50m閉鎖曲線高地 (Hill60) の戦闘                                                                  2013年作成
50m閉鎖曲線高地の戦闘

  注意 : 50m閉鎖曲線高地(Hill60)の戦闘の米軍側記述は
米海兵隊公刊戦史記述(赤色文字)であり、陸軍公刊戦史は黒文字としている。


1 戦闘までの概要 

 4月1日に嘉手納海岸に上陸した米軍は、南部地区を陸軍・北部地区を海兵隊が担任し、それぞれの戦線を拡張してきたが、日本軍主力部隊不在の北部戦線は海兵隊が順調に進撃し、4月20日頃には概ねの掃討を完了した。
  一方陸軍の担任する南部地区は上陸後数日間こそ順調に攻撃が進展したが、日本軍主力部隊の構成する主陣地帯の戦闘から常に苦戦を続け、その進撃速度は平均して一日あたり数百メートル、嘉数などでは約3週間にわたって戦線が膠着する状況であった。
 このため米軍は北部地区の掃討を完了した海兵隊を南部戦線に投入するに決し、4月30日から第1海兵師団 を先頭として西海岸方面に投入を開始した。 この50m閉鎖曲線高地(米軍呼称「Hill60」)の戦闘は、海兵隊の南部戦線での緒戦でもあり、それまでの北部戦線での戦闘から日本軍に対して楽観的な考えを持った将兵に対し、新たに「日本軍強し」の印象を強烈に植え付けた一戦となった。



2 日本軍の部隊編成

   50m閉鎖曲線高地は独立歩兵第15大隊第5中隊が防御戦闘を実施した。  

  独立歩兵第15大隊(大隊長 飯塚少佐) 総員1233名
   大隊本部(57名)
    第1中隊(189名)   江戸公平大尉
    第2中隊(189名)   伊藤貫一中尉
    第3中隊(189名)   松島武夫中尉(第5中隊を指揮、5月10日戦死)
    第4中隊(189名)   松田實大尉(5月上旬戦死)
   ●第5中隊(189名)   岸本孝中尉(途中負傷のため第3中隊長が指揮)
    機関銃中隊(129名) 水崎正之助中尉
    歩兵砲中隊(102名) 須川隆一中尉(4月21日戦死)




3 50m閉鎖曲線高地周辺の地勢
   この地区一帯、特に国道330号線以西は戦後から宅地化が顕著であり、「Nan Hill」をはじめとして多くの高地・丘陵が姿を消している。 以降の 戦闘図において、日米両軍の位置や陣地が無造作に市街地に記載されているように思われるが、実はその場所は当時の高地や丘陵であった。

(1) 50m閉鎖曲線高地を中心とした西海岸地区地図
   

     

 (2) 50m閉鎖曲線高地周辺図
  ア 軽便鉄道跡がそのまま国道251号線となった
   イ  「Nan Hill」は完全に削られた。基底部の地形が現在道路となり、その位置が概ね確認できる
   ウ 50m閉鎖曲線高地は台上が平らに造成されたが、現在も高地として存在する。
   エ  「Finger Ridge」は国道330号線(バイパス)の建設により完全に姿を消した。
   オ 国道251号線以西はなだらかな丘陵地帯であったが、全てが削られて宅地化し、現在ではその面影すら存在しない。
   カ 沖縄戦時にはこの地区一帯にはほとんど住宅がなく、一面の水田やサトウキビ畑であった。
 
   
                      左:昭和23年米軍作製地図  右:平成21年国土地理院地図






5月6日

 沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地地区は、6日1000頃から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。我が部隊は迫撃砲の支援を受け、戦車3両を擱坐させて午後には米軍を撃退した。


 日本軍は第1海兵連隊第3大隊 I 中隊を意図して目標に到達させ、I 中隊が目標(Nan Hill)に達するや機関銃・迫撃砲・砲兵射撃を集中した。 海兵隊員は掩体を構築して対応したが果たし得ず、迫撃砲弾が着弾する中を撤退するしか方策がなかった。
 第1海兵連隊第2大隊の行動地域でも同じような状況であった。 F中隊は0945にL中隊の戦線を超越し60高地を西から攻撃した。戦車と自走砲が支援して経路上の洞窟陣地やトーチカを破壊して行った。 しかし巧みに偽装された敵の対戦車砲により3両の戦車が撃破され、その後も装甲車を投入したが攻撃衝力は低下した。 F中隊も I 中隊と同じように中隊目標に到達したが、激しい敵の反撃にその場を保持することはできなかった。 戦車の支援を失って犠牲者が増大、予想される日本軍の逆襲に抵抗することは困難と判断され撤退が指示された。 G中隊が援護射撃や煙弾を撃ち込む中、1630までにF中隊は死傷者の撤収を完了して攻撃開始線まで後退、その後E中隊と交代した。

   

米陸軍記述による60高地の攻撃
 60高地は沢岻丘陵や大名丘陵、安謝川南部の高地帯から見下ろされる場所に位置していた。さらに約200m北側にあるナン高地が60高地に対する攻撃を側面から妨害する位置にあった。典型的な反射面陣地を構成した日本軍はナン高地の米軍側である稜線及び北側斜面を放棄していたが、南斜面には無数の洞窟陣地や地下トンネルが構築されていた。
 5月6日1000から第1海兵連隊第2大隊が砲迫射撃および艦砲射撃の支援を受けながら60高地に向かって攻撃を開始した。日本軍はナン高地の反対斜面に掩体を構築していたために攻撃部隊の側背から反撃を行った。海兵隊の攻撃小隊は直後に相互の連絡が取れなくなり、死傷者を進撃経路の脇に残して前進した。戦車部隊は開豁地に出ると同時に日本軍の迫撃砲射撃や対戦車火器の射撃を受けて2両の戦車が撃破され、残りの戦車も炎上したり行動不能となった。後に確認したところ総計で10発の命中弾を受けていた。1個小隊が60高地の稜線に到達したが、手榴弾・爆雷・白燐弾・擲弾筒などの集中射撃を受けて地獄の様相に転じることになった。ナン高地にいる海兵隊は麓に日本兵が散在したために攻撃部隊の支援に乗り出すことは出来なかった。60高地上の海兵隊員は依るべき陣地もなく台上で35名の死傷者を出したため、1227大隊長は撤退を命じた。




5月7日
 
安波茶方面においては、強力な米軍の攻撃に対し、辛うじて安波茶南側高地を保持していた。沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地付近(独立歩兵第15大隊第5中隊基幹)は昨6日に引き続く米軍の強襲を撃退して陣地を保持した。

 
激しい雨により攻撃前進は戦車が行動可能となるまで延期された。 第1海兵連隊長は第3大隊に対し、使える火器全てを60高地の反対斜面(敵方斜面)に指向して第2大隊の60高地攻撃を支援するように命令した。  1400に戦車部隊が最前線に到着、E中隊とともに攻撃を開始した。 砲兵は目標地域の裾野を砲撃し、迫撃砲と直射火器は稜線とその反対斜面を射撃した。 攻撃部隊の前方に効果的に砲撃を実施して1422までに60高地の頂上を1個中隊で掃討した。 しかし支援射撃が中断するとほぼ同時に日本兵が壕から出現して海兵隊に向かって手榴弾で応戦し始めた。
  時間の経過と共に日本軍の反撃が徐々に激しくなってきた。 戦力が低下していたE中隊に対する強力な敵の逆襲が考えられたため、現状の中隊の位置では防御が不可能であると判断して攻撃開始位置にまで撤退するように命令を下達した。

 第5海兵連隊第1大隊の正面、第2大隊の右側にある深い谷が敵の安波茶陣地の核であった。5月7日0900の作戦会議によって、谷の全域や緩斜面に潜む日本軍の抵抗を減殺する方策を協議した。 砲兵・ロケット・航空攻撃による準備射撃が計画され、加えて歩兵部隊が攻撃を開始する1200までに戦車1個中隊を支援に加えるように策定した。 第5連隊の中央に位置する第1大隊が谷の出口までの400m程度を前進する一方、第1大隊の右に投入された第7海兵連隊第3大隊L中隊の支援下に第3大隊及び第2大隊が敵の側面に圧迫を加えて限定的に前進することにした。 この日前進により炎放射器と爆破班が敵の洞窟陣地を爆破して封鎖した。 しかしながら第5海兵連隊第1大隊の進出によって日本軍の安波茶ポケット防御が衰えを見せたといっても、それが今後激しい反撃を受けないであろうという楽天的な予想にはならなかった。

   

陸軍記載による60高地の攻撃
 5月7日、第2大隊による2回目の60高地の攻撃が実施されたが、これも失敗に帰した。
ありとあらゆる火砲を使用して60高地の稜線および斜面に集中攻撃を加えた後、進撃した海兵隊員は敵の反撃を受けながらも再度頂上に到達した。頂上ではあまりの至近距離で日本軍と対峙したために手榴弾さえも使用できず、兵士は銃の掌尾部を使用しての白兵戦となった。ある軍曹は負傷しながらも息絶えるまで分隊の指揮を執った。一度は後退したものの再度頂上部を奪還したが、ナン高地反対斜面からの絶え間ない日本軍の射撃が決定的な要因となり、戦死8名・負傷者37名を出しながら1700には撤退を命じられた。





5月8日

 
安波茶・沢岻北側地区で接戦が行われ、前田部落方面への米軍の進出によって苦戦を続けた。沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地地区では、8日にも米軍の攻撃が続けられたが、善戦して陣地を保持した。

 
5月8日は激しい雨のため全ての前線で攻撃が中止となった。 各部隊は陣地周辺の掃討を行い、一部は前方の日本軍陣地へ斥候を送り込んだ。また第6海兵師団第22海兵連隊が知花を発ち南進を開始、1530には第22海兵連隊第2大隊と第3大隊が安謝川北岸で第7海兵連隊第2大隊と交代した。(内間付近を第2大隊、河口付近を第3大隊)






   




5月9日

 
安波茶付近においては米軍は不断の圧迫を加え続けていた。沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地は9日米軍に占領され、内間付近も強圧を受けつつあった。
 

【午前中】
 師団最前線に補給が行われた5月9日には第1海兵師団は効果的に前進を重ねた。師団の攻撃は当初地域の泥濘化のために延期されたが、ナン高地は戦車・火焔戦車・爆雷・ナパームなどを使用して完全に海兵隊の手に落ちた。  このナン高地の占領によって、60高地の攻撃が再開された。
 第1海兵連隊長は第1大隊を60高地の日本軍防御陣地の破砕のために使用することに決した。 この2日間第1大隊は(5月6日に交代した)連隊予備となっていて、この間に部隊を再編、4月30日から5月6日にかけての戦闘で生じた259名の欠員を116名の補充兵で補うことも完了していた。


   



【12:00〜13:00】
 1205、第1海兵連隊第1大隊は、砲兵の撃準備射撃に引き続き、C中隊を先頭として60高地東斜面を見下ろす狭い稜線(Finger Ridge)を確保すべく攻撃を開始した。 1240までにC中隊はこの目標地域の一部に到達、日本軍の抵抗が強まってきたために右側にB中隊を投入した。 第1大隊が60高地の東側の高地に進出したことで攻撃計画は次の段階に移行した。
 第5海兵連隊第3大隊の予備として行動していた第7海兵連隊第3大隊K中隊は9日に配属を解かれて元の指揮下に復帰、L中隊の右側に配置された。渓谷の下流側にある第7海兵連隊第3大隊と第5海兵連隊第3大隊は攻撃に際して第5海兵連隊第1大隊から直接支援火力をうけるようになっていた。 航空攻撃及び艦砲射撃・砲兵・迫撃砲射撃による攻撃準備射撃に引き続き1200から各大隊は攻撃を開始した。

   

      


【13:00〜15:00】
 第1海兵連隊長は第3大隊(Nan Hill)の火力支援の下、第2大隊に前進命じ60高地の占領確保を指示した。
 戦車及び突撃砲の直接支援下に第1海兵連隊第2大隊E中隊はただちに目標の頂上部に達した。 1400までに反対斜面(東斜面)を含む60高地全域を確保、工兵隊は多数の洞窟陣地入口の爆破に着手した。 第1大隊に対する反撃は依然大きく、特に左前方から射撃を受けて死傷者が増大した。そのため大隊は攻撃方向を左に転換、C中隊を第5海兵連隊の行動地域に進出させた。第1大隊長はA中隊に対しB中隊の右に進出して60高地にある第2大隊との間隙を封鎖するように命じた。



【15:00〜日没】
 第1大隊は疲労・死傷者および連携の不十分なことにより攻撃衝力が減じたが、1600から再度攻撃前進を再興、地形を克服し強力な反撃をしのぎながら約150mほど前進して目標地域に到達、そこで左側の第5海兵連隊第3大隊I中隊、右側の第1海兵連隊第2大隊E中隊と連携がとれた。
 午後遅く前線視察に訪れていた第1大隊長が日本軍の狙撃兵により負傷した。後送される際に大隊長はB中隊長のフランシス・リナー大尉に暫定的に大隊の指揮を執るように命じ、その命によってリナー大尉は副大隊長のリチャード・ロス中佐が10日朝に到着するまで大隊の夜間防御の指揮を執った。



      


【夜間】
 第7海兵連隊第3大隊が暴露した左翼から敵の射撃を受けて停止した以外、進撃は順調のうちに最初の目標に達し、第1海兵連隊第1大隊と同じ稜線上に達した(第5海兵連隊第3大隊I中隊が接触した)。 1515には城間から進出していた第7海兵連隊第1大隊が第7海兵連隊第3大隊と第5海兵連隊第1大隊との間隙を閉塞した。
 5月9日午後に新しい師団命令が発出された。第5海兵連隊(第3大隊を除く)は師団左翼の安波茶地区の攻撃占領という任務を付与された。 第7海兵連隊(第5海兵連隊第3大隊配属)と第1海兵連隊は新しい連隊境界線がひかれた。 1855、第7海兵連隊長は前線に第1大隊・第3大隊・配属の第5海兵連隊第3大隊を並べその指揮を執ることとなった。

 

   

 






北部戦線から南下してくる海兵隊員達は、敗残兵のように後退してくる陸軍兵士や患者で溢れる野戦病院を見て、これまでの北部戦線とは異なることをようやく認識してきたという。








第5中隊長岸本中尉は昭和20年1月27日付で中隊長となっている。 独立歩兵第15大隊史実資料によれば、戦闘中に負傷したため第3中隊長が第5中隊を併せ指揮し、5月10日に戦死したとされる。
 なお、同資料から第5中隊長はその後戦死されたようで、6月4日から後任者が指名されている。
































「Sugarloaf Ridge」は海兵隊・陸軍の公刊戦史には全く登場しない。記述があるのは「アメリカ第一海兵師団沖縄特別作戦報告書」及び「海兵隊記録写真」である。
この他に、「Carbankke Hill」も登場するが、これは現在の陽明高校の位置であると考えられるが、完全な確証が得られないため、今回は記入を見送った。














「Finger Ridge」は海兵隊公刊戦史にたった一度だけ登場する地名である。陸軍公刊戦史や第一海兵師団の文書にも登場しないことから、名称というよりも「指状の稜線」くらいの扱いだと考えられる。



















日本軍側に記述はないが、50m閉鎖曲線高地(Hill60)とNan高地には、それぞれ1個小隊程度(40〜50人)が配置されていたと思われる。












50m閉鎖曲線高地とNan高地は絶妙な相互支援態勢であり、両方が健在であるうちは強力な防御陣地となる。 しかしながら、どちらか一方を失うと一気に戦線が破綻する脆さを有していた。































沖縄地方気象台の観測では5月7日朝6時は高曇り、18時は雨となっていることから、雨の降り始めは朝方からだと思われる。 5月3日以降晴れが続いていることから、まだ戦車の機動には支障はなく、むしろ激しい雨による視界不良だと思われる。







中隊の主力を西側の50m閉鎖曲線高地方面に充当している独立歩兵第15大隊第5中隊にとって背後からの敵は非常な脅威と考えたはずである。 現在の陽明高校に位置する部隊の一部を東側対応に充当することは、この地域の防御戦闘破綻を意味する。

































日本側の記録では米軍の攻撃があったとしているが、米軍側の記録では攻撃中止である。 日本軍は米軍の斥候を攻撃と解したのであろう。

5月8日は夕方まで雨であった。日本軍は延命ができたと考えたであろうし、米軍は総攻撃に備えて新しい部隊に交代して万全の態勢を整えた。





























日本軍はNan高地を失うことによって、50m閉鎖曲線高地西側及び北側斜面から接近する米軍を駆逐することが出来なくなった。すなわち相互支援によって形成されていた防御戦線が破綻したのである。




























午後に第1海兵連隊第1大隊が
「Finger Ridge」に進出したことによって、50m閉鎖曲線高地の日本軍は背後からの攻撃を受け、さらに陽明高校にある日本軍部隊は退路を遮断されることになった。
この進出は、50m閉鎖曲線高地の戦闘の勝敗を決するものとなった。





































相互支援を失った日本軍に対し、米軍は戦闘力を集中し、一気に掃討戦にまで持ち込んだ。 日本軍は壕に籠もって最後の抵抗を行った。











































米軍は戦線を整理し、次の段階である澤岻高地の戦闘へ移行する。澤岻高地の次には大名高地、そしてその次が首里となり、重大な局面へとさしかかった。