伊祖高地の戦闘                                                                  2006年1月作成

伊祖高地の戦闘


4月18日
 牧港及び伊祖付近は歩兵第63旅団と歩兵第64旅団の戦闘境界となっていた。4月18日夜一部の米軍があたかもこの境界の弱点に乗ずるかのように牧港付近から伊祖付近に侵入した。

     
4月18日1607、牧港河口に煙弾が落とされた。この煙に紛れて兵士がパイプラインを伝って対岸に渡り、数分後には第106歩兵連隊のG中隊も河口を渡り、対岸の崖下に集結した。G中隊の任務は橋梁の建設と部隊の渡河を察知されないために牧港部落の日本軍の前哨を掃討することにあった。1個小隊が崖を登り、暗闇でのごく小規模な戦闘の後、深夜までに一帯の掃討を完了した。1930から渡河橋資材を搬入開始し、深夜には約100mの歩行橋が完成、19日0300には2本のベイリー橋も完成した。
            

            




4月19日

 牧港・伊祖付近に侵入した米軍は19日未明わが陣地を奇襲した。この方面守備の独立歩兵第21大隊長西林鴻介中佐は、米軍侵入正面の第1中隊に対しその撃退を命じた。米軍侵入の報を受けた第62師団長(藤岡中将)は、歩兵第64旅団長(有川少将)に即時陣地の奪回を命令した。有川旅団長は西林大隊長から独力をもって撃退する旨の報告を受けたため特別の処置はしなかった。独立歩兵第21大隊第1中隊の逆襲は失敗に終わり、19日朝48.9高地、伊祖部落北側高地付近は米軍に占領され、城間北方地区にも米軍が侵入してきた。この方面の米軍は逐次増強し混戦状態となり終日激戦が続いた。
 伊祖南東側高地の独立臼砲第1連隊本部も米軍の包囲攻撃を受けたが、善戦して米軍の進出を阻止し、その第4中隊の1小隊は伊祖北側高地の一角を確保していた。第62師団長は再び有川旅団長に陣地の奪回を命じ、有川旅団長は西林大隊長にそれを命じた。
 19日夜西林大隊長は第3,第4,第5中隊をもって陣地奪回の逆襲を実施し、天明まで近接戦闘を繰り返したが、多大の死傷者を生じ、逆襲は失敗に終わった。この戦闘において、第3中隊は中隊長以下150名、第4中隊は小隊長以下約150名、第5中隊は中隊長以下ほとんど全員が死傷し、大隊の戦力は半数以下に激減した。わが砲兵は19日1530から牧港の米軍橋梁に火力を集中し、その2個を破壊した。





                      

 第106歩兵連隊の進撃は真夜中過ぎに始まった。将兵が続々と橋を渡った。日本軍はこの渡河を阻止すべき動きは全くなかった。G中隊は無事に渡河を完了。F中隊は夜明け前にG中隊を超越して一号線が浦添丘陵と交差している地点まで静かに進出した。丘陵の麓でF中隊の1個小隊が道路から離れ西へ回り込みならが雑木林の丘を登っていった。30分ほどして米軍は丘の頂上に達したが日本軍は未だに察知していなかった。1個小隊は丘の頂上で左翼(南東)の方向に変針して静かに稜線を下り、切通し(仲間パス)まで前進していった。すでに夜明となった。
 切通し付近では日本兵が焚き火を囲んで朝食の準備をしていた。米軍は直ちに交戦に入った。直ちに1号線上にいる残りのF中隊に対して迫撃砲射撃が開始された。稜線上にあったF中隊の1個小隊は切通し方向へ迅速に移動した。30分間にわたりアメリカ軍にとって凍り付くような近接戦闘が繰り広げられたが、日本軍は切通しから南の方へ後退した。第106歩兵連隊は浦添丘陵北西端を確保し、その地域を強化した。
 0710までに増援の小隊が切通し近くの稜線上に集結しつつあり、残存の日本兵も掃討された。第106歩兵連隊は第105歩兵連隊と連携して最終目標に向かって進撃するように準備を始めた。

            


 第27師団の行動地域の左翼に位置する伊祖集落はこの浦添高地の反対側にあり独立歩兵第21大隊、独立旧砲第1聯隊が守備する日本軍の防御の核心であった。
 伊祖周辺の防御配備は最も高い岩山(峰からさらに15m高くなっている)である「ウエストピナクル」を中心に構成されていた。洞窟陣地のある稜線やクレパスなどからなるこのウエストピナクルはどの方向からも接近が困難な地形であり、我が砲兵射撃や迫撃砲射撃もこれらを破砕することができなかった。トンネル化された交通壕が四方に構築されているのが伊祖集落周辺に確認されていた。もうひとつの強力な拠点は「ウエストピナクル」から約500m南東の「イーストピナクル」である。この地区は日本軍の機関銃部隊が全ての接近を瞰制し接近を阻んでいた。この二つのピナクルの中間点にこの浦添高地を超える道路が登っておりその頂上部(Nakama pass)は切り立った掘り割り状の地形となっている。この道路は障害物で封鎖され、付近には地雷原が構築されていた。
 4月19日夜、第105連隊第3大隊はこの高地帯の稜線上にありウエストピナクルの端まで部隊を展開していた。第2大隊は稜線上には達っしていないものの第3大隊と連携をとれていたが、その東側戦線は高地帯の下方に伸びていた。
 尚、1530に橋梁付近に日本軍の砲撃が開始され、1600には歩行橋だけを残して破壊された。





          

          


4月20日

 4月20日米軍は第62師団の全正面に猛攻して来て、全戦線に激戦が繰り返された。西海岸正面の米軍は20日朝から兵力を増強し、伊祖北側から南西方に向かって猛攻してきた。伊祖部落南東地区に侵入した米軍約二個中隊を伊祖付近の所在部隊(独立臼砲第1連隊本部など)は、独立歩兵第21大隊と協同し、迫撃砲の支援を得て包囲攻撃して撃退した。
城間方面においては米軍と近接戦闘を交えたが善戦して陣地を確保して南進を阻止した。しかし伊祖、城間には逐次米軍が侵入し、西海岸道方面は憂慮すべき状態となった。第62師団長は20日更に第64歩兵旅団に対して陣地奪回を厳命した。
 第64歩兵旅団には使用すべき予備兵力がなかったため、独立歩兵第21大隊南側に陣地占領中の独立歩兵第15大隊主力を抽出し、独立歩兵第21大隊と共に20日夜奪回攻撃を実施した。
 独立歩兵第15大隊主力は20日夜半沢岻、安波茶を経て伊祖に向かって前進した。同大隊の第3中隊及び歩兵砲中隊主力は伊祖北側高地(伊祖城趾)に到着し、所在の独立臼砲第1連隊と合流したが、大隊主力は安波茶付近で天明となったため夜間攻撃は実行できなかった。
 20日新たに第64歩兵旅団には歩兵第22連隊第3大隊および独立歩兵第273大隊が安波茶に到着して旅団長の指揮下に入った。



 20日朝、二つのピナクルでは激しい戦闘が行われた。第105歩兵連隊長は第2大隊と第3大隊に対し南進を命じた。しかしながら、敵の「イーストピナクル」からの射撃は激しく第2大隊は何としても頂上部に達することが出来なかった。連隊長はこの状況を視察し1230には攻撃を再興するように命じた。連隊長は第2大隊を違った方向から攻撃するように配置した。まずE中隊が先行して攻撃を開始、続いてF中隊とG中隊は「イーストピナクル」の麓を東に向かいその後仲間集落の北側で崖を登って頂上部に達して西進した。両中隊(F・G)は短時間で反対斜面(南斜面)に達してその先の道路まで到達した。この進撃は日本軍陣地を後方から攻撃することとなり彼らを驚かせた。


 この道路で両大隊は停止した。F中隊が左、G中隊が右に位置して仲間集落の攻撃を準備した。両中隊の中隊長は無線で連携をとり作戦を確認しつつあったその時、左のF中隊の左翼(仲間集落の近く)が敵の迫撃砲射撃の洗礼を受けた。日本軍が仲間集落に集結するのが見受けられた。30分後、F中隊長は敵がF中隊の左翼付近(仲間集落)で活発化しており後方に回り込まれる可能性があることをG中隊長に無線連絡した。両中隊長はこの脅威に対して防御線を東に変換した。G中隊長はその位置からF中隊の1個小隊しか確認できなかった。
 両中隊長の調整が終了した直後、F中隊長は負傷し無線機も破壊された。機関銃射撃と迫撃砲射撃がF中隊の真後ろから撃ち込まれた。ほんの数分で全ての将校が戦死するか負傷した。指揮官を失いかつ激烈な敵の射撃下にF中隊は組織的な戦闘力を失い、兵は高地帯から逃れようとした。






 G中隊長は直ちに小隊長達に東に対して防御するように命じた。日本軍はすでにイーストピナクルから進撃し彼らの右後方に迫っていた。東からはF中隊にとどめを刺すべく日本軍が迫っていた。G中隊の2個小隊は道路の南側(敵方斜面側)に配備された。北斜面(背後)は2mの崖となっており、彼らが逃げるにしても道路を横切り、その崖を登り、さらにその後に約100mは35度から50度の斜面を駆け上らなくてはならなかった。日本軍の機関銃は彼らが背後に走り崖を登ろうとするところを的確に射撃した。迫撃砲弾と手榴弾の破片が飛び散り、日本軍の狙撃兵が動く兵を直ちに射殺した。斜面を走る兵も狙撃され戦死あるいは負傷した。
 G中隊の第3小隊は他の2個小隊が後退する間に取り残された。F中隊もG中隊も後退するしかなかった。この時日本軍が「イーストピナクル」の東側低地部に侵入しているのに気づいた。F中隊とG中隊は今や2個中隊規模の敵に完全に包囲された。
 第105歩兵連隊第3大隊は第106歩兵連隊第1大隊と並列で進撃した。少し計画より遅れたものの伊祖集落の南西約200mのところまで進出し、そこで夜間防御を行った。
 この日の戦闘で第2大隊は戦死50名、戦傷43名であった。第27師団では20日に戦死傷者が506名になり第27師団として沖縄戦で一日あたり最大の犠牲者を出した。

     


4月21日

 伊祖、安波茶地区では終日死闘が繰り返されたが、城間・安波茶陣地を確保して米軍の進出を阻止した。

4月21日両ピナクルをめぐる戦闘が続いた。第105歩兵連隊第1大隊と第2大隊は夜通し「イーストピナクル」攻略作戦を立案・再編成を実施した。、第105歩兵連隊第3大隊と第106歩兵連隊第1大隊は一部がいまだに日本軍が立て籠もる「ウエストピナクル」に戻って攻撃した。しかし両作戦とも不成功であった。 しかし大きな進展もあった。前日戦死した日本軍将校が持っていた資料から地雷原の位置が判明したため、この除去を0900までに完了し、牧港から伊祖高地に至る一本の補給路ができあがった。そして正午までに障害物の処理も完了した。

          




4月22日
 米軍の攻撃は依然全正面で続いた。城間、伊祖、安波茶付近でも戦闘が繰り返されたが、わが部隊は各陣地を確保した。歩兵第64旅団長は22日、独立歩兵第15大隊に旧陣地に復帰する事を命じた。同大隊は2日間の戦闘で約3分の1の損害を受けた。

 第106歩兵連隊第1大隊は自走砲や砲兵の支援下に「ウエストピナクル」周辺に潜む日本兵の掃討を行った。補給路もついに日本軍の妨害を受けることなく伊祖まで伸ばすことが出来た。その後第106連隊第1大隊は一度500mほど後退して戦線を縮小強化し、東の第105連隊との連繋を図った。第105連隊は部隊の再編成に努めた。

          

4月23日
 
伊祖城趾および伊祖東側高地において孤立奮闘していた独立臼砲第1連隊、独立歩兵第15大隊、独立歩兵第21大隊の各一部は、23日夜逆襲を行った後安波茶地区に後退した。

 4月23日、第105連隊第2大隊と交代した第1大隊が2個中隊で「イーストピナクル」を攻撃した。
C中隊は日本軍が強固に守備する「イーストピナクル」の近傍の稜線まで達したが、そこで激しい白兵戦となった。約30分の戦闘後100名以上の日本軍が戦死していた。この日の夕刻までに大隊は仲間(安波茶集落)までを確保した。
 「ウエストピナクル」の戦いは、23日夜突然終わった。日本軍約30名が伊祖集落南の第106連隊第1大隊の前線に突入、ついに全滅した。




防御における陣地配備の大きな要点は「翼の依託」である。つまり主陣地線の最も端をどのように処置するかが重要なポイントである。嘉数は海からの距離があり翼端とはなりにくく、当然のことながら地形障害と海のある牧港が翼となりうるはずである。
しかしながら、それに対して特段の処置を施したわけでもなく、小規模の前哨を配しただけのようである。筆者にとって沖縄戦の謎のひとつである
















嘉数西側70高地から牧港までは、重機関銃でもあれば十分に火制できうる距離であるし、砲兵部隊の観測点としても非常に重要な地域であった。この地域を早々に米軍に占領され、これを駆逐できなかったことが主陣地帯の崩壊の最大の原因である




         当時の牧港地区
 

戦力の逐次投入が始まる。戦術を学んだ誰もが、戦力の逐次投入を避けて火力を一気に集中させることの重要性を知っていたはずである。米軍の侵入を小規模部隊の偵察行動くらいにしか判断できなかったのか。適切な情報が得られなかったのか・・・

独立歩兵第21大隊の夜間攻撃については部隊別戦闘戦史を参考のこと











米軍の攻撃を「浸透」と表現する記録があるが、生存者は「浸透ではない。強襲であった」と語っている。記録の上からは語ることの出来ない米軍の非常に激しい攻撃であったことが推察される




独立歩兵第21大隊第1中隊は最も早くから米軍と交戦を開始した。早々に第1中隊長加藤中尉は戦死。正午頃まで29高地付近で白兵戦が行われた。第1中隊は逐次に後退しながらも21日に全小隊長を失うまで果敢に戦闘を継続している




独立歩兵第21大隊第4中隊は米軍の北部からの接近に伴い、伊祖高地上にほぼ横並びで配置されていたようだ。したがって縦深が浅く、米軍の侵入に対して側背から攻撃を受ける形になった。しかも奇襲であったために、一気に稜線を占領される結果となった











伊祖高地前面には地形障害がなかったが、陣地内は非常に錯雑した地形であった。そのため米軍の戦車が縦横に機動した記録が無い。唯一進撃できるNakama Passは地雷で封鎖され、1号線(現国道58号線)も日本軍によって爆破(2カ所爆破の記録がある)されていたようだ。























更に戦力の逐次投入を繰り返す。無傷の独立歩兵第15大隊を投入したが大きな損害を出すことになる。防御に専心すべき時に、陣地を出て敵前に出すことの結果は当然わかっていたはずである

第22連隊第3大隊は第24師団隷下部隊であり、南部から転進してきた直後であり、地形に未熟であった。また第273大隊は嘉数で大きな損害を出しており、戦力的には既に1個中隊以下のものとなっていた

日本軍にとっても自陣側に米軍が進撃してきたのは驚きであったはずだ。何としても逆襲しなければ伊祖高地の2拠点の保持が困難になると考えたにちがいない。






実際にその場に立ってみると道路下も道路背後もかなり険しい斜面となっている。恐らく背後の警戒を怠っていたと思われる。万一主力と離隔して反対斜面に進出するとすれば、当然砲迫射撃の準備をしなければならないはずだが、米軍側の記述にはその様子はない







日本軍の戦機はこの時にあった。しかし米軍の火力を恐れ、大規模な逆襲は常に夜間に限られていた。






崖の下は浦添運動公園野球場である。プロ野球のキャンプでも再三登場するが、誰も歴史の真実に気づかないのだろう












21日頃から米軍の砲迫・砲兵射撃が整い、日本軍側は損害が増大した。もはや伊祖高地の奪還は不可能となった









結局、例え奇襲と言えども火力の伴わない奇襲は効果を得ることが出来ないという、ノモンハン事件以来の教訓を生かすことなく、やみくもに部隊を逐次に投入した。
 沖縄戦全般について言えることだが、防御を主眼としながら眼前の勝利のために陣地を棄てて敵前に部隊を投入するやり方はついに最後まで変わることはなかったのである。