寿山の状況                                                                       2005年作成


寿山は現地名を「カテーラムイ」と称し、上空から見ると漢字の「寿」に見えたことから名付けられた。昭和19年終わり頃には「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)本部壕として概ね完成に至った。
 その内部は、作戦室、通信室、暗号室を中心として司令室、主計科室、当直室、士官室などが構築された。内部は容易に入り込めない構造になっていた。入口から内部10mほどの部分を左右に交互に突出部を出して銃弾や手榴弾は簡単に内部に投入できない構造とし、更にその先を深く落とし穴のように掘り、その上部の一部を開口して人間が出入り出来るようにした。また壕内中枢部はコンクリートで壁面を構築した。本部作戦室からは各室・各分隊に電話が通じており連絡は良好であったが、壕内の照明には苦労したようである。

 6月4日に小禄半島北部に上陸した敵は6日には寿山陣地に進出して来たが、本格的に陣地を攻撃してきたのは6月11日であった。この頃には日中は壕内に潜み、夜間は斬込みを行うという戦法をとった。これまでの戦闘で寿山陣地の生存者は250名となり、そのほとんどは負傷兵であった。
 壕の東側に工作室の壕があり重傷者が多数集められていた。戦いの行く末に希望を見いだせないことと負傷による苦痛から自決する者が多かった。手榴弾を腹に当て抱きかかえるようにして自決するので、その爆発により内蔵が壕内に飛び散り、腸などが天井を這っている電線のあちらこちらにぶら下がった。そばにいる者が巻き添えになることも多かったので、自決する際には大声で申告するよう申し合わせたが、実行はなかなか難しく、死ぬ時に他を顧みる者は少なかった。また自決も出来ない重傷者には軍医から安楽死を与えられた。(薬物か空気注射)
死者は火炎放射攻撃によって幾たびか焼かれ白骨化した。火焔放射攻撃を受けると壕内は油煙で真っ黒になったが、曲がりくねった通路のため奥の方には届かなかった。攻撃を受けるたびに熱風と酸欠になったが、数多くの出入口と排気口のため酸欠で死ぬことはなかった。

 6月12日には肉迫攻撃が行われた。夜間に壕から出て頂上の平坦部を占領する米軍を攻撃したが、夜が明けるまで頂上部の争奪戦となり双方に数十隊の遺体が残った。再び夜になってそれらの遺体を収容するのだが、工作室の壕の入口に積み重ねるだけ。それ以上のことは出来なかった。
 6月13日夕には残存兵力150名となり最後の総突撃が予定された。皆、最後のための身辺整理を行った。150名の兵が数時間後に全滅する。静寂の時間が一同に安らぎをしばし与えた。暗黒の壕内で粛々として時を待つ。2355、各班は数カ所の出口に分散して突撃の号令を待った。「総員突撃用意」「突撃」。乱戦に次ぐ乱戦である。空が白んで来た頃、死屍累々として凄惨な影を現し始めた。寿山を中心に200mの先まで死屍は続いていた。負傷はしたがまだ生きている者は互いに呼び合いながら、互いに助け合いながら、再び戻ることのなかったはずの壕に戻った。その数は50名を超えた。皆放心状態となっていた。誰も話そうとしなかった。唯、生きているのが不思議であった。

6月14日の午後には米軍は馬乗りとなり火焔放射攻撃を行った。壕内には250kg爆弾が2発信管を外してあった。そこでこの爆弾を爆発させ自分達が爆死するとともに、台上の米軍も一挙に噴き飛ばそうと発案した。2発の爆弾を壕の中央部に移動させた。早く楽になりたかった。大半が生きる必要を認めていないようであった。二宮中尉は一同がこの爆弾を中心に固まるのを確認すると、ハンマーを取り上げ、皆を見つめた。そして一気に力を込めて信管を叩いた。「カーン」と金属音が壕内に響いた。だが爆発しない。再び、力を込めて叩いたが同じだった。また死に神に見放された。兵は失望と嬉しさとが入り交じった不思議な気持ちになって、再び壕内に散解した。

 7月下旬にほぼ全員が壕を出て彷徨するが、再び戻ってきた者や他の壕から辿り着いた者で9月頃には170名くらいになった。寿山陣地が武装解除をして米軍に投降するのは9月5日である。最後まで帝国海軍の一員として戦い、そして破れたのである。威儀を正し、その後の生か死かは不明であるが有終の美を飾るべしと皆が心に秘めていた。170名いたはずの日本兵は整列した時には120名になっていた。50名は何処に行ったのか。誰も話題にしなかったという。




那覇市の説明版
カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。


  * 右図の番号は下記の写真番号を表す





                         

                         

                         

                                             

                         

                         

              

寿山は都市計画により高層マンション建設の予定地とされた。しかしながら当時の関係者が委員会を結成し、遺骨の発掘と当該地一帯の公園化を陳情した。平成6年6月17日、那覇市長より正式に採択の通知があった。
寿山は長く米軍の管理下にあったため、ほとんど昔のままの状態で残されている。

本文は寿山で生き残った方々の証言に基づくものである


ロウソクを使用したが、一部航空機の風防用プラスチックも燃やした







食糧事情は陸軍と比較するとかなり良かったようである









馬乗り攻撃後に一番恐れたのはボーリング攻撃であった。米軍は山頂からボーリングしてその穴にガソリンを流し込み点火した









那覇市の説明は生き残りの方々の証言とは異なる点がある。少なくとも日本軍側には「制圧」されたという意識はなく、最後まで戦ったと考えている。

壕内は一般公開されておらず、研究等の目的により那覇市の許可を受けて立ち入ることができる。





















































火炎放射を何度も浴びると人体は白骨化するという。そのため終戦時にはすでに白骨遺体が多数あり、壕の左右に分けて置いていた

火炎放射は入口から真っ直ぐ侵入しているが、左右に分かれた所から先には焼け跡はない。火炎からは避けることができたが、一部精神的に追いつめられた兵が自ら炎の中に飛び込むこともあったという





陣地の上は公園である。隔世の感がある。










2005年11月30日立入