糸満・照屋地区の戦闘  (いとまん・てるやちくのせんとう)                                       2011年作成
糸満・照屋地区の戦闘

「糸満・照屋地区の戦闘」の記述にあたって

 糸満・照屋地区の戦闘は、日本軍側の記述がほとんど残されておらず、そこで防御戦闘を行った部隊名・兵力すら正式の記録がない。 しかしながら、島尻地区最大の激戦地である「国吉地区の戦闘」の前哨戦として重要な位置を占めていた戦闘であったことは間違いない。 そこで米軍側の記述をもとに、筆者の得た情報を加味して2日間の戦闘を記述した。 残された少ない記録と「戦術の妥当性」を組み合わせて記述したものであり、したがって他の地域の戦闘と異なり、正確性を欠く面があることをご理解願いたい。



1 戦闘までの概要
 5月29日夜から逐次首里を撤退した日本軍は、概ね6月4日頃には島尻南部地区に新たな主陣地帯を構成して米軍の接近を待ち構えた。 また海軍部隊が守備した小禄半島には6月4日に米軍が進撃を開始、海軍の強靱な反撃により米海兵隊に多大の損害を与えたものの、ついに6月11日には半島全域を制圧されるに至った。
 島尻南部の日本軍は、西地区(糸満〜八重瀬岳)を第24師団、東地区(八重瀬岳〜具志頭)を独立混成第44旅団、予備隊として第62師団を配置した。 この西地区においては、米海兵隊が主力部隊となり、日本軍第24師団と対峙することになった。
 6月3日以降、米軍は後退しつつ抵抗する日本軍の駆逐にあたったが、大規模は反撃はなく順調に南進した。 6月8日には日本軍第24師団の前進陣地である糸満・照屋地区の北方に進出、日本軍警戒部隊とついに接触するに至り、島尻南部における最終的な戦闘が開始された。



2 日本軍部隊
  
歩兵第32連隊第1大隊第3中隊(推定)
    総員79名(うち負傷者52名) 
     小銃11、軽機関銃3、擲弾筒5、銃弾1649発、手榴弾129
     爆雷2 (6月3日第1大隊副官メモより)
    * 編成上の総員は中隊179名であるが、これまでの戦闘で多くが死
    傷し、かつ補充兵を加えて79名となっている
  
 歩兵第32連隊第1大隊第3中隊であるという理由は次のとおり
  (1) 昭和19年12月6日から昭和20年4月中旬まで、歩兵第32連隊
     第1大隊は糸満北側地区で対着上陸陣地を構築していた
  (2) 歩兵第32連隊第1大隊長の証言により、連隊命令により「1個中
      隊を照屋地区に配備せよ」との命令が下達された
  (3) 糸満南側に配備された部隊の記録に、照屋地区に部隊を配備した
     という記述がない。

   



3 糸満・照屋地区の地勢
 (1) 報得川(むくえがわ)左岸(南側)は急斜面の丘陵地帯で、河口に近いほど傾斜が緩やかであった。また河口付近は海岸平野であった。
  (2) 報得川上流部は川自体が深い谷であり、部隊単位の行動が困難であった。
 (3) 照屋北側高地は、糸満地区に対しても良好な視射界を有し、この地区の防御戦闘の核心であった。
  (4) 白銀堂以南は市街地が広がり、防御戦闘に適した地形はない。

    

           
昭和23年米軍作製地図                            平成21年糸満・照屋地区地図





6月9日

 糸満・照屋付近の前方部隊の陣地は9日米軍の攻撃を受けたが、これを撃退して陣地を保持した。

 「座波」を概ね北東から南西に走る高地帯の敵掩護部隊の外殻への突進はさしたる困難もなく完了した。しかし「照屋〜大里」地区の敵防御線の前哨に近接するにつれ抵抗がより頑強になった。師団の前線にある各部隊は6月9日「報得川」の南側に斥候を送り込んだ。しかし第1海兵連隊および第7海兵連隊とも激しい小銃や機関銃の射撃を受け、川を渡るには単独で侵入するか少人数で行うしかないと判断された。激しい敵の射撃により第1海兵連隊第2大隊は負傷者の後送のために日が暮れてから、さらに斥候に掩護させた上で何とか実施することが出来た。
 師団の行動地帯の右翼の第7海兵連隊第1大隊は第3大隊と交代した後に2回にわたり照屋の北端を見下ろす丘を確保しようとした。 「報得川」の深い渓谷を探っている時に、B中隊は日本軍の予備隊が南東方向を見下ろし第7海兵連隊第1大隊が煙幕下に撤退しているのを偵察しているのを認めた。第2回目の攻撃は激しい砲撃により撤退した。
 第7海兵連隊の海岸方面にある第2大隊は最初の攻撃で第1大隊の行動地帯から一斉射撃を加えてくる糸満の北の峰を攻撃した。E中隊の1個小隊が川を渡ったが、その直後この峰の裾野の正面や左翼から激烈かつ正確な集中射撃を受けた。ベーガー中佐はこの状況を100〜200ヤード沖合のLVTからこの状況を見て海岸に上陸、E中隊に「報得川」河口を渡り斥候を増強するよう命じた。敵の機関銃は徒歩で渡ろうとする兵士を押し返し、つづいて海兵隊員を前線に送り込もうとしたLVTを撃退した。日が暮れてベーガー中佐は先に送り込んだ小隊にLVTの火力支援下に川の北側に撤退するように命じた。

  

  




6月10日
 米軍の行動が活発となり、糸満・照屋・大城森などのわが前進陣地は猛攻を受け、米軍は10日夕国吉北側、大里北側、与座西側、世名城の線に進出し、わが主陣地と戦闘を交えるに至った。

 次の朝(10日)、G中隊とF中隊はE中隊の夜間防御線を超越して10フィートの海岸崖を飛び降りて400ヤード先の峰の反対側に出た。LVTの攻撃準備射撃に引き続き攻撃小隊が崖をよじ登って峰と集落を攻撃した。攻撃開始から7分間の戦闘で5人の将校が敵火により戦死したが攻撃は続行され、ついには峰を掃討し、石畳の道を通り抜け集落の南端の高地帯に到達した。
 第7海兵連隊第2大隊が糸満地区を確保している間、第1大隊A中隊は6月9日の第7海兵連隊の前進を阻止した敵防御拠点の中核である照屋北側高地の稜線に対し迅速な攻撃に着手した。ゴームレイ中佐はA中隊の増援のためにC中隊を増派、今だ残っている建物を大隊の81mm迫撃砲で攻撃した後、廃墟となった照屋の町に偵察のため進撃した。茫然と立ちつくす多数の民間人がまだ集落内にいたので後方へ移送したが日本軍からの反撃はなかった。大隊は夜間防御の態勢をとり、11日に国吉高地を奪取するよう命令が下された。
 雨は止んだが輸送活動は困難な状況が続いた。しかし数両の車両が海岸からの補給を実施するようになり、戦車も泥沼にもがきながらも前方地域に進出しつつあった。

      

    
  




























照屋北側高地には開戦以前から食糧や医薬品、弾薬などが備蓄されており、首里周辺の戦闘において負傷した将兵は、野戦病院よりも照屋北側高地等に後退して治療に当たっていた。


白銀堂東側の高地に所在したのが歩兵第32連隊第1大隊第3中隊という確証はないが、米軍の報得川渡河に際して、照屋北側高地から側射支援があったということから、連携のとれた同部隊であったと判断できる。 またこの地区を防御するためには報得川を障害とし海岸線からの敵の進撃を阻止するためには、照屋北側高地にいた第3中隊は当然白銀堂付近に兵を配備したはずである。

第3中隊は、その編成装備からおそらく1〜2日程度の交戦しか想定されていなかったはずである。













報得川の川幅は現在では拡張されているが、戦時は周囲に水田や湿地の広がる平坦地で、歩兵の渡河は比較的容易であったと思われるが、日本軍の格好の目標となったであろう。






























日本軍は劣勢な装備を補うために、米軍が渡河を完了するまで射撃をすることなく沈黙し、近接の後に一斉射撃を加えたものと思われる。



米海兵隊は、写真のような良好な視射界を有しながらも、適切な砲兵射撃や迫撃砲射撃を実施していない。 おそらくは第一線部隊の偵察程度との南進と考え、事前に支援射撃の調整を行っていなかったのであろう。





































照屋北側高地を守備した歩兵第32連隊第1大隊第3中隊が国吉の第1大隊の下に復帰したのは、実に6月17日であった。 米軍の進撃に後退が間に合わず、そのまま地下壕に封じ込められてしまっている。