歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊) 国吉台地の戦闘                                           2011年作成
歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊) 国吉台地の戦闘  

記述に当たって
   記述する内容は、すべて歩兵第32連隊第1大隊長 伊東孝一氏の執筆した 「沖縄陸戦の命運」(自費出版)の、国吉台地の戦闘に係る部分を抜粋したものである。 さらにこれまでの3度にわたる聞き取り調査において、重要と思われる部分を加筆し、ご本人の確認を得て掲載するに至った。 尚、陣地の位置は、2005年に大隊長に同行して頂いて現地で確認したものであるため、概ね正確であると考えている。

1 日本軍側公刊戦史(戦史叢書)記述を
 、米軍側公刊戦史記述を で表している。
2 伊東大隊長記述を で表している。
                     写真右 : 伊東大隊長 (少尉時代の写真)
                   


1 歩兵第32連隊第1大隊編成
  第1大隊長 伊東孝一 大尉
    第1大隊長副官 樫木直吉 中尉
    第1中隊長  斎藤定蔵 中尉 (国吉台で戦死)
    第2中隊長  蔦原源 少尉 (第2大隊第7中隊所属であったが、前田高地撤退時に成功して連隊に合流、国吉台で戦死)
    第3中隊長  工藤 中尉 (国吉台で戦死)
    第1機関銃中隊長 高木中尉(大隊砲小隊長)
    独立機関銃第17大隊第2中隊長  中村中尉 (国吉台で戦死)
    独立第3速射砲大隊小隊長   廣瀬少尉

2 国吉台の戦闘における歩兵第32連隊第1大隊の実戦力 
(大隊副官 樫木中尉の調査メモより)
  編成定数は大隊799名、中隊179名である。 5月21日に第1大隊は兵力25名となっており、その後の補充で現勢力となっている。
      隊 名      兵 数           兵 器        弾薬数    兵器   弾数
   総数 戦闘可能数  小銃  軽機関銃  重機関銃   擲弾筒  小銃弾  機関銃  手榴弾 47mm速射砲   速射砲弾
第1大隊本部  31     16    5        235     13     
第1中隊  73     16   12        1  580     64     
第2中隊(臨時)  80     10   8        1  375     30     
第3中隊  79     27   11     3      5  1649     129     
第1機関銃中隊  83     13   5       1    180   840   58     
連隊通信   4      3   3        275     11     
連隊速射砲  21     11   9        385     54     
独立MG17大隊第2中隊  27     16   3       2    1   70  1200   40     
独立第3速射砲大隊(1/2) 不明     23  不明        不明    不明     1    500 
野戦病院  100                 200     
軍経理  78                 156     
       計 576    135  56  5(2不明)     3  10 2不明 3849 2040   760     1    500 
                                                     独立MG17大隊第2中隊=独立機関銃第17大隊第2中隊
  * 第1中隊には本来の第2中隊の残員が含まれる

  * 第2中隊(臨時)は、第2大隊(前田高地に残置)の残存者をもって編成している
  * 戦闘可能数以外は負傷兵である
  * 第1機関銃中隊には第1大隊砲小隊も含まれる
  * 小銃弾は小銃及び軽機関銃に使用される。 機関銃弾は重機関銃用弾薬である。
  * 野戦病院・軍経理は兵器装備はなく、戦闘訓練も不十分のため戦闘可能数には含めていない




6月4日

 6月4日朝、国吉台に着く。珊瑚礁の隆起して切り立った台地の北側中腹やや高めの処に敵方へ面して、わが大隊は全兵力を横一線に配備した。副官は本部の位置を第一線諸隊と並ぶ中央に選定した。大隊と称しているが実戦力は一個中隊にも足らない。800m正面を防御するには、本部もまた第一線でなければならない。懸崖を背にして、退くことを許さぬ背水の陣にも似た構えをとった。この状況下では特別な策はなく、ただ決死一丸となるのが最前の道である。 相も変わらず空には米軍機が思うままに乱舞し、西方海上には米艦艇が憎々しいまでに悠々と浮游している。
 野戦病院や露営地で治療していた部下達が、最期の地を各々の原隊に求め、信頼する隊長の許に、慕わしい戦友の傍へと帰ってきた。なかには匍いながらの者もいる。言葉に出す者も出さぬ者もいよいよ最後だ。頑張ろうと悲愴な決意を漲らせていた。 ひとり静かに小銃の手入れをしている兵がいた。松倉秀郎上等兵である。この兵のいざ戦わんかなの気持ち、これこそは全ての将兵に通じる覚悟であった。
 解散した野戦病院の軍医や衛生兵と軍経理部の主計兵が200名近くも配属された。彼らは戦闘動作を知らぬばかりか、小銃さえ所持していない。一人二発の手榴弾だけが与えれられた武器だ。大隊は兵数こそ五百数十名と膨れたが、戦闘可能人員は配属諸隊を含め135名に過ぎなかった。 ところが、少ない兵器のうちから軽機四挺を左隣の第3大隊に譲るよう連隊から命令された。 第3大隊は前田の戦闘以来やっと陣容を建て直して第一線に立つのだ。同じ軍旗の下、同じ運命を迎えようとしている同僚である。快く渡せばよいのに、このところ苦心して兵器を収集して来たこともあって、未練がましい気持ちで譲った。
   




6月8日
 わが露営地であった座波台地(国吉の北2km)に敵の集中砲火がしきりと落下するのを見る。その稜線続きの南側の照屋台地には、第3中隊を前進部隊として出してあるが、そこにも砲弾が落下し始めた。

6月9日
 前進陣地(照屋)で盛んな銃声がした。国吉台全域にも砲弾の雨が激しく注ぎ、台地を揺さぶった。草木は忽ちに吹き飛ばされ、岩石は砕け散って、珊瑚礁の白い山肌に急変していった。そのうちに二日間が過ぎて、前進部隊は敵を阻止する力を失い、壕へ押し込められてしまった。



6月11日

 第24師団正面においては主陣地の各方面は米軍の本格的攻撃を受け、一部の米軍が与座部落付近に進出し、また戦車3両を伴う米軍が照屋の前進陣地を制圧して照屋南側に進出して来た。

 国吉台へ敵は歩兵と戦車の大部隊で攻撃をしかけて来た。歩兵には機関銃、擲弾筒、小銃で猛射を浴びせて大打撃を与え、戦車には配属の独立速射砲と協力の師団砲兵各1門が有効な射撃を加えた。照屋台地と国吉台地の間には幅700mの平坦地があって、そこを通過して来る敵は、必至に反撃する我が大隊にとって恰好な餌食であった。

6月11日、第7海兵連隊は朝のうちに敵の抵抗を排除しつつ前進し約350〜900mの地域を確保した。第1大隊は「照屋」を掃討し直ちに集落南側の高地帯に達した。第2大隊は「糸満」集落を掃討しさらに450m前進した。第7海兵連隊の南前方700mには沖縄南部戦線で最も激戦となり立ち往生したKunishi Ridge(国吉台地)がそびえ立っていた。
 この珊瑚礁の断崖は沖縄における日本軍最後の核心となる防御線であった。 その北側には歩兵部隊の前進に際して全く防御の方策のない草茂る平地と水田が広がっていた。戦車が接近するための経路は2本に限定され、 一本はこの平地部を通り高地に達する道路、もう一本は海岸線の道路である。 
 昼過ぎ第1大隊及び第2大隊の斥候は日本軍陣地の配備を探ったが、 国吉台地前面からの激しい射撃と69高地からの横射を受け1447撤退した。

   




6月12日
24師団正面の米軍は本格的攻撃を開始して来て激戦が展開された。一部の米軍は国吉台北西の一角に取り付いた。この日糸満南方に水陸両用戦車が上陸し左翼方面への攻撃準備が見られた。 
   
6月12日も激しい戦闘が繰り返された。我が猛烈な銃火の前に敵は死傷者を続出させたが、なおも闘志を燃やしてその一部を左隣の第3大隊の右端に突入させた。やがて我が大隊の左翼も、この侵入した敵と手榴弾戦を演ずるようになり、我が大隊の損害は急増していった。
 昨日から前進陣地(照屋)の第3中隊に撤退を命令していたが、その夜も「速やかに」と伝えた。しかし伝令の報告は「包囲されて撤退が困難である」というものだった。私は第3中隊に左翼の敵を撃退させるつもりだったが、撃退の機は失われた。

   

第7海兵連隊第1大隊と第2大隊はそれぞれ一個中隊をもって攻撃した。 
攻撃開始は予定どおり0330に開始され、 F中隊・C中隊とも予定通りに展開した。 日本軍は完全に虚をつかれた。かれらは朝食の準備をしているところで交戦となったが直ちに反撃に移った。 C中隊・F中隊は丘陵上に取り残された。
 日の出と共に増援を試みたが、日本軍の殺人的な機関銃射撃を受け撤退を余儀なくされた。 次に戦車が投入されたが、これも照屋を出た直後に敵火力により押し戻された。 3回目、部隊は0815再度煙幕下日本軍の射撃が衰えたときに進撃を試みた。 戦車部隊は、煙幕下に平地部を渡ろうとしたがほとんど失敗に終わり、1300には撤退となった。

1555、第1大隊は国吉で包囲された中隊に対し緊急の補給を行うために戦車を送り込んだ。 戦車はこれらの補給を渡すとともに国吉の中隊の増援の任務を負った。 戦車部隊は照屋から発見されないように出発し陣地上に到着したならば緊急脱出用ハッチから物資を補給した。
  この作戦は日が暮れてから一時中止されるまでに、9両の戦車でA中隊54名の小隊を増援してC中隊を支援し、22名の負傷者を後方に搬送した。
 夜暗くなってからB中隊は再度前進を開始して何事もなく峰にたどり着き、第2大隊と連携をとっているC中隊の左で戦線を形成した。 第2大隊の前線では2030に同じようにG中隊とE中隊がたどり着き西に戦線を拡張した。 深夜までに戦線はかなり整理された。






6月13日

 24師団正面は、昨日に続き強力な米軍の攻撃を受け、左側国吉台付近(歩兵第32連隊第1大隊守備)においては、糸満〜国吉道を前進して来た米軍戦車を砲撃により阻止したが、米軍歩兵約150名が国吉台西方を迂回し、左大隊(第3大隊)との中間から国吉部落付近に侵入した。

戦車部隊は第7海兵連隊を支援した。 戦車部隊の主力は国吉の第7海兵連隊第1大隊で敵を攻撃するか、部隊の補給路を援護する役に回っていた。 A中隊50人以上が戦車のハッチを通して戦場に送られ、35名が後方へ搬送された。 
 第7海兵連隊第1大隊の将兵は国吉台上で彼らの位置を固守し両翼へ展開することに集中した。しかしながら敵の砲弾・弾丸が前からも横からも台上を覆い、進撃はほとんど出来ない状況であった。  
 6月13日、米軍は6個中隊で行動を開始、しかし丘陵の下で身動きがとれなかった。13日から戦車隊が攻撃の中核となったが、平野部の水田の中には戦車が通れる道が1本しかない。したがって、日本軍の47mm砲などに狙われ、5日間で21両の戦車が破壊された。





6月14日
第24師団正面は、14日終日激戦が続いた。国吉台地及び真栄里北側台地においては、米軍は戦車及び空中投下による補給を実施しつつ攻撃前進して来た。国吉台及び真栄里北側台は共に保持したが、米軍は両台地の中間から逐次浸透し、両台地のわが部隊の側背から攻撃する状況となった。

【注意 : 伊東大隊長手記では13日とされているが、米軍の空中補給や進撃場所などから14日と考えられるため「14日」として記述した

 13日も前面に亘って敵の攻撃は益々熾烈を極めたが、特に突破口には兵力を注ぎ込んで来た。夜はあまり行動しない敵が、戦車さえ夜間隠密に侵入させる有様だった。既に爆薬はなく、敵から奪った爆薬を地雷にし、夜のうちに戦車の侵入路へ埋めた。それが功を奏して何台かの戦車が擱坐した。このように死力を尽くして戦ったが、敵は突入地点の内部を風船のように拡張し、南側の国吉部落へ侵入する(米軍の記録では14日)とともに国吉台頂上を占領し、大隊を左背後から攻撃する態勢となった。
 しかし依然として、敵は突破口の入口が狭く、我が大隊の脅威に晒されていて補給に苦労していた。 そこで空中投下で多量の食糧などを補給したが、両軍の間に落ち食糧の争奪戦が始まった。白・赤・青・黄と様々な色の落下傘が続々と投下された。色の異なるたびに今度こそ兵器かと期待して奪ってみるが、どれもこれも食糧なので、ガッカリする。でも私達にはこの天からの贈り物を貪り食べた。実に美味だ。もう長らくろくな物を食べていないのでなおさらである。日本人には普段とても口に出来ない超贅沢なものであった。 またゴム袋に入った飲料水も次々と投下された。敵に与えてはならない、と奪っては破り捨てる。独立速射砲陣地の上には補充弾薬も投下された。このように敵は空陸一体となって、突破口に戦力を投入した。
           
 6月14日 第7海兵連隊第1大隊は稜線の敵の砲座をひとつひとつ破壊し、一歩ずつ前進するという戦闘を続けた。 
 A中隊が東に進撃し連隊行動地帯の国吉高地反対斜面の残りの部分を確保、A中隊の支援下にB中隊・C中隊がこの地域を掃討した。 敵の頑強な反撃はあったものの、午後の早い段階でB中隊は国吉集落を通過し東へ進撃、そこから北に向かって攻撃した。 B中隊は集落を支配下に置いたが、北に向かって進撃すると日本軍から機関銃射撃と強力な逆襲を受け、ついには重迫撃砲の弾幕下に撤退を命ぜられた。
 大隊の戦線はまた昨晩と同じところに縮小した。

             



6月15日

第24師団は巧妙な砲兵の運用と果敢な斬込みによって連日米軍に多大の損害を与え、6月12日〜13日ころまでは、むしろ米軍を圧するの観があって実力を示したが、衆寡敵せず、いまやいかんともし難くなった。真栄里高地(歩兵第22連隊)も米軍の攻撃を受け、国吉台地(歩兵第32連隊第1大隊)は米軍の馬乗り攻撃を受けるようになった。

 いまでは大隊本部も全く背後に敵を持った。この敵に対して稜線の一角を保持して防いだ。もとより前面の敵の攻撃は一層急を告げて、火焔放射の一斉攻撃で苦戦中との悲報が続々と入る。配属の独立機関銃第17大隊第2中隊長 中村中尉から、壕が破壊されて重傷を負い、此処で死ぬと知らせて来た。 俺もいよいよだと思いながら黙って報告に頷く。 部下諸隊との連絡も困難になり、僅かに高井隊との連絡がとれるだけとなって夜を迎えた。劣勢な日本軍にとって夜は唯一の憩いの時である。流石凄惨を極めた戦いも夜になれば銃砲声は衰え、両軍の手榴弾の応酬がとぎれとぎれに聞こえるだけだ。
 その夜も照屋の前進陣地の第3中隊は撤退して来なかった。副官と第3中隊長との間には激烈な書簡のやりとりがされていた。私は第3中隊が期待に反して撤退の時機を逃したのに嫌気がさし、最早当てにしていなかった。 
 一両日連絡が絶えていた右拠点の第1中隊から伝令が来たので、私はたいへんうれしかった。僅かに残っている擲弾筒の弾を与え、また中隊長にやってくれと奪った食糧を伝令に渡しながら「私もいよいよ最後が近いが、隊長も最後まで奮闘を頼むと伝えてくれ」と悲壮な思いを告げた。「中隊と本部間はすでに突破されました。隊長殿は高熱で苦しんでいます」と伝令が言う。この言葉に私はすっかり気落ちして、何とも返事のしようがなかった。それから間もなく隊長は敵中に切り込んで行ったという。

             

第7海兵連隊正面では艦砲射撃、野戦砲、航空、ロケットなどあらゆる火器で敵を攻撃した。
 第7海兵連隊第1大隊は、簡単な偵察と攻撃準備射撃の後、C中隊は稜線に沿って真っ直ぐ東に攻撃を開始、B中隊は再び国吉集落を通り稜線を南から攻撃を開始した。B中隊はかなりの抵抗を受け、C中隊も東にはほとんど進撃できなかった。 この結果を受け、1600各中隊に13日〜14日の防御線まで撤退するように命令が下された。
 第7海兵連隊第2大隊はほとんど前進できなかった。







6月16日

国吉台地は引き続き馬乗り攻撃を受け、真栄里北側高地の一角は米軍に占領され、逐次米軍は浸透しつつあった。

朝から敵は私たちの壕に攻撃を仕掛けて来た。周囲の友軍はもとより部下諸隊の状況は一切不明となって17日を迎えた。
 
   

 第7海兵連隊左翼の第1大隊は、 0700から0945の攻撃準備射撃後に攻撃を開始した。 攻撃はA中隊が国吉高地の北斜面を攻撃し、B中隊は国吉集落の偵察に向かった。 両中隊ともC中隊が掩護した。 A中隊はゆっくりながらも敵の抵抗を排除しつつ前進は継続し、C中隊はそのあとに続行して西に戦線を形成してA中隊の線まで進出して掃討に加わった。 B中隊は国吉集落で多くの民間人を見つけたために前進が遅れ、さらに小勢力の敵を発見してこれを撃滅した。
 午後、A中隊は敵の拠点を破壊することに成功した。しかしこの拠点を見つけだし破壊するまでに、たったひとりの狙撃手のために海兵隊員22名が死傷した。第1大隊は国吉高地の左をA中隊、中央をC中隊、右B中隊が占領した。

             



6月17日

 国吉台地、真栄里高地は米軍の馬乗り攻撃を受け、歩兵第32連隊本部も攻撃を受け、また有力な米軍は真栄里南方1kmの伊敷付近に進出して来た。

 私たちの壕は長さ10mくらいの東西に筒抜けの自然洞窟を、杭木で補強したもので、20名足らずの本部要員がいた。この壕に対して、敵は山頂から両方の入り口に手榴弾、黄燐弾、爆雷で猛烈な攻撃を加えた。黄燐弾の攻撃で弾薬箱の小銃弾が誘爆し、坑木も燃えはじめた。火勢は次第に強くなり、今や私達を焼き殺すかと思われた。この厄介な黄燐の火に炙り出され飛び出せば、忽ち敵の餌食となってしまう。いよいよ最後だ。小なりと雖も部隊の長の誇りがある。散り際を割腹か拳銃自殺か、斬込かと懸命に思案する。しかし夜になり他の壕の兵が水を持って駆けつけて消火してくれた。
 その時諦めていた第3中隊が撤退してきた。隊長以下20名くらいで、あとの半数弱は途中ではぐれたり、やられたりしたという。 私は現在の拠点を第3中隊にまかせ、20m東側にあるひとつの壕へ移った。 途中山頂から手榴弾を投げつけられ、兵器係下士官が戦死した。
 私達が別の壕に落ち着くと、間もなく第3中隊長の書面を持って伝令が来た。「現陣地を守ることは困難なり。よって犬死にするよりは斬込みをします。今までのご指導を謝す」とあった。 「只今、連隊本部に伝令を出した。その結果を待ち最後の命令をする。それまで現陣地を守れ」 との命令を持たせて直ぐさま下士官を遣った。 ところが下士官が着いたときにはすでに遅く、負傷した兵2名だけが居るだけで、他の者の姿はなかった。 中隊長らのその後の運命は今に至るもわからない。さぞかし立派な最期であったと信じている。
            
第7海兵連隊第3大隊は夜のうちに第1大隊と交代しており、0730第22海兵連隊と連携して真栄里東側高地攻撃を開始しした。 第3大隊はK中隊を先頭とし、I中隊とL中隊がこれに続く縦隊で攻撃を開始し、I中隊は第22海兵連隊と接触を図りつつ、L中隊はK中隊の左に位置して混迷する第5海兵連隊との間隙をこれ以上拡げないように努めた。 敵の激しい砲火が始まる前に小波蔵〜真壁を見下ろす高地から1350m前進したが、第5海兵連隊第2大隊が前進することが出来なかったため、第7海兵連隊第3大隊は夜間の防御に備え左翼を後方へ下げた。


6月18日
 壕の中にも敵は勇敢に入って来て爆雷を投げつけた。今はこの壕を守るのが精一杯である。今度こそ最期だ。昨日無線機は爆雷破壊されていたので、夜に伝令を連隊本部に出したが、戻って来なかった。最後の命令を受領すべく更に伝令を出した。かくて18日は混戦・乱戦のうちに過ぎた。この頃には配属された経理・衛生の後方部隊は霧散して姿をとどめていなかった。無理からぬことと思う。また右翼の臨時第2大隊(志村大隊は前田に潜伏していたため臨時編成をとった)、左翼の第3大隊(満尾大隊)は、我が陣地に隣接する第9中隊を除き、すでに壊滅状態になっていた。 

6月19日以降
私達の移った壕には大隊本部の負傷者と炊事婦ら十数名がいた。そこへ私達が加わって30余名となった。 連隊本部に出した伝令はついに一人も帰ってこなかった。出撃して斬り死にしようか、いやいや連隊長から最後の命令を受けてからでも遅くないとの思いが交錯して、心が千々に乱れた。 この2日間に、敵主力は一意南下を図り、国吉台への攻撃をゆるめた。
 20日には独立速射砲第3大隊と連絡がとれ、夜を迎えるたびに部下と連宅が回復した。 それから数日間、敵の掃討を受けて、昼は洞窟の入口で激しい銃撃戦を繰り広げ、からくも陣地を保持していた。
 連隊本部と連絡が途絶えて一週間が経った頃、連隊長以下70名が同様に洞窟戦闘をしていることが判った。 6月30日には第24師団長の戦死の報がもたらされた。 そんなことがあった数日後の7月はじめの夜、私は副官といっしょに国吉集落の東側を見回っていると、島の南端から逃げてきた2名の兵に会った。 彼らは「軍司令閣下は6月22日自決された」と告げた。 今や軍司令官は自決され、師団長は戦死されたらしい。 軍司令官の最後の命令がいかなるものであったかは知るよしもない。 その後連隊本部から聞いた師団長最後の命令は、次のようなものであった。 「各部隊は、現陣地を死守し、最後の一兵まで敵に出血を強要せよ」。 だが兵器は大隊の全てを合わせて小銃十数丁に過ぎない。 一体全体何が出来ようか。 出血を強要する力は、体力と共に日々衰えていった。


   この後、歩兵第32連隊が米軍の降伏勧告を受け入れて武装解除に応じるのは、実に太平洋戦争終結後の8月29日であった


 

歩兵第32連隊では「国吉台地」を「国吉台」として記録を残している。したがって、当HPでは公刊戦史分は「国吉台地」、歩兵第32連隊関係については「国吉台」という名称を使用した。

















第1大隊の数値であるが、第2大隊・第3大隊とも同じような勢力であったと思われる。 第3大隊は前田・経塚の戦闘で大きな損害を受けている。

























伊東大隊長は、この国吉台に到着以前に戦闘を行った津嘉山での戦闘が体力的な限界であり、あとは気力だけだったと語る。








米軍側の記録で 「たった1名の兵士に22名が倒された」 とあるが、伊東大隊長はその時期・場所などから、その狙撃手は松倉上等兵であったと信じている。

野戦病院等の要員は実際には6月10日に編入されている。 公刊戦史や連隊本部作戦主任の記録では第2大隊へ編入となっているが、実際は第1大隊に編入されている。



第1大隊が籠もった自然洞窟はほぼ原形をとどめたまま現在も残されているが、すでに密林化して容易には近づくことが出来ない。
















前進陣地に対する連隊撤収命令は6月10日に発令されている。







本格的な米軍の攻撃とあるが、この日の米軍資料を見る限り、国吉正面に対しては、敵の陣地配備や火力を知るための「威力偵察」であったことがわかる。
 「威力偵察」は、敵に射撃をさせることを目的とするために、本来の攻撃以上に自分たちの姿を敵に見せることから、しばしば本格的な攻撃ととらえられることがある。





































「一部を左隣の第3大隊の右端に突入させた」、 とあるのが左の写真の「糸満〜国吉道頂上部」付近である。























































伊東大隊長手記にも、第1大隊正面の戦車接近経路上には、師団砲兵1〜2門の支援射撃があったと記述されている。 尚、この師団砲兵については師団砲兵第3中隊からの支援を受けたとの記述があることから、事前に支援調整を行っていた可能性がある。























米軍戦車は糸満〜国吉道を打通して国吉集落方面に進出することは出来なかった。 当然第1大隊・第3大隊の奮戦にもよるが、実はこの糸満〜国吉道は現在よりも格段に狭く、戦車が突進するには適していない道路状況であった。
 
写真は糸満〜国吉道頂上部付近に残る旧道である。 戦車1両が通過するのも困難な道幅である。

































副官と第3中隊との激烈な書簡のやりとりについては、副官から「何故伝令が往復できるのに、中隊は撤退できないのか。説明せよ」というものであった。

伊東大隊長は、第3中隊について、「照屋北側高地の壕には十分な食糧がある。だからそう簡単に離れることはしないだろうと、最初から思っていた」 という。























国吉台には木々は一本もなく、唯一活動が出来た夜間も、洞窟壕の上を米軍が占領したために、日本軍はほぼ24時間壕の外に出ることは出来なくなった。















































































ここで大隊長が第9中隊の生存を記述しているが、実は隣接する第9中隊が健在で壕に居ることがわかったのは、7月末のことであった。