石嶺高地の戦闘                                                                                           2011年作成
石嶺高地の戦闘

1 米軍にとっての石嶺高地の戦闘
 米軍のある書物に次のように記されている。
 「沖縄戦そのものが激戦であったが、その中でも第1海兵師団の大名渓谷の戦闘、 第6海兵師団のシュガーローフの戦闘(日本名安里52高地)
  第7師団のロッキークラッグスの戦闘(日本名142高地)、 第77師団の石嶺高地の戦闘、 第96師団のコニカルヒルの戦闘(日本名運玉森)。
 これらはそれぞれの師団が最も過酷な戦闘に巻き込まれた場所である」と。

 石嶺高地の戦闘では、米第307連隊第2大隊E中隊基幹204名が、奇襲により日本軍陣地を攻撃したものの、反撃を受けて重包囲に陥り、3日
 間の戦闘で死傷者数155名(戦死89名)を失った。 僅か3日間の戦闘で、約75%の死傷率は、部分的日本軍の勝利とされた 「シュガーロー
 フの戦闘」 を上回るものであり、おそらくは沖縄戦で米軍が最も辛酸を舐めた戦闘であったと言っても過言ではない。
  



2 戦闘までの概要 

 4月1日の米軍上陸以来、沖縄第32軍隷下の第62師団及び第24師団は防御戦闘を継続しつつ善戦を重ねてきた。 しかし、米軍は4月下旬に沖縄本島西海岸地区に海兵隊を投入、この圧倒的な戦力差により日本軍各部隊の戦力は低下し、満を持して攻撃に転じた5月初旬の攻勢移転も失敗に帰した。 この攻勢移転で傷付いた第一線部隊は、その戦力を回復することなくそのまま戦闘を継続、新たな陣地で米軍を迎え撃つも、準備のない陣地戦により更なる苦戦を強いられることとなった。
 首里北側では、経塚〜勝山において第62師団と第24師団の部隊が混然とし、統制のとれた戦闘が出来ず、その後方(南側)に位置する石嶺高地が首里防衛の要となった。 この石嶺高地を防御したのが戦車第27連隊であったが、攻勢移転時に虎の子である戦車を多数失い、新陣地では歩兵戦闘を行わざるを得ないという苦境に立たされていた。
 


3 日本軍部隊編成

(1) 戦車第27連隊
   戦車第27連隊長  村上 乙中佐 総員700名
    大隊本部   高橋大尉以下90名
             89式中戦車3,95式軽戦車1  
    第1中隊    平野大尉以下60名
             95式軽戦車11(3個小隊編成) 
    第2中隊    矢代大尉以下70名
             89式中戦車11、95式軽戦車1
    第3中隊    宮古島駐屯(第2中隊と同編成)
    第4中隊    山口大尉以下70名
             戦車補充なし。車載機関銃24
    歩兵中隊  長谷川大尉以下120名
             47ミリ砲2門、重機関銃6
    砲兵中隊  大越大尉以下150名
             90式野砲4門、重機関銃2
    工兵小隊  寺田少尉以下40名
    整備中隊  林大尉以下120名
             1個小隊は宮古島駐屯 
                                              石嶺周辺の作戦上の呼称地名 (英語は米軍呼称名)                         
                                              
             

      
                           戦車第27連隊将校団(昭和19年春満州にて撮影)
      @ 連隊長 村上乙中佐  A 大隊本部(指揮班長) 高橋幸雄大尉  B 第1中隊長 平野則之大尉  C 高橋七五三 軍医中尉
      D 吉原梅市主計中尉   E 第4中隊長 山口三郎大尉         F 砲兵中隊長 大越大尉     G 整備中隊長 林潔大尉



(2) 石嶺高地の戦闘開始時の戦車数
 ア 戦車第27連隊の保有戦車数は、中戦車14,軽戦車13の合計27両である
 イ 5月4日の攻勢移転時に第1中隊の軽戦車11両(実働9両)は、ほぼ全滅している
 ウ 5月4日の第2中隊は2両のみが戦闘参加
 エ 5月16日に砲塔射撃の戦車6両が撃破されるという記述がある。(第2中隊戦車と思われる)
 オ 戦車第27連隊史実資料には、第1中隊陣地に第2中隊1個小隊があり、これに戦車記号が付されていることから、
推定3両
 カ 同上、第2中隊陣地には2つの戦車記号があり、そのうち1つは「本部戦車」と記述されている。
3×2で推定6両    
  
             
                                 95式軽戦車(左)と89式中戦車(右)



4 石嶺高地周辺の地形と陣地構成


     
               昭和22年米軍作成石嶺付近地図 終戦直後の地図で、石嶺一帯にはほとんど住宅等がなかった
  
    
         平成20年の石嶺付近地図に戦車第27連隊の陣地配備を展開した。 一帯は石嶺高地を除いて大半が宅地化された。

  

  
   整備中隊陣地から見た戦車第27連隊防御地域一帯 (上下の写真は連続写真) 130高地・140高地は歩兵第22連隊の担任区域であった



石嶺高地の戦闘


5月6日

 攻勢移転の中止決定後、沖縄第32軍は戦略持久の方針に再帰し、新配備へと移行した。
戦車27連隊は第24師団配属のまま石嶺高地の保持を命じられ、併せて中地区隊(幸地南500mの高地から146高地)及び左地区隊(前田南勝山集落から経塚地区)の戦闘協力を指示された。


5月11日
 石嶺北東地区の146高地及び同高地南方高地は0730頃から戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けた。わが有効な砲迫の支援下に戦車数台を擱坐させて夕刻には米軍を撃退した。
 
首里を取り囲む日本軍陣地群の中でも地形的に最も特筆されるべきはチョコレートドロップ(西部130高地)だと言っても過言ではない。当初、第77師団司令部では「130高地」と呼称されていたが、平地部から突出した岩だらけのこの高地はその形状からチョコレートドロップと呼ばれるようになった。このチョコレートドロップ付近には沖縄で最大の地雷原が構築されており、東側のフラットトップ(140高地)、南西の石嶺高地、及びアメリカ軍の進撃する北側を除くあらゆる方向から掩護を受けられる地形であった。日本軍はこのチョコレートドロップとワート(130高地)では反斜面陣地を構築して戦闘を行った。
 5月11日0700、30分間の攻撃準備射撃終了と同時に歩兵部隊が進撃を開始した。第306連隊第3大隊は第77師団の最左翼(東側)として主攻撃を担当した。大隊は約200m前進をしたが、ここで砲迫射撃を受けて前進は停止した。チョコレートドロップの北側には網密な機関銃火網が形成されており、全ての道は塞がれていた。0900頃には中隊がチョコレートドロップの北麓で近接戦闘に陥った。
他部隊はこれの左側から進撃しようと試みたが、ワートの麓には敵の対人・対戦車壕があり、これに阻まれて前進することができなかった。戦車、自走砲、野戦砲、迫撃砲とあらゆる火器でこの攻撃を掩護したが、反対斜面にある日本軍の陣地を破壊できたものはなかった。更にフラットトップの日本軍火器で多くの犠牲者を出した。フラットトップから全く暴露していた1個小隊はこの攻撃の開始当初の短時間に11名の死傷者を出した。また日本軍の47ミリ対戦車砲は我が戦車が開豁地に出た瞬間に的確に射撃を行った。2両の戦車が撃破され、6両がこの火器で損害を受けた。またこれを逃れて前進した戦車は日本軍の肉薄攻撃によって破壊された。この日53名の死傷者を出して第3大隊は昨晩の進出線まで撤退した




5月13日
 石嶺東方約1kmの130高地・140高地・150高地方面は、13日戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。歩兵第22連隊は優先して大部を撃退したが、140高地東側200m付近高地を占領された。石嶺地区の戦車第27連隊は側方から歩兵第22連隊に密接に協力した。特にその砲兵中隊(90式野砲4門)は対戦車戦闘に威力を発揮した。

 
5月13日、フラットトップ(140高地)とチョコレートドロップ(西部130高地)の同時攻撃が計画された。攻撃準備射撃後、第306連隊はチョコレートドロップへの攻撃を開始した。第2大隊は北東側から攻撃を開始。チョコレートドロップ北麓に敵の砲迫射撃が集中したため、先頭中隊は13分でチョコレートドロップに到達した。

 主攻撃部隊は攻撃方向をチョコレートドロップとフラットトップの間に指向したが、今までになかった激しい反撃で直ぐに停止することになった。
歩兵部隊は何とかチョコレートドロップに足場を確保しようとしたが、直ぐに丘の麓まで押し返された。1400頃、敵は20発の150ミリ榴弾をチョコレートドロップ北側に撃ち込んできた。大隊は全火器の援護下に3回目の攻撃を敢行したが、結局約300m後退することになった。105ミリ砲を装備した中戦車2両はこの日に撃破された。ある部隊はチョコレートドロップから撤退せずにワートの麓に掩体を掘ってここに留まろうとしたが、この部隊に日本軍は夜襲をかけた。この攻撃は執拗でついにアメリカ軍は掩体を放棄して撤退した。







5月14日
第24師団は、前田南側の左地区隊であった歩兵第32連隊配属の独立第29大隊及び独立速射砲第3大隊(第2中隊欠)を、戦車第27連隊に配属して戦車連隊を左地区隊とした。(独立第29大隊は130高地(Wart)に配備された)


5月15日
石嶺東方地区(西部130高地)に米軍が進出して来たが、戦車第27連隊は善戦して撃退した。 独立第29大隊、独立速射砲第3大隊主力は歩兵第32連隊に配属となった。

 
5月15日0900、新たに投入された第307連隊が306連隊を超越して攻撃を開始した。今回の攻撃は左のフラットトップと右のチョコレートドロップを同時に攻撃しようと計画された。前日夜から雨の降る中をフラットトップとその周辺の高地帯に対して一晩中砲兵射撃を行ったものの日本軍の砲迫射撃・機関銃射撃は止むことはなかったが、昼までに第3大隊はチョコレートドロップ北麓及びフラットトップ北側斜面下に到着し更なる攻撃準備に着手した。
    








5月16日

 石嶺地区の戦車第27連隊(第4中隊)も激戦を交え、130高地付近に車体を埋没して砲塔射撃を実施していた戦車6両が米軍戦車によって破壊された。 第24師団長は、独立速射砲第3大隊第2中隊を戦車第27連隊に配属して石嶺付近の防備を強化させた。 

 
5月16日も第307連隊は攻撃を続行した。第3大隊の1個小隊がフラットトップの稜線に到達したが、到達と同時に南約1km付近のTom Hillから迫撃砲の集中射撃を受けて、あっという間に頂上部から追い落とされた。一方、支援の戦車部隊がフラットトップ周辺に埋められていた6両の日本軍戦車を撃破したが、アメリカ軍戦車も日本軍の地雷原と47ミリ対戦車砲によって3両が撃破されている。この日第3大隊は稜線確保のために4度攻撃を繰り返したが、その度に北側斜面に押し返された。
 第2大隊はチョコレートドロップの頂上部と反対斜面確保のために攻撃を行った。1個小隊が午後にチョコレートドロップ攻略に失敗したが、その他の部隊は東側斜面に取り付くことが出来た。





5月17日

 石嶺高地は17日未明有力な米軍から奇襲され、0600頃同高地頂上付近の戦車第27連隊本部壕付近まで侵入された。戦車連隊は主力をあげて反撃し、接戦激闘が彼我の砲弾下で終日続き夕刻高地上から米軍を撃退したが、わが損害は多大であった。 また石嶺高地と130高地の中間地区の高地(西部130高地)にも一部の米軍が進出した。

【戦車第27連隊史実資料より抜粋】
 
5月17日0430、突然監視兵の位置より銃声起こる。敵兵は我が中央陣地に夜襲し来る。我が監視兵の応戦射撃なり。敵は自動小銃・機関銃・手榴弾をもって逐次肉薄し来る。遂に連隊本部台上に進出す。敵兵約500。連隊は全力をもって東西よりこの敵を挟撃し、一挙に撃滅せんとせり。また最右翼中隊たる山口隊も同様数百の敵の攻撃を受けたり。第1・第2中隊を以て右翼より、歩兵中隊・工兵小隊を以て左翼より、本部・砲兵・整備中隊を以て正面より攻撃し、彼我入り乱れ混戦乱闘に陥り、彼我の死体累々として山をなし、遂に夕刻に至り残敵は敗退せり。本戦闘において敵に与えたる損害350(うち遺棄死体250)、機関銃・自動小銃多数ろ獲。我が方の損害又大なるものあり。
      


 沖縄戦において通常米軍は朝から攻撃を開始し、午後遅くには確保した地域で掩体を構築、さらに夜間には防御線を構成して日本軍の逆襲に備えるというのが一般的であった。しかし第77師団は夜間攻撃を採用した。5月15日に左翼の第306連隊と交代した第307連隊は、5月17日にこの夜間攻撃を持って石嶺高地を攻撃占領しようとした。 だが敵中にて地域を確保することの困難さと歩兵部隊の苦しみだけが増長され、ほとんど地域を確保することも出来ないということが理解できたのであった。

石嶺高地稜線に進撃・確保
 5月16日の夕暮れ前、第307連隊第2大隊E中隊長は各小隊長を伴って南約1200ヤードにある石嶺高地を望むことの出来る第2大隊本部の予備指揮所を訪れ、そこでE中隊は同高地に対して夜間の奇襲攻撃を行うことを命じられた。 暗くなる前の数分間だけ中隊長以下はその地形を研究することが出来た。 この攻撃に際してはH中隊の重機関銃分隊、C中隊の1個小隊が配属された。配属された中隊の大半の兵士はこれまで戦闘経験のない補充兵が大半で、さらに火器の使用は禁じられ、銃剣の装着が指示されていた。
 E中隊は暗闇の中、5月17日0300に行動を開始した。谷に西側を通り、0400には攻撃発揮位置に到着し、そこでC中隊の1個小隊が合流した。0415に増強されたE中隊は行動を開始、静かに低地部を進んだ。石嶺高地上の幹だけの木が照明弾のなかにぼんやりと見え、それを目標にして更に前進した。一帯は日本軍の支配下にあったが、アメリカ軍の行動は察知されていないようであった。照明弾が頭上で輝きを増したときには部隊は静止した。戦場の音、つまりライフル銃や自動小銃の発射音、砲弾の破片の飛び散る音などはいつもと変わることなく轟いた。
 E中隊は日の出前に石嶺高地に辿り着いた。そして高地上の平らな稜線上に幅125ヤードにわたって展開した。そこで掩体を掘ろうとしたが隆起珊瑚礁と石の混ざった土質のため掘削は困難であった。石嶺高地の中央部の稜線上は幅が10ヤードにも満たない狭さであったが、両サイドは比較的緩やかであった。第3小隊が左に、第2小隊が中央、C中隊の1個小隊が右に展開、第1小隊は後方掩護となった。中隊長のいる指揮所は狭い稜線部の北側約20ヤードの北斜面窪地に設定された。
 日の出までに全員が配置を終えたが、日本軍はまだ彼らの存在に気づいていなかった。アメリカ軍の存在に気づく前には殺されることになる日本軍将兵の会話や笑い声が潜んでいるトンネルの奥から聞こえてきた。第2小隊はある交通壕に日本兵がそのうち銃剣と小銃の餌食になることも知らずに10名以上が寝込んでいるのを発見した。 たが日本軍は0530に突如戦闘態勢に移行した。日本兵が南斜面にある壕から一斉に飛び出すとともに谷からも現れた。アメリカ軍の機関銃が一斉に火を噴いて日本兵をなぎ倒した。すると日本軍からは早くも砲兵射撃、迫撃砲射撃、機関銃や小銃が反撃を開始して、木のない石嶺高地上に展開し浅い掩体に身を隠すアメリカ兵に火力を集中し始めた。日本軍はやがてアメリカ軍の後方からも射撃を開始し、さらに石嶺高地の斜面のにある壕からも自らの位置する石嶺高地を目標として迫撃砲弾を撃ち込み始めた。

     
     米軍307連隊第2大隊E中隊基幹が夜間に戦車第27連隊本部正面に奇襲攻撃を行ったが、日本軍は直ちに強力な反撃を開始した

  


日本軍の反撃

 日本軍の火力はE中隊の自動火器に集中した。ある重機関銃は銃架に設置する前に吹き飛ばされ、ある重機関銃は弾薬を1ケース撃っただけで破壊された。重機関銃のクルーはその大半が戦死した。2つあった軽機関銃も0700までには沈黙させられ、うち1挺は完全に機能を喪失した。軽迫撃砲は1つを残して1000までには沈黙させられた。中隊と大隊とを結ぶ無線機はこれもまた日本軍に徹底的に狙われた。中隊と砲兵の観測員が5台の無線機を携行したが、今となっては残されたのは1台のみとなった。
 アメリカ軍の火力が低下するに伴って、日本軍は包囲されたアメリカ兵に接近を試みた。石嶺高地の左側に位置する第3小隊は3度にわたって左から白兵戦を仕掛けられた。アメリカ軍は手榴弾によって多数の死傷者が生じた。石嶺高地の南にいた日本兵は中央部に位置する第2小隊に攻勢を仕掛けてきた。 2挺の擲弾が100ヤードの距離から同時に発射され、アメリカ軍の展開する稜線を端から端まで射撃してきた。アメリカ兵の死体が血の海の中に横たわったが、生きている兵士は生きるために、その遺体を浅い壕の外に出して自らの空間を拡げなければならなかった。衛生兵は自らが負傷しながらも、手持ちの医薬品が底をつくまで自らの任務をこなした。
 第307連隊は一日を通して敵火を排除してE中隊に増援を送り込むことが出来なかったが、砲兵および自走砲による掩護だけはすることが出来た。砲兵中隊は高地上の日本兵に対して直接射撃を行った。この砲撃は円陣防御をするアメリカ兵のすぐ近くに打ち込まれたため、舞い上がった土砂が彼らを覆った。わずかに残った1台の無線で目標を指示することが出来た。そして迫撃砲と重機関銃が更に襲いかかってくる日本兵を蹴散らした。
 この統制のとれた射撃により石嶺高地の斜面は日本兵の遺体が折り重なったが、それでも彼らは攻撃を続行した。昼頃には第2小隊・第3小隊とも戦力は半減、残りの中隊将兵も大きな痛手を被った。

   
  戦車第27連隊は、連隊本部・整備中隊・砲兵中隊を正面から、第1中隊・第2中隊の1個小隊を右翼から、歩兵・工兵部隊を左翼から逆襲した

  

  



E中隊後退

中隊長はもはや夜間において現戦線を保持できないと悟り、午後遅くに第2小隊・第3小隊に対して指揮所まで後退し、そこで防御線を構成するよう命じた。第2小隊に重篤患者が6名いたために撤退は困難であった。彼らはポンチョの上に乗せられ、そのまま引きずられて後退した。
 夜になった。救護班がE中隊の元に駆けつけようとしたが、日本兵は彼らを待ち伏せし、生存者が引き返してきた。石嶺高地上のアメリカ兵は夜の間ずっと日本軍の砲兵射撃、迫撃砲射撃、そして臼砲を受け続けた。照明弾が連続して打ち上げられ、これによってE中隊は日本軍の接近を確認することが出来た。眠ることなど全く出来なかった。疲労により将兵は掩体の中で身動きできず、ただ夜明けを待つばかりであった。
  また第307連隊第2大隊主力はチョコレートドロップ周辺にまで進撃、夜には敵の洞窟陣地を封鎖するまでに進展した

            
   307連隊第2大隊E中隊基幹が石嶺高地北斜面に後退後、戦車第27連隊は配属の歩兵第32連隊第3大隊第9中隊を稜線上に配置した

  
 



5月18日
 石嶺高地の戦車連隊は、昨17日の戦闘で特に多大の死傷者を生じ、このころ戦車連隊の戦力は4分の1となり、砲兵も一門のみ健在という状況となった。戦車連隊長は配属された特設第4連隊第2大隊を第一線に配備して陣地の強化を図った。

 5月18日無線機から「万難を排して現在地を保持せよ」との命令が下された。中隊長は力強く「必ず死守します」と返答した。将兵は最後まで戦うことを自らに言い聞かせた。すでに手榴弾は底を尽き機関銃や迫撃砲は破壊されてしまった。生き残っている将兵は戦死した同僚から全ての弾薬を回収した。予備のライフルは全て使用し、銃剣は全て手元に置いた。日本軍の圧迫は着実に激しくなった。アメリカ兵は至近距離から狙撃され、投げ込まれる手榴弾から逃れるために穴から穴へと泥まみれになりながら走り回った。ある時には一度に8発の擲弾筒が同時に高地に撃ち込まれた。アメリカ軍砲兵が日本軍の攻撃を阻止したが、それでも巧みに防御された日本軍迫撃砲陣地を壊滅させることは出来なかった。
 水や医薬品の欠乏に過度の緊張感が加わって負傷兵の呻き声は更に悲惨な状況となった。全ての缶詰はすでに前の晩のうちに空になっていた。それでも尚、戦う意志はまだ旺盛であった。最も懸念された問題は補充兵は戦う意志はあれども経験が不足していることであった。敵の強襲は時として彼らを絶望の淵に追い込み、何人かは精神的におかしくなっていた。ある兵士は軍曹を襲撃しようとした2名の日本兵が約30フィートまで接近しているのを見ていたが、トリガーを引く指が全く動かなかった。別の兵士が手に銃を持ちながらも仲間に日本兵を撃ってくれと大声で叫んだ。またある兵士は一人の日本兵が数ヤードのところまで接近して来たのを見てトリガーを引いたが、弾を装填するのを忘れていたこともあった。このような苦難の果てに生き残った補充兵達は歴戦の勇士と変貌していった。
 午後には第307連隊は少人数編成で増援を送り込もうと試みた。C中隊の主力は石嶺高地北側の開豁地を進撃したが、E中隊の所へ辿り着いたのは中隊長と5人の兵士に過ぎなかった。彼らは直ちに安全な掩体に飛び込んだが、中隊長は指揮所壕に飛び込もうとした瞬間に頭部に貫通弾を受け、そのまま指揮所壕に倒れ込んで戦死した。それでも暗くなってから8名の担架班が突破して駆けつけるという情報が入ると士気は何とか高揚した。
 暗くなってからは日本軍の射撃が下火になり、2200に担架班の第1陣が到着した。彼らは負傷者を乗せて直ちに引き返した。担架班は迅速に行動し、照明弾の明かりから巧みに身を隠した。この勇気ある行動により2時間半の間に18名の負傷者を後送した。また担架班は水と弾薬を携行して来た。これによって高地上の部隊は初めて一息つくことが出来た。2日目の眠れぬ夜が過ぎた。

18日・19日でチョコレートドロップ周辺は完全にアメリカ軍が支配するに至った。

5月19日
 石嶺高地においては、米軍と40m〜200mを隔てて終日戦闘を交えた。


 5月19日、日本軍の石嶺高地奪回の企図が更に明確となった。高地上の部隊にとっては人員の増援や弾薬の欠乏が不安であった。日本軍は数度にわたって逆襲してきたが、これの撃退は時間と共に困難となってきた。たが砲兵射撃と迫撃砲射撃に自走砲の射撃も加わり、両翼に正確な射撃を行ったために、アメリカ軍陣地に襲いかかろうとする日本軍を撃退することが出来た。 小隊規模の日本軍の逆襲があった際には迫撃砲と機関銃射撃、さらに4個砲兵大隊による集中射撃によって、これらを殲滅することが出来た。 だが日本軍の迫撃砲射撃は引き続き終日石嶺高地に落下した。
 朝になってE中隊に対して「午後には部隊交代する」旨の連絡があった。だが昼が近づくにつれ無線機の状態が悪くなり、ついには使用不能となってしまった。時間が長く感じた。2100になっても部隊交代の動きは全くなかった。だがその直後に後方地域で小銃の射撃音が響いた。2200、第306連隊第3大隊L中隊が到着した。暗闇の中ですぐに交代が行われた。交代の兵士が配置に付くと同時にE中隊は持ち場を離れた。やつれた生存者が0300に高地を下ろうとしたその時、砲弾の破片が新しく配置に付いた兵士2名を直撃した。一人はすぐにポンチョの乗せて後送する必要があった。E中隊はこの負傷兵を抱えて後退し、ついに後方の安全地帯に到達した。
 夜間攻撃を行った中隊204名の将兵のうち155名が戦死もしくは負傷した。E中隊129名のうち、兵28,見習士官1、将校2が戦死、配属のC中隊は58名のうち戻ってきたのは13名、重機関銃分隊は17名のうち戻ってきたのは僅かに4名であった。 (戦死89名)
E中隊によって首里に向かって数百ヤード戦果を拡張した。また掩護火力により石嶺高地周辺で約100名程の日本兵を殺害した。
 第305連隊はこの間5号線に沿って攻撃前進し、5月21日に首里の北郊外に達したところで第306連隊と交代している。



5月20日
 石嶺高地の戦車連隊は20日増強された米軍と終日激戦を交えたが陣地は確保した。


  





【参考 米公刊戦史掲載写真の誤記】

きちんと考証を経たはずの米軍公刊戦史にもいくつかの誤りがある。特に下記の写真、石嶺高地に関する写真はその最たるもので、後世の研究等において「これが戦時下の石嶺高地である」という誤った認識を避けるために、敢えてここに掲載した。

   



1 左上の写真は公刊戦史に掲載されている写真で「石嶺高地」とされて
 いるもので、写真中に「Ishimmi Ridge」との書き込みがある。

2 右上の写真は「google earth」 により同じアングルから見た現在の写真
 である。
  同じアングルであるということは、写真下部の道路や川(戦時下の写真
 では道路のように見えているが実際は川である)を見ればわかる。

3 同じアングルであれば、現在の写真に写っているのは、首里平良町(モ
  ノレール儀保駅周辺)となる。 したがって石嶺高地とされている高地は
  虎瀬山(米軍呼称「Dorothy」)であり、期せずして戦時下の虎瀬山の
 状況が見て取れるのである。 尚、石嶺集落「Ishimmi」としている場所
 は、 石嶺高地と石嶺集落の実際 の位置関係から「集落」としているもの
 と思われる。

4 右の写真は、戦時下の写真に敢えて現在でも対比できるように著明な
 名称を加えてみたものである。





 































戦車連隊と言えども、石嶺における戦闘時には十分な戦車はなく、しかも兵員も5月上旬の攻勢移転時に損耗しており、当戦闘においては「歩兵部隊としての防御戦闘」の色合いが強い。

















連隊長 村上中佐は、5月27日に首里城址において迫撃砲の破片により大腿部に重傷を負い、出血多量にて東風平の病院に搬送中戦死を遂げられている。 部隊長戦死後は指揮班長高橋大尉が部隊長代理として部隊を指揮した。


















米軍中戦車M4シャーマンとの戦力差は歴然としていた。 M4戦車の主砲が75ミリであるのに対し、日本軍軽戦車は37ミリ、中戦車は47ミリであった。 顕著なのは装甲厚で、M4戦車の砲塔前面が120ミリであるのに対し、日本軍軽戦車は12ミリ、中戦車でも25ミリで、例え命中弾であっても米軍戦車の撃破は実に困難であった。











石嶺高地の北側はなだらかな戦車機動可能な地形であったが、石嶺高地に接近するにしたがって、錯雑とした地形となって戦車の機動を制限した。 米軍の戦車部隊は主として近接可能な西部130高地に集中した。












西部130高地を戦車第27連隊担任区域としたことには疑問が残るところである。 この配置で戦車第27連隊の正面幅が過広となり、第4中隊に支援火力を指向せざるを得なくなり、火力の集中性が失われたように推察できる。
 しかしながら、西部130高地を単純に歩兵第22連隊担任区域とするには、絶対的な兵力の不足が存在したものと思われる。

























 



















 















米軍側の記述 「チョコレートドロップの北側には網密な機関銃火網が形成されており」 という部分は、西部130高地(チョコレートドロップ)を守備する戦車第27連隊第4中隊が戦車を持たず、車載機関銃24挺を装備していたことを裏付けるものである。



















































5月15日に軍は、それまで140高地一帯を守備してきた歩兵第22連隊の戦力低下を認め、歩兵第32連隊1個大隊を増援部隊として派遣した。その結果、独立第29大隊や独立速射砲第3大隊は1日にして配属変更となった。






















車体を埋没した戦車6両の記述は日米両軍とも一致する。



















米軍の沖縄戦における激戦のひとつである石嶺高地の戦闘も、日本軍側の記述はわずか数行である。 それは同時に行われた 「シュガーローフの戦闘」 こそが日本軍にとっての最大の激戦であったことの証である。












夜間攻撃には十分な地形偵察が必要である。それは日米両指揮官の共通の認識であったが、戦場の実相では概ねそのような偵察時間は与えられないものである。







完全に奇襲を受けた日本軍であったが、反撃に転ずるまでの時間は実に短く、米軍は奇襲効果を十分に発揮できなかったことがうかがえる。







米軍の攻撃は、不幸にして戦車第27連隊の陣地配備の真ん中に対して行われた。 これが3日間にわたる想像を絶する苦戦の理由である。
 もしこの攻撃が第1中隊陣地の右翼に行われていたなら、日本軍は一気に側背の危機に陥っていたと思われる。
























日本軍第一線指揮官の的確な指示が垣間見られる。 戦闘前から攻撃目標について徹底した指示を行っていたと思われる。




ある日本軍小隊長が 「米軍は苦戦になると後退すると聞いていたが、実際は踏みとどまって戦闘を継続することが多かった。 風評とは違って米軍も勇敢な兵がいると感じた」 と語っている。





米軍E中隊主力が、四周から日本軍の逆襲を受けていることがわかる。 これで壊滅しなかったのは、砲兵部隊や自走砲による支援射撃によるところが大きかったためであろう。











































米軍は円陣防御に陥った。 ただし夜間戦闘については、低い位置にいる方が有利なのである。 稜線上に位置した日本軍は反対に身動きが出来なかったはずである。







歩兵第32連隊第3大隊第9中隊は、おそらく地形不明のまま稜線上に配備されたと思われる。 したがって米軍への攻撃という意味よりも、むしろ日本軍陣地の守備の意味合いが強かったと思われる。































沖縄戦において、米軍部隊が日本軍によって包囲殲滅される危機に直面したのは、この石嶺高地の戦闘だけであった。 この危機を防いだのは、ひとえに米軍砲兵部隊の支援射撃であった。
 日本軍も各所で同じような状況に陥ったが、いづれも砲兵の支援射撃がなく、そのまま殲滅されるというパターンが大半であった。















日本軍は、米軍砲兵部隊や迫撃砲尾部隊・自走砲部隊などによりついに米軍歩兵部隊殲滅の機会を失してしまった。 兵力・地形などは米軍を凌駕したものの、火力という点で米軍を制圧することすら出来なかったのである。










この日以降、天候の悪化もあって戦線は一時的に膠着する。