最後の特別攻撃隊  【宇垣中将 中津留大尉】                  2013年作成

  第1章  第5航空艦隊 第701航空隊(彗星艦上爆撃機11機) 

最後の特別攻撃隊 

昭和20年8月15日、最後の特別攻撃隊は第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将が搭乗して大分海軍航空隊を離陸し沖縄方面へ飛行した。 離陸時間は日本政府がポツダム宣言受諾し、天皇陛下のいわゆる「玉音放送」が流された12時を過ぎた、まさに「戦後」の時間であった。
 終戦を知りながら将来ある若者22名(不時着等で5名生存、1名戦死)を率いて、沖縄方面に散華させた宇垣中将の行為は、戦後「私兵特攻」と評されて多くの非難を受けることとなった。

第5航空艦隊

 第5航空艦隊は、日本海軍が残存戦力を結集して昭和20年2月10日に鹿児島県鹿屋基地を司令部として編成された。 航空艦隊という名称を与えられながら、実質は「特攻作戦」を任務の主体とするもので、直後の沖縄戦においても多数の航空機と兵力を特攻作戦により消耗した。 この第5航空艦隊司令部が大分基地に移駐してきたのは昭和20年8月3日であった。

 
 第5航空艦隊の編成
  第203航空隊 (零式戦闘機6隊)
  第323航空隊 (紫電戦闘機6隊)
  第171航空隊 (彩雲偵察機3隊)
  第801航空隊 (一式陸攻2隊、二式飛行艇夜間偵察機2隊)
  第701航空隊 (彗星艦上爆撃機6隊)
  第762航空隊 (一式陸攻4隊、銀河陸爆4隊、陸軍重爆2隊)
  第901航空隊 (天山艦上攻撃機4隊)
  第721航空隊 (爆撃戦闘機6隊、一式陸攻機、桜花3隊)


第701航空隊(出撃した彗星艦上爆撃機11機の搭乗者)
 第701航空隊は鹿児島県国分基地に配置されていたが、その後鳥取県美保基地、昭和20年7月初旬に大分飛行場に到着している。

    指揮官 宇垣纏中将(55)
               操縦員                                  偵察員
   中津留達雄 大尉  (23)      遠藤秋章  飛曹長(22)
   伊東幸彦    中尉  (20)      大木正夫  上飛曹(21)
   山川代夫    上飛曹 (21)    北見武雄  中尉  (20)
   池田武徳   中尉  (22)     山田勇夫  上飛曹(20)
   渡辺操     上飛曹(22)     内海進    中尉  (21)
   後藤高男   上飛曹(24)     磯村堅    少尉  (22)
   松永茂男   二飛曹(20)     中島英雄  一飛曹(19)
   藤崎孝良   一飛曹(19)     吉田利    一飛曹(20)
   前田又男   一飛曹(20)     川野良介  中尉  (22)
   川野和一   一飛曹(20)     日高保    一飛曹(20)
   二村治和   一飛曹(20)     栗原浩一  二飛曹(18)
 

         
     









編成にあたり、熟練の搭乗員も保有機数も少ないことから、作戦の主体が特攻作戦であることは暗黙の了解であった。 それまで自発的意思に基づいて編成された形をとってきた特攻が、初めて「全員特攻」へと位置づけられた。

後に第3航空艦隊も指揮下に入り、更に練習航空隊を解隊して編成した第10航空艦隊も指揮下に入ることになった。








左記の名簿のうち3機が不時着している。3機の搭乗者は以下のとおり。

前田一飛曹、川野中尉
川野一飛曹、日高一飛曹
二村一飛曹、栗原二飛曹
このうち日高一飛曹は不時着時に死亡している。




 
 

第2章 大分海軍航空隊(離陸場所 大分基地飛行場)
 

1 大分海軍航空隊
 1937年(昭和12年)6月22日に東大分村で地鎮祭が行われ、1938年12月15日に大分海軍航空隊の開隊式が挙行された。 1939年には宇佐海軍航空隊も開隊し、両航空隊は大村・博多の海軍航空隊とともに第12連合航空隊として編成され、大分航空隊は艦攻・偵察を担当した。 1940年には練習航空隊に指定されて飛行学生・飛行練習生及び飛行科予備学生の実用機教程の訓練が行われた。
 1945年(昭和20年)3月18日以降は米軍の空爆を受け、飛行場としての機能は低下したため、飛行場周辺に数多くの掩体壕(航空機用)や司令部壕などが建設され、更に第十二海軍航空廠の疎開分散も開始された。 
 飛行場は終戦後には米軍に接収されたが、1956年5月に返還された。 1957年、第2種空港として滑走路長1080mで供用開始。 1971年10月に現大分空港が開設されたため廃止された。
 

大分県内には、大分航空基地の他に、宇佐航空基地、戸次航空基地(大分市)、中津航空基地、草地航空基地(豊後高田市)、臼杵航空基地が建設されている 
 
                    昭和23年(1948年)の大分海軍航空隊 大分基地飛行場周辺の航空写真

 
                       平成23年(2011年)の大分海軍航空隊 大分基地飛行場周辺の地図

    
                       @ 飛行場出入口                                          A 801空一式陸攻待機所
 宇垣中将もこの入口から飛行場に入った。地元花津留集落の住民はこの場所に集まり    大分空港行きの旧ホバークラフト発着所。周辺より若干高い丘であり、当時は一式陸     特攻機を見送った。 現在は住宅地となり、当時の面影はない。                    攻の掩体壕も存在した。 801空の隊員はこの場所で整列して玉音放送を聞いた。 



    
                    B 格納庫群を南から見る                                  C 大分海軍航空隊庁舎・兵舎の隊門を見る
  大分海軍航空隊格納庫群は道路左側にあり、道路の右が飛行場であった。 格納庫は   隊門は樹木の集まる大分市営陸上競技場入口にあった(青いフェンスの途切れる所)。
  米軍の空襲により破壊され、その後は航空機は飛行場周辺に分散して駐機した。      別府大分毎日マラソンでランナーが陸上競技場に入る場面があるが、その場所こそが
                                                          大分海軍航空隊隊門の位置であった。 右の建物は大分舞鶴高校である。



    
            D 大分海軍航空隊庁舎・兵舎と第十二空廠補給科                                E 第五航空艦隊司令部付近
 道路を挟み、左が大分海軍航空隊庁舎・兵舎(現在大分舞鶴高校)、右が第十二空廠    米軍の空襲を避けるため第五航空艦隊司令部は護国神社西部の小さな谷に壕を構え
 補給科となる。                                              た。写真の左側は新興住宅地の「ビオガーデン桜坂」であるが、司令部はこの宅地造成
                                                         の際に破壊された。
 


    
                        F 壕出入口                                          G 彗星を秘匿した下郡地区
 中央の崖に壕口が見られる。 第五航空艦隊司令部のあった谷には現在も多くの壕の入  米軍の空襲を避けるために、彗星を下郡地区に分散して秘匿壕に分散した。 高台の住
 口が見られる。 司令部以外にも、多くの操縦士・整備士がこの谷の壕で生活をしていた。  宅地が「ビオガーデン桜坂」となる。 



    
                 H 第十二海軍航空廠発動機工場跡                                 I 第十二海軍航空廠発動機工場防空壕
  第十二海軍航空廠発動機工場跡地は、現在住宅地や商業施設の建ち並ぶ町並へと    発動機工場跡地の背後にはすぐに急峻な山肌が迫るが、この場所に発動機工場の防
  変貌している。 この道路左側に発動機工場の大煙突が存在した。                  空壕が構築されたようだ。 中は非常に広く、生産性の維持を企図したものと思われる。





2  昭和20年8月15日 離陸までの時系列
    0400  宇垣長官、沖縄攻撃準備を作戦参謀に命じる
         参謀達が長官の翻意を迫るが受け入れず
      0900  中津留大尉出撃命令を受け、牧集落を出発
      1000  中津留大尉 大分海軍飛行場到着
                  済州島沖の敵機動部隊に対し1200攻撃開始命令。(後に解除)
      1200  昼食
          飛行場の西端で直立不動で整備兵が整列しているのが見える (玉音放送の時間)
      1200  沖縄に集結中の米艦隊に特攻攻撃命令
                   500kg爆弾を800kg爆弾へ換装、燃料半量抜き取り
   1600  中津留大尉以下22名が二列横隊で指揮所前に整列
        宇垣長官、第五航空艦隊司令部食堂で別盃。
   1610  宇垣長官  司令部出発
    1615  宇垣長官  指揮所前到着
        宇垣長官訓示
   1630  搭乗機へ向かう
       1700   宇垣長官機(一番機)離陸
       1730   第三小隊二番機離陸(数機がまだ離陸していない)
       1924   宇垣長官機訣別電
       2025   宇垣長官機突入電

          
 写真左 : 最後の訓示を終えて幕僚達と別れの挨拶を交わす宇垣中将。 左手に山本五十六元帥より贈られた短刀を持っている
 写真右 : 中将の階級章を外す宇垣中将。 最後の訓示の写真では中将の階級章があること、ネガの順序から挨拶後に外されたものと思われる

 





済州島沖の敵機動部隊は真実であるのか否か。 一部には玉音放送を聞かせないために、敢えて攻撃開始命令を発して他の部隊等の動向から隔離したのではという説もある。










宇垣中将は階級章を司令部壕食堂で外したとされるが、実際は写真にもあるとおり、出発直前に飛行場で外している。 
 
3  最後の訓示場所の考察
   注意して頂きたいのは、「私兵特攻」著者 松下竜一氏らによって概ねの位置は既に特定されているということである。 ここでは、細部の検証を行って最後の訓示場所を明確に
   することを主眼とした。
 


    


      @ 第十二海軍航空廠発動機工場の煙突の位置を明確にした
      A 萩原天満宮の森と煙突の重なる位置を明確にした
      B 萩原天満宮の森のどの部分に煙突が重なるかを検証し、この2点を直線で結んだ上で更に延伸した
      C 延伸した直線が裏川左岸にかかる場所が概ね「最後の訓示」場所である
      D この「最後の訓示」場所の精度を高めるために、当時も今も位置の変わらない日豊本線 「牧駅」 への磁方位を計測。磁方位は172度であった
      E 「最後の訓示」場所を現在の地図に当てはめ、更に 「牧駅」 へ直線を引いたところ磁方位172度であった。 したがって上記交点が 「最後の訓示」場所である


4 現在の「最後の訓示」場所
  上記の検証の結果得られた情報で、同じ撮影ポイントから撮影した (当時の撮影場所が高所からのため、若干アングルが異なる)

    
 @ 「最後の訓示場所」の考察で導き出した交点(撮影位置)のGPS座標把握し、同じ位置に立った
  A 撮影位置から第十二海軍航空廠発動機工場の煙突への磁方位を計測し、その方向(写真中央より若干右)が同じ位置になるように撮影した
    現在の写真では、高圧線鉄塔の下にある2本の木のうち、左側の木の延長線上に第十二海軍廠発動機工場の煙突があることになる


5 「最後の訓示」 場所 もうひとつの昭和史
  1964年2月27日、大分空港 (現在の空港ではなく、この「大分基地飛行場」がそのまま使用されていた) において、鹿児島空港発の富士航空902便が着陸に失敗、乗員5名
 乗客35名のうち客室乗務員2名と乗客18名の合計20名が焼死した。 原因は着陸直後の制動機能不良と言われているが、最終的には人的要因か機材的要 因かの断定は出来
 なかった。 現在、事故現場には慰霊碑が建設されている。 奇しくも、この場所では「最後の訓示」が行われて23名が飛び立ち、、その19年後には航空事故で20名の命が失わ
 れたのである。



  写真左  :  滑走路を逸脱、堤防を越えて河原に突っ込んだ富士航空902便。 滑走路は現在の裏川が北西へ流れる左岸 (現在は運動公園等) にあった。
   写真中  :  河原で炎上する機首部分。 
           背景を見ると裏川は戦時の川幅を保ち、対岸に萩原天満宮の森、その左側の小さな森が確認できる。 「最後の訓示場所」 の背景と概ね一致する。
   写真右  :  現在の現場。 植木の向こう側に慰霊碑が見える。 この慰霊碑のある部分までが堤防上であった。 したがって機首部分があるのは現在は川の中である。
          これは1961年及び1971年の航空写真でも確認できている。

 
 現在の慰霊碑付近が「最後の訓示」の写真中、宇垣中将背後の土手にあたる。 この付近で隊員達は遠く801空隊員達が整列 (おそらく玉音放送を聞いている) しているのを眺め
 ながら、土手の上に散らばって赤飯の缶詰とパイ缶を食べている。 これが最後の食事となった。




 
第3章 沖縄県伊平屋島(中津留機・後藤機突入場所)


1 最後の突入 沖縄県伊平屋島
     大分から出撃した11機のうち3機は途中不時着し、沖縄方面に飛行したのは8機と推測される。 このうち、3名の遺体が確認された1機が中
 津留機とされ、もう1機は遺品から後藤機とされる。 収容所にいた住民の証言からも突入音は2回であったことから、2機が伊平屋島に突入し
 たことは概ね正確であると言える。 また米軍の記録には、同時刻に東シナ海を飛行する日本軍機と思われる航空機が記録されているが、いず
 れも大分を離陸した8機を特定できるものはなく、伊平屋島突入の2機以外は海上に散華したものと思われる。

2 中津留機(宇垣中将同乗)に関する記録
 (1) 日本側の記録
  ア 飯井少尉証言 (島近傍に不時着した海軍パイロットで住民に紛れていた)
     潮の引いた珊瑚礁にバラバラになった尾翼を見た。尾翼には七○一の数字が見えた。 2〜3人の米兵が飛行服を着て靴もつけたパイロ
    ットを引きずっていた。砂浜に3人の搭乗員の遺体があり、その足首にロープをかけ、無造作に引きずり始めた。
   イ  地元住民の方の証言 (筆者聞き取り)
     引きずられてゆく遺体を見たが、私が見たのは2名であった。 米軍は遺体を前泊の墓地に埋葬したが、戦後数名の者が来島し、遺体を島
   外へ搬送したと聞いている。
 (2) 米軍側の記録
    コックピットが燃えずに残っていた。 シートは二つあり、前のシートにはパイロットがベルトをしたまま、逆さになって死んでいた。 後方のシー
   トからは二人のパイロットの死体が風防を突き抜けて折り重なるように下に落ちていた。 そのうちの一人は前方のシートのパイロットと同じ
   服装をしていたが、一人はダークグリーンのボタンのついた違う服を着ていた。 三人の遺体は手が付けられない状態なので、兵隊が足に
   ロープをつけてジープで引いていきました。 また傍らに血だらけの小刀が落ちていた。

3 後藤機に関する記録
 (1) 日本側の記録
   地面に大きな穴が開いていた。 機体はバラバラになっており、穴の周りには血のついた肉片が散乱していた。 穴から15mほど離れた場所
  にエンジンが転がっていた。
 (2) 米軍側の記録
   海軍機関士が、突入した飛行機の現場に行ってみると、あたり一帯に飛行機の残骸や遺体の一部が確認できた。 その中から、胴体だけに
  なった遺体が身につけていたライフジャケットの「後藤上飛曹」「攻一○三」と書かれた部分を切り取って持ち帰っている。  
 


米軍側の証言では、上空に4〜5機を確認し、2機が島に突入、他は撃墜され海上に墜落したというものがある。



中津留機に関しては、松下竜一氏 「私兵特攻」 (新潮社)に詳しい記述がある。










後藤機に関しては、吉田紗知氏
「8月15日の特攻隊員」(新潮社)に詳しい調査・記録がある。
 




 
4 突入に関する私感・・・・・突入機は敢えて米軍を避けたのか
  突入した2機は、戦争が終結したことを知り、終戦直後に攻撃したことで非難を受けることを避けるため、敢えて米軍艦船やキャンプ地をを避
  けて突入したとされる。  城山三郎氏の「指揮官達の特攻」で、この説が信じられるようになってきたが、果たしてそれは真実なのだろうか。 

 @ 突入時の暗さ
    1945年8月15日の日没(那覇市)は19時06分、月出は12時5分で月没は23時33分、月令は7.1であった。 天候は日本側に記録が
   なく米軍側の記述から、夕方の「空が明るかった」 という記述から概ね晴れ(視程障害なし)だと思われる。 筆者の経験から、日没後20分
   までは通常の飛行は可能であるが、それ以降は周囲の明かりや飛行計器を頼りに飛行することになる。 ゆえに、突入時刻である20時過
   ぎは日没から1時間が過ぎており、例え地上に明かりがあろうとも全般的には暗夜  (月例7.1の明るさは攻撃には効果的ではないが、
   海上と島の識別は可能である) であると考えるべきである。 精密な突入は困難である。
  
 A 終戦を知っていたのか
    宇垣中将は間違いなく終戦を知っていた。 出撃した22名も整備兵からの話で何人かは終戦を知っていたようだ。 中津留大尉は機内で宇
  垣中将から終戦を告げられた可能性はある。 しかしながら、他の10機に果たして目標を外す理由としての明確な終戦に関する情報を伝えら
  れたであろうか。 飛行中は無線の使用は禁じられ(突入信号のみ発信)、実際に僚機相互の意思疎通には通信版(ボード)に文字を書いて
  使用している。 これらから考えても、沖縄に達した各機が終戦を知っていたとは思われず、終戦を理由として目標を外すことは考えにくい。

 B 中津留機の突入地点
    この場所には米軍船舶が停泊中であった。 証言でも船側をすり抜けて突入したとされ、船舶から至近距離での突入であった。 なお、海上
  一帯には大型艦や中型艦はなく、物資輸送の小型艦が大半であり、しかも突入前から船舶は逐次灯りを消したようだ。


 結論
  中津留機・後藤機は暗黒の海上で灯りを確認した。 上空で旋回し(米軍証言では4機が旋回)、中都留機から突入を開始したと思われる。
 目標は海上の米艦艇や米軍施設。 だが艦の規模は上空からは確認できない。 米艦艇は突入を警戒し灯火を消灯し始める。 消灯に伴って
 目標とするものが少なくなるが、もはや最高速に近く目標の変更は出来ない。 結果、艦艇をかすめて海上(地上近く)に突入となる。
  夜間に至近距離に目標を外すというのは非常に困難だ。 戦後処理を考えて、必ず目標を外すつもりならば、私ならば確実に人や艦艇、
 施設のない場所を選択する。
 
私は、2機とも目標を設定し、その目標に向かって突入したと考える。 それが飛行機乗りの本望である。

 筆者は当HPにおいて私見を述べることは控えて来た。 しかしながら、中津留機他が敢えて目標を外したという説にはどうしても同意することができない。
 そもそも、このような説を唱える人に実際の飛行技術面から考察に至ったものがない。 中津留大尉は教官を経験しているとはいえ、総飛行時間もベテランというにはほど遠いであろう。 まして僚
機の操縦士は、現在で言えば新人の操縦士が操縦課程修了にも至っていない総飛行時間である。 夜間突入という精密な技量が必要とされる飛行術に、敢えて目標の至近距離に突入点を選択するというのは、彼らの飛行時間から考えても非常に困難な行動である。