首里西部戦線 (那覇地区の戦闘)                                                                            2012年作成
那覇地区の戦闘

1 戦闘までの概要 

 5月18日に那覇市北東部のシュガーローフを占領した米軍は、そのまま首里に向かって進撃を画策したが、シュガーローフの東側に位置するハーフムーンヒル(クレセントヒル)で強靱に抵抗する日本軍のために直接的な行動が出来ず、したがって那覇市を通過して首里の南側に回りこみ、日本軍主力部隊の包囲殲滅を試みることとなった。 
 そもそも那覇市には重要な港湾施設があるものの、それらはほとんど空襲で破壊しているため、那覇市自体にはすでに戦略的価値はなかったのである。日本軍としても那覇市は絶対に防御する対象ではなく、強力な歩兵部隊を配置する意図もなかったため、むしろ米軍の進攻を遅らせる「遅滞戦闘」に期待した。
 このような戦力差の大きい戦闘ではあったが、米軍にとっては沖縄戦の中で、ほぼ唯一の市街戦となり、これまでにない日本軍との戦闘となった。



2 部隊編成

(1)  特設第2旅団特設第6連隊
     隊長 平賀 又男中佐以下約1000名
     船舶輸送司令部
     海上輸送大隊
     滞留機帆船要員
   配 属
    独立歩兵第23大隊第5中隊(1個小隊欠)
    (5月6日に配属命令)

(2)  独立混成第15連隊第3大隊
   Halfmoon(真嘉比地区)で戦闘を行っていたが、
  5月20日から陣地の縮小及び変更により松川地
  区に逐次後退した。 27日には繁田川地区へ転
   進した。

(3) 独立第2大隊第2中隊
   27日に独立混成第15連隊第3大隊と交代して
  松川陣地に配置された。

 ※ 独立混成第15連隊第3大隊及び独立第2大隊
  第2中隊については隣接部隊であるが、主として
  首里の戦闘に関係が深いため、那覇地区の戦闘
  では記述していない。



3 那覇市の変遷
  
那覇市は十・十空襲(昭和19年10月10日)により市街地の大半が焼失し、戦後の道路整備や埋め立て等により大きく変化した。

  
  
              平成22年の那覇市                     昭和20年1月3日撮影 米軍による航空写真

(1) 中央を南北に流れる久茂地川(運河)は概ね当時のままである。
(2) 久茂地川周辺から那覇港一帯が白く見えるのは、十・十空襲により焼失した地域である。
(3) 国道58号線は戦時には造成されていない。 また国際通りは一部直線道路として確認できるが、現在のような市街地を貫く道路ではない。
(4) 沖縄県庁の位置は現在も当時の位置と変わらない。 県庁一帯は焼失を免れ、城岳付近までは米軍は本格的な市街戦に遭遇した。
(5) 泊地区(地図上部 安里川河口付近)は、埋め立てにより大きく様変わりしている。





那覇地区の戦闘 (米軍側の記述は全て「米海兵隊公刊戦史」による)


5月22日

 
5月22日第4海兵連隊は安里川渡河を計画した。第2大隊は左の第1海兵連隊との連携をとるために「ハーフムーン」に留まり、第1大隊と第3大隊が水かさの増している安里川北岸にゆっくりと集結を開始した。敵の反撃は散発的で各部隊は1230までに所定の位置に集結を完了した。偵察部隊が直ちに安里川を渡河、若干の抵抗を受けながらも那覇市郊外に約200mほど侵入を果たした。各部隊は翌23日の安里川渡河に備えて北岸に掩体を構築して夜間防御態勢を整えた。
 5月22日から23日未明にかけて第6海兵偵察中隊が安里川南岸を偵察、第22海兵連隊第1大隊地区に戻って次のように報告した。「偵察行動は順調に行われた。安里川は全般的浅い。渡河点には一部深瀬があるが歩兵の通過は可能である。日本軍が占領している拠点などはないが、途中2回ほど日本軍の偵察隊に遭遇し、日本兵から手榴弾攻撃を受けた。1名を射殺した」。
 この偵察結果は 「戦車の支援なして渡河は可能」 と報告された。 師団長は第4海兵連隊に対して23日早朝にもう一度偵察隊を南岸に出すように命令した。もし少しでも抵抗を受けるようであれば安里川渡河を延期するつもりであった。

  



5月23日
 那覇方面においては23日午後、有力な米軍が安里付近で安里川を渡河南進して来た。わが部隊(特設第6連隊基幹)は壺屋町付近を保持して阻止に努めた。


 
早朝に実施せよと師団から命じられた第4海兵連隊による偵察では、はるか彼方の牧志高地付近から射撃を受けたが渡河点周辺では反撃の兆候すらないという結果であった。
 1000,第6海兵師団は安里川渡河を決定、1030から第4海兵連隊第1大隊A中隊・B中隊、第3大隊I中隊・L中隊が渡河を開始した。1100までには南岸に確固たる橋頭堡が確立できた。この日の目標は安里川の南側約500mほどにある東西に延びる低い丘であったが、その丘に接近するにつれ敵の反撃も激しくなった。 丘の前面には沖縄独特の墓があり、それが要塞化されたうえに、反対斜面には迫撃砲陣地が構成されていた。 
速度の低下した進撃はやがて匍匐前進へと変わり、夜が近づいて各部隊はその場に掩体を掘ることになった。
 攻撃部隊が安里側を渡河する際には脚を濡らす程度の水流だったが、激しく降り続く雨によって今では胸までつかる深さにまで増水した。工兵隊は敵の激しい砲迫射撃下に渡河橋を構築ことが出来ず、物資弾薬の補給や負傷者の後送のために1時間交替で川の中につかり人づたいに手搬送を試みた。深夜には徒歩橋が2門完成したが、この日午後に予定したベイリー橋建設は建設資材運搬が敵の正確な砲撃によって妨害されて引き返してしまった。

     
1 安里川の川筋は現在とは異なっている。 マックスバリュ前が上記写真でもわかるように大きく蛇行していた。この蛇行より南側を渡河している
 2 マックスバリュ裏手 (右地図の薄緑着色部分) は現在も高台となっており、米軍は橋頭堡としてこの高台の一部占領を果たしている
 

   

   




5月24日
有力な米軍が那覇市内に侵入し、那覇市東側台地に陣地を占領する特設第6連隊と相対した。

 5月24日は天候が回復したために日本軍に対して激しい航空攻撃を加えた。さらに第6海兵師団は雨のために破壊された補給ルートを修復するために車両の通過が可能なベイリー橋の建設に重点を置いた。 どの部隊も弾薬・食糧の欠乏に怯えながら攻撃を続けている状況であった。 ベイリー橋は日本軍の激しい砲迫射撃下に工兵隊によって建設され、1430に完成した。 そして夕刻までには戦車1両づつではあるが渡河が可能となった。
 5月24日朝、第22海兵連隊第3大隊は第4海兵連隊第2大隊と交替を命じられ、「ハーフムーン」を含む左翼の防御を委ねられた。 この交替により第4海兵連隊第2大隊は安里川を渡り、損害の大きい第4海兵連隊の右翼にある第3大隊と交代することになった。また強力な予備部隊の必要性から第6海兵師団は第29海兵連隊第1大隊を師団予備とし、安里川南岸に位置するように命じた。

   



5月25日
西部の那覇方面においては、米軍は壺屋付近の我が陣地を攻撃してきたが、多大の損害を与えて撃退した。


 
5月25日は再び激しい雨となったが、第6海兵師団は順調に橋頭堡を拡張した。 当初の目標は牧志周辺の高地帯であった。 師団左翼の第4海兵連隊第1大隊の行動地域では、C中隊を先頭にB中隊がA中隊(第22海兵連隊第3大隊との連携をとるために残置)と連携をとりつつその左側を続行していた。 工兵部隊の架橋によって渡河してきた戦車部隊が頭越しの支援射撃を行ったが、川から第一線までは泥沼と化していたために綿密な調整を行うことができなかった。 牧志高地は反対斜面からの頑強な抵抗を受けつつも1030にはその稜線を確保、正面及び左翼から激しい射撃を加えつつゆっくりと前進を継続した。 1630、攻撃一時停止命令が出され、第4海兵連隊第1・第2大隊は強力な防御戦線を構成してその場に掩体を構築した。
 第4海兵連隊第2大隊のF中隊とG中隊は敵の激しい迫撃砲射撃や小火器射撃を受けつつも、この日だけで約400m前進した。 昼頃には戦線の拡張と第1大隊との間隙を埋めるために連隊左翼にE中隊の投入が必要となった。 戦車が泥で進撃できない中、歩兵部隊は塀で囲まれた家や墓に籠もった日本兵から攻撃を受け、その死傷者は増大するばかりであった。

 運河
(久茂地川)西岸の海兵隊地区は静かな夜を迎えたが、第4海兵連隊第1大隊と第2大隊E中隊に対しては激しい逆襲が加えられた。 軽便鉄道がA中隊の陣地から150mの大隊境界線のところを走っていた。 2000頃、夜の闇と煙幕下に中隊規模の日本軍逆襲部隊が第4海兵連隊第1大隊に対して攻撃を仕掛けてきた。 A中隊の歩哨が直ちにこれを発見して対応、2時間にわたって戦闘が続いた。 また将校1、兵40名にまで戦闘力が低下していたE中隊に対しても小規模の逆襲が行われた。 これには第29海兵連隊第1大隊の1個小隊が応援に駆けつけ、手榴弾攻撃によって撃退した。

           
  
日本軍の夜間逆襲を受けたE中隊の場所から後方の国際通りを見た当時の写真。 白丸は右の写真の撮影場所で、双方を見ている構図である

   



5月26日
 
那覇方面においては那覇市西方地区に米軍の侵入が見られたが戦線には特別の変化はなかった。



5月27日
 
那覇市方面に米軍の増加が見られたが活発な攻撃行動がなかった。独立混成第15連隊長は、那覇西側の松川付近の防衛に任じていた同連隊第3大隊を27日夜繁田川付近に後退させ、独立第2大隊第2中隊を松川地区に配備した。

 
5月27日、第6海兵師団は日本軍が那覇を放棄しているであろうという証拠を得た。 この日早朝第22海兵連隊第2大隊G中隊の偵察隊が運河西側を偵察した。 また第4海兵連隊第1大隊・第2大隊はほとんど敵の攻撃を受けなかった。 0950、第22海兵連隊第2大隊は残余の兵力すべてを渡河させるように命じられた。 また1115には国場川(漫湖)から約1kmの線まで出来るだけ早く中隊並列で攻撃せよとの命令も届いた。 同時に第4海兵連隊に対しても、那覇市東側においてもこの線まで進出せよとの師団命令が下された。 第4海兵連隊第3大隊は第1大隊の左側に進出、第22海兵連隊第3大隊と連携をとりつつ攻撃前進を開始した。
 昼頃には9個砲兵大隊による攻撃準備射撃が行われた。 1600までに目標は奪取され、部隊は瓦礫の中に掩体を構築した。 第4海兵連隊はこの10日間戦闘を行ってきたために休息と交替が必要とされた。 そのため翌28日0630をもって第29海兵連隊と交代することとなった。

      
      第22海兵連隊第2大隊G中隊の「沖縄地方裁判所」正門での攻撃を撮影したもの。 右は同じ撮影点から撮影したもの(2006年)

   
 
          * 独立歩兵第23大隊第5中隊の位置は「独立歩兵第23大隊史実資料」の配置図に示されたものを記入した



5月28日
 
28日は快晴であった。那覇方面においては、米軍の活動はやや活発となり、その一部が那覇南側の奥武山公園方面に進出してきたが撃退した。また、那覇東側の35高地(特設第6連隊本部所在)前方に有力な米軍が進出してきたが、健闘して陣地を確保した。

 5月28日、9日間の戦闘で1100名の死傷者を生じた第4海兵連隊は第29海兵連隊と交代することになった。第29海兵連隊第3大隊は連隊行動地帯の左翼にいた第4海兵連隊第1大隊と第3大隊の位置に進出し、第29海兵連隊第1大隊は那覇市の運河東側地区にいた第4海兵連隊第2大隊の位置へ進出した。この日の第29海兵連隊第3大隊は、新しく進出した地域の調査及び補給品と弾薬の補給に終始した。
 一方第29海兵連隊第1大隊は第22海兵連隊が那覇市西部地区で戦闘行動を起こしていたために、それに連係して攻撃を実施した。大隊境界にいたA中隊を基点とし、C中隊は廃墟と化した市街地を敵の銃撃や砲迫射撃を受けながらも250m程度前進した。夜間防御に移行するために国場川まで約800mの所に戦線を形成し、運河を挟んだ第22海兵連隊と左翼の第3大隊と連係を保った。
 5月28日、第22海兵連隊第1大隊は夜陰に乗じて第2大隊の前線を越えて、運河の西側で市街地を通り抜けて国場川に向かって前進、0845には目標地域へ到達した。 ついで1個小隊編成の偵察隊を奥武山に推進させたがこれは日本軍の重機関銃による射撃を受けて小隊長を失うなどして失敗に終わった。だが運河の西側一帯はついに海兵隊が確保した。 第6海兵師団は第6偵察中隊に対して那覇市西部の警戒を命じた。
 1345、第6工兵大隊は翌29日に第22海兵連隊を国場川に沿って攻撃前進させるべく運河に少なくとも3つの徒橋を完成させるように指示を受けた。

   

   
      * 独立歩兵第23大隊第5中隊の位置は「史実資料」にないため、米軍の進出状況及び戦術の妥当性から推定して記入した



5月29日 
 那覇方面においては、払暁から牧志町及び35高地地区で激戦が展開された。35高地付近は確保したが、牧志町方面においては壺屋町付近まで米軍が進出してきた。

 第6工兵大隊は激しい雨の中、工兵は夜通しで資材を前線に運搬して作業を続けて29日0420に徒橋を完成させた。10分後には第22海兵連隊第1大隊A中隊・B中隊が運河を渡って東地区へ進撃、0500には第22海兵連隊第1大隊は一気にテレグラフヒル
(城岳35高地)に向かって攻撃を開始した。 時間と共に敵の反撃は激しさを増してきたが、これは国場高地北側地区に日本軍が強靱な陣地を布陣していることの表れでもあった。
 0845には第29海兵連隊第1大隊と連携が取れ、両大隊は敵の陣地に対して攻撃を続けた。 1500、第1大隊は激しい戦闘に陥り、増援を要請した。第2大隊のE中隊・G中隊は連隊の夜間防御を強化するために右翼最前線に投入された。 この日第1大隊が前進した約700mの道程には敵の強力な陣地が散在するとともに、那覇市東部地区に多い石垣のある家々が丘に建て込んでいる場所であった。 戦車の支援が必要とされた場所であったが、あいにくの悪天候で進出することが出来なかった。
 第29海兵連隊は第3大隊を左の基準として第1大隊も行動し、当初の南進した後、第22海兵連隊と連係して東に向かって進撃した。 第1大隊の最終目標は識名地区北西の高地帯であった。 だがこの地区への接近経路は低地部で開豁している地形であり、要塞化された墓や散在する洞窟陣地の存在により前進速度は上がらず、A中隊・C中隊は第22海兵連隊の左後方に掩体を構築して夜を迎えた。

   

   




5月30日

 那覇方面においては、30日強力な米軍の攻撃を受け35高地は馬乗り攻撃を受けるに至ったが、与儀周辺の高地、松川南側の高地を保持して米軍の進出を阻止した。

 5月30日には第22海兵連隊第2大隊と第3大隊が運河を渡り、第1大隊を超越して攻撃を開始した。那覇市東側の27高地は墓を機関銃陣地として、度々海兵隊の進撃を妨害した。この日は戦車部隊は追従できなかったが、午後には3両だけが27高地の北側に到着、直接射撃を実施して海兵隊の27高地攻略を支援した。
 第22海兵連隊と第29海兵連隊は識名集落の西、国場渓谷の北側にある46高地に東から接近した。 5月30日に27高地を確保した後、この46高地までは順調に進撃してきた。だがここでの戦いはむしろ雨と泥との戦いであった。

   

   



5月31日

 
那覇方面においては与儀地区、松川南側高地は戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受け、同日夕刻には与儀南東57高地南北の線、繁田川西側の線に侵入された。31日夜、独立混成第44旅団の予備であった海軍丸山大隊を繁田川、識名、国場付近に残置し旅団主力を後退させた。旅団長は31日夜、識名から長堂に後退し、同地において米軍の重囲を脱出してきた特設第6連隊長と会って同隊を掌握した。残置部隊となった海軍丸山大隊は6月1日米軍と激戦を交えた後、同日2200に陣地を徹して武富に後退した。丸山大隊は総員約220名中約120名の損害を生じた。

 独
立混成第15連隊第3大隊は、5月20日夜に真嘉比南側高地から松川地区(松川南側高地を含む)に後退、さらに27日に繁田川西側高地、30日に識名高地へ後退している。(一部将兵が27日までHalfmoonにとどまった記録がある)。 写真はその後退地区の戦時と現在ものである。

   


 5月31日には14両の戦車がなんとか射撃位置まで前進して46高地に直接射撃を実施した。 だが敵の機関銃と迫撃砲射撃はこの強力な攻撃をことごとく跳ね返し、ついにはたいした戦果も得ることなく終了した。 この夜、米軍は終夜を通して46高地を砲撃した。6月1日朝、ついに連隊が46高地を確保して識名地区を占領、同時に98高地や国場地区北側の陣地まで進撃を完了した。


  

  




参考資料 「米陸軍公刊戦史」における那覇地区の戦闘記述

 「シュガーローフ」を占領した後も第6海兵師団は、その東側にある「ハーフムーン」(クレセントヒル)の反対斜面の確保が出来ない状況であった。この場所が確保できない限り、第6海兵師団はその攻撃方向を東に転換して首里を包囲するという計画が実行できないのである。いくつかの状況判断から師団はこの際、クレセントヒルの攻略を一時停止し、主力を那覇市内続いて国場川方向に向かわせることに決した。ただ「ハーフムーン」に強力な敵勢力がある限りは、隣接する第1海兵師団との連携及び自隊の左側背の掩護のために、この地区にそれなりの戦力を残置せざるを得なかった。

The 6th Marine Division Cross the Asato
 22日から23日にかけて偵察隊が安里川南岸地域の偵察のため渡河する際には激しい雨のために水かさが増している状態であった。最初に上がってきた報告では渡河には戦車の支援は必要はないであろうというものであった。続いて23日の早朝から1000にかけての偵察では市内へ400m程侵入したがその際はある程度の抵抗を受けたようだ。1000、ついに1200からの渡河作戦決行が決定された。そして1時間30分後には煙弾下に2個大隊の安里川渡河が開始された。死傷者が発生した場合には12名が1組となって胸まで水につかりながら手搬送するという手段がとられた。
 23日から24日にかけての夜、第6工兵大隊は車両を渡河させるための橋梁建設に着手していた。ガダルカナルの経験からLVT5両によって川の水を堰き止めようとそれぞれが移動を開始した。しかしならが河岸にあった対戦車地雷によって2両が破壊されたためにその計画は中止となった。24日早朝、ベイリーブリッジの建設が開始され、1430には完成に至った。ついに夕暮れ前に1両筒ではあるが戦車の通過が可能となった。同日2個偵察分隊が安里川下流を渡河、抵抗を受けることなく那覇市北西部市街地へ侵入した。

The Occupation of Naha
 
5月24日の偵察により第6海兵師団偵察中隊が安里川下流から渡河、25日一日をかけて市の中心部を南北に流れる運河の西側市街地をかなり奥深くまで偵察を実施した。一度日本兵と遭遇はしたが大規模な交戦に至ることはなかった。また民間人とも遭遇したが、彼らの話でもここ一週間は数名の日本軍の偵察隊が通っただけであることが判明した。破壊された那覇市はすでに廃墟となっていた。偵察中隊はこの地区に陣地を構える物資も装備もないために脆弱ながらもそのまま掩体を掘るだけで留まるしかなかった。
 那覇市は米軍にとっては南進するための通過点に過ぎず、戦術的な価値は全くなかった。那覇市は国場川河口に広がる平野部に位置した。しかも川を挟んで対岸の小禄半島からはその標高差から瞰制されているうえ、市の東部には平野部に接して国場川に至る高地帯が弧を描いて存在した。
 5月27日第22海兵連隊第2大隊の1個中隊が安里川を渡河、偵察中隊を超越して那覇市西部地区に進撃を開始した。5月28日朝には海兵隊は国場川に向かって進撃を開始、0900には目標に到達した。破壊された街を通過し瓦礫の踏み越えて進撃したが、その間ほとんど銃撃を受けることはなかった。ついで1個小隊編成の偵察隊を奥武山に推進させたがこれは日本軍の重機関銃による射撃を受けて小隊長を失うなどして失敗に終わった。だが運河の西側から国場川にかけては海兵隊は確固たる地域を確保、次の段階としてこの地域の確保のための防御に移行した。
37ミリ対戦車砲が国場川北岸に配置され、この背後に海兵隊員が待機するとともに水陸両用戦車が海岸部を警戒した。
5月28日未明までに工兵部隊は運河に3つの徒歩橋を架設、夜明け前に第22海兵師団第1大隊が渡河完了して那覇市東部にある「テレグラフヒル」(城岳)に進撃、終日戦闘を行ったが激しい抵抗の前に際立った戦果は得ることが出来なかった。5月30日には第22海兵連隊第2大隊と第3大隊が運河を渡り、第1大隊を超越して攻撃を開始した。那覇市東側の27高地は墓を機関銃陣地として、度々海兵隊の進撃を妨害した。この日は戦車部隊は追従できなかったが、午後には3両だけが27高地の北側に到着、直接射撃を実施して海兵隊の27高地攻略を支援した。
 
The Kokuba Hills
 国場高地は那覇市から国場川沿い、そして那覇〜与那原道に沿って東に延びる高地帯である。この高地帯は首里を南からまたは南西から攻めるための障害でもあった。第6海兵師団は西海岸を南下したが、結局はこの地形を生かして防御戦闘を行う日本軍によって那覇地区から首里を包囲することが阻まれていた。5月22日から23日にかけて日本軍左翼の防御戦闘を指揮するために独立混成第44旅団本部が識名に移動してきた。那覇から後退してきた日本軍部隊は国場高地に布陣して半円状の防御陣地を形成した。
 5月23日に安里川上流を渡河した第6海兵師団主力部隊は絶え間なく戦闘を継続した。第4海兵連隊がその前面に立ったが、泥と溢れた水、粘土状の丘を前進する都度に死傷者が増大した。5月25日夜までにE中隊は将校1名・兵40名にまで戦力が低下した。25日には第4海兵連隊第1大隊が牧志集落を占領したが、そこは大雨で橋が流されており、それからの進撃は戦車の追従が不可能であり、負傷者を抱える歩兵部隊だけで進撃するほかなかった。5月28日、第29海兵連隊が第4海兵連隊と交代、敵の小火器射撃を受けながらも夕刻までに国場川まで約800mの位置にまで進撃した。
 第22海兵連隊と第29海兵連隊は識名集落の西、国場渓谷の北側にある46高地を東から攻撃した。5月30日に27高地を確保した後、この46高地までは順調に進撃してきた。だがここでの戦いはむしろ雨と泥との戦いであった。5月31日には14両の戦車がなんとか射撃位置まで前進して直接射撃を実施した。だが敵の機関銃と迫撃砲射撃はこの強力な攻撃をことごとく跳ね返し、ついにはたいした戦果も得ることなく終了した。この夜、米軍は終夜を通して46高地を砲撃した。6月1日朝、ついに連隊が46高地を確保して識名地区を占領、同時に98高地や国場地区北側の陣地まで進撃を完了した。

 





市街戦と言えども、大半の家屋は10・10空襲その他の空爆や艦砲射撃で焦土と化しており、ひとつひとつの家屋をを潰して行くという形態ではなかった。





特設第6連隊は米軍上陸直前の昭和20年3月20日に編成された部隊であり、おそらく装備も行き渡ることのない状況であったと推察される。 また統一した訓練も行われなかったであろうことからすれば、那覇市における戦闘では善戦と言える活躍であった。

独立歩兵第23大隊は2月1日から那覇市に配置されたが、主力部隊は4月10日に嘉数地区に転進し第5中隊のみが残された。更に4月28日には1個小隊仲間地区へ転進したため、那覇市の戦闘が開始された時点では中隊本部+2個小隊の勢力であった。

独立混成第15連隊第3大隊は5月20日に真嘉比南側高地(Halfmoon)から松川地区へ後退したことは戦後の史実資料にも記述されているが、米軍側の手記ではHalfmoonの日本兵は5月27日に逆襲を行い約200の遺棄遺体を残して戦闘を終結したとある。































参考資料として「米陸軍公刊戦史」による那覇地区の戦闘を当ページ最下段に記載している。













壺屋地区に「特設第6連隊」と記入しているが、連隊の主力は那覇高校南側にある城岳35高地
(Telegraph Hill) にあるため、ここはその一部が配置されていたと考えられる。
 また牧志西側には点線で日本軍陣地を記入しているが、日本軍側資料には部隊配置が記録されていない。しかしながら米軍側の記録では具体的な記述が残されていることから、一部日本兵が配兵されていたと考えられる。






















前日の22日朝から雨は本降りとなり、23日午後まで続いた。しかし23日夕方からは急速に回復して24日は快晴となっている。


























写真左奥に見える橋が蔡温橋(国際通り)となる。戦場の面影は全くない。











米軍の渡河部隊は両大隊とも2個中隊であり、残り1個中隊は安里川東岸で掩護及び搬送業務に携わったと考えられる。


















この日の米軍は、特筆すべき攻撃は行っておらず、主として橋頭堡の強化と後方支援を得るためのベイリー橋などの建設、部隊交代に終始している。 それゆえに、日本軍の反撃を防ぐために航空攻撃を強化している。

























日本軍側の記述は「撃退」であるが、米軍は苦戦しつつも着実に前進を続けている。 多くの場合日本軍側の報告は、占領されなければ「撃退した」と報告するが、これが指揮班や本部に実情と異なった情報を提供したこととなり、翌日の戦闘計画に大きな齟齬を生む結果となっている。





















































独立混成第15連隊第3大隊の後退が、その後の首里陥落に大きく影響する。 これについては 「首里地区の戦闘」 に記述している。

日本軍側の記述には 「米軍には活発な攻撃行動がなかった」 としているが、実際には米軍は大きく那覇市北部に進出している。したがってこの地区には日本軍は全く配兵しておらず、米軍の進出状況が正確に把握できていなかったことがわかる。
















独立歩兵第23大隊第5中隊は米軍の運河渡河の妨害を任務としたと推定される。 また実質的には中隊本部+2個小隊の部隊であるが、史実資料では3つの陣地構成で記載されている。



















徒橋やベイリー橋の建設を妨害することは、敵の進出を妨害する最も有効な手段であるが、ここ那覇地区の戦闘においては23日にその記述があるだけで、日本軍は大半の徒橋等建設を妨害していない。 おそらく那覇市内の日本軍配兵事情によるものと、すでに日本軍砲兵が南部撤退のため陣地変換に着手していたことが挙げられる。
(当然、弾薬不足のため発射段数制限や崩壊しつつある与那原戦線への優先的支援も挙げられる)

























壺屋付近には強力な日本軍は配兵されていないにもかかわらず米軍の進出速度が低下している。
これは壺屋以南が当時低湿地帯であり、連日の大雨と相まって米軍が機動力を発揮できなくなった結果である。









29日夜から首里地区戦闘部隊の南部撤退が開始された。 天候が悪く、米軍は日本軍撤退の兆候をなかなか把握出来なかった。













那覇市東部地区、特に第22海兵連隊第1大隊が進撃した地区は、十・十空襲で被害を受けずに残された市街地であった。








「Hill 27」は、日本軍側の記述には全く登場しないが、米軍側の記述ではむしろ城岳35高地よりも苦戦であったことがうかがえる。











































与儀南東57高地は、独立した高地であったが、現在はほぼ大半が削り取られて住宅地となっている。 当時の頂上付近は現在 「おもしろ公園」となっている。













特設第6連隊は、首里の主力部隊が次々と南部へ撤退する中、西部戦線の保持を担っての遅滞戦闘を継続している。










独立混成第44旅団(独立混成第15連隊や特設第6連隊所属)は、当初29日から南部撤退の計画であった。 しかしながら、この撤退が実行されると軍全般の撤退計画が破綻することを考慮し、旅団長自ら 「5月31日まで現戦線を保持する」 ことを沖縄第32軍司令部に具申して留まることを決意している。





















米軍が46高地を占領した時点では、特設第6連隊はすでに国場川を渡って南部へ撤退していた。