宮城・仲西の戦闘(海兵隊の西部戦線加入)                                          2014年作成
宮城・仲西の戦闘(海兵隊の西部戦線加入)

     
※ 「宮城・仲西の戦闘」については、海兵隊の西部戦線加入に着目しているため、「安波茶の戦闘」も一部含めている。

1 戦闘までの概要 

  米軍は、沖縄本島上陸後、主として海兵隊に北部戦線を担任させていたが、4月16日に本部半島の八重岳を攻略、沖縄本島北部方面の作戦が概ね集結したことで、海兵隊の南部戦線投入時期を模索した。
  一方、4月19日に総攻撃を再開した陸軍は、西海岸から東海岸にわたる広い戦線を担当し、予備兵力の確保にも苦労したことから、米軍首脳は南部戦線に海兵隊を投入することで、陸軍各部隊の負担軽減を画策した。
 なお、海兵隊を西海岸に投入した理由としては、比較的戦力が温存されている海兵隊を首里攻略の主攻撃部隊として使用する意味合いと、海岸上陸能力を有する海兵隊を、日本軍の側背に投入する海上機動力として使用する意図があった。
 海兵隊は、当初第1海兵師団を陸軍第27師団と逐次交代させ、次いで第6海兵師団を投入した。 米軍上陸以降、予備兵力を持たずに疲弊する日本軍は、充実した装備と体力を持った新たな部隊の出現によって更なる苦境に立たされることになった。


2 部隊編成

 (1) 日本軍 
    独立歩兵第15大隊・21大隊・22大隊・23大隊は第62師団歩兵第64旅団の隷下部隊であり、各大隊の編成は同一である。
   ア  独立歩兵第15大隊
     大隊長 飯塚豊三郎少佐
      第1中隊長    江戸公平大尉 
       第2中隊長    伊藤貫一中尉
      第3中隊長    松島武夫中尉 (第5中隊を指揮、5月10日戦死)
      第4中隊長    松田實大尉   (5月1日戦死)
      第5中隊長    岸本孝中尉   (途中負傷のため第3中隊長が指揮)
      機関銃中隊長  水崎正之助中尉
      歩兵砲中隊長  須川隆一中尉 (4月21日戦死)
  
  イ 独立歩兵大隊の編成 (大隊人員1233名)
    大隊本部(人員57名)
    歩兵中隊(人員189名)  × 5個中隊 (1個中隊は3個小隊で構成される) : 中隊は軽機関銃9,重敵弾筒9を装備
    機関銃中隊(人員129名)× 1個中隊 (1個中隊は4個小隊で構成される) : 中隊は重機関銃8を装備
    歩兵砲中隊(人員102名)× 1個中隊 : 中隊は92式歩兵砲2門(大隊砲)、41式山砲2門(連隊砲)を装備    

 (2) アメリカ軍
   
第1海兵師団
    
第1海兵連隊
        第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊)
     第5海兵連隊
       第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊) 
    第7海兵連隊
       第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊)

  
3 宮城・仲西地区の状況
   宮城・仲西地区は、戦時中から大きく変貌を遂げた地区である。
  特に、農地は商業地・住宅地と変わり、軽便鉄道は廃止され、国道58号線も時代と共に取付位置が変化している。 日米両軍陣地の位置や攻撃  方向は、現在の地図からは判別しにくいため、この地区では当時の地形を知ることが非常に重要である。

  
              平成22年の2万5千分の1地勢図に、当時の集落・国道58号線・軽便鉄道などを書き加えたもの

  
                  昭和23年(1948年)に米軍が作成した4800分の1地図 (川に着色している)
       @ ルート1号線(現国道58号線)は、戦後直後に米軍によって取付が変えられて、現在の58号線に近いものとなっている
       A 小湾・仲西集落は、米軍によって接収されており、現在の牧港補給地区(キャンプキンザー)が形成されつつある。
       B 宮城集落の南側には、いくつもの丘が散在し、それぞれを日本軍が防御陣地として活用していた。






4月30日
西海岸道方面においては、宮城以西の南飛行場南端付近に米軍が進出してきたが撃退した。

   
 
4月30日、第1海兵師団と第1戦車大隊が南進を開始、1000には第27師団の前線へ到着した。 。最右翼の第1海兵師団第1連隊第1大隊
B中隊(C中隊1個小隊配属)が陸軍第27師団第165連隊第1大隊の展開する南飛行場(仲西から小湾郊外)で交代。 第1海兵大隊の残余の
部隊は小湾北側の低地で予備として待機して、終日陣地補修を実施した。
 第1海兵連隊第3大隊は第1大隊の左側に進出。 激しい日本軍の抵抗を受けていた第165連隊第2大隊と交代。 第165連隊第2大隊は宮城
の日本軍に手を焼いていたが、第3海兵大隊K中隊・L中隊が宮城集落の掃討を行い、第165連隊第2大隊の前方へ進出した。 当初散発的だっ
た日本軍の砲迫射撃も、1715からは宮城奪還のための逆襲に伴って集中射撃の様相を呈し、L中隊は身動きできない状況に陥った。 1830に
は何とか宮城から後退し、夜間は集落の北側で防御した。予備隊であったI中隊はL中隊の左側に進出し第106連隊と連携を保った。

  




5月1日
 
 
安波茶、澤岻北側、内間、仲西の地区は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けた。我が部隊は勇戦の末、現陣地を保持して米軍の突破を阻止し
た。宮城部落はほとんど破壊され米軍に占領された。 西海岸道方面の防備は独立歩兵第15大隊を基幹とする僅少兵力であった。軍はこの方面
強化のため、29日知念地区にあった独立第2大隊を第62師団に配属し天久地区に配備させた。

  
 
5月1日午後、第27師団の担任地区のうち、第105連隊の場所には第5海兵連隊第2大隊が進出してきた。 第5海兵連隊第3大隊は1400に
戦線の中央部に位置する第106連隊と交代し、1700までには全戦線での交代が完了した。
 5月1日には第1海兵連隊第1大隊には攻撃命令は下されなかった。 しかしながら、大隊の今後の進出経路上全面に横たわるL字型の深い谷の
偵察を行った。 A中隊の偵察隊が進出経路偵察のため西側の海岸線付近から進撃したが、反対側の斜面から攻撃を受けて撤退した。
 第1戦車大隊は、第1海兵連隊第3大隊の宮城奪回のための支援を行った。宮城の民家を徹底的に破壊し、L中隊の偵察隊が抵抗を受けること
なく集落を通過して前方へ進出した。1315にはL中隊集落の左側を、K中隊が右側を確保した。 だが日本軍の抵抗は執拗だった。1530には
L中隊から、30〜40名の負傷者を煙弾と迫撃砲弾支援下に後退させたいとの要請があった。 そして1900までには4月30日の戦線にまで後退
した。
  




5月2日
 西方地区においては、2日0900頃から全線に渡って米軍の攻撃が開始された。各部隊は善戦して米軍を撃退したが、宮城南側高地はついに占領された。 
   
 この日、安波茶地区の第5海兵連隊第2大隊・第3大隊の攻撃が失敗したため、第1海兵連隊第3大隊の左翼も活発な攻撃が困難であった。
 しかしながら、第1海兵連隊第3大隊右翼のK中隊が、1630から10分間の攻撃準備射撃の後、宮城南方約300m付近にある連続した高地まで進出、 続いてL中隊も宮城集落の南端部分まで進出した。 夜になって日本軍の迫撃砲や擲弾筒射撃が集中し始めたため、2000に第1海兵連隊第3大隊本部から 「その場に掩体を構築し日本軍の逆襲に備えよ」 との命令が下達された。 その夜K中隊は日本軍と白兵戦に陥りながらも日本軍の高地の奪還戦に勝利したが、沖縄における最も過酷な夜となった。 
 第1海兵連隊第1大隊は、2日は厳しい戦闘となった。 
 大隊長はC中隊に対し、仲西集落を通過した後に渓谷を渡って宮城方面へ進出せよと命じた。 C中隊は0920から仲西を攻撃、1000には渓谷へ進出する準備を整え、続いて渓谷を下り始めた。 ところがそれと同時に、前方の突出部から側射を受けた。 一瞬にして部隊は前方部隊と後方部隊に分断され全く身動きが出来なくなった。
 大隊長はB中隊に対し、河口付近に向かって攻撃し、渓谷の南側高地を確保せよと命じた。  B中隊は河口側へ進出した際に若干の損害を受け、さらに渓谷の底部に浸入した瞬間に、渓谷の北斜面から一斉に攻撃を受けて身動きが取れなくなった。 1300にはB中隊・C中隊に対し、撤退命令が下された。  第1海兵連隊は第2大隊に支援を命じ、F中隊がそのための行動を開始した。1630、A中隊がB中隊の線に進出するため河口に向かってまっすぐ攻撃前進を開始し、そのまま一気に渓谷を渡り理勢客に進出して陣地を構築した。 F中隊はA中隊の支援を命じられたが夕闇が迫っても渓谷を超えることが出来なかった。 だが幸運にも、この夜の日本軍の攻撃は微弱であった。 そのために攻撃部隊は朝までに確固とした戦線を確立することが出来た。
 この日、残りの第7海兵連隊が逐次内泊付近に集結を完了した。そして3日には城間の北約200m付近に指揮所を設営した。そして第1大隊と第2大隊が南飛行場北西部の海岸線に配置された。
   
 対岸の日本軍陣地は浦添市仲西2丁目4 (沖縄製線という会社があった場所の北側) 付近にあって、現在でも周囲に比較してやや標高が高い

  
           第1海兵連隊第1大隊A中隊が小湾川河口を渡河する状況の写真 (写真説明に「第1海兵連隊5月2日」とある)
   この地形は現在も残されているが、耕作放棄されて密林となっているために、全く近寄ることが出来ず、したがって撮影も不可能であった。

  


5月3日
 安波茶付近においては0800頃から戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、激戦ののち米軍を撃退して陣地を保持した。西方においては整理客〜安波茶を連ねる線付近で激戦が展開され、一部米軍の進出を見たが陣地の大部は保持した。
  

 この日の攻撃は、第1海兵連隊地区は限定的な進撃にとどまった。 第1海兵連隊第1大隊配属のF中隊は理勢客で防戦に徹し、A中隊は2日にC中隊が確認した小湾川の屈曲部を攻撃したがかなり手こずった。 両中隊とも朝から攻撃を受け、これ以上は戦車の支援なしに進むのは困難に思われた。第1海兵連隊第1大隊は闇に乗じて撤退した。
 第1海兵連隊第3大隊の左翼であるL中隊は第5海兵連隊第3大隊が中隊の左正面にある高地を奪取(Sugar loaf ridge)するまで動くつもりはなかった。1555、第5海兵連隊第3大隊がこの目標を確保したので、L中隊も攻撃を開始し、迫撃砲の支援下に約30分で前方の小さな丘を占領した。 しかしながら、それ以上前進することは不可能であった。日本軍は正面からも側方からも確実に攻撃小隊を釘付けにした。 K中隊はL中隊の右側に進出しようとしたが、その位置を確保することは困難で撤退を余儀なくされた。 I中隊はK中隊の右で大隊の境界地区の間隙を埋めるように指示された。
 第5海兵連隊第3大隊K中隊は午後に第1海兵連隊第3海兵大隊の左にある高地に到達したが、激しい日本軍の抵抗により約100m後退した。この日大隊の進出は200〜300mにとどまった。
  


5月4日
 西方左翼方面においては、安波茶〜澤岻北方〜安謝の全正面は強力な米軍の攻撃を受けた。多大の死傷を生じたが敢闘しておおむね陣地を保持した。
(独歩21大隊残存者が澤岻に到着して陣地配備を完了)

  
【日本軍の攻勢移転の一作戦であった、「左逆上陸部隊」への対応】
 0100過ぎLVTのクルーが牧港飛行場付近の海岸で不審な人物を確認した。直ちに掃海艇が射撃を行った。この時刻から30分もしないうちに第1海兵連隊第1大隊は敵の舟艇が小湾地区に向かっていることを報告してきた。
 兵士を満載した日本軍の上陸用舟艇が、目標の大山地区に進出する前に沖合のリーフで立ち往生し、仕方なく第1大隊B中隊の夜間配備された地区に上陸してきた。 ただちに迫撃砲と機関銃を舟艇が蝟集している場所に指向された。 第1大隊担任地区の最右翼にいたC中隊1個小隊(B中隊配属)も目標を確認した。 全火力を集中し、小銃手や機関銃種は波間に浮き沈みする日本兵に対して射撃を加え、この決死隊をリーフで阻止した。
 日本軍の攻撃の情報を聞き、第1海兵連隊は予備であった第2大隊E中隊を最右翼のC中隊の1個小隊方向へ投入した。 0245には第3水陸両用戦車大隊が小湾地区で敵の上陸を阻止する態勢を固め、日本軍は徹底的に叩かれた。
 それでも上陸を果たした日本兵は第1海兵大隊の後方地区へ浸入した。 B中隊の右前方に進出したF中隊が日本軍と激しく交戦し、その後陣地付近に倒れている75の日本兵の遺体を確認した。
 E中隊を小湾地区へ派遣した後、第1海兵連隊長は予備隊のG中隊とともに前線へ進出した。 状況不明の中、連隊長は第7海兵連隊の1個大隊を自分の連隊への配属を要請した。 この要請を師団はすぐに受け入れ、0300に第7海兵連隊第2大隊が南下した。 0645には第2大隊に対し敵の上陸地域の掃討命令が下され、第1大隊右翼地区に向かった。このため第1大隊の攻撃部隊は南への攻撃を続行することが可能となった。
 

この日第24軍団の中では第1海兵師団の攻撃が最も進展した。
 この日の攻撃開始時間は、未明の日本軍上陸後の戦線整理や弾薬の補給などにより、当初の0800から逐次延期されて1000となった。
第1海兵連隊は、攻撃開始直後から日本軍の激しい抵抗に遭遇した。 第1海兵連隊第1大隊の右翼にあったF中隊は、廃墟の理勢客で釘付けとなり、理勢客を避けて前進したA中隊も正面の稜線から激しい射撃を受けて停止した。 日本軍の重機関銃陣地が安謝川対岸の廃墟となった製糖工場付近にあるようで、河川付近の平坦部を火制していた。 だが、第1大隊長は、左翼つまり第3大隊が前進する方向の日本軍火力が比較的薄いことに気づき、この弱点を突こうと考えた。
 1600、C中隊次いでB中隊が第3大隊の右側の低地部に浸入し、そのまま眼前に川が見渡せる高地まで進出した。損害は軽微で、2個中隊はそのままその場所に陣地を構築、理勢客の東端で目標である安謝川北岸まで数百mのところまで近づいた。
 第1海兵連隊第3大隊にとって4日は決して楽な日ではなかったが、前線では戦線を維持出来た。右翼のI中隊は1000に攻撃を開始、300〜450m前方の稜線まで進出したが、ここで3方向からの日本軍の反撃を受けた。K中隊とC中隊がこの両翼に進出して防御戦闘を行い、L中隊は第5海兵連隊と連携を取ろうとしたが、第5海兵連隊とも右のK中隊やI中隊とも間隙が大きくなるばかりであった。午後遅く、第2大隊(F中隊欠)が屋富祖南側でこの間隙を閉塞し、併せて日本軍の逆襲を防ぐために進出した。

 第5海兵連隊地区においては、第1大隊が400mほど前進した。 右翼の第3大隊は安波茶前面の渓谷にある日本軍陣地の壊滅を計画、左のL中隊を第1大隊の右翼部隊と連携をとらせるために前進させた。I中隊には大隊境界に沿って約250m前進させ、第1海兵連隊第3大隊と連携を取らせた。 午後の早い段階でL中隊とI中隊の間隙が広くなったため、第1海兵師団は第7海兵連隊第3大隊を第5海兵連隊に配属して対応した。
  




5月5日
 
安波茶南側、経塚北側、内間北側で終日激戦が続いたが、我が守備隊は善戦して陣地を保持した。
  

 第1海兵連隊は0800、第3大隊を超越した第2大隊が第1大隊とともに安謝川方向へ攻撃を開始した。1123までに5個中隊(ABCFI)が安謝川に沿った高地帯を確保した。両翼にあった日本軍陣地は午後のうちに破砕し、夕刻までには各大隊とも川を見渡す場所に掩体を掘った。第2大隊は正面や南西の安謝集落から激しい攻撃を受けたが、ゆっくりと前進した。1600には大隊長は第1大隊と第5海兵連隊第3大隊との間に敵の夜襲に備えた強固な陣地を構築することを命じた。第3大隊L中隊は戦線でのギャップを埋めるために第2大隊の後方の高地に位置し、1735にはF中隊が第1大隊への配属を解かれ第2大隊が展開する防御地域へ移動した。こうして第1大隊は日本軍の新たな反撃に対して万全の態勢をとったが、その夜は静かに過ぎた。

 第5海兵連隊は第1大隊を核心として左翼及び中央部で平均して約300m前進した。第1大隊は15両の戦車及び2両の火炎戦車の援護を受けて0730攻撃を開始、以前両翼から攻撃を受けた安波茶から西へ延びる高地帯の突出部を何とか攻略しようとした。 第3大隊はさして前進することは出来なかったが、複雑な日本軍陣地の掃討を終日行った。夕暮れ時には連隊は強固な戦線を形成した。

  



5月6日

 
安波茶付近においても激戦が展開し、同地付近の独立歩兵第23大隊を基幹とする部隊は連日の激戦の中にもよく奮闘して米軍の南進を阻止した。この日独立歩兵第21大隊長西林中佐が病気後送されたため、同大隊は独立歩兵第23大隊の指揮下に入った。
安波茶、澤岻方面の戦況を憂慮した軍は、第2歩兵隊第3大隊(尾崎大隊)を独立歩兵第15大隊に配属し、澤岻末吉大名地区に配備された。


 
当初第6海兵師団の前線への移動が計画されていたが、第1海兵師団が依然として安波茶及び澤岻で混戦状態であった。0730、第7海兵連隊第2大隊が海岸付近で第1海兵連隊第1大隊と交代した。0900には第2大隊の左翼部隊が砲兵及び艦砲射撃の支援下に安謝川の北岸を完全に掌握した。
 



                               

 







北部戦線で比較的容易に日本軍を攻略した海兵隊は、南下するに従ってすれ違う陸軍部隊の悲惨な状況を目にして、ようやく日本軍の手強さを実感することになった。











独立歩兵第15大隊は、4月19日に米軍が牧港を渡河して伊祖高地に進出してきた際に、その対処部隊として出撃しており、21日未明の夜間戦闘において大幅な戦力減となっている。
 例をとれば、第4中隊第1小隊は、21日未明の戦闘において、小隊48名中40名を失っている。














































































海岸部に展開していた陸軍第165連隊第1大隊・第2大隊が、第1海兵連隊第1大隊・第3大隊と交代している。

















この場所は日本軍南飛行場の南端部分であり、4月29日に独立歩兵第15大隊第4中隊第1小隊長の山本義中少尉以下が奮戦した場所でもある。
 山本少尉は片腕を切断されたが、後年にキャンプ内の慰霊碑除幕式において、「僕の片腕はこの付近に埋まっている」と語られた。














安波茶地区に展開していた、陸軍第105連隊・106連隊(それぞれ前線には1個大隊が展開していたものと考えられる)が第5海兵連隊第2大隊・第3大隊と交代している。















































西部海岸線地区への第1海兵師団の展開が完了した。
隷下の第1海兵連隊が海側、第5海兵連隊が山側、背後に予備として第7海兵連隊が控えた。
































第7海兵連隊が5月3日に南飛行場付近に進出して来たことが、4日未明の日本軍の攻勢移転、特に西海岸逆上陸失敗の大きな要因となった。






































































第5海兵連隊第3大隊K中隊の到達した高地を、「Sugar loaf ridge」(すり鉢山)と称した。









































日本軍左逆上陸部隊500名は、上陸地点を大山地区(小湾より北東へ約7km地点)へ向かったが、小湾沖で米軍に発見され、やむなく小湾に上陸したが、大半は上陸地点周辺で戦死している。

5月4日の天候は「晴れ」、月の出が0114の月齢21であったが、発見された0100頃はまだ暗夜であったと思われる。 夜間の戦闘では、背景(地形)に紛れる方が有利であり、海上の日本軍は背景に紛れることが出来ないために圧倒的に不利であった。 おそらく日本軍は米軍の射撃する銃火しか確認出来ず、ほとんど反撃することも出来なかったと考えられる。