武剋隊隊長 中尉 広森達郎(三重県亀山市出身)                                                 2005年作成

武剋隊隊長 中尉 広森達郎

3月25日午後遅く、米軍の激しい砲爆撃の中を北方の空から9機の航空機が中飛行場に着陸した。武剋隊は関東軍で編成され、台湾に向かう途中に燃料補給のため中飛行場に飛来したのであった。

3月26日は第44飛行場大隊の支援により、航空機の整備・燃料補給などを実施した。米軍の艦砲射撃は朝から激しく、その中で航空機が損害を受ける可能性もあったわけで、通常ならば最小限の整備・補給で台湾に向かっていたはずである。しかしながら彼らは離陸しなかった。

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第32軍航空参謀 神直道氏の手記
 3月26日、中飛行場からの電話で特攻隊が到着したという。自動車に飛び乗り、艦砲射撃の炸裂する中を間隙を縫ってかけつける。私は第8飛行師団長の訓令により、本島付近の特攻隊の指揮を命ぜられていた。このまま台湾に行かせた方がよいのか、あるいはここから出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方がより効果は大きいのではないか、否、今夜、明日中にも飛行場に艦砲射撃を受け、離陸することすら困難になるのではないか等々、迷いに迷ったあげく、27日払暁、攻撃するように下令した。命令文に「特攻すべし」などとどうしても書けず、「必沈すべし」と記した。 
 下令直後、私は隊員の顔を正視することができず、僅かだが離れた所に立ち、涙を見せぬように飲み込みながら彼らを見守った。隊長の操縦時間はおよそ250時間前後か。他の隊員はおして知るべしである。
 まだ爆弾を積んで飛行したことがないという。重装備の離陸滑走、直後の上昇、第1旋回の注意など、及ばずながら教えた。もちろん、艦船の攻撃部位、突入角度など全く教育されていないのである。

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 神参謀は下令前に広森中尉に対して、「明朝、特攻するものと思って準備してはどうか」と問うたところ「はい、命令があればいつでも」と答えたという。かくして途中立ち寄った沖縄で特攻という全く予期しなかった広森隊に対して「特攻」の命令が下令されたのである。目標は「嘉手納沖に遊弋中の米艦船群」。勿論、必至必殺、生還は望めないのである。

 夕刻には広森隊長以下9名は比謝川畔の飛行場大隊入浴場の入浴を済ませる。その晩比謝川沿い久得橋近くの飛行戦隊兵舎内で壮行会が行われた。その席上、広森隊長は部下隊員に対して次のような言葉をかけた。
 「いよいよ明朝は特攻をかける。皆いつものように俺についてきてくれ。だが、ひとつだけ約束してくれ。今度生まれ変わったら、たとえ蛆虫(うじむし)に生まれ変わってきても国を愛する忠誠心だけは失わないようにしよう」
 なんのためらいもなく国家のために身を捨てようとする至誠と気魄に、その場にいた人たちは臓腑をえぐられる思いで、隊員たちの顔を正視することが出来ず、皆唇をかみ、涙を密かに拭ったという。


 3月27日午前5時30分。晴天の明け方に砂塵をあげて9機の武剋隊が中飛行場を飛び立った。250キロ爆弾を抱えた航空機は3機づつの編隊を組んで飛行、首里の方向へ向かった。
 首里山上では軍司令官も見守った。編隊は西海岸を超低空で矢のように飛んで行く。くっきりと日の丸が見える。天翔ける神々だ。頭が下がる。
 やがて敵の対空砲かが始まった。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は目指す戦艦に突っ込んだ。火災と共に黒煙が天に沖し、煙が薄らぐと5つの艦影は海に没し去った。一瞬の静寂、そして低いうめき声にも似た嘆声があちらこちらに起こった。



沖縄到着を26日とする記録もあるが第44飛行場大隊の証言から、ここでは25日とした。
出発地の熊本県健軍飛行場では当時派遣隊長をしていた広森中尉の実兄が弟の機を見送り、最期の別れをしたという。この日付も25日である。



飛行時間250時間といえば、現在でも約1年以上の年月をかけて訓練し、ようやく一人前として飛行できる時間である。他の隊員については詳細な記録がないが、沖縄までの長距離洋上航法についても広森中尉が引率してきたものと推察する


写真は装備などから判断して関東軍で編成された際のものではないだろうか

「特設第1連隊の戦闘」にこの時の入浴後の様子を記述している








この日の朝は、各部隊とも張りつめた緊張感の元に迎えたという。