幸地の戦闘 (こうちのせんとう)                                                            2008年3月作成

1 歩兵第22連隊(愛媛県松山市)
  歩兵第22連隊 
  連隊長 吉田 勝中佐(20年6月10日大佐進級)
   連隊本部、歩兵大隊3 歩兵砲中隊1 速射砲中隊1 通信中隊1 からなる連隊人員2876名
     歩兵大隊は大隊本部、歩兵中隊3、機関銃中隊1,歩兵砲小隊1 からなる大隊人員799名


2 幸地の戦闘に至るまでの経緯
 歩兵第22連隊は沖縄開戦当初は沖縄本島小禄地区において南部地区への米軍上陸作戦に対処すべく配備されていたが、沖縄第32軍の大規模な夜間攻撃計画に際して、4月10日に首里南東地区への進出準備に着手した。歩兵第22連隊は第62師団への配属とされ、4月11日首里弁ヶ岳付近に進出した。
 
4月12日、歩兵第22連隊は、敵の妨害と地形未熟のため準備は極めて不十分のまま第1大隊(鶴谷少佐)に155高地に対し大規模の斬込を命じたが、第1中隊を中心に大きな損害を受けて失敗した。また第2大隊(平野少佐)主力は12日夜142高地に進出し、一部の挺進斬込隊を派遣した。

 4月13日、沖縄第32軍は夜間攻撃の失敗に伴い、戦略持久に転移した。第62師団の戦力低下が甚だしいため、歩兵第22連隊を第62師団配属のままとした。
     歩兵第22連隊第1大隊: 配属・位置等の記録なし
     歩兵第22連隊第2大隊: 棚原正面増強のため独立歩兵第12大隊に配属(4月17日配属解除)
     歩兵第22連隊第3大隊: 嘉数正面増強のため独立歩兵第13大隊に配属 (5月2日配属解除、5日連隊地区到着)



歩兵第22連隊は4月22日に第24師団に復帰するまで、各大隊はそれぞれ別の場所で戦闘を行い、統一した運用のなされまいままに、幸地地区において米軍第7師団と戦闘状態に陥った。ただしこの時は第1大隊と第2大隊が復帰したのみで、5月5日になってようやく第3大隊が復帰して完全編成となったのである。
各大隊とも戦闘開始時点からすでに戦力は低下している中、幸地地区において実に15日間にわたって防御戦闘を行ったのは驚嘆に値する。





幸地の戦闘
米軍の幸地地区の地形概観
 米第7師団と対峙する日本軍の歩兵第22連隊はそれまで4月13日の夜間攻撃において小勢力が戦闘に参加したくらいで、ほとんど無傷の部隊と言って差し支えなかった。  
 178高地(日本軍名157高地)の南約4kmには海岸部の要衝を制するコニカルヒル(運玉森)があり、この両高地の間は稜線で繋がり東側の海岸部には平地が広がっていた。この海岸平地の一番内陸部に翁長集落があり、更にその西約1kmのところに幸地集落があった。翁長と幸地の間には北側にHorseshoe ridge(ホースシューリッジ)が、またその南側にこれから繋がるKochi ridge(コーチリッジ)があり、このKochi ridgeの向こう側は徐々に標高が高くなり、さらに南西部に向かうとそこが首里であった。
 Kochi ridgeの南西には首里北側を望むことが出来るZebra Hill(幸地南西500m閉鎖曲線高地)があり、このZebra HillとKochi ridgeの間には隘路(切通し)があって、両高地を分断していた。この隘路の東側つまり翁長側にはHow HillとItem Hillがあり、これが重要な意味を持つ地形であった。Kochi ridgeの西側には並ぶようにして138高地(日本軍名120高地)があった。Kochi ridgeは3方を日本軍の守備するこれらの高地に囲まれているような地形であった。これらの地域から幸地地区は常に日本軍の監視下におかれ、迫撃砲と機関銃射撃は常に幸地地区に集中射撃を加える準備がなされ、まさに強固な防御陣地といわざるを得なかった。

  

  



4月22日
 
第24師団は4月22日北部戦線加入を各部隊に命じた。
 「歩兵第22連隊は22日夜以降、逐次主力をもって小那覇北側の157高地、棚原北端の線、並びに幸地東西の線を確保し、師団主力の進出を掩護するとともに我如古東方地区への攻撃を準備する」
  歩兵第22連隊は師団から上記の陣地を占領することを命じられた。しかし、連隊長はその兵力が現在2個大隊(第1大隊・第2大隊)しかなく、棚原及び157高地方面の現戦況から師団命令による線の確保は不可能と考え、連隊主力の占領すべき線を我謝、小波津、翁長北側高地、幸地の線とすることを意見具申した。意見具申は師団及び軍から認可採用された。

師団命令
  「歩兵第22連隊は翁長西側高地から幸地を経て幸地西側300mの閉鎖曲線高地にわたり陣地占領」


4月25日
 
4月25日第17連隊第1大隊は予想外に抵抗を受けることなく約600m前進し、第7師団最右翼(西側)としてHorseshoe ridgeの斜面にたどり着いた。



4月26日
 
軍の右翼第24師団正面の幸地及び小波津地区も米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退した。この日歩兵第22連隊第1大隊長鶴屋義則少佐が艦砲の直撃弾を受けて戦死したため、小城正大尉が第1大隊長となった。

  
4月26日第1大隊はKochi Ridgeの西側への進出を、第2大隊が東側への進出を企図した。攻撃が開始すると同時に反対斜面から日本軍の反撃が一斉に開始されるとともに、周囲の高地から事前照準を完了していた迫撃砲や機関銃射撃も加わって両大隊の地域を覆い尽くした。攻撃は頓挫して各部隊は朝の攻撃開始線まで後退することとなったが、G中隊の1個小隊だけがKochi Ridgeの東側に取り残されてその場で掩体を堀って対応した。第1大隊・第2大隊とも相互連係を取ることもなく単独で戦闘を行い、ついには稜線上に立つこともできなかった。夕刻に至っても日本軍の守備する幸地地区には明確な戦線を形成することは不可能であった。
              



4月27日
 
幸地及び小波津正面にも戦車を伴う有力な米軍が来攻したが、わが部隊は善戦して撃退した。しかし、一部の米軍は幸地西方の120高地付近に進出して来た。第24師団長は27日、歩兵第32連隊長に前田高地への進出を命ずると共に、歩兵第22連隊長に対し、歩兵第32連隊に連係して前田東方高地の占領を命じた。歩兵第22連隊長は連隊の左第一線の第2大隊に前田東方高地の占領を命じた。

  4月27日雨と泥に阻まれて第1大隊と第2大隊はまたも連係を取ることができなかった。一歩も前へ進むことが出来ないのに死傷者だけが増大した。




4月28日

 
軍右翼の小波津・幸地正面は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが善戦して陣地を確保した。27日に歩兵第22連隊長は前田東側高地奪回の師団命令を受領し、連隊の左第一線の第2大隊に同高地の奪回を命じたが、同大隊正面は28日米軍の強力な攻撃を受けたため、前田東側高地の奪回攻撃は実施できなかった。

 
4月28日、日出前にKochi ridgeの西側で第17連隊第3大隊が第1大隊と交代して攻撃を行った。第3大隊長はKochi ridgeに兵力を投入してZebra Hillとの分断を図り、Kochi ridgeの両翼と背後の防備を固めようとした。そこでL中隊をKochi ridgeの西側斜面を南進させる間にK中隊でKochi ridgeを確保しようとした。しかしK中隊は激しい機関銃射撃を受け4名が戦死、8名が負傷するに至って掩護射撃下に後退を余儀なくされ、L中隊は稜線上に到達することすら出来なかった。

     


4月29日

 
29日、幸地・翁長方面は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退し、米軍と近く相対した。幸地南西約500mの146高地付近(歩兵第22連隊第2大隊守備)には一部の米軍が進出して来た。

 
4月29日の攻撃も同じように失敗の繰り返しであった。どの方向から攻撃しようとも日本軍の迫撃砲12〜14門の集中射撃を受けて、常に攻撃は頓挫した。さらに不幸にも友軍の105mm砲の誤射を受けてKochi ridge東側にいるG中隊のど真ん中に12回にわたって砲弾が落下した。ある小隊だけで5名が戦死し18名が負傷した。また別の1個小隊は12名だけが無傷という状況であった。これらの死傷に加えて、18名が精神的ショックから立ち直れず、G中隊のライフル小隊には27名の兵士しか残っていなかった。
    



4月30日

 
幸地付近は30日朝から米軍の攻撃を受けたが善戦して陣地を保持した。幸地西側の146高地は昨29日以来米軍に占領されており、同地防衛の歩兵第22連隊第2大隊は30日夜146高地及び同地北側の120高地を奪回すべく攻撃を準備中であった。
 小波津付近の防衛を丸地大隊(歩兵第89連隊第1大隊)に移譲した歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)は30日朝首里北側の平良町付近に到着したが、師団より「貴大隊は連隊に復帰し、146高地を夜襲せよ」との命令を受けた。第24師団長は歩兵第32連隊長に対し「歩兵第22連隊との戦闘地境にかかわらず、120高地及び146高地の米軍を撃攘して同地を確保すべき」ことを命じた。
 歩兵第32連隊長は、伊東大隊に146高地の奪回攻撃を、同連隊に配属中の歩兵第89連隊第2大隊(深見大隊)に120高地の奪回攻撃を命じた。30日夜、伊東大隊は第1中隊を第一線とし、石嶺付近から146高地を夜間攻撃して同高地を奪回した。深見大隊長は第5中隊に勝山から120高地を攻撃させたが、左側背から敵火を受け奪回は不成功に終わった。

 
4月30日朝、E中隊はそれまでG中隊がいた場所から前進を開始した。0845突然にして両翼8箇所および正面から機関銃の十字砲火を浴び、さらに迫撃砲の集中砲火が始まった。損害は甚大で20名の兵士が戦死した。生存者が2名だけという分隊さえあった。負傷者は収容出来することも出来なかった。展開した部隊を発煙弾で覆い隠そうとしたが、風で思うようには行かず、もはや彼らを守るべきものはなかった。無傷の者も撤退することすら出来ず、増援部隊も前進することも出来ない。ついには小銃弾を浴びながらも医薬品を20mの高度で航空機から投下する手段に打って出た。やがて夜になり、その夜陰に乗じて負傷者が後送されて来た。
 翁長側の斜面では1100頃25名からなる日本軍の逆襲を受け、5名が戦死、11名が負傷した。同日、艦載機コルセアが第17連隊の第一線を背後から機銃掃射し6名が死亡、19名が負傷するという悪夢の惨劇が起こった。4月30日は第17歩兵連隊にとっては最悪の日となった。4月26日以来、連隊は友軍の誤射によって60名もの死傷者を出していた。




5月1日

 
幸地地区は火焔戦車を伴う米軍の攻撃を受けたが撃退した。

 
5月の上旬もKochi Ridgeの争奪戦は続いたが、第17連隊は僅かに前進しただけであった。
 5月1日には装甲ドーザーがKochi Ridgeの西側、拠点1と拠点2の間から頂上を目指そうとした。火焔戦車もこれに同行し2度にわたってこの地区を焼き払ったが、敵の強力な拠点までに辿り着くことはできず、結局稜線を越えて東側へ抜け出ることも出来なかった。翁長集落はこの日掃討を完了したが、歩兵部隊は絶え間ない手榴弾攻撃によって掩体から一歩も出ることが出来なかった。




     

5月2日

 
幸地地区においては、火焔戦車を伴う米軍の攻撃を受けたが善戦して陣地を保持した。

 
5月2日の早朝に第17連隊第1大隊はKochi Ridgeの東側で第2大隊と交代した。この日は霧と雨で一日中暗く最悪の天候であった。この日も火焔戦車が拠点1と拠点2の間の鞍部の敵陣地に対して火焔放射を行った。第1大隊は東側から拠点1の撃破に向かったが敵の迫撃砲射撃を受けて失敗に終わった。



5月3日

 
幸地地区は早朝から強力な米軍の攻撃を受けたが、有効なわが砲迫の支援もあって撃退して陣地を確保した。
 歩兵第22連隊は幸地地区の防御に任じ、第1及び第2大隊を第一線大隊として4月26日以来連日激戦中であり、第3大隊は歩兵第64旅団に配属されて安波茶付近で戦闘中のところ、5月2日に連隊復帰の命を受けた。5月3日、独立第28大隊が配属された。


 
5月3日、明るくなってから砲兵の攻撃準備射撃下に、東から第1大隊が西から第3大隊が連係を取りながら攻撃を開始した。この攻撃ではC中隊がKochi Ridgeの東側にあるHow Hillへ向かった。だがこの奮戦も敵の大規模な砲迫射撃と熾烈な機関銃及び小銃射撃によって直後から前進困難に陥った。
 この時期第7師団の前進を阻んでいる最たる原因はKochi Ridgeと幸地集落の南側に位置する「Zebra Hill」一帯に張り巡らせられた日本軍陣地であった。それまでの戦闘を通じて、単純な一方向からの攻撃ではこの防御ラインを突破することは不可能であることが十分に理解できていた。しかしながら大隊間で相互連携を計りながら攻撃を行った第17連隊にしても首里から運玉森に至る網密な火力相互支援が構成された日本軍陣地帯に足を踏み入れることは出来なかった。幸地地区の戦闘は4月26日以来混迷を深めたままであった。

       



5月4日
(日本軍の攻勢移転)
 
攻勢転移における歩兵第22連隊は「中突進隊」として「当初突進部隊の攻撃を遮蔽掩護し、突進部隊『ウシクンダ』西側及び棚原北側の線に進出せば、歩戦協同所在の敵を撃破しつつ棚原北東方地区に進出」を命じられていた。
 
中突進隊である歩兵第22連隊は幸地附近の防御に任じており、戦力は低下していた。
 第24師団の攻撃部署においては、歩兵第22連隊が、左右両突進隊の攻撃進展に伴い棚原北東方地区に進出するように計画されていた。また師団の攻撃開始に際しては、特に一部をもって翁長北西台上の米軍を攻撃し、右突進隊(歩兵第89連隊)の攻撃に協力すべき師団命令を受けていた。このため、歩兵第22連隊長は第11中隊をもって、4日0500頃攻撃させた。
 第11中隊は果敢に攻撃したが、天明と共に米軍の戦車が出現し、中隊長以下全滅するに至った。この攻撃において中隊長木口恒好大尉は極めて勇敢に獅子奮迅の戦闘をしたという。
 4日天明後、幸地付近は有力な米軍の攻撃を受け防戦に努める状況となた。

 



5月5日
(攻撃再行と中止)
 
歩兵第22連隊は攻撃に使用できる予備兵力もなく、その上米軍の幸地地区に対する攻撃は激しく、積極的な攻撃は容易でなかった。
この日第62師団への配属を解かれた第3大隊が連隊に復帰したので、第1大隊と交代配備するよう準備した。




5月6日

 
歩兵第22連隊正面は米軍の活発な攻撃行動がなく、攻勢失敗後における配備の建て直しに幸いした。
 この日沖縄第32軍は攻勢失敗後の作戦指導方針を決定して各師団の部署を定めた。歩兵第22連隊は、幸地南500mの高地から146高地にわたる地区を堅固に保持して米軍の攻撃を陣前に破砕するように命じられた。


 
5月6日第17連隊第3大隊がKochi Ridge上の拠点2の攻略に着手、頂上からナパーム弾やガソリンをまき散らして東斜面の日本軍を駆逐しようと考えた。同日2個小隊がHow Hillの一部に取り付いたが、Kochi Ridgeからの激しい射撃の遭遇して退却するほかなかった。第7師団は第24軍団からのもっと果敢に攻撃せよという圧力をかけられた。これを受けて師団長は第17連隊に対して、5月7日のZebra Hill攻略を命じた。

      



5月7日
 
幸地地区は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、陣地内に侵入されたが、勇戦して午後には米軍を撃退した。

 
5月7日戦車部隊と第17連隊第3大隊が朝から幸地集落を発進、目標はZebra HillとKochi Ridgeの間にある強力な日本軍拠点である切通しであった。当初激しい砲撃に歩兵部隊は対処の方策もなかったが、戦車部隊は幸地集落を飛び出して一気に切通しに向けて進撃、敵の砲兵射撃の止み間を狙って戦車部隊に追従して歩兵部隊も進撃を開始した。最も強固な敵陣地は切通しの北側にある洞窟陣地であった。拠点4及びその周辺から撃ち込まれる銃弾はこの狭い地域に網密な弾幕を形成して近寄りがたい様相となった。切通しに対して戦車からは火焔放射を放ち、砲弾を撃ち込むなどしたが、拠点4からの反撃が更に激しくなって来たことで、ついには撤退に移行せざるを得ない状況に陥った。午後になって攻守所を変える状況となり、第3大隊は撤退を決定した。 一方第1大隊は再度How Hillを確保し、幸地地区への浸透を進めることが出来た。
   



5月8日

 
幸地地区は昨日に引き続き強力な米軍の攻撃をうけたが、健闘して陣地を確保した。歩兵第22連隊長は8日夜、現第一線の第1大隊(小城大隊)と第3大隊(田川大隊)とを交代配備する部署を採った。

 
5月8日、昨日午後からの雨は降り続いていたが、疲労困憊の第17連隊将兵は攻撃を続行するしか方法がなかった。9日前の部隊再編でG中隊に配属となっていたコバーン少尉は拠点4の攻撃を行ったが、敵の迫撃砲射撃や機関銃射撃によってすぐに撤退したが、この攻撃で2名が戦死、3名が負傷した。コバーン少尉とヒル軍曹は再び拠点4に向かって行き、切通しの近くにあった敵迫撃砲陣地に手榴弾を投擲した。ヒル軍曹は迫撃砲弾で負傷はしたものの、コバーン少尉とともに日本軍陣地に飛び込んで敵を刺殺した。

 



5月9日

 
幸地地区は昨日に引き続き強力な米軍の攻撃を受け、交代のため重複配備していた歩兵第22連隊の第1大隊と第3大隊、独立第28大隊は多大な損害を受けた。米軍が、幸地南西500mの閉鎖曲線高地付近に侵入して来たため同高地付近で近接戦闘が行われ、遂に同高地頂上付近は米軍に占領された。歩兵第22連隊長は独立第28大隊及び後方から増援された独立整備隊、航空修理廠などの要員を各大隊に増加して戦力の増強を図った。

 
5月9日、幸地一帯をほぼ手中に入れた第17連隊は第96師団の第382連隊と交代した。今やアメリカ軍のこの地区の戦線は、How Hill〜Kochi Ridge稜線〜幸地集落南端を結んだ線であった。しかしながら、切通し付近の洞窟陣地やZebra Hillはまだ敵中にあった。
     


5月10日
 
幸地地区においては、昨9日米軍が侵入した幸地南西500mの閉鎖曲線高地で争奪戦が行われた。10日夜、歩兵第22連隊長は同高地奪回の逆襲を実行したが、多数の死傷者を生じ失敗に終わった。歩兵第22連隊長は各部隊の戦力低下が甚だしいため、10日夜主陣地の線を弁ヶ岳北東地帯に後退させた。この頃、同連隊の第1大隊・第2大隊は100名以下、第3大隊は第10中隊長渡邊大尉以下数十名の戦力となっていた。
        











4月8日夜に総攻撃が計画され、その際にも北転の準備に着手したが、結局中止となっている。


この夜間攻撃に関しては沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐は反対意見を唱え、歩兵第22連隊に対しても兵力を一度に使用することなく、小兵力で攻撃するように指導している。
























米軍の歩兵第22連隊に対する考察はこのように「無傷の部隊」との認識であったが、実際はすでに傷ついた不完全編成の部隊であった。








歩兵第22連隊が幸地地区を撤退し、次に陣地を構えたのが140高地である。





























22日には米軍は157高地に接した地域まで進出しており、その意味からも達成不可能な命令であった。




幸地西側300mの閉鎖曲線高地とは120高地を指しているものと思われる。







歩兵22連隊の記録では鶴屋少佐の戦死日を24日としている。第3中隊陣地で敵情偵察中ということから、第3中隊を第一線中隊と推察した。












地形的にも翁長から進撃して日本軍の側面を攻撃する方策を選択するものと思われる。











第一線中隊である第3中隊は歩兵第22連隊の記録によれば、この日一晩だけ第11中隊と交代、後方に移動して休養と取ったと記されている。休養のために第一線を交代したという記述は沖縄戦の中でも極めて珍しい。
(第2大隊第5中隊も後方で予備となっていた)




22連隊の記録の中に第11中隊(第3大隊)が出てくることから、配属中の第3大隊は2個中隊編成であったことがわかる。

米軍はこの時点でもHorseshoeを越えることが出来ていない。







この日、前田高地に対しては歩兵第32連隊第2大隊・第3大隊が夜間攻撃を行うが、強力な米軍の前に甚大な損害を受けて後退している。敵情の解明が出来ていない中での強行突撃で戦力を失ってゆくという、戦術上最も避けるべき方策を繰り返している。







146高地を米軍に保持されることで、歩兵第22連隊の幸地地区陣地は米軍側に突出する形となり、最悪退路を遮断されるという恐怖感を抱いたはずである。したがって、146高地の奪還保持は急務であったが、日本軍側に対応できるだけの戦力がなかった。















146高地の奪回を当初歩兵第22連隊第2大隊に準備させながらも、実際に攻撃を行ったのは歩兵第32連隊第1大隊、歩兵第89連隊第2大隊であった。
 後方にいた歩兵第22連隊第2大隊第5中隊も戦力が3分の1以下となっていたという記録から、すでに歩兵第22連隊第2大隊では146高地・120高地の奪回は不可能と判断されたものと推察する。




歩兵第22連隊の記録の中にも、この日の快勝が記述されている。ただ「How」を守備した部隊名は不明である。第3中隊が幸地集落地区にあったことから、第1または第2中隊とは思われるが、一切の記録はない。
















地図中の数字は米軍が名付けた日本軍陣地の拠点番号である。下の写真にその位置を記入している。

















歩兵第22連隊の記録では米軍が部隊交代している姿をみて、羨ましがる様子が記述されている。この頃の22連隊はすでに不眠不休で交代が出来ないほどの戦力低下に陥っていた。







米軍もここに来て初めて、幸地東西戦線間に連係を取っての戦闘を選択している。






日本軍の「Zebra Hill」からの攻撃は、「Horseshoe Ridge」を越えてきた米軍を確実に捕捉していた。












0700第3中隊の発煙班による発煙は南西の風に乗り、敵陣地を覆い尽くした。この機に乗じ、第11中隊(木口中隊)が「Horseshoe ridge」が突撃を開始したが、この時に風が南西風から南東風に変わり、発煙が西側に流れた。それでも強引に全隊を暴露したまま攻撃を続行した。その結果木口中隊は一兵も戻って来ることはなかった。
 (歩兵第22連隊の記録)










第3大隊は配属を解かれたものの、幸地地区へ復帰するのは8日となる。



22連隊正面は幸地地区北側の棚原高地に歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)が単独突入して占領していたため、米軍はその対応のために他方面での大規模な攻撃は出来なかったものと思われる。

米軍は「How」が確保できないために東側から「Kochi Ridge」を攻撃することが出来ず、西側からのみの攻撃に終始している。





















この日の最大の焦点は、米軍の
「How」の攻略である。これで日本軍は実質上「Kochi Ridge」の保持が困難になったと思われる。もし切通しを米軍に確保されたならば、完全に退路を失うからであり、日本軍指揮官としては死守か撤退かの決断を迫られたと思われる。


実は5月7日に「Item」南東の小波津地区にある「William」に米第184連隊が進出しており、その結果として
「How」の日本軍は戦線を収縮せざるを得なかったのではないかと思われる。(「運玉森の戦闘」を参照)







第1大隊と第3大隊の交代は夜に行われたが、地形未熟な第3大隊がほぼ米軍に包囲された状況で交代することに問題があったようだ。交代経路も切通し付近を使用するしかなく、短時間での交代は不可能だろう。そのために翌9日は完全な交代が出来ないままに夜が明けて、重複配備となるのである。

















重複配備の混乱の中で、米軍は切通しではなく直接「Zebra」の攻略に着手した。歩兵第22連隊としては完全に虚を突かれた形となった。
「Kochi Ridge」を5月7日夜に撤退していたなら、状況は変わっていただろう。



日本側の記述と米軍側の記述ではZebraの攻略日時が異なる。この9日には米軍は頂上付近まで到達したが、実際はその後安全確保のために戦線を収縮したようだ。
 米軍の記述では「Zebra」の占領確保は5月11日とされる。










完全編成で約2900名の連隊が、幸地地区の戦闘を終了した時点で、推定250名程度にまで激減しているのである。それでも翌日から後方の140高地に陣地を構えて戦闘を継続するのである。