国吉台地の戦闘  (くによしだいちのせんとう)                                              2011年作成
国吉台地の戦闘

1 「国吉台地戦闘」の記述にあたって

 「国吉台地の戦闘」は、日本軍が陣地防御により主陣地線を構成して組織的戦闘を行った沖縄戦最後の戦闘である。 一時日本軍が優位を保ったこの戦闘に関して、米軍は海兵隊公刊戦史で多くのページを割いて詳細に記録を残しているが、日本軍側の公刊戦史では同時期の具志頭・八重瀬岳の戦闘に多くの記述を割き、国吉台地における戦闘の様相は 「ほとんど記述なし」 と言っても差し支えないほど貧弱である。 ところが幸いなことに、国吉台地第一線部隊を指揮した歩兵第32連隊第1大隊長の手記が残されており、現在において第一級の貴重な資料として、この戦闘を両軍から詳細に知ることが出来る。
 しかしながら、米海兵隊公刊戦史と歩兵第32連隊第1大隊長手記を対比して記述することは、記述内容からして適切でなく、したがって当「国吉台地の戦闘」においては、敢えて日本軍側公刊戦史を主とし、第1大隊長手記を参考として考察して記述した。
 尚、歩兵第32連隊第1大隊長手記に関しては、当HP「部隊別戦闘戦史」において「第24師団歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)の戦闘」において詳しく記述している。


2 戦闘までの概要
 5月29日夜から逐次首里を撤退した日本軍は、概ね6月4日頃には島尻南部地区に新たな主陣地帯を構成した。 島尻主陣地帯西側を守備する第24師団は、西海岸線沿いに接近する米軍に対し、糸満南東の国吉台地に歩兵第32連隊を配置して米軍の接近を待ち構えた。 6月9日には歩兵第32連隊の前進陣地であった照屋北側高地・糸満北側地区に米軍が接近、11日には地域一帯を米軍が確保して、いよいよ日本軍最後の主陣地線である国吉台地に米軍が迫った。

     国吉台地守備隊(歩兵第32連隊第1大隊)の前進陣地での戦闘

               




3 日本軍の部隊編成等
 歩兵第32連隊 (配属部隊含む)
   歩兵第32連隊長 北郷格郎大佐以下 推定約900名
   *  第1大隊 伊東大尉以下約250名  
    第2大隊(臨時編成) 金沢少佐以下約200名  
         独立機関銃第3大隊を臨時第2大隊主力とし、特設第4連隊第1大隊・第2大隊を解隊して臨時第2大隊へ配属
        (特設第4連隊鈴木少佐及び独立速射砲第3大隊長一法師中佐は歩兵第32連隊本部付)
    第3大隊 満尾大尉以下約230名
    独立29大隊 中本大尉以下約80名
    独立機関銃第17大隊 約40名
    独立速射砲第3大隊  約40名
    連隊砲中隊 三好大尉以下約25名
    通信中隊   荻生中尉以下約30名

   * 第1大隊約250名としているが、第1大隊副官メモでは266名で、このうち戦闘可能な将兵は僅か72名であった。 したがって同様の状
           況である他部隊も実戦闘力は30%程度と考えられる。


4 国吉台地の地勢
 (1) 国吉集落のある国吉台地は、糸満市街地南側の平坦地(約750m間)と約60mの高低差がある。
 (2) 糸満市街地から国吉台地に向かう道路は、国吉集落に向かうS字カーブの道路と海岸線を南に向かう道路の2本しかない。
 (3) 戦車・装甲車は対戦車壕や地雷・湿地に近い土質などにより、2本の道路以外は機動不能であった。
 (4) 2本の道路には日本軍の射撃を遮るものが全くない。
 (5) 国吉台地の台端部は米軍の砲弾にも耐えうる堅い隆起珊瑚礁から出来ており、自然洞窟が存在した。
 (6) 糸満市から国吉集落に至るS字カーブの部分が現在では緩やであるが、これは戦後に急な湾曲を解消する工事が行われたためである。

    
               昭和23年米軍作成地図 *                         平成21年糸満・国吉集落地区地勢図
 *  米軍作成地図には終戦の昭和20年〜昭和23年までに建設された道路が記載されているが、戦前に日本軍が使用した地図等を参考とし
   それらの戦後に建設された道路は一部を削除した上で掲載している。

      
                       歩兵第32連隊第3大隊陣地からは、敵方はこのように見えていたと思われる




6月10日
 
米軍の行動が活発となり、糸満・照屋・大城森などの我が前進陣地は猛攻を受け、米軍は10日夕に国吉北側・大里北側・与座西側の線に進出し、我が主陣地と戦闘を交えるに至った。 第24師団長は10日、歩兵第22連隊第3大隊及び野戦病院の一部を歩兵第32連隊へ配属して左翼の強化を図った。 歩兵第32連隊は同大隊を連隊予備とし、野戦病院の要員を第2大隊(臨時編成)に編入した。

 
第1海兵連隊第2大隊が照屋と与座の間の敵が保持する稜線(大城森)の南側斜面の掃討に成功し、G中隊が午後の遅くに占領した。夜間正確な砲迫射撃が大隊を襲ったが、夜襲は撃退した。11日第2大隊は大里西の69高地の奪取を命ぜられた。




6月11日
 第24師団正面においては主陣地の各方面は米軍の本格的攻撃を受け、一部の米軍が与座部落付近に進出し、また戦車3両を伴う米軍が照屋の前進陣地を制圧して照屋南側に進出して来た。


 
6月11日、第7海兵連隊は朝のうちに敵の抵抗を排除しつつ前進し約350〜900mの地域を確保した。第1大隊は「照屋」を掃討し直ちに集落南側の高地帯に達した。第2大隊は「糸満」集落を掃討しさらに450m前進した。第7海兵連隊の南前方700mには沖縄南部戦線で最も激戦となり立ち往生したKunishi Ridge(国吉台地)がそびえ立っていた。
 この珊瑚礁の断崖は沖縄における日本軍最後の核心となる防御線であった。 この高地には正面斜面と反対斜面に無数の自然洞窟があり、 その北側には歩兵部隊の前進に際して全く防御の方策のない草茂る平地と水田が広がっていた。戦車が接近するための経路は2本に限定されていた。 一本はこの平地部を通り高地に達する道路、もう一本は海岸線の道路である。 
 昼過ぎ第1大隊及び第2大隊の斥候は日本軍陣地の配備を探ったが、 国吉台地前面からの激しい射撃と69高地からの横射を受け1447撤退した。
 平地部に対する完璧なまでの火力配備から判断して、昼間攻撃は甚大な損害を受けるであろうと推察された。  第1大隊・第2大隊は、中央の道路を両大隊の境界とした。
 ここ数日間バックナー中将は牛島将軍に対しラジオ放送や航空機からのビラの投下により日本軍の絶望的な状況を指摘して降伏するように進言していた。 6月11日午後第10軍代表部は糸満を見下ろす第2大隊の監視壕で交渉を期して日本軍の使者を待った。 1700第7海兵連隊地区の砲撃は全て停止し白旗の出現を待ったが日本軍の反応はなく、第7海兵連隊は2000に命令を発し、攻撃開始時間を6月12日0330と決した。

   

 6月11日、第1海兵連隊第2大隊は1030に中隊縦列(先頭F中隊、後続E中隊)で攻撃開始。G中隊は現地域に留まり先の2個中隊を火力支援した。当初前進は迅速であったが、先頭中隊が69高地の手前低地部に踏み込んだときに敵の砲迫射撃が開始された。大里付近のF中隊左翼は激しい機関銃や小銃射撃の前に犠牲者が増大した。負傷者の増加に伴い進撃速度も低下したためE中隊はF中隊の右翼に進出した。 大量の支援射撃も敵の射撃を粉砕することができなかった。しかし弱体した戦闘力や支援戦車を3両撃破されたことも構わずに攻撃部隊は戦闘を続け、ついに夕刻までに前線は目標地域に到達し防御態勢に移行することができた。夜の間、大隊は絶え間ない日本軍の逆襲に悩まされながらもこれを撃退した。

   




6月12日
24師団正面の米軍は本格的攻撃を開始して来て激戦が展開された。一部の米軍は国吉台北西の一角に取り付いた。この日糸満南方に水陸両用戦車が上陸し左翼方面への攻撃準備が見られた。


 第7海兵連隊第1大隊と第2大隊はそれぞれ一個中隊をもって攻撃した。 0225にC中隊はF中隊と連携をとるために攻撃開始線に移動した。
攻撃開始は予定どおり0330、B中隊とG中隊は攻撃中隊支援のため0500に移動を開始した。 F中隊は真栄里集落の北450mの目標に到着、C中隊はF中隊の左に展開した。 日本軍は完全に虚をつかれた。かれらは朝食の準備をしているところで交戦することになり、数グループがC中隊によって駆逐された。 しかし日本軍は直ちに反撃に移った。 C中隊・F中隊は丘陵上に取り残された。
 日の出と共に他の中隊を稜線上の部隊に増援しようとしたが、日本軍の殺人的な機関銃射撃を受け撤退を余儀なくされた。 次に戦車が投入されたがこれも照屋を出た直後に敵火力により押し戻された。 3回目、部隊は0815再度煙幕下日本軍の射撃が衰えたときに進撃を試みた。 戦車部隊は墓と砲があると思われる国吉の北の谷を破壊するよう命じられたため、煙幕下に掃射をうける平地部を渡ろうとしたがほとんど失敗に終わり、1300には撤退となった。
 1555、第1大隊は国吉で包囲された中隊に対し緊急の補給を行うために戦車を送り込んだ。 戦車はこれらの補給を渡すとともに国吉の中隊の増援の任務を負った。 戦車部隊は照屋から発見されないように出発し陣地上に到着したならば緊急脱出用ハッチから物資を補給した。 この作戦は日が暮れてから一時中止されるまでに、9両の戦車でA中隊54名の小隊を増援してC中隊を支援し、22名の負傷者を後方に搬送した。
 夜暗くなってからB中隊は再度前進を開始して何事もなく峰にたどり着き、第2大隊と連携をとっているC中隊の左で戦線を形成した。 第2大隊の前線では2030に同じようにG中隊とE中隊がたどり着き西に戦線を拡張した。 深夜までに戦線はかなり整理された。
 
 第1海兵連隊第2大隊は国吉高地からの敵の散発的な射撃下で69高地一帯の掃討と洞窟の封鎖を継続中であった。

      



6月13日
 24師団正面は、昨日に続き強力な米軍の攻撃を受け、左側国吉台付近(歩兵第32連隊第1大隊守備)においては、糸満〜国吉道を前進して来た米軍戦車を砲撃により阻止したが、米軍歩兵約150名が国吉台西方を迂回し、左大隊(第3大隊)との中間から国吉部落付近に侵入した。
 第24師団は、13日歩兵第32連隊に左に師団の予備隊であった歩兵第22連隊(第3大隊欠)を左第一線として真栄里地区に配置して、歩兵第32連隊の防御正面を縮小させた。







 戦車部隊は第7海兵連隊を支援した。 戦車部隊の主力は国吉の第7海兵連隊第1大隊で敵を攻撃するか、部隊の補給路を援護する役に回っていた。 国吉高地に通じる中央の道路は橋が落とされ午後の中頃には通行不能となった。 しかしドーザー型戦車によって迂回路が構築され再び戦車による火力支援及び部隊の増援、補給、負傷者の搬出(戦車の両面に砂袋を下げて敵の砲撃から身を守るようにした)などが行われた。 A中隊50人以上が戦車のハッチを通して戦場に送られ、35名が後方へ搬送された。 
 第7海兵連隊第1大隊の将兵は国吉台上で彼らの位置を固守し両翼へ展開することに集中した。しかしながら敵の砲弾・弾丸が前からも横からも台上を覆い、進撃はほとんど出来ない状況であった。  
 6月13日米軍は6個中隊で行動を開始、しかし丘陵の下で身動きがとれなかった。13日から戦車隊が攻撃の中核となったが、平野部の水田の中には戦車が通れる道が1本しかない。したがって、日本軍の47mm砲などに狙われ、5日間で21両の戦車が破壊された。
   

 第7海兵連隊第2大隊は西海岸に斥候を出したが東側の国吉高地から射撃を受け、煙幕下に撤退の憂き目にあった。 巧みな四周からの支援射撃で敵の砲座に命中させているにもかかわらず、敵の反撃は未だ激烈であった。 しかも第7海兵連隊第2大隊の行動地域では敵の対戦車火器により数両の戦車が撃破された。
  
            第7海兵連隊第2大隊が斥候を出した国吉台地西端部(北から見る) 終戦直後の写真(左)と現在の写真(右) 
    戦車の機動が可能な道路であるが、右(西)は海で展開出来ず、また障害のない平地部を走るため米軍の装甲部隊も通過困難であった



6月14日
第24師団正面は、14日終日激戦が続いた。国吉台地及び真栄里北側台地においては、米軍は戦車及び空中投下による補給を実施しつつ攻撃前進して来た。国吉台及び真栄里北側台は共に保持したが、米軍は両台地の中間から逐次浸透し、両台地のわが部隊の側背から攻撃する状況となった。


          

  
 第7海兵連隊第1大隊は稜線の敵の砲座をひとつひとつ破壊し、一歩ずつ前進するという戦闘を続けた。 A中隊が東に進撃し連隊行動地帯の国吉高地反対斜面の残りの部分を確保、A中隊の支援下にB中隊・C中隊がこの地域を掃討した。 敵の頑強な反撃はあったものの、午後の早い段階でB中隊は国吉集落を通過し東へ進撃、そこから北に向かって攻撃し第7海兵連隊の目標地域の前方斜面を確保するように命ぜられた。 B中隊は集落を支配下に置いたが、北に向かって進撃すると敵から機関銃射撃を受けた。中隊はなおも2個分隊が稜線上に到達するまで攻撃を続けた。しかし高地上から日本軍の強力な逆襲を受け、ついには重迫撃砲の弾幕下に撤退を命ぜられた。大隊の戦線はまた昨晩と同じところに縮小した。
 第7海兵連隊第2大隊の前線では、こちらの制圧射撃に係わらず敵の激しい射撃が続き、僅かにしか地域を拡充することしかできなかった。戦車部隊は第7海兵連隊の兵站と戦術的支援を担ってきたが、1530には全ての戦車は第1海兵連隊の支援のために撤収された。この48時間でC中隊の48名が戦車で前線に送り込まれ、第1戦車大隊は3個戦車中隊の総計で160名の死傷者を後送した。
   

 
第1海兵連隊は30分間の攻撃準備射撃の後、0330から第2大隊E中隊・G中隊が移動を開始し国吉の第7海兵連隊の東に占位しようとした。 隣接する部隊から照明弾が打ち上げられ攻撃発揮位置と目標の間の550〜700mにわたる低地部を照らした。 前進の当初は敵の抵抗もなく、0500までにはE中隊の2個小隊が目標の稜線上に達した。 しかし支援小隊や中隊本部は頂上下で激しい機関銃射撃を受け行動が停止した。左のG中隊は目標手前250mの地点で迫撃砲・機関銃・小銃射撃を受けた。 しかし1個小隊が目標に達することができE中隊と連携をとることが出来た。 夜が明けるとともに敵の射撃が増大し、支援小隊は車両の中で待機し攻撃小隊は高地上で孤立した。 同様に大隊本部や予備部隊も攻撃中隊とは連絡不能となった。
 この状況は終日同じであった。 死傷者の割合が非常に多くなった。 ある中隊では将校7人のうち6人が死傷した。戦車部隊は前線に向かったが、その任務は負傷者の後送、弾薬補給、水の補給、血漿の輸送など本来の戦術的な任務とはかけ離れたものであった。 戦闘中の将兵は全く身動き出来なかった。 暗くなって予備のF中隊はG中隊とE中隊と連携をとるために進撃し、稜線上で円陣防御の態勢に移行した。
   


6月15日 
第24師団は巧妙な砲兵の運用と果敢な斬込みによって連日米軍に多大の損害を与え、6月12日〜13日ころまでは、むしろ米軍を圧するの観があって実力を示したが、衆寡敵せず、いまやいかんともし難くなった。真栄里高地(歩兵第22連隊)も米軍の攻撃を受け、国吉台地(歩兵第32連隊第1大隊)は米軍の馬乗り攻撃を受けるようになった。

          

 
第7海兵連隊正面では艦砲射撃、野戦砲、航空、ロケットなどあらゆる火器で敵を攻撃した。
 第7海兵連隊第1大隊の行動地帯は前日と同じ状況であった。簡単な偵察と攻撃準備射撃の後、C中隊は稜線に沿って真っ直ぐ東に攻撃を開始、一方B中隊は再び国吉集落を通り稜線を南から攻撃を開始した。B中隊はかなりの抵抗を受け、C中隊はB中隊の攻撃を援護するために圧力をかけようとしたが東にはほとんど進撃できなかった。この結果を受け、1600各中隊に13日〜14日の防御線まで撤退するように命令が下された。
 
第7海兵連隊第2大隊はほとんど前進できなかったが、装甲車両の支援を受けた第2大隊斥候が真栄里高地の北西斜面の敵情を解明するとともに多数の洞窟や砲座を破壊することが出来た。
  
      6月15日撮影の国吉台地と現在の同アングルの写真 米軍が孤立したB・C中隊に落下傘(白い点)による空中補給を行った際の写真である
 

 
第1海兵連隊は、この日第5海兵連隊と交代した。
 
第5海兵連隊は6月15日朝から第1海兵連隊と交代を開始しようとしたが、  第1海兵連隊第2大隊は稜線上で隣接部隊との連絡も取れずに約60m四方に封じ込められ、前面の斜面や翼端、後方から敵の射撃を受けていて身動き出来なかった。 そのため日没後直ちに部隊交代することが決定された。
 第5海兵連隊第2大隊は、混雑を防ぐ意味でG中隊のみを前進させることに決した。 2000、G中隊は移動を開始し負傷者を出すことなく30分後には所定の位置に達した。 2300には交代は完了し、第1海兵連隊第2大隊は後方に移動した。 
第1海兵連隊は12日間にわたり前線で戦闘しここに予備となった。 この間連隊は約500名の死傷者を出した。
  

  


6月16日
国吉台地は引き続き馬乗り攻撃を受け、真栄里北側高地の一角は米軍に占領され、逐次米軍は浸透しつつあった。


             

  第7海兵連隊左翼の第1大隊は攻撃開始前に、砲兵部隊・迫撃砲射撃・ロケット射撃の集中射撃(攻撃準備射撃)を実施するために約150m後退させられた。 攻撃準備射撃は0700に開始され部隊が0945に移動を開始するまで間断なく実施された。 攻撃はA中隊が国吉高地の北斜面を攻撃し、B中隊は国吉集落の偵察に向かった。 両中隊ともC中隊が掩護した。 A中隊は洞窟や砲座を破壊しながら注意深く前進した。 ゆっくりながらも敵の抵抗を排除しつつ前進は継続し、C中隊はそのあとに続行して西に戦線を形成してA中隊の線まで進出して掃討に加わった。 B中隊は国吉集落で多くの民間人を見つけたために前進が遅れ、さらに敵の小グループが混乱の中で部隊から離れうろたえているのを発見してこれを撃滅した。
 午後、A中隊は「ピナクル」と呼んだ連隊行動地帯の東への進撃を2日間に渡り阻んでいた敵の非常に頑強な拠点を破壊することに成功した。しかしこの拠点を見つけだし破壊するまでに、たったひとりの狙撃手のために海兵隊員22名が死傷した。第1大隊は国吉高地の左をA中隊、中央をC中隊、右B中隊が占領した。
      

 一方第7海兵連隊右翼の第2大隊は、敵の対戦車火器や地雷により多くの戦車や将兵を失ったにもかかわらず、西に約350m地域を拡張した。 この日の終わりまでに第2大隊は真栄里高地への最初の高い部分を占領した。
 真栄里への接近経路を頑強に防御してきた敵地上部隊は事実上撃滅された。 国吉高地はもはや第7海兵連隊の行動地帯上の障害ではなくなり、作戦はこの線を通過して翌朝の攻撃のため足場を作る段階に移行した。 それは第6海兵師団第22海兵連隊が第7海兵連隊第2大隊と交代し、第7海兵連隊第3大隊が第1大隊と交代するという計画であった。
      
 
 第5海兵連隊は第2大隊が西に向かって攻撃を行った。 第5海兵連隊第2大隊G中隊は夜明けとともに陣地から見える高地上の珊瑚礁の峰を攻撃、すぐに白兵戦が開始され0900までに2個の火炎放射器チームが頂上にたどり着いた。 中隊指揮官は部隊の左翼に対し稜線上に東に進み戦果を拡張するよう命令した。 2両の戦車と1両の火焔戦車が掩護のため1130に前線に向かった。 1330負傷者の後送のために煙幕射撃の実施が要請された。 G中隊の戦闘は終日続きゆっくりながらも確実に前進を続けた。96師団第381連隊が与座岳を占領した。
      




6月17日
 国吉台地、真栄里高地は米軍の馬乗り攻撃を受け、歩兵第32連隊本部も攻撃を受け、また有力な米軍は真栄里南方1kmの伊敷付近に進出して来た。17日夕、真栄里南東73高地洞窟において歩兵第22連隊本部が爆雷攻撃を受け、連隊長吉田大佐以下全滅したとの悲報が軍司令部に届き、軍司令部は悲痛な気持ちとなった。

   この後、歩兵第32連隊は地下壕に籠もりながらも戦闘を継続し、8月29日に米軍の降伏勧告を受け入れ武装解除に応じた。

             

 第5海兵連隊第2大隊はまだ日本軍の手にある国吉高地を含む700mに対して攻撃を開始した。0800、第2大隊E中隊は峰に沿って東へ、G中隊は敵の反対斜面に対して攻撃前進した。 E中隊の前進掩護のためにロケットによる弾幕射撃が0820に開始され、1030までに装甲ドーザーが稜線の南側での戦闘に戦車を投入するために右翼方面で新たな道路を掘削した。 これはG中隊の攻撃に突進力を与える結果となったが、反対に激しい敵の射撃下に戦車を使用して負傷者を後送するという手段を奪う結果となった。 
 最初から全前線で戦闘は激しかったが1130にE中隊が全線にわたり左翼から激しい機関銃射撃を受け攻撃が停止した。 以降、E中隊は稜線上の前進は不可能となり、北斜面に沿ってゆっくりと移動するしかなかった。 午後、歩戦チームが稜線の北の谷を越えて戦闘発揮位置に至る経路を確保した。これによりF中隊が日没直前の1745にE中隊の後方に占位することができた。1800にF中隊は稜線に沿って東に攻撃を開始し、これによって夜までに第2大隊は担当区域約1100mのうち残すところ350mまでを確保した。
      
 
 第7海兵連隊第3大隊は夜のうちに第1大隊と交代しており、0730第22海兵連隊と連携して真栄里東側高地攻撃を開始しした。 第3大隊はK中隊を先頭とし、I中隊とL中隊がこれに続く縦隊で攻撃を開始し、I中隊は第22海兵連隊と接触を図りつつ、L中隊はK中隊の左に位置して混迷する第5海兵連隊との間隙をこれ以上拡げないように努めた。 敵の激しい砲火が始まる前に小波蔵〜真壁を見下ろす高地から1350m前進したが、第5海兵連隊第2大隊が前進することが出来なかったため、第7海兵連隊第3大隊は夜間の防御に備え左翼を後方へ下げた。
 
 
 第22海兵連隊は、0300に前進を開始した。 さしたる損害もなく夜明けには第1大隊(右)と第3大隊(左)が真栄里高地の北斜面に達した。 

 第22海兵連隊第3大隊は国吉の南側で敵の頑強な抵抗により一時攻撃前進を停止した。 掃討後、L中隊に対しそのまま国吉に位置してK中隊を援護するように命じた。
 20分間にわたる迫撃砲による弾幕射撃の後、1130にK中隊が攻撃を再興した。 昼までに中隊は真栄里集落北側の丘を占領、L中隊がただちにK中隊の増援に駆けつけて掃討し、最終目標に対しての攻撃を準備した。15分間の攻撃準備射撃の後、第22海兵連隊第3大隊は戦車の支援を受け1415に攻撃を開始。I中隊は真栄里集落東端を通過してK中隊の左側を攻撃前進した。I中隊は1620に集落東の高地たどり着き、左で第7海兵連隊第3大隊と連携した。
 I 中隊の右では真栄里高地の南斜面でK中隊と連携をとり、L中隊はK中隊と第22海兵連隊第1大隊との間隙を埋めていた。 第22連隊第2大隊E中隊(第3大隊に配属)は、四周に対する夜間警戒のため第7海兵連隊第3大隊と第22海兵連隊第1大隊と連携をとった。

  第22海兵連隊第1大隊は終日の激しい戦闘の後真栄里高地を占領した。 しかし反対斜面は敵の激しい砲火により何ともできなかった。A中隊(右)とB中隊は攻撃当初から敵の正確な射撃を受け、大隊長も負傷した。A 中隊の右のC中隊は深い洞窟やうまく偽装された横穴から激しい射撃を受けた。 A中隊とC中隊は前進できなかったが、左のB中隊の1個小隊が第22海兵連隊第3大隊の地域の高地に進撃した。中隊の残りの兵力で危ない足場をつくり縦射可能な高地上の稜線を占領した。 1700ついに真栄里の軍事的稜線を確保した。 日本陸軍の精神も、兵の士気もとたんに崩れ始めたのである。
     




【歩兵第32連隊第2大隊の行動について】
 6月19日、国吉台東側高地の第2大隊は、甚大な損害を受け、重機関銃を全て失い、軽機関銃・擲弾筒も弾薬を撃ち尽くした。 大隊長金沢少佐はこれ以上陣地の保持困難と判断し、19日夜 「生存者大隊長以下26名、只今全員斬込を決行せんとす、沖縄上陸以来全戦闘にわたる御教導支援を深謝す、貴連隊の健闘を祈る」 と訣別電報を連隊長に打電し無線機を破壊、敵陣に斬込全員戦死した。 連隊は斬込を中止させる命令を急派したが、既に出撃した後であった。

【歩兵第32連隊第3大隊の行動について】
 作戦主任高島大尉手記には、6月18日に第3大隊本部が攻撃を受け全滅の恐れがあるため、連隊長が第3大隊本部に撤退命令を出したとあ
  るが、実はこれは事実ではない。 撤退命令を第3大隊本部に伝えたとされる斎藤中尉の証言がこれを裏付ける。 

1 「歩兵第32連隊本部斎藤中二郎中尉と第3大隊配属の連隊通信無線手佐藤三夫上等兵からの伝聞」 による
 (1) 第3大隊の第一線諸隊には国吉台地からの撤退命令は出されていない。撤退もしていない。
 (2) 第3大隊本部は国吉台地にはあらず、歩兵第32連隊本部と同じ中核台にあった。 これは米軍の攻撃により第3大隊長が負傷したため、
     安全な壕を捜したところ、本部作戦主任高島大尉の計らいで現在の「白梅之塔」の北斜面の壕に移った。 第3大隊長はこの壕で戦死した。
2  「○○氏からの伝聞」
 (1) 第3大隊本部の中核台(連隊本部北側白梅の塔」付近への撤退を知った連隊長は 「何故第3大隊は本部だけが撤退してきたのか」 と叱
      責した。
  (2) 第3大隊本部は連隊壕には入れず、高島大尉が手配して白梅之塔付近の壕に入った。
  (3) 第3大隊長の戦死日は6月19日である 

  



実際に戦闘に参加した将兵は、「国吉台」と呼ぶが、公刊戦史である「沖縄方面陸軍作戦」で「国吉台地」と称していることから、当HPも公刊戦史に従った。







歩兵第32連隊は、6月2日2300に収容陣地である津嘉山から撤退し、国吉台地に到着したのは6月4日朝であった。















歩兵第32連隊第3大隊(満尾大隊)が配置に着いた真栄里北側高地は、沖縄戦開戦前から第3大隊自らが構築守備した陣地であった。自分たちの陣地を最期の地にするという気概は並々ならぬものがあったようである。


第1大隊は、この72名で正面幅約800mの国吉台地陣地を守備することになった。












防御する日本軍側に完全に利のある地形であるが、この2本の接近経路を制する火力はすでほとんど失っており、さらに第2線、第3線という防御線を構成する人員もなかった。














今は住宅が建ち並び、当時の道路の全容を見ることは出来ない。 米軍は煙幕下にこの道路上を戦車に突進させ、迎え撃つ日本軍は煙幕を張られても弾が撃てるように、事前に機関銃の射撃方向を固定して射撃した。 おそらく日米両軍が組織的に戦闘を行った沖縄戦最後の場所である。










野戦病院の要員を第2大隊に編入とあるが、実際は第1大隊に編入されている。 また歩兵第22連隊第3大隊は予備隊として連隊本部(中核台)付近に配置された。


大城森は首里から撤退してくる部隊の多くが立ち寄り休息をとる場所でもあった。 5月27日には島田沖縄知事も南部転進の際に立ち寄っている。





照屋北側高地の第3中隊は、その編成装備からおそらく1〜2日程度の交戦しか想定されていなかったはずである。













昼過ぎから1447にかけてのこの偵察行動を、当時日本軍側は本格的な米軍の攻撃開始と受け取っている。

沖縄第32軍司令部はこの降伏勧告を受け取ったが、一切検討されることはなく、軍使の派遣も行われなかった。























工兵第24連隊は与座岳を中心として防御を行った歩兵第89連隊の配属であった。大里集落南側に布陣する工兵第24連隊によて69高地へ進出しようとした第1海兵連隊は常に左から妨害射撃を受けた。 69高地奪取後もこの影響で国吉台地に向かって南進することが出来なかった。  











69高地の第1海兵連隊第2大隊は、東側隣接部隊の与座岳攻略が終了するまで約3日間その場に留まった。(東側の海兵部隊が再度攻撃前進を開始するのは6月14日である)



C中隊・F中隊が取り残されたと記述されているが、日本軍にとっては洞窟の上に米軍が取り付いたと解していた。 歩兵第32連隊第1大隊長手記でも、この米軍(C中隊)と手榴弾戦に陥ったことが記述されている。





糸満〜国吉道には日本軍独立速射砲1門(歩兵第32連隊配属)と師団砲兵1門が指向され、さらに歩兵第32連隊第1大隊・第3大隊の機関銃・擲弾・小銃が重点的に配備されていた。 それゆえ、米軍は戦車を使用しての補給・増援しか行えなかった。



























歩兵第32連隊第3大隊は、自分たちの死に場所と決めていた陣地を明け渡すこととなった。 第3大隊はこれに関して最後まで連隊本部に命令の撤回を求めている。















実はかなりの数の戦車は、日本軍が米軍から奪った爆薬を地雷にして夜のうちに戦車の接近経路上に埋めたもので撃破されている。
 1門の速射砲と1門の野砲で21両の戦車は撃破できるものではない。































この米軍の空中補給品が日本軍側にも落下し、これまで口にしたことがなかった超贅沢な食事が出来たそうだ。 米軍もこの空中補給での食糧調達が唯一の手段だったため、両軍で補給品の争奪戦となっている。















歩兵第32連隊第1大隊長手記にも、「大隊は左側背から米軍の攻撃を受けた」とある。 日米両軍とも一進一退の混戦状況となった。






糸満〜国吉道頂上部を戦車が越えてしまうと、あとは戦車の機動が容易ななだらかな地形となる。 歩兵第32連隊はこれを最も恐れたが、米軍はこの戦車部隊を引き上げ、第1海兵連隊支援に回したことで戦線がかろうじて維持されたのである。





第1海兵連隊は、与座岳方面の戦闘が一段落したことで、ようやく左からの日本軍射撃を受けることがなくなった。そのため6月14日から攻撃を開始することが出来た。



















歩兵第32連隊第1大隊長手記でも、6月15日から米軍が背後に迫り、部下中隊と連絡がとれなくなったとある。






歩兵第32連隊第2大隊については残された記録がなく、どのような戦闘であったのか全く不明であり、中隊の配置状況さえわからない。















糸満〜国吉道頂上部(道路の屈曲部)の右側に歩兵第32連隊第1大隊、左側に第3大隊(道路脇に第9中隊がいた)が守備していた。 

























記録にはないが、歩兵第32連隊第2大隊は、15日ではまだ米軍主力部隊の攻撃を受けておらず、ある程度組織だった戦闘が継続出来ていたようである。









歩兵第32連隊第1大隊長手記でも、6月16日は終日壕を攻撃され他部隊の状況は全く不明と記述されている。














それまで糸満〜国吉道頂上部からのみ米軍が侵入していたが、この日A中隊が国吉台地稜線に到達したことで、歩兵第32連隊第1大隊は完全に地下壕に封じ込められることとなった。




















真栄里への接近経路を頑強に防御してきた敵地上部隊とは 「歩兵第32連隊第3大隊」 のことであろう。 第3大隊は第9中隊を除き壊滅状態となっていた。


















写真のこの地域には、もはや戦闘力を保持した日本軍部隊はいなかった。 このため翌日、米軍は遥か遠方に見える真栄里東側高地まで一気に突進することになる。 この日で国吉台地における日本軍の組織的戦闘は終了したことになる。








歩兵第22連隊は5月に幸地地区の戦闘で大きな損害を生じており、真栄里北側高地では、すでに米軍に単独で対抗するだけの戦闘力はなかった。
 
 沖縄第32軍にとって、歩兵連隊長戦死の報は衝撃的なものであったはずである。 
  歩兵第22連隊本部のあった真栄里南東地区まで米軍は一気に突進し、これにより事実上島尻地区西側戦線は破綻したこととなった。



































K中隊の辿り着いた丘(真栄里東側高地)で、6月17日米第10軍司令官バックナー中将が戦死している。 最前線での敵情視察中の出来事であった。























国吉台地に残された歩兵第32連隊が米軍に投降して終戦となるのは、これから約2ヶ月後の8月29日であった。













高島大尉は後世に事実を伝えたくなかったのであろう。 しかしながら、第3大隊長を核心とした大隊本部要員の方々は、大隊長の容態を心配し、敢えて後方へさがったのだと思われる。 筆者としてはこの記述に非常に悩んだが、後世に事実を伝えることを選ばせていただいた。
 第3大隊将兵皆様のご冥福をお祈りする次第です。