伊江島守備隊 (いえじましゅびたい)                                                          


「伊江島守備隊」について

 伊江島の戦闘に関する記録や戦記は何点か出版されているが、「伊江島守備隊」は防衛省に寄贈されたものであって、一般的にはほとんど知られていない。しかしその内容は各小隊や分隊に至る細部の描写が事細かに記されており、また戦闘の様相が実に具体的であることから公刊戦史に優る一級の記録であると考える。記述者が三宅氏ご本人であることかの確認も出来ない状況であるが、おそらく大隊本部に勤務した方の執筆であることは間違いないと思われる。

      熊本市   三宅 重之 氏 寄贈             この小篇を南海の孤島伊江島に華々しく散った幾多英霊の遺族に捧ぐ

   注 意
    1  原文は青刷りで昭和30年代に記述されたと思われ、一部が不鮮明になり判読が 困難なものがある。
  2  文面の前後からの推定も出来ない部分は「○」を挿入している。
   3  原文に忠実に転記することを主眼としたが、誤字や仮名使いの誤り等については修正を施した。 
   4  文中の各段落前の日付は当方で加筆したものである。
    5 「伊江島守備隊」の写真については全て筆者が記載したものである。

伊江島守備隊部隊編成
伊江島地区隊長  
 独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊長 井川 正 少佐
    緒方 文雄 中尉(副官)   生森 豊 少尉   比嘉 盛茂 中尉(軍医)   児玉 俊介 見習士官(軍医)   福山 貞次 中尉(主計)
 第1中隊 吉岡 登 中尉(大尉という記録もある)
    第1小隊長 前田 為徳 中尉   第2小隊長  高野 善利 少尉   第3小隊長 森 三千也 少尉
 第2中隊 大崎 優 中尉
    第1小隊長 草牧 覚 中尉    第2小隊長 永瀬 徳蔵 少尉   第3小隊長 児島 高冨 少尉
 第3中隊 平良 真太郎 中尉
    第1小隊長 三津家矩男 少尉  第2小隊長 橋本 勇二 少尉   第3小隊長 野口 篤 少尉
 第1機関銃中隊長 満留 勉 中尉
    第1小隊長 吉見 五夫 少尉  第2小隊長 中釜 達郎 少尉   第3小隊長 堂園 次兵衛 少尉
 
        第2歩兵隊第1大隊総員650名。重機関銃6 軽機関銃27 擲弾筒27 迫撃砲不明

 第2歩兵隊臨時編成砲兵小隊(蒲池中尉以下11名)  38式野砲2門
 独立機関銃第4大隊第3中隊(小川中尉以下108名)  重機関銃8
 独立速射砲第7大隊第1中隊(諸江大尉以下115名)  1式47ミリ砲6
 電信第36連隊の一部(不明)                 3号無線機及び5号無線機
 第50飛行場大隊(田村大尉以下約310名)        20ミリ機関砲4
 第118独立整備隊(小野中尉以下約100名)       戦力微弱 
 第502特設警備工兵隊(宜保中尉以下約800名で大半は住民義勇隊)戦力微弱
 伊江島防衛隊 推定220名



「伊江島守備隊」

 井川部隊、詳しくは独立混成第四十四旅団第二歩兵隊第一大隊
昭和19年9月5日沖縄県国頭郡名護に於いて編成さる。部隊長陸軍少佐井川正は大分県の人、年齢39歳。部隊の根幹をなすは大分・熊本・宮崎・鹿児島四県出身の将兵約350名にして、之に加わるに現地召集の兵約300名を以てす。編成と共に名護地区以北の防御を任ぜられる。9月19日より10月3日の間、伊江島飛行場設定工事に従事す。10月4日名護帰隊。10月7日本部半島・真部山・崎本部地区防衛の新任務を受けて進駐す。10月10日第一次空襲(南西空襲)を受けたるも大隊の人員資材に損害なし。即日全部隊真部山及び建堅高地に配備され陣地構築に専念す。11月27日夜半突如として伊江島進駐の命到る。
 12月1日伊江島進駐開始さる。この日前日来の雨は稍々収まりたれども海上は尚荒れて「リーフ」(珊瑚礁)に吠ゆる波濤は物凄く、運命の島「伊江島」へ行く将兵の気持ちを象徴する如くであった。
 伊江島は本部半島備瀬岬を西に隔たる事4km、東西約8km、南北約4kmの大略楕円形の小島にて、東部の中央に宛然置物の如くに裸の岩山が一つ座っている。標高約200m、村民は之を一つの信仰の如く朝夕に仰いでいる。即ち伊江城山(いえぐすくやま)である。この山の外は全島は一様な平地で汎く耕されている。島の北岸一体は数十mの珊瑚礁の断崖が連なりその絶壁上の高地は見渡す限り蘇鉄の自然林が続き、紺碧の海は沖合の環礁に波立って南海の孤島らしい風景を呈している。城山の南域一体に部落あり。戸数約2000、人口7500、全島は何処でも地下約1mに到れば硬い珊瑚礁が現れるに拘わらず、芋甘藷、野菜は一年中豊かで近海漁業と併せて島民は安楽な幸福な日を送っていた。
 
 昭和19年早春以来陸軍飛行場大隊が駐屯して此処に飛行場を設定していた。我が部隊は伊江島到着と同時に既に数ヶ月前より同島に駐屯していた独立速射砲並びに独立機関銃の各1個中隊、計約200をその指揮下に入れて直ぐに陣地の構築に着手した。この平坦にして森も林もない小島に於いて予想される敵の猛烈な砲爆撃に堪えて、優勢な敵を撃退するには地下の堅固な陣地に拠るの他はない。将校も兵も全員が珊瑚礁の山、珊瑚礁の土地に向かって、夜も昼もない戦いを続けた。此処でも資材難は我々を苦しめた。近代的機械は無論ない。  
 火薬も鍬も鶴嘴も灯油も常に不足不足であった。毎晩遅く作業帰りの軍歌を聞き、寒い夜中に起き出して行く兵隊に住民は深い同情の詞を漏らした。しかし我々にはその時既に無理とか過労とか言っている余裕はなかった。「レイテ」の戦は友軍の奮戦に拘わらず我々の期待の如くには進展していないらしく、年末頃からは「タクロバン」を基地とするB24が我々を偵察し始めた。南西諸島海域に於ける敵軍優勢の報到る頃よりは敵機の偵察は益々頻りとなり。敵の時期作戦地が南西諸島らしい気配が濃厚となってきた。

 昭和20年1月22日には敵機動部隊による猛爆が伊江島の飛行場並びに部落全般にわたって加えられた。この熾烈な空襲は丸一日繰り返されて、学校を始め数十戸が全壊した。野砲隊長浦池中尉の避難壕も直撃弾を受けて破壊し、中尉は胸部顔面に負傷した。同様の猛爆は3月1日にも行われ、民家は次々に焼けて行き各戸を取り囲む福樹の濃緑は見苦しい赤茶色に変わった。此の年の冬は沖縄に珍しい寒い冬で雨の日が多かった。此の寒中を兵達は陣地構築の合間合間に肉攻斬込みの猛訓練に励んだ。何の娯楽もない此の離島に数々の困苦を舐めながら兵は不平も漏らさず実によく働いた。それは井川部隊長を中心として全員が一致団結し、皆が同じ労苦を味わい励まし合い慰め合っていたからである。将校は殆ど大部分が予備役の招集将校で、世の中の酸いも甘いも充分に味わって来た40歳以上の人が多かった。部隊長を始めとして将校も兵を共に石粉と油煙にまみれて壕堀りに汗を流していた。
 井川部隊長は支那事変の勇将で、胸間に輝く金勳と負傷による独特の豪傑風の歩き振りは一見畏怖の感を抱かせるが、実は人情部隊長として兵隊は勿論住民からも敬愛を一身に受けていた。副官緒方中尉(熊本県)は「ノモンハン」戦の勇猛中隊長で鋭利な日本刀の如く冴え渡った頭脳を以て部隊長を輔(たす)け部隊を引き締めていた。また配属独立速射砲中隊長諸江大尉(佐賀県)は典型的葉隠武士で、卓越せる戦術眼、恩威併び行う高潔な人格は将兵住民の徳望の的であった。部隊長を頭として此の三人が一心同体となり、最後まで部隊をガッチリと握って寸分の揺るぎも見せなかった。

 2月上旬遂に公式にX作戦(天号作戦)の内示があり、沖縄が戦場となる公算はいよいよ増大した。之を裏書きする如く敵機の偵察は益々頻繁となり渡久地に到る8kmの海峡の昼間航行すら危険になった。夜になれば近海に頻りに怪火信号が望見された。住民の本部半島への疎開が軍により提唱されて、学童老幼を始めとして住み慣れた故郷を後に海峡を渡った。将兵の顔には緊張と決意の色が日一日と強く刻まれて行った。多くの将兵は故郷の母に父に妻にそれとなく別離の手紙を書き送った。全員此の孤島を憤墓の地とする覚悟を堅めた。何故なれば此の伊江島は、此の伊江島飛行場は軍事的に最も敵の目を惹く存在であり、また其の地勢は余りにも守備に難く守備隊は其の数に於いても、その装備に於いても、優秀装備を誇る衆敵を撃退するには余りにも貧弱である事を皆よく知り抜いていたのである。唯部隊長日頃の訓示の如く、全員生死を超越し全力を尽くして一人でも多くの敵兵を一台でも多くの戦車を斃し、一日でも長く此の飛行場を敵手から守って、仮令我々は伊江城山麓に屍○すとも、之れにより沖縄本島に於ける友軍の作戦を○益せんと祈念した。
 2月11日の建国祭には雨の中を全員角力と演芸に一日を打ち興じたが、誰も之が此の世に於ける最後の団欒となるであろうと言う一抹の哀愁を抱いていた。案の如く翌12日より敵の有力機動部隊の情報が入り、其の進路が南西諸島に向かい沖縄上陸の算大なりとの軍参謀情報に全員緊張す。畑や道路には爆発物が敷設せられ、15日夜には隊長会同が召集せられ種々の打ち合わせがなされたが、その席上敵の硫黄島上陸の報が入った。硫黄島友軍の善戦勇奮に次ぐ悲壮なる最後の報を聞き、我々は訓練に陣地構築に一層の精進を続けた。
 3月上旬の或る日、春らしい長閑な日影が漸く西の洋上に傾かんとする頃、聯隊長宇土大佐(長崎県)が本部半島の山中から海峡を渡って我が部隊を訪ねられた。我々将兵は子供が久しぶりで父親に会う様な気持ちでお迎えしたが、聯隊長は敵の攻撃が何時沖縄に向かうかも知れぬ緊張した情勢下、部下を激励し同時にそれとなく別れを告げに来たものと察せられた。「任務上諸子と同じ戦場で戦う事の出来ぬのは聯隊長の深く遺憾とするところであるが、大隊長を中心として敢闘せよ。必勝の信念は決死の覚悟より生ずるものなる事を銘記せよ」。その夜一同は聯隊長を取り巻いて気点を上げた。
 3月上旬、情勢の緊迫に応じて防衛召集が発せられた。45歳迄の沖縄県人が召されて伊江島にも配備された。その数約800。ここにおいて伊江島守備隊は我が部隊(配属中隊を含む)と防衛隊及び飛行場大隊(約200名)の3部隊より編成され、各守備地域が決定された。即ち我が部隊は東飛行場より以東。田村飛行場大隊は飛行場地区、防衛隊は「山山」「マジヤ」の地区を担当守備する事になった。しかし我々の部隊を除く他の2部隊は孰れも戦闘訓練も充分と言えず、特にその装備は問題にならぬ程の貧弱なもので、小銃も少なく少数の軽機の外は手榴弾と急造箱爆雷、それに信じられぬ様であるが竹槍がその武器であった。

 3月上旬の某日、晴天の霹靂の如く飛行場爆破命令が飛行場大隊に下達されて来た。東洋一の飛行場、北○に於ける失敗に顧みて近代的立体飛行場を目指して着工以来満一カ年夜昼強行で完成も漸ぐ目前に迫り、特攻の一個戦隊も近く来島するとの噂に兵も民も大いに期待していた際、自ら之れを徹底的に破壊せよとの軍命令、田村部隊長の胸中は察するに余るものがあったであろう。軍最高部の如何なる意向によるかは我々の想像の外にあるが、作戦上伊江島飛行場を使用しなくなったのか、或いは伊江島守備の困難性を認めての措置か、兎に角田村部隊と防衛隊は共同して建設に劣らぬ困難な破壊作業を開始した。
 我が部隊の陣地構築は各中隊共孰れも一段落の域に達した。伊江城山麓より部落一帯は一連の地下要塞と化した観あり、十数メートルの地下に数十メートルの壕が縦横に連なった。作業の合間合間に兵達は箱爆雷を造った。自分が担いで敵戦車の下に飛び込む可き箱爆雷を黙々として造っていた。
 軍の督促により住民の疎開避難は拍車をかけられた。約3000名が敵機を避けて暗夜の海峡を渡った。毎日の様にB29が無気味な偵察を行った。破壊される滑走路の上を低空で旋回して行く。沖縄の3月はもう全く春だ。内地の4月末頃の暖かさで、鶯や鴫が啼き競って桑の実を食いに来た。人間の世に無頓着に自然は長閑な春であった。
 この長閑な春の静寂を破って悲惨な死闘が突如として展開されたのは3月23日であった。此の日朝からの曇天は時折小雨を降らせていた。午前8時頃空襲警報あり乙号戦術が下令された。然し空襲は毎度の事であり、此の度もいつもの空襲に考えていた。唯数日前に敵有力機動部隊が九州・四国方面を襲撃して後南下しつつあるとの情報があり、或いは之れが敵沖縄作戦の牽制に非ずやとの僅かの予感は誰も持っていた。唯常の空襲と異なり空襲は翌24日にも続けられた。然も24日の空襲は一日中執拗に繰り返し繰り返し行われて主として部落を焼き払うかの如くに見えた。之れは少々おかしいぞと思っている時、敵艦が島尻郡湊川を艦砲射撃しているとの情報が入り、続いて早くも敵の慶良間列島上陸が報ぜられた。いよいよ来るべきものが来たのである。命令により全員部落内の宿舎を引き払って各隊の棲息壕に移り、戦闘に備えて各人身の回りの整理を完了した。
 翌25日遂に敵上陸に備える甲号戦備が発令された。此の日初めて我々の目に敵艦が見え始めた。城山より見える南方海上には大小の敵艦が現れ、伊江島周辺にも重巡、駆逐艦等十数隻が遊弋し始めた。敵も撃たぬ我も撃たぬ。戦気を妊んだ無気味な沈黙が島を覆っていた。南方海上の敵艦は刻一刻その数を増し、やがて見渡す限り水平線上に小島の如き戦艦巡洋艦が○に○○さんばかりにひしめき合った。正午頃から光芒一閃、耳を○する艦砲の音が静寂な空気を揺すぶって轟き始めた。残波岬の彼方嘉手納方面を射撃しているらしい。
 26日も朝来敵機の銃爆撃があり、然も正午過ぎから遂に敵の艦砲射撃が伊江島にも加えられ始めた。飛行場・部落・城山付近と到る所へ盲滅法に撃って来るが、満三ヶ月の血と汗で築いた我々の壕は予想以上に堅固であった。直撃を受けた処もあるが損害は皆無であった。然しこの艦砲射撃と爆撃により部落の大半は破壊し焼き払われた。家を失い敵弾下に曝された住民は軍の壕や海岸の自然洞窟中へ避難した。27日軍参謀部並びに連隊本部よりの情報として、敵上陸予想地点は主力を以て湊川地区、一部を以て嘉手納・伊江島等より上陸する算大なりと。
 28日午前4時頃全員集合を命ぜられ、東天ほのかに明らむ方を拝しながら「天一号作戦は皇国安危の決するところ・・」と言う。聖旨並びに参謀総長の激励の詞を拝受した。夜が明けるや否や敵機は日課の様に一日中島の上空を旋回し、何か変わった物を見つけると狂ったように掃射する。敵艦は日毎にその数を増し、特に残波岬の海上は敵艦を以て覆われ、水平線は艦影で全く埋まる有り様である。伊江島より肉眼にて数えうる巡洋艦以上の巨艦は常に60〜70隻に達していた。よくも之れ程持ってきたものと呆れるばかりである。之れが帝国海軍であったならと兵達は嘆息した。
 敵の上陸開始の報は未だない。敵は恐るべき慎重さを以て此の作戦に取り掛かっている事が推察される。硫黄島での大損害に懲りて、徹底的な予備射撃を行っているのであろう。それにしても敵来襲以来既に過日超すのに唯一機の友軍機も我々の目には映らず、連合艦隊出動の報もない。唯28日の払暁前、暗夜の南方海上に物凄い防空砲火を見たのみである。また夜になれば折からの月明かりの洋上を夜目にも白い航跡を引き「エンジン」の音を高く立てて、友軍のマルレ(水上特攻)と思われるものが少数、本部半島の方より伊江島の前を通って南の方へ消えて行くのが認められた。昼間見た敵艦船の豪勢さに比して、それは余りにも微力に思われたが、それだけに余計に悲壮であり、見送る我々の胸に熱いものがこみ上げた。敵沖縄来襲の折はその艦船の大半を海上に於いて葬るであろうと聞かされた戦前の話は何日実現するのであろうか。
 4月1日遂に敵は一部を以て湊川方面に欺陽動を行いつつ大挙、嘉手納・北谷の正面に上陸を開始した。その前日来両方面に加えられた艦砲射撃の猛烈さは言語に絶した。遙かに望む残波岬の彼方は飛び上がる土砂と濛々たる煙に一面に霞んでいた。

 斯くて伊江島は我々の予想に反して、敵の第一上陸から取り残された。上陸軍と友軍との戦況を毎日壕の中で聞いた。日と共に壕中生活にも慣れて来た。兵の髭は延び、顔色は白くなったが士気は益々旺盛であった。福山主計中尉(熊本県)の努力により、今までの不足がちの給与に比して豚牛鶏類が毎日兵の旺盛な食欲を満足させた。昼間は常に上空に敵機が舞い、夜になれば島の周囲の砲艦から砲弾が飛んでくるので、一歩壕の外の出れば何時でも生命の保証は出来ないが壕の中なら先ず安全である。敵の伊江島上陸は既に時日の問題である。敵を前にして将も兵も悠々と最後の準備をした。陣地の仕上げ、武器弾薬の整備、それから第一に穴居生活で健康を害さない様に細心の配慮が払われた。最後の覚悟は既に伊江島進駐時から出来ている。誰も今更それを問題にする者はなかった。
 3月31日の夕方、井川部隊長を取り巻いて本部の全員と各隊の一部の者が会食を催した事がある。場所は城山中腹にある戦闘指揮所前の斜面で、松も疎らな処とて眼前に遊弋する敵艦にも時折り廻って来る敵機にもよく見える。然し誰もそれを恐れる者はない。○くんを帯びた部隊長は得意の安来節を踊り、緒方副官も十八番の黄金虫を舞った。○笑は全員の腹の底から湧いて意気は敵を呑んだ。深松軍曹は松の切り株に片足を掛けて眼前に浮かぶ敵艦に小手打ちかざし「やあやあ遠からんものは音にも聞け、近くば寄って眼にも見よ、我こそは・・・・」と素晴らしく太い声で叫び掛けた。「五条の訓(おしえ)読みて戦野に屍曝すとも、武人の覚悟かねてより、一髪土に残さずも誉れに何の悔いやある・・・・」、福山主計中尉に合わせて全員の歌う戦陣訓の歌声が松陰○く濃くなった伊江城山腹から○色に暮れゆかんとする夕闇の中に消えて行った。
 4月3日には夕方待ちに待った友軍特攻機が来た。物凄い弾幕の中を次々次々に突っ込んで行く。暫くして北方海面で駆逐艦らしきもの四隻が黒煙を上げ、南方では駆逐艦一隻が轟沈、他に二本の黒煙を認めた。然し我々の真上で友軍機2機が戦闘機6機に取り巻かれて、火を吹きつつ無念にも渡久地海峡に墜落して行くのを兵達は地団駄を踏んで口惜しがった。其の夜兵達は昼間の特攻機を語り俺たちも何時死んでも心残りはないと話し合った。
 情報によれば嘉手納に上陸した敵軍は本島を両断して南北に進み、北は既に名護に迫り南は三本の道を併通して、東海岸は中城村津覇に到ったらしい。大隊高級軍医比嘉中尉は津覇の自分の家が今頃敵の砲火を浴びているだろうとつぶやいた。妻子を戦場に残して離島に戦う沖縄出身軍人の心情を察して誰も慰める言葉もなかった。
 掃海艇は毎日の様に伊江島周辺を掃海し、渡久地海峡にも敵艦が入って来た。高射砲も巨砲も持たぬ我々には飛行機や軍艦には手も足も出なかった。西岸灯台付近に分遣されていた永徳少尉(鹿児島県)指揮下の兵隊は余りの口惜しさに接岸した敵駆逐艦に軽機を撃った。敵艦からも軽機で応射して来た。敵も可笑しかったのであろう。
 4月8日午後5時島の上空を旋回していたB24二機が島の東部墓地に数発の爆弾を下し、その一弾が松岡伍長の率いる一個分隊が陣地としていた墓地に直下し、折から夕食中の同分隊員を埋めた。報により吉岡第1中隊長、緒方副官、児玉軍医等が第1中隊の兵と共に馳せ付け、敵機下で必死の掘り出しを行い、8名を救出したが松岡伍長以下4名は遂に無惨な戦死を遂げた。我が部隊最初の尊い犠牲であった。情報によれば敵は名護より本部半島に進み、一部は伊豆味を衝き、我が連隊本部へ背後より迫る気配を示した。4月10日連隊長より大隊長宛「いよいよ眼下に敵を見る」との電話あり、戦況を気遣ってその後連隊本部に対し幾度も幾度も状況問い合わせの無電を発したが、本部からは何の感度も無かった。暫くして我々の部隊と連隊本部との連絡は全く途絶してしまったのである。
 ラジオによる大本営発表によれば沖縄周辺に群がる著しい敵艦船の数は千四百隻に上り、我が陸海特攻隊は全力を之れが撃滅に尽くしているらしく、連合艦隊も遂に出動したらしい。4月10日頃迄の敵艦船の損害は計四百隻に達するとの事。その為か否かは分からぬが伊江島より望見される艦船総数は幾分減少した様である。然るに伊江島周辺の敵艦は4月10日頃より漸次増加し、既に周囲の海は完全に掃海されてしまった。4月13日頃には敵駆逐艦が水納島に停泊したらしい様子である。一日中26隻〜30隻が遊弋して我々を監視している様である。13日には戦艦及び巡洋艦を含む20隻が取り巻いていたが、正午過ぎその戦艦の放った巨砲弾が城山南側中腹にある第1機関銃中隊(以下1機)の○見壕に直撃して之れを崩壊せしめた。報により緒方副官が本部員を率いて其の救出にあったが、ここは敵艦より丸見えの箇所であり、敵が盛んに撃って来るので作業は困難を極めた。壕にいた中隊長満留中尉(宮崎県)及び45名の兵達は幸いに自力で脱出したが、中には堂園少尉(宮崎県)以下13〜14名がいるのだ。その大部分は圧死を遂げているらしいが、一部の生存者ある見込みで危険を冒し救出作業を続ける事約4時間に及んだが、艦砲射撃が益々激しくなるのでやむなく一時中止せざるを得なかった。此の作業中に今度は城山の西側中腹にある独立機関銃中隊(以下独機)の壕にB24の投下した500キロ爆弾が直撃して、岩石で出来たその頑丈な壕を押しつぶした。巨大な岩盤が落下して救出は到底不可能であり、中にいた部隊長以下約20名の兵と4名の女子救護班員は恐らく即死せるものと思われた。実に悪い日であった。其の夜再び一機の救出が行われ、堂園少尉以下5名が奇跡的にも無事救出され、河野伍長等の死体が発掘された。更に15日朝最後の2名が救出された。殆ど20時間生き埋めになっていたのである。



4月15日(米軍上陸1日前)
 4月15日は朝来伊江島周辺の敵艦は戦艦3隻を含む大小50隻が数えられ、伊江島全周を取り巻いて物凄い砲撃を開始した。砲弾は海岸線・飛行場・城山・部落と殆ど来ぬ所はない有り様である。特に此の日の弾は光景が大きいためか今までの砲撃ではビクともしなかった各棲息壕が一日中恐ろしく揺らぎ続けた。敵砲艦の射出する「ロケット」弾は1秒10数発射速度を以て急調子の太鼓を打つ様に轟き続けた。百雷が一時に落下するときは正に此の様な事であろうかと思われる物凄さで、此の艦砲射撃は15日一日中続いた。夕方辛く壕を出て仰いだが伊江城山はいつの間にか全く別の山の様になっていた。山頂より麓に到る木という木は一本も残さず吹き飛んで、岩は崩れ落ち土砂は飛び散り、到る処に弾痕が大きな口を開けていた。地上の物は総て跡形もなく吹き散り、各部隊・各隊間の有線連絡は絶えた。山腹より見下ろす部落は見渡す限り廃墟と変わり果てていた。此の砲撃は只事でない。いよいよ敵の上陸は今明日に迫ったものと推察され、之れに備える各種の命令が各隊に伝えられた。灯台及び山々に分遣されていた各二個分隊は防衛隊に任務を引き継いで引き上げて来た。


4月16日(米軍上陸)
 明くれば4月16日、此の日払暁より前日に優る猛烈な艦砲射撃が始まった。壕から一歩も出られない程無茶苦茶に撃って来る。晴天であるはずの空は気味悪く黄色に霞んでいた。午前10時頃田村部隊より下士官の伝令が此の弾雨下を息を切らせて戦闘指揮所へ馳せつけた。其の報告によれば、敵は16日払暁より中飛行場南端付近の山々海岸に上陸を開始した。払暁よりの猛爆撃で田村部隊も防衛隊も壕から出られなかったが、妙な「エンジン」の音が聞こえるので見ると既に敵戦車は壕の前に迫り、一部は中飛行場付近にも進出しているのを認めた模様である。或る壕の如きは気付いた時は既に壕の上に敵が馬乗りとなり手榴弾を投げ込んで来たらしい。田村部隊の柴田少尉はもはや是迄と小隊を率いて敢然壕より躍り出て戦闘を交えたが忽ちにして全員壮烈な戦死を遂げたりと。
 敵上陸の報を持って伝令は各隊へ飛んだ。直に兵は陣地に付いた。最早や我々は田村部隊や防衛隊の徹を踏まんぞ。井川部隊長、緒方副官、作戦主任諸江大尉の3人は悠々として作戦を練った。落ち着き払った会話が続く。「生死、勝敗は問題ではない。唯死んでも悔いのない面白い戦争をやろう」部隊長は髭を撫でつつ莞爾と微笑む。各隊より伝令が帰り、各中小隊長以下張り切った各隊の状況が報告された。午後1時過ぎ城山南麓の独立速射砲中隊(以下独速)の陣地より、敵中型戦車数両が城山西方1km辺に出○して東進中との報告あり。之れに踵を接する如く、城山西方700m辺に近接せる戦車4両のうち3両は我が速射砲の的確な射撃により瞬く間に擱座し、他の1両は慌てて退かんとして我の敷設したる小機雷に引っ掛かって飛び散ったとの快報が入る。其後も同方面には随伴歩兵を伴う敵戦車数十両が現れたが恐れをなして近寄らず、南北に移動するのみ。島の周辺は敵艦で取り巻かれている。上陸軍の詳細は尚不明である。戦闘第一日は斯くして漸く暮れて行った。其の夜上陸軍の詳細を偵察するため、第3中隊橋本少尉を長とする将校斥候が山口方面へ発せられ、同時に各隊4組○至7組許の最初の斬込み隊が戦友に別れを告げて、旧暦7日頃の上弦の月ほのかに照らす夜の野へ出て行った。我々はその夜半より払暁にかけて西方一帯に銃砲声の激しい中に何度も何度も爆発音を聞いた。
                             


4月17日(米軍上陸2日目)
 4月17日晴天。敵は昨日水納島へ砲6門を揚陸したらしく、朝来艦砲と合わせ盛んに城山地区へ撃ち込んで来る。早朝田村部隊の将校下士官、兵数十名が我が戦闘指揮所へ退って来た。その話によれば部隊長田村大尉の壕も16日敵に馬乗りされ、その夜脱出して敵の包囲下に陥り、生死不明との由。その後田村部隊も防衛隊も専ら斬込み隊を出して奮戦している由。昨夜の我が斬込み隊は其の後帰って来た兵の報告によれば大部分東飛行場方面に到り、約半数は接敵に成功し敵戦車及び幕舎に爆雷を投入した。各隊共爆雷を抱いてその儘戦車に下に飛び込み、戦車と共に華々しく四散した数名の下士官兵が報告された。その確認されたる戦果、戦車7両擱座、幕舎3破壊、敵兵損害の詳細は不明なり。山々方面へ出た橋本少尉以下は敵中深く潜入して偵察中遂に敵の重囲に陥り、橋本少尉は重傷を受け、恐らく戦死せるものと思われるとの報告が辛うじて脱出して来た兵によりもたらされた。敵は山々海岸、中東飛行場付近に多数の幕舎を張り、既に一部に候敵警戒を設置し、戦車を並べている。その兵員大約三千なりと。17日午前10時頃より大型輸送船約70隻を中心とした敵の大船団が伊江島南岸の海上に群がって来た。間もなくそれらの船から数えきれぬ程の上陸用舟艇、水陸両用戦車等が出て来た。艦砲射撃は更に熾烈となり、その砲煙の中に敵が新波止場より旧波止場に至る南岸一帯に新しい上陸を開始するのが手に取る如く望見された。その艦船の夥(おびただ)しさを眺めて歴戦豪気の緒方副官も流石に言葉を飲んだ。水納島一帯の海面は全く艦船で埋まっているのだ。波止場正面を守備している第3中隊よりの報告によれば敵は兵員及び飛行場設定機材らしきものを揚げつつあり、兵員は約六千名を推算された。第3中隊及び一機は陣地より之れを攻撃して敵兵の倒れるのが手に取る如くに見え、痛快な戦闘をしているとの報告。
 井川部隊長及び副官は弾雨中を戦闘指揮所へ来た諸江大尉と共に熟議30分間、敵の態勢未だ整わざる今夜半を期して全部隊の3分の2の兵力を以て此の新手の敵に対して夜襲を敢行、之れを海中へ撃退する事に決した。兵達は守って死ぬよりは攻撃して華々しく散る事を望んでいたので、此の命令を聞いて皆勇んだ。一機中隊長満留中尉は泳ぎ上手の部下数名を連れて今夜水納島へ泳ぎ渡り、其処の砲を爆破せん事を大隊長へ具申し、諸江大尉の指示を得て爆雷と自動車のタイヤを持って出て行った。敵戦車群は城山西方へ来ていたが其辺を徘徊するのみで近寄らない。部隊の重火器の大部分が西方に向いているので、西方向から敵の来るのは我の思う壺であるが、敵は昨日の痛打に懲りて西方一帯に候敵警戒器を設置して近寄らない。午後4時頃第3中隊より戦死を伝えられた橋本少尉は負傷せるも元気で兵に助けられて無事脱出帰隊せりとの知らせがあった。夕方頃には敵の斥候が部落西端方面に出没して来た。其夜淡い人影が三々五々靴音もしのびやかに黙々と城山の黒い影の中から西方へ散って行った。其の鉄兜は緑の三角巾で包まれて淡い月光の反射すら防がんとし、軍刀の柄を巻いていた白い包帯も取り除かれていた。今は其処の木陰に此処の○れた家跡に敵の斥候が潜んでいるかも知れないのだ。兵隊の交わす「神」「風」の合い言葉も低い。時折砲弾の落下する中を各隊の命令された攻撃準備地点へ各個に急いだ。第3中隊と一機はその既設陣地にて新波止場に向かい、第1中隊は旧波止場に対して陣取り、第2中隊は第3中隊の西に続き、独機は第3中隊陣地に加わった。部隊長は副官以下本部の兵を以て新波止場を眼下に見る学校高地に拠った。比嘉・児玉両軍医の率いる衛生部は第3中隊の壕に包帯所を開設した。上弦の月漸く傾いた18日午前2時頃より各隊一斉に銃火を開いた。重機を主とし、豆を煎る様な激しい銃声が暗夜の静寂を破った。我が攻撃主力は新波止場上に向けられた。我が奇襲に驚いた敵は暫時応戦もして来なかったが、間もなく狂った様にあらゆる火器を撃って来た。野砲・迫撃砲それに海上に在った夥しい軍艦の艦砲が一斉に我が方に向かって火を吐き始めた。特に我が重機陣地には敵砲弾が雨下し、戦闘約1時間にして其の2銃は破壊され、其処にいた12名が負傷して包帯所に運ばれその4名は戦死を遂げた。戦闘は尚激しく継続せられたが敵の猛弾雨は我に波止場の平地へ近づく事を許さなかった。然も敵戦車は暗夜を利して我が陣地を超過し来たり砲銃撃を加えた。之れに対し我が肉攻も木陰から飛び出して爆雷を投げその2両を破壊した。そのうち東天漸く白む頃となったので、部隊長は全員に攻撃中止、引き上げを命じた。此の夜襲により我に前記の独機の犠牲の外に各隊数名宛の戦死者を出した。敵にも相当の損害を与えたに相違ないが暗夜の事とて確認するよしもなかった。
                               

4月18日(米軍上陸3日目)
 夜が明け渡って翌18日も晴れ渡った好天気であった。昨夜徹宵の夜襲戦から疲れて各隊陣地に帰った兵達にゆっくりした休養の時間は殆ど与えられなかった。敵は午前10時頃から我に対して本格的攻撃を加えて来たからである。その主攻正面は第3中隊・一機の守備している学校高地である。城山西方の敵は依然近寄らず、南へ廻って部落南西端より第2中隊児島少尉(鹿児島県)の守備正面を衝かんとする態勢を取り、また北へ進んで城山を遠く北方より迂回する如く来た海岸寄りに東進した。昨日新波止場に上陸した敵は主力となって南方より部落及び学校高地を攻撃し、更にその一部は南海岸寄りに東進して東海岸に進み、其処より城山方面を衝かんとして高野少尉(熊本県)の拠れる女山より東方に連なる一連の墓地の陣地の正面に現れた。敵の主火器は戦車約百両を主体とし、その後方に多数の砲を据えていた。物凄い銃砲声と砲煙、鼻を衝く煙硝の臭いが伊江島東半部を覆い包んだ。敵機は始終低空飛行して地上の敵に協力した。友軍は暴露すれば敵機から掃射されるか或いは敵機の通報により迫撃砲弾の雨を浴びねばならず、かと言って壕に引っ込んで前方から目を離せば地上の敵はその隙に戦車を以て一挙に我が陣地を○○せんとする勢いである。対戦車砲は不幸にも南方には向っていない。飛行機と戦車を持たぬ軍隊は近代戦に於いては実に苦しい惨めな戦闘を強いられるものだ。敵主攻正面に立った平良中尉(沖縄県)の率いる第3中隊は此の困難な中にあって実に立派な奮戦を続け、高地に迫る戦車群を重機と擲弾筒と肉攻で防ぎ高地を固守した。中釜少尉(鹿児島県)、吉見少尉(熊本県)も中隊長の○守を引き受けて青年将校らしく張り切って勇戦した。敵は潮の如く押し寄せたが、我が猛反撃に進出不能となって退いた。その退いた後へ迫撃砲と艦砲の弾が落下して来た。友軍は此の弾雨に包まれて動けなくなった。そんな死闘が18日中幾度も幾度も繰り返されて、我が軍は学校高地を確保していた。この戦闘に我が方にも○○が続出した。学校高地の手強さに敵は次第に東進して女山、墓地の陣地に戦車約20両を以て押し寄せた。高野少尉は自ら陣頭に立ち、軽機と擲弾筒を以て防いだ。遮蔽物の少ない其の辺の防御は困難を極めたが責任感の強い既に死を決した少尉以下30余名は弾雨の中に敢闘した。城山の戦闘指揮所より之れを眺めている井川部隊長以下皆声を飲んでその善戦を思った。
 午後3時頃第1中隊より伝令あり。北海岸を東進して来た敵戦車約10両は18日10時過ぎ「ミヤト原」に分遣していた前田中尉(鹿児島県)指揮の2個分隊及び独機1個分隊の正面に来襲した。中尉以下肉攻を以て之れに猛攻を加え防戦に努めたが背後に廻ってきた散歩兵との間に挟撃され、前田中尉及びその部下の大部分が華々しい戦死を遂げたりと。将校の最初の犠牲であり元気そのものの如き前田中尉の壮烈な最期を部隊長は静かに肯きつつ聞き入っていた。
 斯くて激闘に明け激闘に暮れた18日は友軍の善戦により、よく敵を抑えて夕闇濃くなる頃砲声も漸く少なくなった。其の夜も偵察斬込みが出たが東西南三方の敵は候敵警戒器を設置し足音を忍ばせて匍いよるかすかな物音にも否焼け残った枯木にそよぐ微風の音にすら機銃、迫撃砲を集注するので容易に近寄れない状況であった。
                              


4月19日(米軍上陸4日目)

 19日も晴れてやわらかな日光が此の変わり果てた荒涼そのものの新戦場に注いでいた。敵は早朝より再び同じく学校高地及び女山墓地陣地に対して猛烈な攻撃を加えて来た。過日の戦闘に不眠不休、乾麺包を噛んで奮闘している兵は眼は落込み陥んで、烈々たる闘志をたたえた顔は物凄い面相を呈している。特に第3中隊及び第1機関銃中隊は敵猛攻の正面に立って連日連夜の死闘に死傷者漸く多く、その所有弾薬は欠乏を告げる状況にあった。此の日第3中隊長平良中尉は今日こそその陣地死守の日であるとて指揮班員と遥かに皇居を拝し、万歳を奉唱して戦に臨んだ。敵の此の日の砲撃は地上のあらゆる物を掃き去るが如き猛烈さで、砲弾の盾を戦車の前に立てて進んで来た。
               

第3中隊も高野少尉も昨日と同じく死力を尽くして戦い続けたが午前10時頃には敵は遂に学校高地に進出して来た。此の高地より伊江島最後の陣地たる伊江城山の複郭陣地までは僅か300mにして我が戦闘指揮所を指○の間に望み他の諸陣地を目下に見下ろす要地である。これを敵手に委ねる事は既に我の破滅を意味する。敵遂に学校高地に現れるの報を聞くや独速隊長諸江大尉は自ら部下を率いて学校高地下の平地に進出した。第2中隊の一部も之を掩護してその西方に続いた。敵に○○された第3中隊○○の将校は四周を敵に囲まれながら尚その陣地を死守して奮戦していた。彼我の距離は学校高地の上と下、僅かに3〜4mに過ぎない。敵も後方からの砲撃は不能となり、我が援軍を遮らんとして城山方面に砲弾を集注した。此の隙に諸江大尉を先頭に兵は学校高地の北斜面に取り付き、戦車砲の間隙を見て手榴弾を高地上の敵に投げつけた。敵は此の我が決死の攻撃に恐れて遂に高地上より後退した。その退いた後へ今度は砲弾の雨が降って来た。平良中尉は此の砲弾の雨の中に遂に名誉の戦死を遂げた。報により副官緒方中尉は諸江大尉の安否を気遣って単身高地に駆けつけ大尉と共に指揮をとった。この時、高地と女山の中間の道より進出して来た敵戦車の射撃を側背に受け、その一弾は将に諸江大尉の左下腿に命中した。鮮血に染まりつつ大尉は尚指揮を続けたが、副官と部下の願いにより遂に後退した。大隊長は永徳少尉(鹿児島県)指揮の大隊予備及び生森少尉(熊本県)指揮の大隊本部員に学校高地の救援増強を命じた。後退して来た田村部隊の将兵もその戦闘に加わった。戦闘はその夜10時に到る迄継続され、独速の力闘により奪回した高地一帯は我が手に確保されたのである。                             
  

                           
 他方東海岸を迂回し、墓地陣地の北方を通過して西進した敵戦車約10両は城山にある第1中隊正面に猛撃を浴びせて来た。吉岡第1中隊長(熊本県)は森少尉(鹿児島県)指揮の一個小隊を以て堅固な既設陣地に拠って防戦した。
 此の日朝城山戦闘指揮所付近は敵の砲弾の雨の中に煙っていた。敵の発煙弾が飛び込んで壕中は濛々たる白煙が立ちこめ煙硝の臭いが鼻を衝いた。曳火弾が盛んに壕に這入って来た。壕の入口の岩石が崩れ落ちる。兵たちは多少動揺した。敵が壕上に馬乗りするのを恐れたのである。各自手榴弾を握り、鉄兜の緒を緊めた。「早く壕から脱出せぬと壕内で犬死にするぞ、早く出よ」と叫ぶ者がある。その時井川部隊長は朝食の膳に向かっていたが箸を早める事もなく静かに食べ終えた後、例の太い声で兵たちを制した。「皆何を慌てるか。既に生死を超越した者は何事が起ころうと騒ぐ事はないではないか。然も俺の考えるところ敵は未だ○○近く来る筈はない。緒方副官情況を見よ」。壕の入口に立っていた副官がやがて学校高地、女山の線は尚友軍が確保している事を報告した。兵達は漸く平静に返り始めた。此の時壕の中から朗々たる福山中尉の歌声が聞こえて来た。「・・・・戦火交うる幾星霜、七度輝く感状の勲の陰に涙あり嗚呼今は亡き武士の笑って散ったその心・・・・」。兵達が何時となくそれに和して口ずさみ始めた。壕の外には依然として言語に絶する弾雨が我々の壕に注いでいたが、壕の内には最早何の動揺もなく、此の部隊長と共に悠久の大義に生きんと誓う兵達の澄み切った歌声のみが続いていた。然しこの騒ぎで最後と頼む無線機が破壊されてしまった。全員玉砕の最後の場合軍司令部(報告する電文も既に副官により用意されてあったのに今は此の小離島に於ける悲壮な奮闘の模様を誰にも伝える事が出来なくなったのだ。勿論誰も功を求める気持ちは寸分も抱いていなかった。然し部隊長としては完爾として死んで行く部下の心境を思い遣って此の戦闘の経過を此の最期の有様を上官に遺族に伝えたかったのであろう。砲声韻々たる壕の入口で児玉軍医に向かい最後の突撃後も若し出来れば本部半島へ渡り、連隊長に戦闘経過を報告するように話していた。其の夜児玉軍医は衛生兵を引率して負傷した諸江大尉を始め、独速第2中隊の将兵の治療の為城山を下った。「どうせ明日一日あればよい体ですから痛みだけ止めて下さい。此の壕の直ぐ西には敵がいるから第2中隊へ行く途中は注意する様に・・・・」。夜の戦場は敵が間断なく打ち上げる照明弾により昼をあざむく如くである。敵砲弾は間断的に落下して、その破片が「ヒュルヒュルヒュル」と気味悪い音を立てて落ちて来る。斯くて激戦第4日目の夜は更けて行く。


4月20日(米軍上陸5日目)
 20日の朝は爽やかな晴れ渡った朝であった。静かに目を閉じて耳を澄ませば小鳥の囀りが聞こえる。それは戦争前の平和な樹陰に戯れていた小鳥の声と少しも変わらない。一瞬身が戦場の外にある様な錯覚に襲われる。然し一度眼を開いて見る光景は何処が部落か何処が畑か見分ける事も出来ぬばかりに荒れ果てて煙硝の臭いは土にしみ込んでいた。
 昨夜命令が発せられて今日は西方に対しては一部の兵力のみを残し他は全力を以て学校高地・女山の線に向かう事になった。壕内の速射砲も浦池中尉指揮の野砲一門も今日は陣地から引き出されて南方・東方の敵に向けられた。今は敵機頭上を低回しても誰も恐れない。此の日敵も総力を挙げて学校高地・墓地陣地方面に強引な攻撃を加え来たり。午前既に学校高地に戦車及び砲を並べ、我が方に拝み撃ちを加えて来た。敵の砲門から出る火がすぐ目前に見られる。第2中隊長大崎中尉(宮崎県)は昨夜徹宵で陣地の整備、兵の区処を行っていたが此の朝治療している児玉軍医に「いよいよ今日が最後ですね。よく今日迄頑張りましたね」と静かに語りながら壕を出ていった。児島少尉(鹿児島県)もその柔和な童顔を流石に緊張させながら「班長行こうぜ」と言いつつ銃声繁い学校方面へ出て行った。
 今や戦線は敵味方入り乱れ、敵機は低空飛行しても撃たない。唯戦車砲を無茶苦茶に撃つ。既に友軍の弾薬は各隊共に欠乏していた。手榴弾も多くは残っていなかった。第2中隊指揮班員を率いて学校正面に進出して奮戦していた大崎中尉は正午頃敵弾を受けて斃れた。最後までその陣地を死守していた第3中隊橋本少尉、浜田准尉も砲弾を浴びて悲壮な最期を遂げた。永徳少尉、堂園少尉の戦死の話も伝えられた。墓地陣地の北側を通って城山へ邁進する戦車群を側面より攻撃していた高野少尉の中腰になった胸部に敵の機銃弾が命中し、少尉は座ったまま華々しい最期を遂げた。児島少尉も敵弾を受けて重傷した。午後からは敵は西方からも攻撃して来た。之を迎えて草牧中尉(大分県)指揮の第2中隊の1個小隊と独速独機の兵は必至に防戦した。此の時独速小隊長山下少尉は銃眼より飛来した戦車砲弾を頭部に受けて即死した。同じく向山准尉も路上に於いて敵弾の為散った。中釜・吉見両少尉の消息も連絡がなかった。下士官も兵も次々に斃れて行った。我が軍血みどろの苦戦のうちに日は漸く西に傾きかけた。敵戦車群の取り巻く鉄○は既に此の時には城山を取り囲む直径約300mの円周をなしていた。
 夕方5時頃右手に抜味の軍刀を提げ、左手に拳銃を持った野口少尉(鹿児島県)が17名の兵隊を連れて第2中隊陣地に現れた。「第3中隊は全部でこれだけです。重傷の部下にせがまれて到々此の拳銃で殺して来ました。敵を撃ちとろうと思って持ってきた此の拳銃で真っ先に自分の可愛い部下を殺さねばならぬとは・・・・」と暗然たる顔で児玉軍医に話しかけた。其の夜7時頃戦闘指揮所より伝令が各隊に走った。
 「敵上陸以来既に5日間我が将兵は優秀装備を誇る十部に余る敵軍を越えて勇戦奮闘、敵に多大の損害を与えたるも我も亦兵相次ぎて斃れ、弾薬又欠乏を告げるに到れり。茲に於いて我は残存せる全兵力を以て今夜半を期して最後の鉄槌を加えんとす・・・・」
 最後の突撃令である。兵は傷付いた足を引きづり戦友にすがりつつ攻撃準備地点に向かった。連日の損害により、此の突撃に加わり得たものは将校約10名、兵150名を出なかった。此の狭小な地域に集中する敵砲弾により行動は著しく阻害されていよいよ出撃したのは4月21日午前3時頃であった。井川部隊長、諸江大尉の指揮する主力2隊は此の数日間幾多戦友の血潮を吸った学校高地方面を攻撃して亡き友の弔い合戦をせんとし、草牧中尉以下の第2中隊生き残りは飛行場方面に斬り込むべく照明弾の照らす夜の野へ、粛々として壕を出た。此の夜敵戦車は昼間より引き続き城山を取り巻き、特に城山東麓に群がる戦車群より撃つ戦車砲と機銃は城山の東斜面と南斜面を吹雪の如く吹き払っていた。指揮班員を率いて壕を出た第1中隊長吉岡中尉(熊本県)は此の弾雨の為に斃れ、その他第1中隊、本部将兵の多くが此のために無念にも傷付き或いは戦死した。
 学校高地・女山前面には最後の激闘が展開された。敵戦車よりの機銃声と友軍の小銃声が錯綜した。敵は此の線に戦車の列を敷いていた。その嵐の如く吠える弾雨の為、味方は次々に斃れた。井川部隊長も学校前面に於いて敵弾を左上腿左胸部に受け、最早是迄と持った拳銃により従容として見事な自決を遂げられた。飛行場方面に向かった草牧中尉も其の夜の突撃に散ったと聞く。
 既に何時しか夜は明けていた。敵は高地より狙い撃ちして来る。生き残った者は止むなく各所の壕に入って夜を待った。斯くて指揮官を失い、戦友と別れた下士官兵は其の後数人宛昼は壕に潜んで夜になれば出て敵陣に斬込を加えた。「一日でも長く敵の伊江島完全占領を妨害し、一人でも多くの敵兵を斃せ」との部隊長の訓詞に生きて飢えに耐え渇きに苦しみ、痛みをこらえて遊撃戦は尚長く続けられた。
 
                            


伊江島女子救護班

 戦雲急を告げた昭和20年2月下旬、伊江島民間の首脳者と軍との提唱で伊江島少年義勇隊、伊江島女子救護班、伊江島夫人協力隊が夫々編成された。全く各人の自由意志により募られたが、義勇隊約20名、救護班140名、協力隊60名許が集まった。そのうち救護班は17歳より25歳までの独身の女子で教育を受けて戦闘中衛生兵を助けて衛生方面の手助けをなし、協力隊は25歳以上の婦人で軍の炊飯等の雑役を行うのである。編成と同時に教育が開始せられ、毎夜時間迄衛生部員により各役に汎る教育が実施せられ、予想される実戦に直ぐ役立つ用に教える方も習う方も真剣に○う悲壮な気持ちで勉強した。情勢は日に悪く、住民の避難疎開は行われて班員の母も妹も毎日の様に海を越えて本部半島へ渡って行く。恋しい肉親と別れて故郷とは言え戦雲も烈しき一小離島に世人が地獄の如く恐れる伊江島に踏み留まる娘達の胸中には既に死を決した崇高なものがあった。父親に頼まれて軍医が避難疎開をすすめても友と共に兵隊と共に故郷で死にたいと言って肯じなかった娘もいた。
 いよいよ敵が上陸して戦闘が繰り返されたが、その間救護班員は各隊の各壕に3人4人と配置されて数少ない衛生兵を助けて兵隊の治療に看護に献身的努力を捧げた。男も顔を背ける様な醜い負傷が多かったが、震える手を制しながら兵を慰め労りながら白い包帯を巻いているうら若い娘達の姿はいじらしくも又尊いものであった。伊江島は水の非常に乏しい島である。激闘から帰り激闘に出て行く兵の第一に要求するものは水であった。救護班員は協力隊員を助けて夜毎夜毎村の中へ出て水を汲んだ。砲弾に荒らされて道もなくなった廃墟の中を照明弾が上がれば伏し、砲弾が落ちれば匍ってゆく水汲みは全く命懸けであった。然し誰も苦しみを訴えなかった。いやそんな事を言う暇もない程に忙しい日が続いたのである。
 独立機関銃中隊の壕が爆砕して班員4名が最初の尊い犠牲となった。「ミヤト原」分遣隊の悲壮な最期の日5名が兵と死を共にした。学校高地での激戦には昼間兵と共に戦線に立つ者もある。部隊の最後の突撃の際には多くの者がその突撃行に加わった。斯くて200名の救護班員、協力隊員の殆ど全部が部隊と共に伊江島に散ったのである。