大名高地の戦闘 (おおなこうちのせんとう)
第62師団歩兵第64旅団 独立歩兵第15大隊・独立歩兵第22大隊・独立歩兵第23大隊・独立歩兵第273大隊・第14機関銃大隊他 アメリカ海兵隊第1海兵師団 第1海兵連隊・第5海兵連隊・第7海兵連隊 日本側の公刊戦史を青 米軍側の公刊戦史を赤 その他の記述を黒で記載している ![]() はじめに 大名渓谷の日本軍陣地はその地形の特性をよく生かし、これに火力を配置して最高の防御陣地を形成していた。第1海兵師団はこの大名高地と大名渓谷を突破して首里へ直接攻撃を実施することではじめてこの強力な敵の防御陣地を瓦解させることができるのである。仮に大名を避けて南進したとしても師団は翼側や背後から瞰制され、首里高地帯からの砲兵射撃・迫撃砲等あらゆる火器によって重大な損失を招くことは必至であった。 大名渓谷には首里の北側を源流とする安謝川の支流が流れている。この川自体はさして重要性はないのだが、その川沿いの低地部に侵入した海兵隊はそれを取り囲む高地に対しその姿を完全に暴露した。大名渓谷の下流付近は広さが約350mこそあるのだが、これが首里に近づくにつれて劇的に狭くなり、両側に広がる壁がこの川に迫ってくるのである。この渓谷の西側一帯を防御するのが55高地であった。55高地には敵の直射砲が配備され、この火砲は低地部全体を火制した。大名高地一帯を守備するのは第62師団歩兵第64旅団であり、独立歩兵第15大隊、独立歩兵第22大隊、独立歩兵第273大隊を主力として他に第14機関銃大隊、第81野戦高射砲大隊などがその指揮下にあった。 ![]() 5月14日 ![]() 沢岻の洞窟陣地には死を決した歩兵第64旅団長有川少将以下が依然として頑張っていた。第62師団長は有川旅団長を撤退させることを考え、軍司令部とも連絡し、軍司令官からの撤退の示唆を得て、14日夜師団長の親書持参の連絡将校を派遣して後退を命令した。有川旅団長以下は14日夜全員斬込を準備中のところ、0時頃師団の撤退命令が到着したために、斬込を中止し所在部隊に撤退を命ずるとともに、旅団長以下血路を開いて15日未明首里北側に後退した。旅団司令部は撤退時二十数名の戦死者を出した。 独立歩兵第15・21・23大隊、第2歩兵隊第3大隊なども14日夜沢岻から首里北側地区に後退した。独立歩兵第22大隊第1中隊(生存者34名)は大名に後退して同大隊第2中隊長の指揮下に入った。 第7海兵連隊 第7海兵連隊第2大隊は0730に大名丘陵に向かって攻撃を開始した。左攻撃部隊のE中隊が沢岻集落を出て攻撃を開始すると同時に敵の射撃によって釘付けとなった。右攻撃部隊のG中隊およびその後方に位置するF中隊は第1大隊の担当区域に回り込み、昼前には大名丘陵稜線の約100m手前まで進撃することが出来た。敵の機関銃射撃や迫撃砲射撃が正面及び左側方から撃ち放たれて攻撃部隊を覆い尽くしたが、G中隊・F中隊には第1大隊が到着するまで現在地を保持せよという命令が下された。 第1大隊は1107に第2大隊を超越して前進せよという命令が下達され、1252には態勢を整えたが指揮系統の混乱から攻撃開始が遅れ、攻撃準備射撃後に前進を開始したのは1615となった。主攻撃部隊であるB中隊が沢岻集落から前進を開始したが、同じように大名丘陵や首里方向から熾烈な反撃を受けた。B中隊はこれに耐えきれず、結局撤退命令が下され、C中隊の支援を受けて沢岻集落まで撤退して夜間防御に移行した。 第1大隊A中隊も同様の命令により、不案内な地形の中を南進したが、1900頃にアメリカ軍の戦線を突破侵入しようとしていた日本軍小部隊と遭遇した。この際、A中隊長および副隊長が死傷した。C中隊は1853にA中隊とB中隊の間に進入しようとしたが、右からの敵機関銃射撃によって停止、日没前に連携を取ろうとしたがついにA中隊とは連携が取ることができなかった。 第1海兵連隊 ![]() ![]() 「日本兵が逃げてゆくのが見えた。彼らの頭上で155ミリ砲弾が炸裂する。驚いた日本兵達はあわてて四散する。だが、彼らの逃げる様子を見ていると、決してパニックに陥った人間の動きではない。雨のように降り注ぐ砲弾の破片の中で、背を向けて走り去ってゆく姿には何かしら自信に満ちた一種の威厳さえ感じたのだ。彼らは命からがらに逃げているのではない。単に次に依るべき防御陣地に移動してるに過ぎないのだ。そしてそこでまた我々に戦いを挑む。そして死ぬまで戦おうとするのだ。」 泥と炎の沖縄戦(第5海兵連隊第3大隊G中隊所属/E・B・スレッジ氏の回顧録) 5月15日 15日沢岻南方の大名高地方面の米軍の攻撃は活発でなかった。 第5海兵連隊 ![]() 肉薄攻撃から身を守るために第5海兵連隊第2大隊F中隊が配属となった第1戦車大隊B中隊は大名渓谷の下流付近で朝から攻撃を実施した。しかしながら戦車部隊は激しい反撃に遭遇し、随伴するF中隊も四方に分散してしまった。渓谷の両側には蜂の巣状に洞窟陣地が構築されており、それらの場所から戦車は激しくかつ正確な射撃を受け続けた。この朝だけである敵の47ミリ対戦車砲は艦砲射撃で破壊されるまでに戦車5両に対して命中弾を与えていた。昼頃には航空攻撃が実施されるために一旦撤退し、その後増援を得て再度攻撃を開始したものの夕刻にはやはり敵の激しい砲撃によって渓谷から撤退した。 第7海兵連隊 第7海兵連隊は15日を中隊の再編成および陣地の強化に費やすとともに沢岻丘陵周辺の掃討を実施した。前方観測および評定班などが大名高地の強力な日本軍の拠点に対して砲兵射撃・航空攻撃・艦砲射撃などを誘導してその減殺を図った。 ![]() 5月16日 首里北側地区の大名・末吉方面は16日戦車十数両を伴う米軍の猛攻を受け、戦車2両を擱坐させ、わが有効な砲迫の支援を得て撃退したが、わが部隊も多大の損害を生じた。 ![]() 日の出とともに各部隊は攻撃発揮位置に入り、0755から欺瞞の攻撃準備射撃が開始された。正面には81ミリ迫撃砲等で煙幕を構成した。15分後に煙幕が消散すると、日本兵は洞窟陣地入口の覆いを外し、攻撃に備えて人員が配置に付いたり交通壕を移動する姿が見受けられた。 第7海兵連隊は第1大隊に対して1000からの航空攻撃終了後に斥候を派遣して敵の状況を探るよう命令を下した。しかし航空攻撃の開始時間が遅れたため、第1大隊はこの任務の中止を具申、代わりに迫撃砲の支援下にC中隊から斥候を派遣して稜線部の偵察を実施させた。斥候隊は大名丘陵の西端に達するまで全く敵の反撃を受けなかったが、そこに達したとたんに激しい手榴弾と機関銃の射撃を受けた。直ちに81ミリ迫撃砲で反撃を行い、斥候隊はそのまま大名丘陵西端を占拠した。 ![]() 第7海兵連隊に配属された戦車部隊は沢岻丘陵から第1大隊の頭越しに直接射撃を実施、同じように第5海兵連隊に配属された戦車部隊は大名渓谷の敵陣地破壊及び爆破を実施した。 5月17日 ![]() 17日夜、独立歩兵第13大隊長は同大隊の吉田隊(第2中隊)を末吉北側高地に、庄子隊(第1・第4・第5中隊残存者で編成)を末吉南側高地に配備して同方面の防備を強化した。 第5海兵連隊 5月17日朝、第5海兵連隊第2大隊の歩戦チームは大名渓谷下流の敵に対して再度攻撃を仕掛けた。左翼のF中隊は第7海兵連隊と連携を取る必要性があったが、第7海兵連隊は敵の攻撃によって撤退していたために、大名高地の西端を前進は困難を極めた。一方第2大隊の右翼E中隊は大名渓谷の敵防御陣地に攻め込むような限定的な成功を収めていた。 E中隊の目標は大名渓谷南側にある55高地であった。軽便鉄道の土手を遮蔽物として利用し戦車の後に続いて開豁地を横断して55高地の麓に到着したが、激しい小火器や迫撃砲の攻撃を受け全く釘付け状態に陥った。随伴の戦車4両のうち2両が地雷によって擱座したため、中隊は残り2両の戦車の援護の下に撤退を決意した。中隊は鉄道の線まで撤退して再編成を実施、1700にはE中隊の1個小隊が戦車6両の支援を受けて攻撃を再開した。この攻撃では西側の最先端部に取り付いて強固な拠点を構築することができた。この小隊に対する補給物資や弾薬の輸送は戦車によって実施することになった。 ![]() ![]() 第7海兵連隊 第7海兵連隊第3大隊は早朝に第1大隊と交代、2個中隊をもって大名丘陵に対して攻撃を開始した。右翼 I 中隊は大名丘陵稜線の西端に至る台上に到達して確保することができた。一方左翼K中隊は12両の戦車、2両の火焔戦車を伴って末吉集落の北東部の稜線を確保しようとしたが、稜線に到着すると同時に先頭の攻撃小隊に対して敵の集中射撃が加えられた。戦車を掩護するために発煙手榴弾が使用したことで中隊が受けるべき支援射撃が制限されてしまった。K中隊はこの後も3方から敵の射撃を受けて釘付けにされたが、1700に連隊から沢岻丘陵に撤退して夜間防御に移行せよとの命令を受領した。 5月18日 ![]() 18日末吉南側地区(独立混成第15聯隊第3大隊、独立歩兵第13大隊庄子隊、同第22大隊第3中隊、独立機関銃第14大隊などを配備)は、戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。多大の損害を受けたが奮戦して米軍を撃退した。 第5海兵連隊 17日に55高地の麓に到達した第2大隊E中隊の1個小隊は同じ場所に取付いていたもののそれ以外に進展が得られなかった。小隊は激しい敵の砲火に曝され、未だに糧食や弾薬の補充には戦車を使用しなければならない状態であった。 第5海兵連隊は午前中には持てる火力を第7海兵連隊第3大隊の防御火力に充当した。午後からは火力を自隊のために使用することが出来るようになったので、この支援火力の下、F中隊の1個小隊及びこれに配属された1個工兵小隊が末吉集落にある敵の拠点を火炎放射器や爆雷で破壊するために前進を開始した。末吉集落及びその背後の墓から多数の擲弾筒発射機や機関銃・小銃などが発見されたためこれらを破壊した。しかしこの末吉集落から更に進撃することは不可能であった。進撃するとすれば第7海兵連隊が大名丘陵の稜線の東端を占領して、そこから渓谷を前進する部隊に対して直接火器による掩護が必要と思われた。1700、末吉集落に進出した部隊に対し昨晩の進出線まで後退するように命令が下された。 第7海兵連隊 日本軍の散発的な夜間砲兵・迫撃砲射撃が終了したのを見計らって、第7海兵連隊第3大隊は大名丘陵に地歩を獲得すべく行動を開始した。午前中は支援火器を大名丘陵北側斜面及び目標である稜線部に対して指向し、昼になってからL中隊の1個小隊を伴った I 中隊が稜線に向かって攻撃を開始した。攻撃中隊は一進一退で進撃を続けたが敵の手榴弾・迫撃砲により死傷者が増大したために、大隊長は攻撃部隊に対し昨晩確保した場所まで後退するように命令した。 ![]() ![]() ![]() 5月19日 大名高地及び末吉南側高地は19日米軍の攻撃を受けたが、善戦して陣地を保持した。 ![]() 5月19日の攻撃はこれまでの4日間に行った攻撃を繰り返すだけであった。第7海兵連隊は師団の主攻撃部隊として、第5海兵連隊は大名渓谷入口の日本軍陣地を攻撃した。朝には砲兵・戦車・迫撃砲・武器中隊の榴弾砲で激しく準備射撃を行って日本軍の抵抗を無力化しようと試みた。しかしながら第7海兵連隊第3大隊I中隊が1200過ぎに攻撃を開始した直後には直ちに敵の攻撃が開始される有り様であった。その中、I 中隊は敵の迫撃砲射撃が一時的に弱くなった時間を見計らって1555には大名丘陵の西端突出部に辿り着いたが、かなり疲弊したI中隊は敵の射撃下に第1海兵連隊第3大隊主力と交代するために若干後退した。この日第7海兵連隊は第1海兵連隊と交代、第7海兵連隊はそのまま師団予備となった。 ![]() 海兵隊は大名高地や大名渓谷に砲兵・迫撃砲・艦砲・空爆などで激しい砲爆撃を加えた。これに対して日本軍もあらゆる火器をもって応戦してきた。これらの轟音と爆発音が重なると後は何も聞こえず、むしろ静寂な場所にいるような気になる。ペリリュー島でもものすごい敵の砲弾に見舞われた。だが、それさえもこの大名での砲撃戦に比較すれば軽微なものに感じられた。何時間も続く砲弾の轟音で、これまで経験したことのない激しい無力感・脱力感を感じざるを得なかった。 「泥と炎の沖縄戦」(第5海兵連隊第3大隊G中隊所属/E・B・スレッジ氏の回顧録) 5月20日 ![]() 大名高地は20日北東及び北西の両方面から攻撃を受け接戦激闘となり同高地の一部は米軍に占領されたが主要陣地は確保した。独立歩兵第22大隊長は所在部隊を各陣地に補充配備して陣地確保に努めた。 第5海兵連隊に配属された戦車部隊はこの一週間は大名渓谷下流部から一歩も踏み出せない状況であった。戦車の砲火に曝された日本軍陣地は夜になると新たに補修されて再度偽装されていた。渓谷の下流で海兵隊の進撃を阻止している日本軍陣地は2重3重に構成され、両側にそびえる稜線は奥に行くほどに高くなりそして狭くなっていた。その大名渓谷の東の果て、首里の北西郊外には110m高地が存在しており、この高地からは第1海兵師団と第77歩兵師団の両師団を見下ろすことが出来た。110m高地からの防御火力は大名渓谷の海兵隊を減殺し、首里占領における最大の障害となっていた。 第1海兵連隊 ![]() 第1海兵連隊第3大隊は0845にI中隊とK中隊が攻撃を開始したが、その直後から高地守備隊と手榴弾戦を交えた。攻撃小隊が戦車及び火焔戦車の近接支援を受けつつ稜線上に進出、北側斜面にあった多数の洞窟陣地・トーチカ等を破壊していった。1140L中隊の2個小隊が大隊長の指示によって55ガロンのドラム缶をI中隊のところに搬送することになった。このドラム缶の中身を急斜面の上から流した上に白燐手榴弾を投げ込んで、大名渓谷の斜面にある日本軍陣地を焼き尽くす計画であった。1500にドラム缶3本がI中隊の所まで運び上げられ、1630から中身が渓谷に流し込まれたが、反対斜面の下方50mほどで日本軍の交通壕によって堰き止められてしまった。その後点火されて炎が日本軍陣地の一部を焼き尽くしたが、これはI中隊が反対斜面に進撃して楔を打ち込むには若干効果が小さかった。K中隊は稜線に沿って夜間防御の態勢を取り、K中隊が第5海兵連隊第2大隊と、I中隊がや第1海兵連隊第2大隊と連携を取った。稜線上は固い珊瑚礁であったため部隊は深い掩体を構築することが出来ず、結果として敵の砲兵・迫撃砲射撃によって多くの死傷者を出してしまった。大名丘陵の夜間防御陣地は砲弾の荒れ狂う中、敵とは数ヤード隔てているだけであった。 ![]() ![]() 第5海兵連隊 5月20日の第5海兵連隊の攻撃目標は55高地から那覇・首里道に沿って南西へ延びる低い稜線であった。G中隊が「ハーフムーン」にいる第6海兵師団第4海兵連隊と常時連絡を取る一方、E中隊が主攻撃部隊として行動した。攻撃開始は独自に0730と定められたが、攻撃準備射撃の効果を高めるために1時間延期された。攻撃部隊はは砲兵射撃に皮接して前進して順調に進展したが、0930には敵と近接戦闘に陥った。工兵の地雷除去チームは戦車部隊が大名丘陵や背後からの攻撃を避けられるように迂回路を切り開いた。昼までにはそれらの戦車の支援によってE中隊は目標を確保した。 午後には眼前に立ちふさがる首里高地からの迫撃砲や小火器射撃によってE中隊はズタズタにされたが、砲兵射撃・正確な戦車砲射撃・ロケット射撃によってついに敵は沈黙した。21日夜明け前、E中隊は前線において第5海兵連隊第1大隊C中隊と交代した。 5月21日 ![]() 第1海兵連隊 第3大隊はL中隊から攻撃チームを編成、大名渓谷で戦車部隊と連携を取りつつ朝のうちに大名高地反対斜面の敵を掃討しようと計画した。K中隊とI中隊は稜線上からL中隊の前進を掩護するとともに、命令がありしだい渓谷を超えての55高地攻撃および東への戦線拡張へ向かうことになっていた。だが午後になってもL中隊攻撃チームは敵の激しい反撃に遭遇し続けた。1500頃K中隊が渓谷の下流付近で横断を開始、引き続きI中隊も前進を開始したが敵の熾烈な反撃を受けて渓谷の真ん中で釘付けになった。1800にはK中隊が55高地に至る経路上で交戦状態に陥ったが、一時的に第5海兵連隊第1大隊と連携をとることが出来た。しかしそれ以上首里の方角である東には進撃することが出来なかった。I中隊もL中隊も南側の稜線にはたどり着くことが出来ず、大名渓谷内で前進が滞ったためについに撤退を命じられた。夜に第1大隊C中隊が第3大隊に配属され、昨夜I中隊が占拠していた場所に陣地を構え、右にいるL中隊と左にいる第2大隊F中隊と連携を取った。 ![]() 第2大隊は保有する支援火器全てを大名渓谷に充当した。しかしE中隊とF中隊は極めて至近距離から敵の反撃を受けていたため大名高地の反対斜面に進出できない状況であった。雲が低くたれ込め、断続的に雨が降りしきる中で両軍とも砲迫射撃での観測が出来ないという状況下であったため第2大隊は事前に指定された安全地域に留まっているしかなかった。だがそのような状況にあっても日本軍の砲迫射撃は尚正確であった。死傷者が増大する中、第2大隊は獲得した地域から後退することはなかった。G中隊は左の第77歩兵師団と火力上の連携が取れていたし、F中隊は夜間防御の際にはC中隊と連携が取れていた。 深夜になってそれまでの雨はバケツをひっくり返すような豪雨となった。0200、日本軍は視界不良の中を大名高地を静かに駆け上りC中隊に対して逆襲を敢行した。4時間にわたる手榴弾戦が繰り広げられ、日が昇るまでに4回も日本軍が稜線を越えて侵入して来たが、そのたびに押し返して何とか戦線を保持することが出来た。日本軍はC中隊の戦線を突破しようとして失敗し、結局180名の兵士を失う結果となった。 ![]() ![]() 5月21日の第5海兵連隊第1大隊の任務は大名渓谷にある55高地近傍において第1海兵連隊の攻撃の掩護、および前方の首里高地や「ハーフムーン」の東側に対する強襲偵察であった。B中隊・C中隊から派遣された戦車隊との斥候チームは激しい迫撃砲射撃や機関銃射撃を受けながらも南地区の偵察を実施した。戦車指揮官はある時は自らの車体を観測所として使用し、近接した目標に対して砲兵射撃を誘導してこれを破壊することに成功した。55高地および師団境界に沿った地域では僅かながらも前進して爾後の攻撃に有利な場所を確保することが出来た。 * 5月21日の日本軍の逆襲をもって大名丘陵はほぼ米軍の制圧下に移行した。 しかしながら55高地および110m高地は依然日本軍の手中にあり、その後の豪雨の影響などもあって首里近郊の戦闘は停滞することになった。結局5月29日に全線で米軍が首里に進撃を開始することで戦闘が再開されたが、110m高地は5月30日まで占領することが出来なかった。 |
日本軍は大隊と称する部隊もすでに実質上小隊程度の戦力に低下しており、この大名では独立歩兵第22大隊が主部隊となって戦闘を遂行している。第14機関銃大隊に至っては生存者数名で安波茶・沢岻から後退して来た。 米軍は大名高地を「Wana ridge、大名渓谷を「Wana draw」と呼称している。 沢岻高地を「命を科してまで死守するべき地形ではない」とした八原高級参謀も、この大名高地は首里を守備する最終防御線と考えていた。 第64旅団司令部の後退についての経緯は本HP「安波茶・沢岻の戦闘」に詳しく記述している。 独立歩兵第22大隊は第2中隊・第3中隊がすでに大名高地に布陣しており、大名における主力部隊となって戦闘を遂行した 攻撃開始が遅れた理由は、第1大隊を支援すべき火力が第2大隊支援とされたまま変更手続きが遅れたことにあった。この遅れが米軍側の終日の混乱の原因となった。 記述では第3大隊が簡単にその場に移動完了してるようになっているが、第3大隊の記録では激しい日本軍の砲撃により溝や穴の中に身を潜め、まったく立ち上がることが出来ず、自分たちの現在位置さえ判別できないほどであったという様子が示されている。 記録では戦車部隊を撤退させるために艦砲を含んだあらゆる手段で掩護したようだ。 この日第5海兵連隊の記述はほとんどない。大名高地西側稜線で完全に釘付けになり、一歩も進出できなかった状況が推測される。 平良町は110m高地の東側に位置する町で、この状況においては大名一帯に布陣する日本軍に退路を遮断される可能性が出てきたのである 末吉北側高地が大名高地、末吉南側高地が55高地を意味している。55高地、110m高地はいづれも米国側の名称である。 この取り付いた1個小隊に対して日本軍が逆襲を行ったという記録はない。むしろ日本軍は気付かなかったというのが正しいのではないだろうか。 この日の記述からも米軍の攻撃を全て撃退した様子がうかがえる。戦線は完全に膠着状況に陥っている。 海兵隊の戦力の逐次投入に陥っている状況である。部隊の統一行動や火力の集中が出来ず、むしろ押されているという感覚を持っていたであろう。 写真では完全に市街地化されているが、当時は耕作地が広がり、川以外に障害物や遮蔽物のない地域であった。したがって正面から55高地を攻撃することは困難であった。 独立歩兵第22大隊第2中隊は5月18日から20日にかけて第7海兵連隊と交戦状態に陥った。第2中隊長松田中尉はこの時に「タマリ戦法」と名付けた方策で米軍に対応した。第一線陣地はアメリカ軍に通過させて低地に誘導し、通過したところで第一線陣地は背後から、第二線陣地は正面から米兵を不意急襲したのである。記述からすると、この第2中隊が戦ったのが第7海兵連隊第3大隊 I 中隊であったと思われる。この第2中隊も21日には夜間逆襲を行い総員約200名の将兵のうち、生き残ったのは10数名あり、その後終戦を迎えたのは僅かに3名であった。 第5海兵連隊については記述が一切なく、完全に膠着状況に陥った。第7海兵連隊も写真右側の「大名高地西端」までを辛うじて確保した状況であり、それさえも夜間防御のために戦線を縮小しなければならないほど脆弱であった。 第5海兵連隊が中隊規模で55高地に攻撃を開始したことで、55高地の日本軍は大名高地稜線上に対しての注意配分が小さくなったと思われる。加えて110m高地にも波状攻撃がかけられたために海兵隊は戦線を一気に稜線上に押し上げることが出来たのであろう。 このE中隊の進出は那覇市正面を攻撃中の第6海兵師団、ひいてはアメリカ軍の西部戦線(海兵隊)に対して大きな意味合いを持っている。 それまで第6海兵師団(安里52高地などを攻撃中)は首里付近からの日本軍砲撃により常に妨害を受け大きな損害を出し、攻撃の進展を阻止さて続けてきた。このE中隊の進出によって日本軍の妨害を封じ込めることができるようになり、西部戦線は一気に進展することとなった。 海兵隊は大名高地をほぼ制圧するに至ったものの、それはまさに「取り付いている」状態そのもので、足元の日本軍陣地からは何度も逆襲を受けてる状態で、「占領」とか「確保」からは程遠い状況であった。 左の写真は55高地から見たものであるが、大名高地頂上部から末吉集落に降りてくる米海兵隊は完全に暴露した状況であったと思われる。この状況で攻撃を行うのは戦術的にも誤った判断であると考えられる。むしろ55高地南西に進出した第5海兵連隊第1大隊の戦果拡張を優先する方が戦術面の妥当性があると思われる。 |