伊江島の戦闘 (いえじまのせんとう)                                                          2008年3月作成

伊江島の戦闘

伊江島地区隊長  
 独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊長 井川 正 少佐
第1中隊 吉岡 登 中尉
第2中隊 大崎 優 中尉
第3中隊 平良 真太郎 中尉
第1機関銃中隊長 満留 勉 中尉
 第2歩兵隊第1大隊総員650名。重機関銃6 軽機関銃27 擲弾筒27 迫撃砲不明

 第2歩兵隊臨時編成砲兵小隊(蒲池中尉以下11名)  38式野砲2門
 独立機関銃第4大隊第3中隊(小川中尉以下108名)  重機関銃8
 独立速射砲第7大隊第1中隊(諸江大尉以下115名)  1式47ミリ砲6
 電信第36連隊の一部(不明)                 3号無線機及び5号無線機
 第50飛行場大隊(田村大尉以下約310名)        20ミリ機関砲4
 第118独立整備隊(小野中尉以下約100名)       戦力微弱 
 第502特設警備工兵隊(宜保中尉以下約800名で大半は住民義勇隊)戦力微弱
 伊江島防衛隊 推定220名

  伊江島守備隊総員推定 2700名

独立混成第44旅団(国頭支隊) 第2歩兵隊は当初国頭半島に配備されていたが、新作戦の実行とともに第2歩兵隊第1大隊(井川部隊)は昭和19年12月3日にそれまで伊江島の守備部隊であった独立混成第15連隊第3大隊と交代して伊江島に配備された。
  井川少佐は人格高潔で部隊及び住民から敬信を受けており、隊長を補佐する緒方副官・独立速射砲中隊長諸江大尉なども高潔な人格と優れた戦術眼で一般の尊敬を受けていた。この3者が部隊の核心となり、激烈な戦闘下においても最後まで部隊を掌握し果敢な戦闘を続けた大きな要因となった。


 伊江島は昭和18年秋から陸軍飛行場の建設が進められ、昭和19年9月末には地元住民の協力もあり伊江中飛行場、東飛行場が完成した。しかし昭和20年3月10日には飛行場破壊命令が発出され、そのために第50飛行場大隊などが来島し破壊を進めた。ところが3月23日から空襲を受けるようになり、その後は移動の機を失ってそのまま伊江島に留まって戦闘を行うことになった。尚、沖縄第32軍は「米軍は本島攻略後に伊江島攻略に着手する」という見積もりであったが、その見積もりに反して米軍の艦砲射撃は4月10日頃から激しくなり、13日からは空襲も急激に増加した。4月15日には水納島に米軍の師団砲兵隊3個大隊が揚陸され砲撃準備を整えるに至った。
 伊江島の防御陣地は伊江城(いえぐすく)を中心とした地区の陣地は地下道で結ばれた強固な陣地であったが、島内西部の陣地は海岸洞窟等を利用した急増の陣地に過ぎなかった。また飛行場地区・伊江城陣地周辺は地雷地帯を相当の範囲に拡げていた。



4月16日(晴天無風)
 4月16日払暁から伊江島は猛烈な艦砲射撃を受け、晴天にもかかわらず砲爆煙に覆われ視界も効かない状況となった。米軍は0800頃から伊江島西部に上陸を開始した。海岸の第一線部隊は米軍の猛烈な支援射撃のために壕内に退避しているとき急襲された状態であった。
 1000には第50飛行場大隊伝令が到着、柴田小隊の全滅を伝えた。
 1300頃、戦車数両が城山西方1km付近に出現し東進してきた。独立速射砲第7大隊第1中隊は的確な射撃を実施し3両を擱座し、後退した1両も地雷により大破した。
 16日夜には斬込み隊を派遣するとともに、第2歩兵隊第3中隊の橋本少尉以下の将校斥候を派遣、「敵は中・東飛行場付近に多数のテントを張り、戦車数十両を含む人員約3000」との報告を行ったが、橋本少尉は重傷を受け戦死したと思われた。



4月16日、夜明けと共に激しい艦砲射撃が開始された。上陸海岸には砲弾が撃ち込まれ、航空機は内陸部を徹底的に破壊した。ナパーム弾の命中した日本軍の弾薬集積所が誘爆して土砂を巻き上げ、燃料集積所からは黒煙が立ちのぼった。
 揚陸艦から上陸用舟艇が順調に氾水され、0650には定められた海域に集合を完了した。沖合約3kmの攻撃開始線からまず水陸両用戦車、続いて上陸用舟艇が一斉に発進した。天候は晴天無風であった。舟艇は船団を離れ煙弾で覆い尽くされた海岸に向かってゆく。第一波の接岸が間近になると、海岸に集中していた砲弾は一斉に延伸して内陸部へ落下し始めた。

 0758、第305連隊第1大隊が飛行場地区真南の海岸地区
(RED2)へ上陸を開始。その3分後には第305連隊第3大隊が第1大隊の西約500m離れた地点(RED1)に上陸した。第1大隊は内陸部へ350m程進撃して高台の道路に到達し、そこから針路を東向きに変換したが地雷原により進撃速度が低下した。結局夜までに橋頭堡から約700mしか進出出来なかった。一方第3大隊も内陸部へ向かい東に変針し、その左翼は飛行場地区の南東端に達した。 
 0807、第306連隊(左第1大隊、右第2大隊)の第一波が伊江島南西部の海岸線
(GREEN)約550m幅に上陸した。大隊は上陸後約3時間で内陸部へ約1.5km進撃して飛行場地区西端に達した。第3大隊は1015までに上陸を完了、島内西側地区を掃討した後に第1大隊の左後ろに進出した。第306連隊の順調な進撃は16日午後も続けられ、ほどなく飛行場地区が確保された。この飛行場地区は身を隠す所がなく、守備部隊にとっては絶好の火力集中地点であるはずであったが、実際は飛行場地区東側から散発的な抵抗を受けた程度であった。進出調整線にまで進撃を終えたため、師団命によって進撃を停止、その日は約5km進撃し、島の概ね3分の2を確保するに至った。
 16日夜、第305連隊第3大隊に対して日本軍の組織的な逆襲が行われたが撃退した。日本軍の撤退後152体の遺体を確認した。

 
    



4月17日(晴天)
 早朝から水納島の砲兵も加わって猛烈な砲爆撃を受けた。
 1000頃、戦車を伴う米軍の新兵力が伊江集落南側の新波止場付近から上陸を開始した。同正面守備の第2歩兵隊第1大隊第3中隊および第1機関銃中隊は既設陣地から上陸する米軍に猛射を加えて相当の戦果をあげた。
 17日は終日戦闘が続き、特に「学校高地」を中心とする地区で激戦が展開され、近接した市街戦も演じられたが陣地は確保した。集落内に侵入した米軍は夜になると集落外に撤退した。 
井川少佐は新上陸の米軍の状況から判断し、上陸部隊の態勢が未だ整わないのに乗じ、本夜半を期し全部隊の3分の2の兵力をもって夜間攻撃を敢行し、海中に撃退することに決心した。

  攻撃要領:一部の兵をもって西方の防備を厳にし、主力をもって第3中隊正面(学校高地)新波止場方向に攻撃前進する。18日0100までに攻撃準備を完了し、0130から攻撃を開始する。
  攻撃部署:第3中隊主力は「学校高地」から新波止場に攻撃前進
    第1中隊の1個小隊は第3中隊の左に連携して旧波止場に向かい攻撃前進
     第2中隊の1個小隊は第3中隊の右に連携して新波止場に向かい攻撃前進
     第1機関銃中隊の2個小隊は「学校高地」から火力支援
   独立機関銃第4大隊第3中隊第2小隊は「学校高地」から火力支援 

各部隊は予定通りに攻撃準備を完了し、井川少佐以下大隊本部も「学校高地」に進出した。予定通りに0130から攻撃開始、当初奇襲効果もあり米軍の応戦もなかったが、やがて米軍は各種火器及び艦砲射撃も開始した。我が攻撃隊の海岸進出は阻止され激戦となった。井川少佐は払暁射撃中止を明治、各隊に旧陣地への復帰を命じた。


 4月17日、第305連隊はレッドビーチ3とレッドビーチ4の北側にある高地帯に対して攻撃を開始した。水納島の2個砲兵大隊と伊江島に上陸した1個砲兵大隊による攻撃準備射撃の後、第1大隊と第3大隊は東に向けて進撃を開始した。日本軍の集中射撃は内陸部の第3大隊に指向されたため、海岸線を東に向かう第1大隊は散発的な抵抗を受けつつも昼までに約700m進撃してレッドビーチの一部を確保するに至った。
 第3大隊は左から重機関銃による攻撃を受けて更に前進速度が低下したが、これらを排除しつつ集落から700m付近の高地を占領した。第3大隊は1245までに上陸予定海岸の内陸部を概ね確保するとともに伊江集落付近にまで迫った。だが日本軍の最強の防御陣地は伊江集落付近、つまり伊江城(いえぐすく)の南側に構成されており、そのため第305連隊はほとんど前進できない状況に陥っていた。


 上陸以来、第305連隊が日本軍の抵抗を受けているという情報に基づき第307連隊の投入が決定された。これは伊江集落南側に橋頭堡を構築して戦車及び重装備品を揚陸させる計画であった。さらに初日に飛行場を占領し航空機の使用が可能となり、その整備機材も揚陸する必要に迫られた。しかしならが最大の目的は「4月19日からの沖縄本島総攻撃に部隊を派遣するために18日昼までには伊江島の戦闘を終結させる」ところにあった。
 第307連隊第2大隊(西)・第3大隊(東)は4月17日朝、伊江島の南海岸に上陸を開始した。計画では内陸部を確保している第305連隊第1大隊の前方を北東に向かい、更に伊江集落近郊の第305連隊第3大隊から火力支援を受ける予定であった。1300、第307連隊は移動を開始した。両大隊は激しい敵の反撃を受けつつも約2時間かかって約350mの進撃を果たした。さらに高台にまで進撃することになっていたが、その部隊行動は日本軍から完全に暴露していた。その高台とは伊江城から前方に伸びる最強の日本軍陣地、および伊江城の南西約600m付近に位置するコンクリート製の建造物が立つ小さな丘、これらは後に「血の稜線」(Bloody Ridge:日本名女山)と「学校高地」(Goverment house Hill)としてその名を知られることとなる陣地であった。
        第307連隊は17日午後は限定的な進撃しか出来なかった。第3大隊は有刺鉄線と地雷原で構成された地域で進撃を阻止された。工兵が地雷の除去を行おうとしたが、その兵士達には日本軍の機関銃射撃が指向され、結局集落南部の緩やかな傾斜地帯を数百m移動できただけであった。午後遅くには両大隊とも正面から激しい迫撃砲射撃と小火器射撃を受けた。自走砲はこの段階でも地雷原で前進を阻止され、戦車に至ってはまだ上陸すら出来ていなかった。そのために歩兵と工兵は始終激しい敵火に曝されていた。第307連隊主力は「学校高地」の南約550mの地点で戦闘に陥っていた。しかし夜になっても「女山」からも距離が近いこともあり再編成すらできず、海岸線から350mの地点の身を隠すに適当な地形まで後退するしかなかった。死傷者が増大した。短期間での勝利にはほど遠い結果となった。



4月18日
 0730頃から米軍は攻撃を開始。その主攻撃は第3中隊の守備する「学校高地」正面に向けられた。城山西側の米軍は南に移動し集落西方第2中隊正面を攻撃し、また戦車約10両を伴う部隊が城山北方に迂回するのが望まれた。「学校高地」の戦闘は激烈を極め、第3中隊及び機関銃隊は、猛烈な砲迫の集中射撃の掩護下に戦車を伴って攻撃して来る米軍に肉薄攻撃を加えて死傷者が続出したが、数回にわたって撃退して陣地を確保した。
 南海岸を東に移動した米軍は、午後から「女山」、墓地方面を守備する第1中隊第2小隊(高野小隊)の陣地を攻撃してきた。高野小隊は三十数名の小兵力であったが、戦車を伴う敵を撃退して陣地を保持した。
 1500頃、城山北方に配置してある第1中隊の前田小隊の苦戦が伝えられた。それによると1000頃から戦車10両を含む敵が来襲し、小隊長以下が肉薄攻撃を加えたが、背後から歩兵の包囲攻撃を受け前田少尉以下大部分が戦死した。
 伊江集落西部の第2中隊正面では家屋を隔てての市街戦を演ずる激戦が続いたが、善戦して米軍の進出を阻止した。


 4月18日は第305連隊の支援を受けた第307連隊が伊江城(いえぐすく)南側に構成された日本軍陣地の再攻撃を計画した。第306連隊は右翼を基点として伊江城の西から北へ向かって進撃する計画であり、これをもって伊江城の包囲を計画していた。この2日間第305連隊と第307連隊は「血の稜線」においてその攻撃は完全に行き詰まっていた。この状況は18日及び19日になっても変わらず、第77師団はこれまでで最強の反撃に遭遇し、死傷者は必然的に増加の一途を辿った。記者アーニー・パイルは18日に連隊長とともに前線へ向かうジープが襲撃を受け、鉄帽をかすめて銃弾を撃ち込まれて即死した。3時間前に掃討を行い、全ての日本軍陣地を排除したと思われたその場所での出来事であった。
       

【地図 18日8時30分】
 
 第307連隊は0830から攻撃を開始。第2大隊は真っ直ぐに「血の稜線」に向かって攻撃前進を行ったが苦戦を極めることになった。当初は第305連隊第3大隊が続行し、その後は第307連隊を超越する計画ではあった。しかしながら抵抗は熾烈であり、計画は全く予定通りには行かなくなった。第305連隊第3大隊は元の位置に戻り第307連隊の左(北)に移動、そこから伊江城の方向へ東進するとともに、伊江城の北側に向かった第306連隊とも連係を維持していた。
【地図 18日11時30分】
 第305連隊第3大隊は水納島からの攻撃準備射撃の後に、1130から進撃を開始した。集落では一軒一軒を調べ上げた。砲兵部隊は敵陣地に対しては効力を発揮出来ず、さらに彼我接近のために思うように射撃することも出来なかった。自走砲も小路にまで仕掛けられた地雷で身動きできず、大隊は集落の北西部に侵入して予定の半分まで進出したものの、安全な郊外に再度引き返すことになった。大隊右翼はこの時点で「学校高地」から約500m西側、大隊左翼は伊江城の麓から約700m付近にあった。この日は結局300mほどの進撃となった。
   

     

【地図 18日13時30分】
 第307連隊第2大隊が昼頃には「学校高地」南側で釘付けになったことで、連隊は第2大隊の右側に第3大隊を投入することを決定、第3大隊を伊江集落東部で北東方向へ進撃させようとした。これはアメリカ軍は日本軍の抵抗は「学校高地」南側よりも東側が幾分か弱いと判断したための方策であった。第3大隊は順調に進撃し、東江前集落の北側約250m付近まで進出した。中戦車と自走砲が第2大隊と第3大隊の間隙を封鎖すべく援護射撃を行い、直接照準射撃によって伊江集落及び伊江城の日本軍の洞窟陣地やトーチカなどに攻撃を加えた。しかしそれ以上に接近して攻撃しようとすると身を隠していた肉薄攻撃の日本兵が飛び出してくる危険性もあり、その場を動くことは出来なかった。
  

【地図 18日15時頃】 【地図 18日夕刻】

 第307連隊の右翼の第3大隊(南東)を掩護するため、第305連隊第1大隊がその右側に進出した。1500、第305連隊第1大隊は第307連隊と並列になり北へ向かって進撃を開始、海岸線に至るまでの地域をカバーすることになった。散発的に射撃してくる敵狙撃兵以外には大した抵抗も受けず、第一線部隊はこの日の終わりまでに約900m程前進することが出来た。このように第307連隊よりも進撃することが出来たのだが、東側の夜間防御のために東江前集落の東約550m付近まで戦線を後退させた。
          
 第306連隊は4月18日0730から攻撃前進を開始した。右翼第2大隊と左翼第3大隊は日本軍の迫撃砲射撃を受けつつも、伊江城の北側まで順調に進撃した。 しかしながら伊江城南側の第305連隊・第307連隊に支援火力を充当するために、第306連隊には進撃停止命令が下達された。この時点までで進撃は伊江島の北東海岸まで達していた。
   
     
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Crisis at the Beaches(米軍上陸海岸橋頭堡の危機)
 一方南部海岸部は危機的状況に陥っていた。本作線の開始当初から部隊に対する補給は正に綱渡り状態であった。海岸部に接岸して物資等を補給できるのは水陸両用艇などごく一部の小型船舶に限定され、しかも満ち潮の4時間に限って接岸できるという状態であった。計画では上陸日の16日にはレッド3/レッド4ビーチを確保するとしてはいたが、激しい日本軍の抵抗で偵察部隊でさえ接近することができず、翌17日の第307連隊上陸後も重装備の揚陸は不可能という状況で、最初の輸送船が接岸できたのは17日も日が暮れかかる頃であった。本作戦の開始2日間に補給物資が届けられたのは海岸線にいる一部の部隊に限られた。この状況はレッドビーチが確保されても変わることはなかった。日本軍は内陸部の陣地、伊江城、「血の稜線」などからいつでも迫撃砲弾を撃ち込むことが可能であった。
 17日夜から18日未明にかけて日本軍は迫撃砲と機関銃の支援射撃下に海岸部に位置する工兵部隊に対して夜襲をかけてきた。このため18日は海岸部の揚陸態勢が確立できず、補給品はあたりに放置されたままであった。
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4月19日(晴天)
 
4月19日早朝から米軍の砲撃は開始され、特に「学校高地」および「女山」地区に猛砲撃を加え0900頃から攻撃前進してきた。城山の戦闘指揮所付近にも砲弾が集中し、落盤により無線機が破壊され、用意していた最後の玉砕電文も伝える手段がなくなった。
 「学校高地」をめぐる戦闘は激烈を極め、守備部隊(第3中隊、第1機関銃中隊主力)は死力を尽くして敢闘したが死傷者続出し、その上弾薬も欠乏し、遂に1000過ぎには「学校高地」に米軍戦車の進出を見る状況となった。同高地のわが守備部隊は「学校高地」残存陣地を固守して奮闘した。「女山」付近の第1中隊の高野小隊も敢闘したが、1330頃には同地は米軍に占領されるに至った。
 井川少佐は学校高地の重要性を考え逆襲奪回を企図した。独立速射砲第7大隊第1中隊長諸江大尉は自らの部下を指揮して逆襲のため学校高地北側に進出し、まず「女山」の米軍を撃退し、次いで自ら先頭に立って「学校高地」に突進して高地上の米軍を撃退して奪回に成功した。この奪回攻撃には西方から第2中隊の一部が有効に協力した。
 井川少佐は大隊予備の第2中隊第2小隊(永徳小隊)、大隊本部の生森少尉の指揮する本部要員他を「学校高地」に増援し、反撃する米軍を撃退して「学校高地」を確保した。戦闘は夜間まで続いた。「学校高地」の戦闘で第3中隊長平良中尉、第1機関銃中隊小隊長吉見少尉以下多数の戦死者を生じ、諸江大尉も負傷した。 
 19日午後城山東側の第1中隊陣地は、東方から西進して来た戦車約10両の攻撃を受けたが、陣地を確保した。城山陣地はいまや完全に包囲されるに至った。
  

  
  4月19日はそれまでの2日間の攻撃を顧みて、その主攻撃を日本軍の最強の防御陣地である「血の稜線」に指向し、そのために第305連隊と第307連隊を南西から攻撃させるように計画した。北側の第306連隊は艦砲射撃が主攻撃部隊に充当されるために進撃は行わず、終日現陣地の強化に努めることになった。
 2日間にわたる攻撃の失敗にもかかわらず、この攻撃を同方向から行う最大の理由は海岸線(補給品揚陸)が危機的状況に陥っているということに尽きた。アメリカ軍が「血の稜線」を攻撃する場所は、海岸線から実に数百メートルしか離れていないのだ。この海岸線を確保して補給品を揚陸する橋頭堡を確立することは当作戦の成否を意味していた。飛行場の確保と完成は戦略的な意味合いを持ち、これらを機能させることの全てが橋頭堡の確立にかかっているのだ。

【地図 19日9時00分頃】

 30分間の攻撃準備射撃の後、0900から3個大隊による攻撃が開始された。第305連隊第1大隊は伊江集落の北部に向けて東進、第307連隊第2大隊(左)・第3大隊(右)は並列となって現在位置から北へ向かって「血の稜線」を攻撃する計画だ。アメリカ軍は全火器を使用して攻撃部隊の前進を掩護した。しかし第一線の歩兵部隊は一歩前進する毎に血で血を洗う白兵戦で日本軍の拠点を潰して行くしか方法がなかった。高い位置から見下ろす形の日本軍は攻撃部隊に対して迫撃砲や小火器を集中して浴びせて来たが、それはかつて誰も経験したことのない激しさであった。この19日の戦闘もそれまでの2日間と同じようにあらゆる場所(特に「血の稜線」)から撃ってくる日本軍の正確な迫撃砲弾が戦闘の主役であった。反対にアメリカ軍の砲兵射撃は日本軍陣地には無力であった。
 
  中央部に位置する第307連隊第2大隊のF中隊とG中隊は0900から攻撃を開始、ゆっくりと前進して「学校高地」の斜面を登りはじめた。この進撃は日本軍の激しい砲火のために失敗したが、ここで針路を一度北西に向けて変針して高地帯にある集落の西端まで進出、そこから再度変針してして「血の稜線」の最西端に取り付き、午後一杯はそこの大きな建物に対して攻撃を仕掛けた。【地図 19日12時頃】参照

【地図 19日12時頃】

 進撃は昨日までと同じく西側よりも東側で進展し、中央部では全く身動きが取れなかった。第307連隊第3大隊の位置する東翼は日本軍陣地が西側に集中していたために進撃が容易であり、約700mほど北へ進撃することが出来た。このため第2大隊との間に大きな間隙が生じたために、これを埋めるべく第305連隊第1大隊が充当された。当初北進を命じられていた第1大隊は急遽南進後西進するように指示され、このための攻撃前進が1330から開始された。
  最も西側に位置する第305連隊第3大隊は東進して日本軍の待ちかまえる廃墟となった市街地へ進撃した。大隊は右の第307連隊と左の306連隊との連係を保つために部隊は横一線となって前進する必要があり、小隊毎にひとつの通りを担任させた。破壊された建物や残骸の中での戦闘は至近距離での撃ち合いとなり、至る所で混戦に陥った。大隊はそれでも約200m程前進したが、日本軍の逆襲によって100m程後退した。その後は夜間に備えて伊江集落から出て安全な位置に陣地を構築した。
 

【地図 19日14時30分(推定)】【地図 19日16時過ぎ】

  一方第305連隊第1大隊は、第307連隊第2大隊の東側に移動を完了、敵の激しい反撃の中を突き進み、1330には「学校高地」の東側約250mの高地(女山)を占領した。 2つの大隊が「血の稜線」に取り付いたものの、その場に長く留まることは出来なかった。迫撃砲と機関銃に支援された日本軍逆襲部隊が第305連隊第1大隊に向かい攻撃を仕掛けてきたために、第1大隊は稜線から降りて海岸線近くの元の場所まで後退を余儀なくされた。第305連隊第1大隊が後退したために、北側からの敵射撃に加えて高地帯全域から射撃を受ける結果となり、ついに撤退命令が下達された。
   

       

 

4月20日(晴天)
 
4月20日早朝から米軍の砲撃が開始され、特に0900前後猛烈な砲撃があり、米軍は城山の四周から攻撃をして来た。
 「学校高地」、「女山」地区では昨日同様激戦が展開され、寸土を争う接戦死闘が続いた。正午前には米軍戦車は「学校高地」に進出し、第2中隊長大崎中尉以下多数が死傷し、弾薬も欠乏し正午頃には「学校高地」「女山」付近は完全に占領されるに至った。
 城山の東側及び北側からも戦車の支援する強力な米軍が城山陣地を攻撃してきた。所在部隊(第1中隊及び独立機関銃第4大隊第3中隊)は猛烈な砲火の中にあって勇戦奮闘したが兵力も損耗し、陣地前縁は逐次米軍に奪取されてきた。
 午後からは西方の米軍も活発に攻撃して来た。この方面の防御に任じている第2中隊の草牧小隊は、独立速射砲中隊と協力して、必死の防戦に努めたが、逐次圧迫された。
 20日夕刻の戦線は城山を中心として半径300mの円周となった。

 井川少佐は1900頃最後の総突撃を命令した。この命令に接した各部隊は、既に人員は僅少となり負傷者も戦友にすがって攻撃準備に向かった。その数は将校約10名、兵員約百数十名程度であったが、一般住民、防衛隊、女子救護班、女子協力隊の多数が志願同行した。
 総攻撃の部署は、井川少佐及び諸江大尉の指揮する二隊は「学校高地」に、第2中隊の草牧中尉の指揮する一隊は飛行場方面に向かうこととされ、独立機関銃中隊は火力支援することとなった。21日0430頃から「学校高地」に集中射撃を加え、突撃を敢行し、「学校高地」の敵陣地を突破して更に突進しようとしたが、敵火のためにほとんど全員が死傷し、0630頃には総突撃も終わった。井川少佐は「学校高地」付近で敵弾を受けながらも従容として自決した。飛行場方面に向かった草牧隊もほとんどが死傷した。


 師団長は4月19日に伊江島東部海岸から偵察部隊を送り込み、伊江城(いえぐすく)への東側からの接近経路を偵察させた。それまでの航空部隊の偵察では正確な情報が得られなかったが、この偵察結果として「伊江城の攻撃は北側または東側からの攻撃が有効である」と判断、そのため20日の主攻撃は第307連隊ではなく、島の北側に位置している第306連隊とすることが決定された。
 4月19日夜、第77師団の各連隊は上記計画に基づいて配備を変更した。第307連隊第3大隊は若干移動して東側から伊江城を攻撃することになった。伊江城南側及び西側に対しては第305連隊第1大隊・第307連隊第2大隊・第305連隊第3大隊が攻撃を担任した。これらの3個大隊には先日失った高地帯を再度占領することが命じられ、第306連隊に対しては北東から主攻撃部隊としての任務が付与された。

【地図 20日9時30分頃】
 4月20日0850から砲兵部隊が激しい攻撃準備射撃を実施したが、0900に一旦射撃中断とした。これは日本軍が攻撃準備射撃の終了とともに壕から出て配備に付く瞬間に再度砲弾を集中させようとする計略であった。10分間の中断後、前よりも増して激しい砲撃を再開、これが15分間続けられた。
この砲撃の終了を待って3個連隊はそれぞれの行動を開始した。
 第306連隊戦車部隊および工兵部隊の支援を受けた第1大隊が先陣を切って飛び出した。第2大隊は伊江城の北側斜面に留まり、第3大隊は第1大隊の左翼を掩護するために左後方を続行した。
 第307連隊第3大隊は伊江城の東側に展開していたが、周辺部隊の行動の自由を確保(東側に部隊が蝟集していたため)するために一端南側に移動した。第2大隊は第305連隊第1大隊は東側で並列となり、「血の稜線」に至る急な斜面を攻撃前進して行った。第305連隊第3大隊はこれまでの4日間と同じように伊江集落、つまり東に向かって攻撃を開始した。
 どの部隊も直ちに日本軍と激しい戦闘に陥ったが、日本軍の攻撃力は衰えるどころか先日までと変わらない激しさであった。伊江集落の南および西から寸土を争う攻撃を行っている第305連隊第3大隊と第307連隊第2大隊は苦戦の極みであった。第305連隊第3大隊は瓦礫で埋まった狭い小径を踏み越えて進撃せざるを得なかった。第307連隊第2大隊と第305連隊第1大隊は日本軍の激しい迫撃砲射撃や小火器射撃の中を、敵の防御陣地の核心である「血の稜線」頂上部を目指して必死の進撃を試みた。両大隊はその行動の一部始終を敵に瞰制されていたが、そのような状況下でも開豁地を横切って前進を続けるしかなかった。


【地図 20日12時頃】
 ● 伊江城山北側306連隊の攻撃
 主攻撃部隊である第306連隊第1大隊は日本軍の激しい射撃の中、攻撃開始線から約550m前進して伊江城の北東斜面に到達した。 
 第1大隊B中隊(右)とC中隊(左)は伊江城北斜面の日本軍陣地を正面から攻撃前進を実施した。伊江城の手前約250mのところに深い対戦車壕が構築されており、この壕の中や伊江城、斜面の低い位置に巧妙に偽装されたトーチカや洞窟陣地などあらゆる場所から迫撃砲や対戦車砲が撃ち込まれた。この地域を前進するには地雷原を通り抜けさらに敵機関銃による十字砲火をかいくぐる必要性があった。
 第306連隊第3大隊は第1大隊の左後ろに位置していたが、彼らは伊江城の麓に位置していた対戦車火器の洗礼を受けた。これに対して歩兵部隊は中戦車の支援を受けてこの強力な敵の射撃拠点(墓を利用したもの)まで這い登り爆薬で24名の日本兵を吹き飛ばした。昼過ぎには第306連隊は伊江城の包囲に成功した。連隊は状況偵察のために一時停止した。この4時間にわたる戦闘間、右翼を担当した第1大隊B中隊は中隊長以下26名が戦死あるいは負傷した。
 1430、第304砲兵大隊の攻撃準備射撃の後、第306連隊は自走砲と戦車の支援下に攻撃を再興することが決定された。C中隊はB中隊を超越して攻撃を続行、激しい反撃を受ける中ついに伊江城の斜面に取り付いた。20分間の戦闘で北東斜面の半分まで攻め上げ、下から支援射撃を受けつつ洞窟陣地を工兵部隊と共にひとつひとつ潰しにかかった。中腹から上は手で岩を掴みながらの進撃となったが、火炎放射器を使用して日本兵を壕からあぶり出した。

 ● 伊江城山南側、「血の稜線」を占領
第306連隊が伊江城北側で攻撃中、第305連隊と第307連隊は南側で「血の稜線」を攻撃中であった。数時間にわたる寸土を争う激戦下、第307連隊第2大隊は再度「学校校地」を占領し、第305連隊第1大隊はその東側の「女山」を占領した。攻撃するよりもこれを保持する方が数段困難を伴うことをアメリカ軍は承知していたために、ただちに日本軍の逆襲に対応した陣地の構築に取りかかった。機関銃を学校の2階に据え付けて伊江城方面を警戒し、地上の歩兵は学校の北側に浅いながらも掩体を構築して逆襲に備えた。左にG中隊、右にE中隊、そして中央にはF中隊が配備された。工兵部隊や対戦車砲部隊は「血の稜線」の弱点部分を補完して守備を強化した。全部隊ともこの稜線を2度と日本軍に渡しはしないという気力で溢れていた。2度にわたる日本軍の逆襲が行われた。日本兵の肉薄攻撃により戦車2両が撃破されたものの、アメリカ軍はついにこの地域を守り通した。
 伊江集落東側の第307連隊第3大隊と西側の第305連隊第3大隊は集落を挟撃する要領で攻撃を行った。第307連隊第3大隊は敵のトーチカや洞窟陣地をひとつひとつ潰して進撃し、新たに占領した「血の稜線」に連なる戦線を形成した。また第305連隊第3大隊は廃墟となった伊江集落東部を進撃、左に第306連隊、右に第307連隊と連携を保った。
 

【地図 20日夕刻】
 この日の夕方までに第306連隊第1大隊は伊江城の北側斜面全域の確保に至った。A中隊からの斥候は崖をよじ登り、頂上から南に向かって着色発煙手榴弾を投擲して自分たちが北側斜面を確保したことを知らせた。大隊は夜間防御の態勢をとるために第1大隊の一部の戦線を縮小したが、北側斜面にはある程度の戦力を残す処置を行った。第3大隊はこの日伊江城東斜面の頂上まで約350mのところまで進撃してこの日を終えた。
 

【地図 21日4時30分頃】
 4月20日から21日にかけて「血の稜線」の「学校校地」に対して小勢力からなる逆襲を行ってきたが、彼らは明らかにアメリカ軍の戦線の弱点を探っていた。21日0430、日本軍は「学校校地」に対して1時間にわたって迫撃砲射撃を加えてきた。0530、日本軍は300名〜400名によりアメリカ軍の左翼(西側)に対して逆襲を敢行した。迫撃砲や機関銃に支援された日本軍は一隊が北から、一隊が北西から、もう一隊が西から縦隊でアメリカ軍の左翼に殺到した。その中には竹槍で武装した婦女子も含まれていた。日本軍はこの最後の突進によってアメリカ軍を「血の稜線」から追い落とそうとしていた。
 G中隊はこの逆襲の真っ只中に立たされた。右小隊は迅速に対応したが、左小隊は突破を許した。日本軍は「学校校地」西端の崖下に位置した大隊指揮所に殺到した。この大隊指揮所には工兵部隊やG中隊の予備小隊が在隊していたが、彼らは命がけの戦闘に陥った。大隊指揮所要員やコック、ドライバーに至るまで全員が稜線上に戦線を形成して奮戦した。その間にも日本兵はこの戦線を破って侵入し、爆雷を爆発させて自爆した。数名の日本兵は大隊指揮所まで数mの所まで迫ったが、守備隊が手榴弾を投擲して殺害した。1時間にわたってこの逆襲は続けられたが、アメリカ軍は遂に日本兵を駆逐し、一時的に失った陣地を回復することが出来た。
 21日夜明け頃になって日本軍の逆襲は破砕され、日本兵の多くはアメリカ軍の防御線上において命を失った。G中隊の担任地区では280体、E中隊担任区域では84体の遺体が確認されたが、同時にアメリカ軍側にも多くの死傷者が生じた。G中隊は先日までの「血の稜線」での戦いにおいて兵力が激減しており、4月21日朝には実質上の戦力は36名にまで低下していた。同じくH中隊49名、E中隊57名となっており、H中隊については2個機関銃小隊の合計19名が次の任務に対応できる人員であり、当初中隊に8挺あった機関銃は今では2挺という状況であった。第307連隊第2大隊では21日までに30名の将校が戦死あるいは負傷し、ついには元から第2大隊に所属していた将校はごく僅かとなった。
 これほどの犠牲を払いながらも、「血の稜線」は今や確実に手中に収めることとなった。 日本軍の小部隊による抵抗も伊江城直下の集落の中心部を除いてほとんどなくなりつつあった。第307連隊第3大隊は21日朝に第2大隊と交代して周辺部の掃討に着手するとともに「学校高地」周辺の洞窟陣地を封鎖した。伊江城はついに南側だけを残してアメリカ軍の占領するところとなった。
    



4月21日

 第306連隊の3個大隊は21日朝から伊江城の包囲網をさらに強化した。第3大隊は0830から東斜面に攻撃前進を開始、第1大隊・第2大隊は北斜面及び北西斜面の洞窟陣地やトーチカを引き続き潰しにかかった。早朝に第1大隊の斥候が敵狙撃手の射撃を受けながらも約15mの断崖をよじ登り、ついに1025に国旗を手にした兵士が伊江城の頂上に立つことが出来た。下からの敵射撃が激しくなって来たため、ついにポールを持った兵士は頂上に立つことが出来ず、国旗を持った兵士も間もなく頂上から下山した。
 伊江城の包囲網が強化されてゆくに従い、敵の抵抗もまた激しさを増してきた。第306連隊第3大隊は左翼の敵拠点を駆逐し、1030に第305連隊第1大隊の右翼(北)とついに合流することとなった。午後の早い段階で左の第307連隊第3大隊と右の第305連隊第1大隊は、伊江城南斜面攻略のために「血の稜線」の現陣地から北へ向かって攻撃を開始した。抵抗は僅かであり、1300には斜面に到着した。1345にはついに「日本軍の組織的抵抗は終了した」との声明が出された。











第50飛行場大隊は3月末には本島へ移動するよう命令されていたが、3月23日以降から空襲と艦砲射撃により移動の機を失って(大隊本部の一部、警備中隊の1個小隊のみ移動に成功)、そのまま伊江島に残留して戦闘を迎えることになった。















飛行場の破壊は簡単ではない。中飛行場(現米空軍嘉手納基地)の場合でも突き固めた滑走路を破壊することができず、実際は滑走路の端を人力で破壊するにとどまっている。多数の人員を要して建設した滑走路を、それ以下の人員で破壊することは実際は非常に困難な作業である。









米軍の上陸前艦砲射撃があまりにも凄まじく、壕の外には出られない状況であった。砲撃が止んで静寂になった時にはすでに米軍が馬乗り攻撃に取りかかる頃で、ほとんど対応のいとまがなかったと伝えられる。









晴天ながら、砲爆撃で巻き上げられた土煙で米軍の艦艇からは一時伊江島が見えなくなったと記録されている。















第306連隊が上陸した「GREEN」の海岸の状況は日本軍指揮所のある伊江城山から見えず、米軍上陸兵力・規模の把握がなかなか出来なかった。







伊江島における米軍の連隊編成は正式には「戦闘団」編成(本来の歩兵部隊に戦車・砲兵などを加えて1パックにしたもの)であるが、戦闘の後半で連隊編成にもどした経緯があり、これらの混乱をさけるために、当HPでは「連隊」と記述した。














この日本軍の逆襲については 「伊江島守備隊」 に詳しく記述されている。






一部の将兵が米軍砲兵が占領する水納島へ泳いで渡って夜襲を実施したがその戦果は不明である。


























伊江城山南側の狭い地域に米軍4個連隊が蝟集した。日本軍に大口径砲や十分な迫撃砲があれば、この伊江島の戦闘は全く異なった戦闘経過になったにちがいない。4月17日の米軍の記録からも、為す術のない状態が読み取れるのである。





























前田小隊は完全に孤立して配置されていた。おそらく頼るべきは伊江城山の機関銃や速射砲であったと思われるが、それらも早期暴露を懸念して十分な掩護は行うことが出来なかったのではと推察する。


アーニー・パイルは沖縄戦の取材前に友人に「今度の戦場から戻ることはないだろう」と言い残している。この日、日本軍の機関銃に射撃を受けているが、一度はジープから飛び降りて溝に飛び込んでいる。しかしその溝から頭を上げた瞬間に左側頭部を
撃ち抜かれての即死であった。






















第305連隊第3大隊の進撃する西江前地区は、家屋が比較的密集し、それぞれの家に生け垣などがあり、非常に視界が利かない場所であった。


















学校高地・女山は防御戦闘を行うためには絶好の地の利を有していた。





日本軍守備部隊の陣地配備は東地区が実際に弱点であった。女山には1個小隊(高野小隊)しか配備されておらず、その東側は全くの無防備状態であった。(当然、地雷等の処置は施したものとは思われる)



左地図で、学校高地から約1kmにある第305連隊第1大隊等が比較的自由に行動できていることから、日本軍の火器は機関銃(射程約1km)が主体となっていたことがわかる。














日本軍の保持する陣地線はこの日ほとんど米軍の進撃を許さなかった。ある意味、この日の戦闘は日本軍の完勝であった言える。
 戦力比8:1、火力点数では20:1(いづれも筆者計算)の戦力差がありながらの部分的完勝はひとえに築城と地形の利用、士気の勝利と言って過言ではない。





































学校高地の校舎地区(グランドの上)にまで米軍が進出したために、第3中隊は孤立した状況に陥った。逆襲部隊は女山を奪回後に学校高地に進出しているが、この際に「北斜面に向かって手榴弾を投擲した」という記述があることから、一部は第3中隊と合流して現在のグランドから校舎地区に対して攻撃をしたものと思われる。したがって、逆襲部隊は米軍を東から攻撃した部隊とグランドに進出して第3中隊と合流した部隊の二手に分かれたものと推察する。











米軍は伊江城山北側に展開する第306連隊を動かさず、あくまでも橋頭堡の確実な確保に全力を傾注した。






まさに高低差3〜4mでの白兵戦となった。負傷した日本兵は軍医に「今日一日だけ戦闘できればいい」と最小限の治療を願い出た者もあったという。



















































第706戦車大隊C中隊が学校高地と女山の間を登ってきたという記録がある。この戦車によって逆襲部隊の指揮官であった諸江大尉が負傷している。戦術面で大きな役割を担っていた諸江大尉の負傷は日本軍にとって大きな痛手となった。



























学校高地と女山の確保に全力を傾注していた日本軍にとって、伊江城山の北側から攻撃してくる米軍第306連隊には一部が抵抗したものの、ほとんど対応は困難であったと思われる。












米軍もここにきて伊江城山北側の第306連隊を主攻撃とすることを決定している。





米軍の企図した攻撃準備射撃のトリックは日本軍側に記録が全くなため、実際に有効であったのかどうかの判断はできない。

















独立機関銃第4大隊第3中隊や独立速射砲第7大隊第1中隊川上小隊などは学校高地等の伊江城山南側の戦闘の記述には登場しないことから、当初の配備のとおり伊江城山北側に留まって陣地を固守したものと思われる。

背後からの援護射撃があるとはいえ、この急斜面を登る米軍将兵も死力を尽くしての戦闘であった。














「私の戦記」(山田有昴氏著書)の中に女子挺身隊2名が肉薄攻撃で戦車2両を爆破した話が登場するが、20日という日付や場所から、米軍が記述した2両の戦車に該当するのではないかと推察される。その戦車が爆破された場所は現在の伊江中学校西門(芳魂之塔の東側)付近とされる。細部についてはHP「沖縄戦場」にその写真と説明を掲載した。






























米軍の記述からもわかるように、学校高地の西端(芳魂之塔)付近にあったG中隊に集中したようで、G中隊の混乱・奮戦ぶりが記述からうかがえる。状況からして日本軍はあと一歩でこれを突破できるところまで追い詰めたようである。





















沖縄本島における米軍の総攻撃は4月19日から開始された。この総攻撃に加わるために伊江島上陸後2日程度で戦闘を終結させて本島へ戻る計画であった第77師団(305連隊・306連隊・307連隊)は、想像以上の日本軍の抵抗のため、6日間を伊江島で費やすこととなった。そればかりか、予想をはるかに超える死傷者は、第77師団の再編を必要とし、本島の戦闘に加入できたのは5月中旬の首里石嶺地区の戦闘からとなった。
 日本軍1個歩兵大隊の奮戦は、沖縄戦の進捗に大きな影響を与えることになったのである。