賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)の遅滞戦闘                                                                    2010年作成
賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)の遅滞戦闘


1 戦闘の概要
 賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)は僅かな兵力をもって4月1日から4日までの4日間、敵2個師団の前進を正面6km、縦深10kmにわたって「遅滞戦闘」を実施した。 「遅滞戦闘」は 「部隊を予め数線に配置し、砲兵・戦車の支援下に機動力を発揮しつつ逐次抵抗する」 という 防御戦闘の一方策である。 しかし賀谷支隊は砲兵の支援はなく、特別の機動力も持たず、最初から全力展開のまま戦闘を実施して20〜50倍の敵に対してその進撃を遅滞したのである。
 賀谷支隊は、兵員の主体が3〜5年の現役兵であり、北支(現中国)での治安戦などで大隊の独立戦闘、特に中・小隊ごと独立して少数兵力で敵に包囲される等苦しい戦闘を続けた経験を十分に積んでいた。昭和13年以来同じ釜の飯を食べながら戦闘をしてきた団結力と歴戦の自信が米軍に対する遅滞戦闘を戦い抜く大きな原動力となっている。
 また沖縄戦開戦前に師団抽出などで各部隊が配備変更を受ける中、賀谷支隊は昭和19年8月に沖縄上陸以来、一貫して島袋地区周辺で陣地構築や警備にあたったことで周辺の地理に詳しく、これが遅滞戦闘時の軽快・靱強な戦闘に大きく貢献している。

  賀谷支隊長、戦闘開始前の中隊長への訓示
   「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ。だから勝
       つとか負けるとか考えるな。常識外れの戦闘だからといって、我々は今更戦を止めて帰るわけにはいかない。自分と自分の部下の命、そし
       て国を護るため最善を尽くさなければならないのだ。大敵といえども恐れず、唯々最善を尽くすことのみを考えよ」



2 日本軍(賀谷支隊)の編成
  
独立歩兵第12大隊  (大隊総員1233名)  隊長 賀谷興吉中佐
    大隊本部 (57名)
    歩兵中隊 5個中隊(中隊人員189名)
     第1中隊 川崎忠雄中尉 
     第2中隊 山添欣作中尉  * 米軍上陸と共に特設第1連隊配属となり、賀谷支隊からは欠
     第3中隊 飯田桃介中尉
     第4中隊 吉村馨中尉
     第5中隊 八木一夫中尉
    機関銃中隊 塩見高美中尉 (中隊人員129名)
    歩兵砲中隊 長峯正栄大尉 (中隊人員102名) 
            (92式歩兵砲2門、41式山砲2門を装備)   
    配属部隊 
     特設警備第224中隊  * 米軍上陸と共に特設第1連隊配属となり、賀谷支隊からは欠 
     海軍第11砲台(平安山砲台) 宮川兵曹長以下30名
   

 米軍の編成

  
陸軍第96師団
    総員 13146名 
     4月4日まで本島東半分に歩兵第381連隊、西半分に歩兵第383連隊が攻撃)
   陸軍第7師団 (4月3日に歩兵第381連隊の増援として1個大隊が戦闘加入。その他は4月5日に戦闘加入)

4  備 考
  戦闘に関する記述が少ないため、陸上自衛隊富士学校 「戦闘戦史防御編」 を抜粋して戦闘の様相を補完した。
  
青文字 戦史叢書 「沖縄方面陸軍作戦」 より
  
赤文字 米陸軍公刊戦史 「Okinawa the last battle」 より
  黒文字 陸上自衛隊富士学校 「戦闘戦史防御編」 より



                    独立歩兵第12大隊(賀谷支隊) 4月1日〜4月4日の遅滞戦闘図
   
     * 第5中隊の山内・桃原地区の配備は4月2日朝である。 米軍の攻撃開始に辛うじて間に合い、第4中隊と第3中隊の間隙を閉塞した。                    


4月1日

 4月1日0700北、中飛行場地区及び西海岸地区に対し熾烈な艦砲射撃を開始。0830ころから米軍の上陸用舟艇が海岸に達着して上陸を開始。海軍第11砲台(平安山海軍砲台)は30名全員が戦死し、桑江の連隊砲は小隊長以下11名中10名が戦死し1名が重傷となった。
 賀谷支隊長は機関銃中隊を桃原(喜舎場北西2キロ)北方の95高地付近に進出させて、主として第4中隊の戦闘に協力させ、第3中隊主力を呉屋西方高地に配置した。また東海岸の具志川に配備さてていた第5中隊および海軍砲台に喜舎場の大隊本部集結を命じた。
 損害続出する現況を見て、賀谷支隊長は1500ころ第4中隊及び機関銃中隊を桃原山内の線に後退させた。 このころ米軍は桃原西方及び95高地に進出してきた。 第4中隊は1日夕方までに平安山地区の第1小隊がほとんど戦死し、中隊長も重傷となった。 夜、賀谷支隊長は、第4中隊に桃原及び屋宜付近の確保、機関銃中隊に第4中隊の戦闘協力、第3中隊に島袋北方高地の確保、歩兵砲中隊に101高地付近に陣地占領して第3中隊に戦闘協力するよう命じた。 部署の変更は2日朝までに完了した。

   

 
第4中隊
  北谷から佐川付近にわたって配備されていたが、この正面に上陸した敵に対し熾烈な戦闘を交えた。 平安山正面の第1小隊は、斬り込み隊
   として各1個分隊を砂辺及び平安山海岸に派遣したが、夕刻までに小隊長以下ほとんどが戦死した。 第4中隊長は桑江正面に上陸した敵の
   桃原方向への進出を阻止するため、1日1300〜1400頃に自ら予備隊である第3小隊を指揮して95高地から桃原西方地区に移動させ敵を
   遊撃した。 この戦闘において中隊長は、胸部貫通の重傷を受け、中隊は大隊本部付の大田中尉が代わって指揮した。 第2小隊は1500か
   ら第1小隊の残存兵力を併せ指揮して山内陣地へ向かって後退を開始し、同地で1時間戦闘を交えた後に、1900頃に屋宜北端断崖高地に
   入り配備に付いた。

 総攻撃の時刻は0830とされた。
0530艦砲射撃開始。0745航空攻撃開始。0800上陸用舟艇移動開始、第7波までが陸地を目指した。同時に上陸準備射撃が開始された。0830攻撃第1波が達着した。沖縄上陸は、全部隊が全く信じられないほど簡単に行われた。日本軍の砲兵隊陣地からの妨害もなかった。日本軍はおろか、地雷原もなく、反撃どころか抵抗もない。北、中飛行場は1130までに占領確保した。


   

   




4月2日
 
 0600頃、第5中隊が喜舎場大隊本部に到着。直ちに同中隊は第3、第4中隊の中間地区桃原以東に陣地を占領させて間隙を閉塞した。防御配備完了は0830で敵の攻撃開始にかろうじて間に合った。 
 0900ころから各隊は戦車を伴う米軍の攻撃を受け、戦闘は午後から特に熾烈になった。

 
夕刻には右翼第3中隊及び101高地の歩兵砲中隊は敵の包囲を受け、その中間を突破した米軍(32連隊)は、島袋南側高地に進出して、喜舎場北側高地の大隊本部陣地を攻撃した。 第3中隊は、この日の夜に歩兵砲中隊とともに敵中を突破し、仲順を経て中城城址に後退した。
 
 
第1中隊
  普天間北側台地を確保して南下する米軍を阻止。
 第3中隊
  ゴザ南地区において戦闘中に米軍に包囲されるが
 敵中を突破して中城城址の新陣地へ後退。 
 第4中隊

  左側を突破される危機を生じたため、右第一線の
 第2小隊を屋宜北端断崖高地に配備変更し、同地
 の機関銃中隊と協同して西進する米軍を側方から
 阻止。
 第5中隊
  桃原東側陣地を保持し米軍の進出を阻止。
 機関銃中隊
  桃原及び山内正面で激戦を交えたが、戦死2名・負傷4名と比較的軽微な損害にとどまった。 夜には第3中隊に協力するため中城城址に転
   進した。
 歩兵砲中隊
 2日天明までに101高地付近に陣地占領を完了し、0900頃から東進する敵を射撃して第3中隊の戦闘に協力した。

 

 2日夜、賀谷支隊長は次のように部署した。
     大隊本部  161.8高地(ピナクル)へ移動
     第1中隊  野嵩付近に後退し、同地に第1線陣地を占領
     第3中隊  中城城趾に後退し、同地付近に第1線陣地を占領
     第4中隊  161.8高地西方高地に後退して第2線陣地を占領
     第5中隊  161.8高地に後退して第2線陣地を占領
     機関銃中隊 中城城趾に後退して第3中隊の戦闘協力

     
歩兵砲中隊 中城城趾(迫撃砲)、新垣付近(連、大隊砲)に陣地を占領し第3中隊に協力
  概ね3日天明までに所命の配置についた。第3中隊及び歩兵砲中隊は敵中突破して転進。第1中隊は野嵩到着が3日1400となった
      
  
  
 4月2日第96師団は勢頭 (95高地付近) から前進を開始した。この付近から木々の生い茂る峰と洞窟が散在し、険しい地形の中には地雷原や対戦車障害が敷設されていた。夕刻までに第381歩兵連隊は島袋地区まで進撃しようとしたが、桃原付近で日本軍(賀谷支隊第5中隊)の激しい反撃に遭遇し前進は阻まれた。383連隊は空軍や砲兵及び戦車の支援を受けた激戦の後(賀谷支隊第4中隊) 、ついに桃原南側高地を奪取、引き続き普天間の北東の稜線を制圧するに至った(賀谷支隊第1中隊)
 第7師団の17連隊は4月2日1400までに東海岸の中城湾を見下ろす丘陵地帯まで進出し、さらに偵察部隊を海岸線方面に先遣させた。その進撃速度が早く、後続部隊との間にかなりの距離があく結果となった。 その南の32連隊は胡座の南側の日本軍
(賀谷支隊第3中隊)の頑強な抵抗を排除した後、2日午後遅くにやっと17連隊と並列するに至った。

  

 
 
4月3日
 
第3中隊は中城城趾において東海岸沿いに南下する米軍と激戦を交え、歩兵砲中隊は主火力をこの方面に指向し、米軍の南進を阻止した。
第1中隊は野嵩において中隊正面を米軍の強圧を受けつつ陣地を保持した。

 3日夜、賀谷支隊長は中城の第3中隊及び歩兵砲中隊を新垣北側高地に後退させ、第4中隊を161.8高地(ピナクル)にて直接掌握した。また野嵩方面の第1中隊が苦戦中なので、第5中隊を野嵩方面に増援した。

 
第1中隊(5中隊増援) 
   2日夜に野嵩付近の既成陣地に後退すべき支隊
  命令を受領したが、普天間地区陣地が正面約2km
  におよぶ広域な陣地であったことや夜間であったこ
  とから中隊の掌握が遅れ、3日1400〜1500頃に
  ようやく野嵩の陣地に転移を完了した。
 第3中隊
   歩兵砲中隊とともに中城城址付近にあって、久場
  地区を南下する敵の進出を阻止して激戦を交えた。
 第4中隊
   2日夜に屋宜北端断崖高地を離脱。 1日かかっ
 て161.8高地まで後退。

 
第5中隊
  当初、161.8高地まで後退予定であったが、第1中隊の増援で野嵩に向かった。
 機関銃中隊
 
 中城城址第3中隊陣地で第3中隊に協力
 歩兵砲中隊
  迫撃砲を中城城址、大隊砲を新垣付近に配置して第3中隊の戦闘に協力した。


  

  米第24軍は進撃路を南にとった。
     第7師団は17連隊を後方に残留させ、32連隊の3個大隊が中城湾沿いに南進した。 約5km進撃して久場集落を占領、165高地前面に
   戦線を形成した。

 
   第96師団381連隊は左翼の32連隊とよく調整しつつ、165高地と荻道(おんじょう)目指して進撃した。 しかしこの高地は何度も攻略に失
   敗した。 第96師団の他の部隊は
喜舎場・安谷屋、そして野嵩の北東に進撃し、普天間とその550m南方の高台を占領した。西側の戦線
   では、96師団は伊佐浜から喜友名南東部までを確保した。


  

  



4月4日
 

 野嵩の第1中隊、新垣の第3中隊正面は米軍の激しい攻撃を受け、わが方の死傷者続出し苦戦したが、野嵩・新垣とも辛うじて保持した。
 4日夜賀谷支隊長は大隊を161.8高地(ピナクル)付近に撤収集結するに決した。
5日天明までに各隊は161.8高地(ピナクル)に集結を完了した。一部は4日夜、主力は5日夜幸地に後退し、前方部隊の任務を果たした。賀谷支隊の損害は、戦死将校11名、下士官兵231名。負傷数不明。


 第1中隊
  野嵩陣地において敵を阻止したが、損害続出し、第5中隊の増援を受けて戦闘を継続した。
 第3中隊
  新垣陣地において南下する敵と激戦を交えて進撃を阻止した。 4日夜支隊命令により中隊は161.8高地に後退した。 この後退にあたって
   は第4中隊第2小隊が患者後送の支援を行った。
 第4中隊
  161.8高地にあったが、夕刻に第2小隊が第3中隊の後退のために新垣へ支援へ向かった。 4日夜には支隊命令により更に後退して幸地
   付近へ移動した。 これは第4中隊の損害が著しく大きく、そのための休養・再編成の処置を兼ねていた。
 第5中隊
  3日夜に野嵩陣地の第1中隊増援に向かったが、4日の戦闘は激戦を極めて多数の死傷者を生じ、夜には161.8高地へ後退した。
 機関銃中隊
  新垣陣地で第3中隊に協力。夜には161.8高地へ後退。
 歩兵砲中隊
  新垣陣地で終日戦闘。

   

   


 4月4日、第96師団は日本軍を掃討しつつ前進を継続し、日本軍の前進陣地を攻略して、宇地泊〜津覇の線まで進出しようとした。
中央部を前進する第382連隊は野嵩の約3.5kmまで進出したが、宜野湾街道ではその後日本軍の砲兵や機関銃射撃などの激しい抵抗により進撃速度が低下した。 西海岸線では第96師団の右翼部隊が平野部を伊佐から宇地泊へと進出を試みたが、大山・真志喜付近で日本軍の抵抗に遭い進撃が停止した。歩兵部隊は戦車部隊などの支援下に迅速に突破を図ろうとしたが、その結果両翼の部隊との連携が取れないというリスクを背負うことになった。 つまり前進しようとした部隊が、他の部隊の支援火力によって砲撃される可能性が高まった。




独立混成第15連隊などは沖縄配備以来8回の配備変更を受け、その陣中日誌に「設営作業は累次に亘る宿営地変更に妨げられ遅々として進行せず。明確なる上級司令部の意図下達の要を痛感す」とあり、たび重なる配備変更で徒労感と上級部隊への不信感を生んだ。









第2中隊は、米軍の上陸後に本島南部への転進を図ったが果たせず、石川岳〜恩納岳と北進し、5月25日に恩納岳において第4遊撃隊に配属、その後久志岳や再度恩納岳と各所を転々としつつ多くの将兵を失い、7月15日頃についに部隊を少人数毎に区分して解隊状態となり終戦を迎えた。






賀谷支隊は実質約1000名程度の部隊であり、兵力だけで10倍以上の差があり、火力に至ってはまさに圧倒的な差であった。





















2日には、第3中隊・歩兵砲中隊、さらに喜舎場北の独立歩兵第12大隊本部まで敵が進出しているが、敵中孤立のなかでも陣地を保持したために、地図上では米軍の4月2日の進出線を第3中隊以北に引いている。
































「平安山砲台の山田信二無線手は刻々戦況を報じ 『ただ今100m前まで敵が来ている』 『そばまで来ている』 と冷静に報告し、その後プッツリと連絡が途絶えたという」






昼間離脱を実施している。賀谷支隊は戦闘間、何度か昼間離脱を実施しているが、これは混乱状態となるので通常は極力避けるところであるが、地理に明るかったことが昼間離脱を可能にしたと思われる。





















4月1日に関しては独立歩兵第12大隊正面における第96師団第383連隊等に関する記述はない。 おそらく米軍にとっては軽微な日本軍の反撃程度の認識だったのだろう。




























第5中隊は、具志川・天願という東海岸地区に配備されていた。 4月1日に本部より喜舎場に集結を命じられ、1800具志川の中隊指揮班前に集合し、2200同地を出発して2日0800頃に喜舎場大隊本部に到着した。 第3中隊と第4中隊の中間地区に配備されたのは0830で、まさに間一髪のタイミングであった。















第4中隊は、1日に第1小隊が全滅、2日には第2小隊が屋宜北端断崖高地に配備変更後に第3小隊が全滅している。 したがって、中隊と言えども、実勢力は1個小隊である。

















米軍は第一線部隊が、各所で賀谷支隊と交戦に陥っている。この頃米軍の重火器はまだ完全に揚陸されておらず、歩兵主体の戦闘であった。






















賀谷支隊は第62師団直轄部隊であったが、3日には第63旅団指揮下に復帰させている。これは賀谷支隊を主陣地帯を守備する第63旅団隷下部隊と調整連携を取りつつ後退させる意図があったものと思われる。

野嵩陣地は、第1中隊が4月3日及び4日と2日間にわたって確保した。 この中央部に位置する野嵩陣地を早期に奪取されると、宜野湾街道を一気に日本軍主陣地に近接されるため、敢えて第5中隊を増援して守備力を強化している。










米軍は165高地の攻略に失敗したことで、翌4日には日本軍第3中隊がすでに夜間撤退しているにもかかわらず、再度朝から攻撃態勢を整えたにちがいない。 結局日本側にとっては戦わずにして米軍の進撃をくい止めたこととなった。



























賀谷支隊は戦死者数だけでも合計約250名で、これは実に部隊の25%にあたる。 通常10%の損害(死傷者数)が出ると正常な部隊の戦闘力は維持できなくなると言われる。



米軍の記述を見る限り、野嵩の第1中隊は、宜野湾街道沿いを一部米軍に突破されているようだ。 しかし戦果の拡張までには達してないようで、第1中隊の頑強な抵抗が見てとれる。



























この米軍の記述から、西海岸沿いの大山地区で独立歩兵第13大隊前進陣地が頑強に抵抗して米軍の前進を阻止していることがわかる。 また宜野湾街道を進撃する米軍が、新垣陣地(第3中隊)や独立歩兵第13大隊前進陣地神山地区で日本軍の激しい抵抗に遭遇したことが読み取れる。