尉)以下全員城間高地に斬込みを敢行す。多大なる戦果を得るも高松少尉以下ほとんど戦死。生存脱出者3名。
 歩兵砲中隊は部隊主力を29高地(宮城東北方)に集結。
(大隊史) 

 第165連隊F中隊長ライアン大尉は、20日から24日のE・G・K・I 中隊の「アイテムポケット」の攻撃を見て次は自分の番だろうと考えていた。ライアン大尉は翌25日0200からの攻撃計画を連隊長に説明し上級部隊にも承認された。しかし実際はこの計画とは全く別の、しかも23日の特別攻撃分隊と同じルートで攻撃せよという内容に変更された。F中隊は夜間のうちに配備を変更し攻撃準備を整えなければならなくなった。日本軍の射撃下に小隊長を集合させ新しい計画を説明した。しかしすぐに通信は途絶してF中隊は動けなくなった。 敵の警戒部隊の活動により中隊の再編成はさらに遅れた。




4月25日
 西海岸の城間地区の陣地は終日米軍の猛攻を受けて激戦が展開され、城間部落は米軍に占領されたが、部隊(独立歩兵第21大隊基幹)は残存拠点を固守して頑強な戦闘を続けた。(公刊戦史)

第1中隊の将校なき兵隊は大隊本部へ集結す。白兵戦夜間斬込みを続行。半数の数は負傷す。
第2中隊の海岸線警備の1個分隊も25日1300頃より戦闘開始。兵力僅少のため逐次後退。宮城元中隊指揮所付近にて激戦の後、○○○撤退。25日現在第2中隊生存者は中隊長以下約50名。宮城北端、屋富祖付近にて抵抗線に付く。敵は逐次前進。25日〜26日にかけて宮城付近に於いて局部的に戦闘す。
機関銃中隊は20日より24日まで城間陣地、第1中隊陣地、32高地陣地と協力し連日馬乗り攻撃を受けるも、よく戦闘を続行し多大の戦果を揚ぐるも、中隊の殆ど又壮烈なる戦死を遂ぐ。
4月25日、中隊は残存者○○名、部隊主力と合し58高地に後退す。
歩兵砲中隊は仲西小学校付近に陣地を変換し、宮城付近の戦闘に協力。
(大隊史)


 朝、「ライアンリッジ」はまだ敵手にあることを知った連隊長は第3大隊長に対し直ちにこれを攻略するよう命じた。第3大隊長はこの任務は不可能であると拒否したため解任され、後任に副大隊長が新大隊長となった。連隊長は新大隊長に対し0630攻撃開始を厳命した。新大隊長はF中隊長ライアン大尉の案を採用することに決定した。
 ライアン大尉はこの地域の攻略にとって最大の障害は「ライアンリッジ」の日本軍陣地と「アイテムポケット」の拠点であると考えていた。これらの日本軍陣地は「ライアンリッジ」と「フォックスリッジ」の間を支配していた。ライアン大尉は「ライアンリッジ」の斜面に20分間の攻撃準備射撃を要求した。ライアン大尉は中隊への説明で攻撃準備射撃下の迅速な行動を強調した。疲労と弾薬・食糧不足の中隊にとっては過酷な要求であった。



     
 
 F中隊の2個小隊の攻撃前進が、迫撃砲や機関銃、対戦車火器などの支援下に開始された。この攻撃は敵の射撃や自然障害によって減殺されたが、31名の兵士が「ライアンリッジ」頂上に辿り着いた。しかしそこは岩と穴、吹き飛ばされた木々だけの狭い場所であった。砲兵の支援射撃が下火になるにつれ、日本軍が張り巡らされた壕やトンネルから這いだしてきて攻撃を仕掛けてきた。しかし31名の兵士はそれへの対応の準備は整っていた。20分間の戦闘で35名の日本兵を射殺し、丘から日本兵を駆逐した。31名のうち5名が戦死、2名が負傷した。
 ライアン大尉が丘の上の拠点を守り抜いた。戦闘を繰り返し、丘の上に拠点を確保した。午後遅くまでに24名は平均して6弾倉使用し、医薬品の補給もなく衛生兵も全員が負傷した。無線は通じなかった。日本軍は最初の逆襲に失敗したものの徐々に肉迫しつつあった。「ライアンリッジ」の確保は今やライアン大尉の腕にかかっていた。
 ライアン大尉はこの危機的状況が判っていた。大尉はI中隊に対し、右翼に進出して欲しい旨を調整した。1605頃、15分間の支援射撃の後にライアン大尉と残りの中隊兵士は5名の負傷者を出しながらもついに峰に達した。しかしI中隊は斜面で分断されて頂上にたどり着けなかった。ライアン大尉は中隊の再編成の後、暗闇の中で2名の兵士と共に増援部隊を探しに出た。I中隊はまだ移動してこなかったが、K中隊が救援に駆けつけた。K中隊は深夜までに「ライアンリッジ」に進出した。 

          



4月26日
 
西海岸道方面においては、26日城間陣地は米軍の包囲攻撃を受けて苦戦に陥り、陣地の大部を米軍に占領された。(公刊戦史)

 F中隊とK中隊の総勢100名以上の兵士が攻撃に転移した。4月26日朝、F中隊は南西に進撃し牧港飛行場の先端に進出、K中隊は僅かに前進したが激しい砲火に晒されたために、その場で防御陣地を構築した。日本軍は「アイテムポケット」周辺でまだ数カ所の拠点を保持していたが、アメリカ軍は「ライアンリッジ」に留まることができた。第165連隊は南進を継続するための戦線をようやく構成した。
 「アイテムポケット」周辺では26日も戦闘が続いた。アメリカ軍は「アイテムポケット」を四周から攻撃したが負傷者は増大した。連隊は丸一週間この攻撃にかかりっきりであった。理由は1号線が敵下にあったために戦車や自走砲での攻撃が出来なかったことにあった。攻撃に次ぐ攻撃により徐々にではあるが歩兵は日本軍を狭い範囲に追い込んだ。26日夜には日本軍は「城間部落」と「ライアンリッジ」つまり「アイテムポケット」より西側を放棄した。1号線の核心となる橋を防御してきた日本軍の壕は封鎖され、工兵が架橋を再開した。




4月27日
 城間地区は27日引き続き戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、陣地の大部は破壊された。同夜残存部隊は屋富祖東側の58高地付近の陣地に後退し主力と合した。(公刊戦史)

歩兵砲中隊は内間北方に陣地選定。仲西付近の戦闘に協力。(大隊史)

 4月27日には戦車2両が「アイテムポケット」の南に占位したが、直ちに日本軍の対戦車火器により撃破された。後続の戦車は歩兵と連携して残りの日本軍拠点を掃討した。1637、ついに「アイテムポケット」の占領が宣言された。しかし日本軍兵士はその後数週間にわたり、深いトンネルから這い出てきては攻撃をしかけてきた。


4月29日
 第2中隊生存者は中隊長位置屋富祖58高地に集結。兵力約30名。大隊本部とともに58高地最後の攻撃をなす。
(大隊史)

 
               
城間の戦闘に関しては日本軍側の公刊戦史での記述量が非常に少ない。「嘉数」や「伊祖」などは詳細にわたり記述されているが、「城間」の戦闘に関しては日々1行程度の記述である。反対に米軍側では「Item Pocket」として1章が当てられており、その格差に驚かされる。日本軍側が想像している以上に米軍は非常に苦戦していたのである。











急速に住宅地化されている。数年前まではItem Poket周辺は湿地帯で、水鳥なども多い長閑な場所であった。2004年に湿地に新興住宅地が建設され、さらに今後はバイパスの建設により、残された戦場は全て消える運命にある。






















独立歩兵第21大隊第1中隊は米軍の牧港渡河直後から白兵戦となり、港川から城間地区までを守備していた各小隊を次々に陣地の外、第1線に投入した。第3・4・5中隊は夜襲で潰滅的な損害を出し、それまでほとんど無傷の戦力を保持していた独立歩兵第21大隊は2日間で大きく戦闘力を失った。






独立歩兵第21大隊の陣地配備は米軍が正面海岸に上陸してくると予想しての配備であったことが非常に大きな意味を持つ。その陣地配備の中へ米軍は北から攻撃を行ったために、予想外の苦戦に陥ることになった。



A・B・C中隊が第1大隊、E・F・G中隊が第2大隊である



「Brewers Hill」「 Item Pocket」「 Ryan Ridge」の3つの拠点がその前面を相互に支援しあうという理想的な防御陣地を構築していた。












写真ではなだらかな坂道になっているが、下方の写真にもあるとおり、当時はかなり急な崖であったと思われる






第1中隊が白兵戦を続行していることがうかがえる。第1中隊が前線へ投入される代わりに、その後方へ他中隊の夜襲の残存兵が充当されているのがわかる。また、港川や空寿岬などはすでに米軍により分断されており、第1中隊は敵中に孤立して戦闘を継続していたのである。



「Potters Ridge」からの攻撃は日本軍陣地の防御戦闘の最も厚い地域を正面から攻略することになり、その後も損害を増すばかりであった






F中隊の前進した海岸線は非常に浅いリーフであり、水陸両用戦車であれば難なく前進できる場所であった。しかしその移動を隠蔽できる地形はなく、日本軍は余裕を持ってその行動を凝視したであろう。




当時の地形状況は不明であるが、橋を確保しなければ前進できないような湿地帯や思いの外深い渓谷でなかったかと推察する。左下の「Dead Horse Gulch内部の状況」のような狭いながらも深い渓谷だろう。

アンダーソンやライアンのようにその地域で活躍や戦死した人物の名前をとって地形名称としている場合が多い。「Item」というコード名があることから、この周辺にはH(ヘン)、J(ジェーン)などの名称が付けられていたと思われる。






主要道である1号線を使用できない米軍は、結局戦車を配属できず、歩兵だけの攻撃を実施している。陣地に籠もった部隊に対して、同じように歩兵だけで攻撃することの難しさが表されている。












「Gusukuma Ridge」は左下の写真で一部見られるが、隆起珊瑚礁から出来た堅い岩盤であり、掩体を掘るような地質ではなかったと思われる










すでに第2中隊が独立歩兵第21大隊の基幹部隊であり、大隊の戦力は20%程度まで低下していたのではないか。

「Item Pocket」には独立歩兵第21大隊機関銃中隊第1小隊1個分隊が陣地配備されていた








ここで出てくる戦車とは水陸両用戦車のことでM4シャーマンのことではないだろう。























ロープで下方に降ろしたということからも、日本軍陣地が低い位置に構築されていたことがわかる。低い場所から撃たれる弾道はその位置の特定が非常に判断し難い場合が多い

実際にBrewers Hill上に立ってみると、下に降りることは不可能のような急な断崖である。しかも当時は爆撃等により木々もなく、身を隠す手段もなかったはずで、米軍は早々に攻撃を断念したのではないだろうか。







記述から米軍と交戦しているのは第2中隊主力であることがわかる。


数々の攻撃失敗を見ても責める姿勢を持ち続ける米軍もやはり勇敢であった。沖縄戦を生き残った大隊長・中隊長・小隊長などの第一線部隊指揮官も全員が「米軍は勇敢であった」と口を揃える。




城間地区の戦闘に決着がついたのは、独立歩兵第21大隊の戦力低下も大きな要因ながら、米軍が城間南の屋富祖地区に進出してきたことにある。屋富祖58高地(大隊本部)が米軍に占領されると、前線で戦闘中の第2中隊以下の退路が遮断される。このため米軍が屋富祖に接近した時点で、城間地区を放棄して屋富祖に撤退を開始した。最後は大隊長の元で最後の戦闘をというのが大隊将兵の気持ちであっただろう。






F中隊は昨晩別の攻撃要領で配備・命令下達まで終了しており、朝になっての再度の命令変更はかなりの混乱を来したであろう。中隊規模とはいえ配備変更・再度の命令下達・砲兵部隊との調整には数時間を要するはずである。




















6弾倉は通常の携行弾倉数であり、仮にこの弾倉数で攻撃前進していれば、大多数の兵士は弾薬欠乏に陥っていたと思われる。

ライアンリッジを奪取されたことで日本軍は相互支援の拠点を失い、防御戦線が分断されたことになる。加えて屋富祖に別動の米軍が迫っており、退却時機としては26日明け方までが最後の好機だったであろう









包囲を受けたという表現から撤退は完了していなかったことが伺える。日本軍の大きな弱点は通信連絡手段が欠如していることで、この沖縄戦全般を通じて命令が各部隊に行き渡らないことがほとんどであった。おそらく、ライアンリッジを占領されたことで防御陣地は各個に分断されたため無線手段等もなく状況不明のまま後退が出来ない状態に陥ったと判断される

戦闘が南飛行場に及ぶに至り、防御正面は独立歩兵第15大隊に移っていく。














58高地の戦闘については「部隊別戦闘戦史」を参照のこと