小禄の戦闘(小禄海軍部隊の戦闘)

小禄の戦闘についての注意事項 
1 「小禄の戦闘」については米国海兵隊公刊戦史を基本として記述した。また膨大な資料のため抜粋とした。
2 日本軍側については戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」を用い、
で記述した。
3 本文中の「高地名」(57高地、63高地など)は米軍側の名称を使用した。ただし「海軍司令部74高地」「小禄西側高地」などは日本名である。
4 米国陸軍公刊戦史にも小禄の戦闘が記載されるが、高地名などで海兵隊と異なる場合がある。この場合全て海兵隊側を基準とした。
5 小禄において海兵隊は第6海兵師団(3個連隊編成)を投入した。記述上混乱を避けるために、各連隊毎に文字色を変えている。
   
 第4海兵連隊  第22海兵連隊  第29海兵連隊  なお、文中では「海兵」という言葉を除いている



戦闘開始までの概説
小禄地区海軍部隊にあっては5月中旬戦況急を告げ、勝田大隊、丸山大隊、山口大隊、迫撃砲隊などを陸軍部隊指揮下に入れ、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が小禄地区から抽出され、兵員は約8300名となっていた。
 また第32軍の島尻南部への転進計画において小禄海軍部隊の撤退は6月2日以降と予定し、軍から命令することになっていた。ところが、海軍部隊は命令(電報)を誤解し、5月26日から南部への移動を開始し、司令部も真栄平に移転した。この際、携行困難な重火器類の大部は破壊された。軍司令部はこの状況を28日に知って驚愕したが、結果海軍部隊の小禄地区への復帰命令が出された。

米軍は当初上陸海岸から2個連隊(4・29連隊)並列で真っ直ぐ豊見城(海軍司令部)に攻撃できると判断していたが、日本軍の抵抗の激しさから6月8日には第4連隊を海岸部に沿って南下、その後東に向けて進撃するように作戦を変更している。




6月2日
 
小禄地区の海軍部隊は、6月2日那覇及び古波蔵(小禄対岸)、国場、津嘉山方面の敵情、戦況を見て、海岸正面の他、東部正面の真玉橋地区から宜壽次方面に陣地を占領して警戒した。2日1600頃米軍約400名が修理した真玉橋(まだんばし)を通過して真玉橋南側高地に侵入して来た。海軍部隊はこれを真玉橋部落まで撃退すると共に、2日夜根差部及び長堂付近に各300名の兵力を増強して防備を厳にした。また3日0500頃真玉橋を挺身隊により爆破した。

6月3日

 
根差部付近で激戦を交え、同夜2100頃根差部付近は米軍に占領された。



6月4日
 
6月4日0500頃米軍は小禄飛行場北部地区に上陸を開始した。小禄海軍部隊は腹背に米軍の攻撃を受けるに至った。我が部隊は既設の陣地により戦車を伴う強力な米軍に対し雨の中で勇戦敢闘した。大田司令官は赤嶺の第951海軍航空隊小禄派遣隊戦闘指揮所に移動して作戦始動を行った。4日1800頃米軍は赤嶺及び小禄西側地区に進出してきた。

         



 6月4日0446に第15砲兵大隊第3中隊が奥武山に砲撃を開始、15分後には第6偵察中隊の装甲水陸両用車両が奥武山に上陸を開始した。同時に戦艦1、重巡洋艦2、駆逐艦からの艦砲射撃が小禄半島の上陸予定地域に開始された。
 0530第4連隊隊第2大隊の第1波がLVTの攻撃開始線を上陸海岸に向けて発進した。
 0600攻撃小隊が散発的な機関銃射撃を受けながら上陸し、ほとんど抵抗を受けずに内陸に約300m侵攻を果たした。その後30分ほどで第2大隊は全部が上陸を完了した。0700までには第6戦車大隊のA中隊とC中隊なども上陸を完了、しかし第1大隊は牽引船の故障によりまだ上陸中であった。
 最初の上陸以降、左翼からの抵抗を受けつつも徐々に攻撃前進を続けた。網密な地雷原が前進を阻み、10日間にわたる雨が土壌をぬかるみに変えていた。装甲車両の機動は道路上に制限されていたが至る所で破壊され、それらの修理を終えるまで歩戦協同戦闘(歩兵と戦車)ができない状況であった。



第4連隊第1大隊のB中隊は予備であったが、上陸海岸の右翼高地帯の確保を命ぜられた。中隊は直ちにこの目標を確保し上陸海岸一帯の敵の反撃を抑え込んだ。
 連隊予備の第4連隊第3大隊は0845に上陸地域へ達着し20分で上陸を完了、小禄飛行場の先端を前進中の第1大隊の右側で連携をとった。1000までに橋頭堡は次の連隊(29連隊)が上陸できるのに十分な体制を取り終えた。この日第4連隊第3大隊は小禄飛行場の3分の1に進出を完了した。

 
午後雨が降り始めて土砂降りになり、港を渡りきるのに困難かつ危険な状況になってきたが、第29連隊は計画通りに上陸を完了した。1300までに第2大隊が上陸点に達し、そのまま第2大隊は連隊の左に進出した。1430第3大隊も上陸を完了した。第1大隊は夜までに上陸を完了し、連隊予備となった。悪天の中、この日の那覇港に面した地域を前進中の第2大隊は約1500m進出した。





6月5日
 
戦車約70両を伴う強力な米軍が爆撃の支援下に攻撃してきたが、わが方は善戦して米軍の進出を阻止した。特に赤嶺付近の拠点による南西諸島航空部隊は敢闘した。東正面においては,米軍が高入端付近に進出して来たので平良方面に増援部隊を派遣し進出を阻止させた。

                              沖根聯合陸戦隊戦闘概報第54号(抜粋)
1 6月4日0500水陸両用戦車約100兵員600名小禄(鏡水)付近に上陸開始、機銃迫撃砲等を以て之を激撃猛射を与え尚北明治橋修理中の敵に対しても猛射を加ふる等撃退に努めしも、敵は逐次浸透1800の戦線は概ね當間、安次嶺、気象台前、糸満街道以西に及べり。
2 東部眞玉橋より侵入の敵は逐次勢力を増加味方防戦に拘わらず戦線は嘉数、根差部、高入端東南端の線に及びしため西方糸満街道進出防止の為平良方面に増援部隊を出し之に備う。 
    

                                  5日1700の戦況(抜粋)
1 小禄地区朝より戦車70両以上を伴う1000名以上の敵は飛行機の爆撃支援の下に攻勢に出て彼我激戦中にして逐次味方陣地に浸透しつつあるも南西航空部隊は陣前に克く防戦中なり。
2 1300大嶺海岸より戦車15両歩兵(50)新たに上陸せるも内戦車2両を擱坐炎上せしめ人員の他戦車は撃退す。

摩文仁に後退した牛島軍司令官は、軍主力の撤退が完了したため、計画に基づき海軍部隊の島尻南部への撤退を命令したところ、6月5日大田司令官から「海軍部隊は既に包囲せられ撤退不可能のため、小禄地区にて最後まで闘う」旨の電報を受けた。従来の行きがかりを抜きにして作戦上の見地から観察すれば、海軍部隊の小禄陣地固守は米軍の那覇港及び小禄飛行場の使用を長く阻止するとともに軍主力方面への米軍の接近及び攻撃準備を妨害する効果がある。しかし、全軍の運命既に決した今日無力な海軍部隊に僅かな作戦効果を期待して、軍主力と指呼の間に孤立無援の中に全滅させることは、軍首脳部として忍びがたいものがあった。そこで牛島将軍は島尻南部への後退命令を再電するとともに、懇切な自らの親書を送って島尻南部への後退を促した。しかし、大田司令官の死守する決意は固く、軍としては自然の推移に委ねるのやむを得ない状況となった。


 第4連隊は「當間」の北の強固な日本軍陣地に阻まれてその進出が停止した。この強固な地域は第4連隊第3大隊I中隊の前進方向にあり、その左翼からの火力に火制を受けた。K中隊が右翼のこの高地帯から損害を受けつつ偵察を行っている間、I中隊が攻撃前進を開始し、この拠点を掃討するために南東方向へ回り込んだ。地中深いこの陣地には砲兵火力も有効でなく、直射火器が有効であった。軽火器の歩兵では対応できず、重機関銃のような直射火器の支援を必要とした。
戦車がこの陣地攻撃の命令を受けたが、ぬかるんだ泥と通行不可能の道路に前進を阻まれた。しかし、第6戦車大隊C中隊の1個小隊が飛行場横の海岸線のリーフ沿いに移動して飛行場を横断し第4連隊第3大隊と連携することができた。戦車及び第1大隊区域からの105mm自走砲火力の支援により、歩兵部隊は午後にはこの危険地帯を抜け、I中隊がこの地域を掃討、L中隊は左翼の4連隊第1大隊と連携をとった。


第1大隊は前線の全面において激しい抵抗を受けた。左翼のC中隊はゆっくりと前進することができたが、A中隊はその右翼から敵の激烈な射撃を受けて釘付けとなった。敵の「當間」陣地は4連隊第3大隊が撃破したのち、A中隊はその村落を見下ろす高台に進出した。1700に攻撃を停止した時点で、C中隊は大きな損害を受けながらも赤嶺の南東の制高点をなんとか確保することができた。

                    


 一方第29海兵連隊も第4連隊が遭遇した敵と同様の抵抗を受けた。激しい小銃・機関銃・迫撃砲の射撃を受け前進は遅かった。前進は続けたものの網密な敵地雷原がさらに障害となった。道路や橋は手持ちの装備では修復不能で戦車の機動を阻んだ。
 敵の抵抗は執拗であった。1400までに第3大隊は第4連隊の行動地域内にある57高地付近で激しい交戦となった。
 第2大隊は河口に沿って前進し架橋する地点を確保した。工兵隊は小禄村付近からの敵機関銃射撃を受けつつも第2大隊の援護を受け100mの浮橋を完成させ、暗くなる前に奥武山から小禄半島に水陸両用車が渡河した。これで攻撃部隊へ地上からの補給が可能となった。





6月6日
 早朝から天候が回復し、0600頃から米軍機の行動は活発となり、艦砲射撃も激烈を加えた。小禄西側、金城、赤嶺付近では激戦が続いた。赤嶺付近の陣地(大田司令官所在)は米軍の馬乗り攻撃を受ける状況となり戦況は切迫した。6日夕刻小禄部落西側高地は米軍の侵入を受け、一度は逆襲奪回したが再び占領された。瀬長島の海軍砲台は米軍を背射して主力の戦闘に協力した。
 大田司令官は6日夜赤嶺から豊見城西側74高地(現在の旧海軍司令部壕)に移動した。


                                沖根聯合陸戦隊戦闘概報第56号(抜粋)
2 朝来赤嶺、金城、小禄部落に対する重圧加わり一部兵力小禄西部高地に侵入、一応撃退せるも夕刻更に兵力増加し約100侵入せり。此の敵に対し2200より邀撃を敢行、7日0230奪回せり。
3 赤嶺陣地に対し約300攻撃し来たり、一時馬乗りとなられ危険に瀕したるも友軍迫撃砲機銃の連繋よく直ちに撃退せり
4 當間西方に約200迫撃砲陣地を構築中にして一部戦車の動きを見るも戦況活発ならず




第4連隊第1大隊は「リトルシュガーローフ」の惨状を呈した。戦車の援護射撃は得られず、第4連隊第1大隊の左翼(B中隊)赤嶺郊外で停止状態となっていた。右のA中隊はあらゆる火器を使用して敵の翼端を奪取しようと試みた。1個小隊が6時間にわたり身動きできない状況の後、105mm自走砲の直接射撃の支援下にリトルシュガーローフ上に到達した。



 2個連隊の連携攻撃もほとんど効果を得られず、6月6日の作戦では小禄半島の北西から南東に走る稜線が敵の主陣地であることだけが判明した。4連隊の右翼は前進はほとんど困難であった。そこで敵の抵抗線の側背に連隊を進めるために4連隊第3大隊の南進に攻撃を指向した。
 この敵の稜線(具志北側方面)に航空攻撃を行った後、第3大隊はI中隊とL中隊を攻撃に投入した。右のI中隊は瀬長島からの20mm砲や重機関銃の激しい攻撃を受けた。これには戦車・砲兵・対地支援航空機からの反撃で直ちに応戦し沈黙させた。第4連隊第3大隊は南へ前進し、ついには昼前に小禄飛行場を完全に占領するに至った。






第29連隊第2大隊はゆっくりと前進を開始した。第2大隊の左翼では、もう一つの戦車小隊が河岸に沿って機動し、破壊された橋によってその前進が阻止されるまで歩兵の前進を援護し続けた。数百m前進した後、第29連隊第2大隊は敵の激しい攻撃を受けて前進は停止した。
 第29連隊の右翼第3大隊は最初から前進が阻止された。この地域は要塞化された多数の小さな崖で出来ており、それらは相互に自動火器で補完され丘の間の開豁地も火制されていた。さらにそれらの要塞は深く砲弾を通さなかった。この地域の道路は地雷原と砲弾の穴により戦車の支援が得られず、第3大隊は一日で約50mにも満たない前進しか出来なかった。





6月7日 
 米軍を背射して健闘していた瀬長島砲台は0930米軍艦砲射撃によって破壊されたので、大田司令官は伊良波方面へ後退することを命じた。平良地区の我が部隊(2個小隊)は昨6日夕刻以来約500名の米軍と交戦中であったが、7日1500全弾撃ち尽くしたので、宜保方面へ後退した。米軍はこの後退に追随して宇榮田付近に進出して来た。

 第4海兵連隊は攻撃を再開し、海岸線に迅速に機動を行った。しかし正午頃第4連隊第3大隊の右翼であるL中隊が半島の西海岸最後の高地帯(具志村付近)を占領しようとする頃には敵の抵抗が強くなった。1615、あと一歩で高地帯を占領できるとの報告があった。しかしその直後、迫撃砲射撃を伴った激しい機関銃射撃を受け、L中隊は夜を期して一つ後ろの稜線まで後退せざるを得ない状況となった。
 第4連隊の左翼では日本軍の強靱な抵抗に苦戦を強いられたが、四周からの機関銃射撃を受けながらも直射火器と火炎放射器による馬乗り攻撃で無数の敵の陣地をひとつひとつ潰していった。
 第1大隊の左翼には7日朝に連隊予備が投入された。攻撃開始前の1000に第3大隊と全ての支援部隊との間で調整が実施され、小禄半島中央の敵の拠点に対し果敢に攻撃をしかけた。しかしその頃戦車などの主力火器等はまだリトルシュガーローフにあり、歩兵だけで前進せざるを得ない状況であった。
          


小禄半島の作戦は4連隊と29連隊が並列で南東に向かうものであったが、日本軍の激しい抵抗で戦術の転換を余儀なくされた。第4連隊は南進して、具志稜線を占領した後に東へ変針することとなった
第22連隊第3大隊が103高地を占領した。第22連隊は前進軸を西に変針して小禄半島を横切り第4連隊及び第29連隊と向き合う形となった。
第29連隊第3大隊は3日間の激戦でも僅かな敵の地域しか占領できず,、進撃はほとんど停止した。

    




6月8日
 小禄部落、金城、赤嶺、具志地区で激戦が続いた。小禄西側高地を奪取した米軍は豊見城方面へ攻撃して来たが、わが部隊は善戦して撃退した。赤嶺付近の陣地は昨7日から危急を告げ、勇戦を続けて米軍の進出阻止に努めたが、逐次浸透されつつあった。具志東側高地は一時米軍に占領されたが、逆襲してこれを撃退した。宜保付近の陣地も米軍の攻撃を受けたが撃退した。


 6月8日早朝、第4連隊第1大隊は第3大隊の右側に進出した。1030第1大隊のうちA中隊が具志南側の半島を押さえる拠点となる高地に達した。当初一個小隊のみが辿り着いたが直ちに敵の集中射撃を受けた。戦車による煙幕射撃下に小隊は撤退した。20分間戦車2個小隊による頭越しの直接射撃及び具志稜線の反対斜面への2回以上の射撃を実施した後、A中隊は南に向けて攻撃を開始、15分で敵の強固な拠点を攻略し、第1大隊がほぼ半日で確保した。
 目標地域に到達と同時に、A中隊は前進方向を北東へ変更した。同時にA中隊の右のC中隊は南に攻撃を継続し海岸を見下ろす最後の高地帯を掃討した。一方B中隊はA中隊の左側で北に向かって変針した。B中隊は夜のうちに第3大隊と連携をとり、C中隊は糸満に向かう南北にのびる糸満街道を制するA中隊の右後方に移動した。
第4連隊左翼の前進は第2大隊により6月8日1000に再攻し、1530までに攻撃中隊が目標に到達して夜に備えて掩体を構築した。第2大隊の担任区域の中央で最も頑強に抵抗を続けるのは「高宮城」の北東の39高地であった。


                   

                    


            

第22連隊はその右翼を基点として旋回し、左翼は時計回りに移動して第4連隊と接合を目指した。6月8日の朝、第1大隊は55高地及び55(1)高地を占領するために強襲偵察部隊を派遣するように命ぜられた。55高地は1800に第1大隊が占領した。しかし敵の重迫撃砲と弾薬の欠乏により暗くなってから約150m後退した。B中隊は狙撃手からの射撃を受けるも海岸線に向けて索敵したがついには第4連隊とは連絡を取ることが出来なかった。
 第3大隊の前進はI中隊の「地覇」への索敵に伴ってゆっくりと北西へ向かった。一日を通して偵察隊は集落の南約900mの一連の稜線の北を索敵したが、そこではほとんど敵の抵抗はなかった。しかし55高地や55(1)高地から激しい射撃を受けた。





6月9日 
 東正面の宜保付近の陣地は0600頃から米軍の攻撃を受け激戦となり、西方においても激戦が展開された。また南正面からの米軍の攻撃も強化されつつあった。わが勇戦にかかわらず、9日1520宜保陣地は遂に米軍に占領され、西方においては金城、赤嶺、宇榮原方面に米軍が相当深く侵入してきた。

 
 第4連隊は行動地域において6月9日は前日とほとんど変わることがなかった。
前進はいまだ激しい抵抗の前にほとんど進まなかった。日本軍は全員が機関銃を装備しているかのようであった。特に左翼では日本軍に最大1500名以上の戦死者を与えつつも当方の負傷者が増大した。
 第1大隊はA中隊・B中隊をもって55(2)高地付近及び「宇栄原」高地帯の占領を目指して進撃を開始した。大隊の攻撃は右翼の道路に装甲車が到着するまで停止した。攻撃は機関銃射撃と迫撃砲射撃を受ける中1230再度開始された。前進に際し事前に破壊できた洞窟陣地はほとんどなく前進は捗らない。午後遅くになって第1大隊は具志集落に突入し、戦車部隊が部落を通り抜け糸満街道に達した。夕刻までに第1大隊の右翼では「地覇」の北西の稜線を確保したが、左翼では「宇栄原」郊外で停止した。
 第2大隊の攻撃は錯雑した地形と敵の頑強な抵抗により支援火力の使用が制限されたため午後の進撃はかなり遅延した状況となった。第2大隊の前進は150mにも満たないほどに低下した。
第3大隊は当日の目標地点に到達した。



   


 第22連隊は0830に予定どおり攻撃前進を開始した。第1大隊は55高地を再度占領を、第2大隊は55(1)高地を占領、第3大隊は「地覇」郊外の28高地を目標とした。しかし第2大隊の攻撃開始は第1大隊が55高地を占領するであろう0900に変更された。第1大隊がこの55高地を占領すると同時に第2大隊はこれを超越し55(1)高地を占領する計画に変更した。
 激しい戦闘で多数の負傷者と引き替えに第1大隊は午後遅くに55高地を占領することとなった。このため一日中攻撃準備をしていた第2大隊の攻撃は6月10日に延期されることとなった。
 同じように55(1)高地からの激しい反撃により第3大隊の28高地占領もままならなかった。しかしI中隊が1000に28高地の真南の高地帯を占領し、ここで「地覇」を掃討した第4連隊の偵察部隊と会合した。K中隊は朝I中隊が立ち去った場所に人員を配置し海岸地域を掃討した。







6月10日
 6月10日、米軍の攻撃は四周から強力なものがあり、沖縄方面根拠地隊司令部の所在する豊見城西側の74高地も戦闘の焦点となった。我が部隊は各方面勇戦したが逐次圧迫され、米軍の進出に伴い陣地を収縮しなければならない状況となった。

                                               沖根連合陸戦隊戦闘既報(抜粋)6月10日
  1 平良、宇榮田、伊良波方面及び高安、宜保、地覇方面敵兵力次第に増加。74高地に近接、午後より銃砲撃戦展開せり。
    4 金城、赤嶺、宇榮原の線においては、我敢闘逐次圧縮全兵力の一部陣地収縮を実施するの止むなきに至る。

10日牛島司令官は大田司令官に対し、真情を吐露する電報(原文不明)を送った。これに対し 大田司令官は10日次のように返電した。
 「小禄地区に敵を邀(むか)え一周日に際し、御懇電に接し感激に堪えず。海軍部隊が陸軍部隊と合流する能わざりしは真にやむを得ざるに出でたるものにて、もとより小官の本意に非ず。従って南北相分かるると雖も陸海軍協力一体の実情に於いては聊(いささ)かの微動あるものに非ず。今後は貴電に従って益々柔軟なる持久戦を以て敵に大出血を強要せんとす。尚戦果に就いては努めて正確を期し確認せるもののみを御報告す」



  第4連隊は6月10日には進撃速度が加速した。早朝には第2大隊の前線には戦車が到達できるようになった。0815までに支援火器は前進を支援する態勢に移行し0945には第29連隊との調整を終了し第2大隊の各中隊は攻撃態勢を整えた。30分ほどして第2大隊は突進しこの地区を瞰制する地域である58高地を確保し、じ後の2日間にわたり近接した部隊と相互火力支援できる防御態勢をとる準備を開始した。
 第1大隊は一部の戦力を58高地の第2大隊正面に投入するとともに、右翼が55(2)高地を占領した。小禄の戦いは最終段階を迎えた。




 第22連隊は北東の豊見城に向かって進撃し第4連隊と並列した。第1大隊は55高地を保持し55(1)高地に進出する第2大隊を援護した。第2大隊は0845にF中隊が縦隊で前進を開始し、E中隊がそれに続いた。G中隊(37mm砲小隊配属)は55(1)高地の反対斜面を砲撃して援護した。1045にF中隊は高地の尾根に到達し昼前には占領を宣言した。1500までにはG中隊も55(1)高地の頂上部に到達した。
 同じ頃、第3大隊は第4連隊第1大隊と連携して北東進するよう命令を受けた。K中隊は現地域に残留しI中隊が28高地を占領、第4連隊と会合するに至った。L中隊は第1大隊の地域に移動を命ぜられた。


 




6月11日
 
早朝から沖縄方面根拠地隊司令部の74高地は包囲攻撃を受け、司令部及び第951航空隊(10日夕74高地に集結)などは最後の勇をふるって奮闘した。

                           沖根聯合陸戦隊戦闘概報第○○号(抜粋)6月11日
1 宜保より北上の敵は1300戦車に伴う約50豊見城部落の南端に対し更に一部は豊見城城址高地に侵入せり
2 地覇、宇榮田方面より侵入の敵は戦車2両を先頭に1300、74高地西方300迄近接、肉攻斬込を以て激戦中なり

 
大田司令官は11日夜いよいよ最後の段階に入りたるものとし、牛島司令官あてに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり 根拠地隊は今11日2330玉砕す 従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」旨を電報した。小禄海軍部隊の組織的戦闘は、この夜をもって終了したものと推定される。

  

 
 22連隊は30分間の激しい攻撃準備射撃ののち、55(1)高地の第2大隊のE・F中隊は0825縦隊で進撃を開始、当初はG中隊がこの攻撃前進を火力支援した。0900までに攻撃部隊は豊見城南の高地帯を占領した。しかし0950になっても左翼が無防備のままその場所にあった。 大隊長はE中隊に第4連隊が左後方から前進して連携が取れるまでその場に留まるように命令した。G中隊はF中隊とともに頑強な63高地攻撃のために前進を開始。前進は1115に再興されたが、その5分後、1時間遅れて自走砲が63高地の斜面に猛烈な砲撃を加えた。
 第3大隊長はL中隊に63高地の東肩部を確保し第2大隊の援護を命じた。1145L中隊はこの命令を実行しこの場所を占領、その援護下に第2大隊が63高地に到達、1220には豊見城占領が宣言された。


 第3大隊は81mm迫撃砲の支援射撃により1435に53高地の攻撃を実施した。K中隊が第2大隊を超越し、L中隊が東から高地を包囲した。I中隊は大隊予備となった。左翼のK中隊は頑強な抵抗に遭遇しL中隊との連携をとった攻撃が不可能となった。しかし敵の反撃を引きつけることによりL中隊正面の敵火力が半減し、1450ついに53高地が占領された。







6月12日 
 6月11日から12日にかけての夜間、砲撃部隊は国場川を渡ろうとする日本軍を粉砕した。また第22連隊の前線から進入しようとした51名の兵士を殺害した。敵の頑強に相互支援された防御陣地が崩壊する兆候が現れた。第22連隊の各部隊は持ち場の防御を固め、前日までに確保した地域をさらに掃討した。第4連隊と第29連隊は豊見城の西側の敵陣地に引き続き圧力を加えた。
  第4連隊第3大隊はゆっくりとかつ注意深く敵の抵抗を排除し、洞窟陣地を封鎖しつつ前進を再開した。1550までに第3大隊は第22連隊と会合することができた。しかしこの日の終わりまでに前線から約500m前方の国場川の間の丘を残すこととなった。
 
 
第29連隊は終日この一週間敵が確保していた防御地帯の核となる場所を攻撃した。第2大隊は小禄村の掃討を完了し、第1大隊は夜明け前までに敵が網密な相互支援態勢を組んだ小禄西側高地に対する協同攻撃の準備を整えた。
 1540までに第29連隊第1大隊は敵抵抗線の中央部を突破し、第2大隊の左翼への浸透を援護した。F中隊は小禄村から攻撃発揮し直ちに部落の南にあるEasy Hill(第29海兵連隊の担任地域の最も強力な敵の拠点)を占領した。この鍵となる地域の占領により敵を小禄部落と53高地の間の平野部に追い込むこととなった。(この地域で86名の日本軍兵士が投降した)

            




6月13日 
 6月13日朝、第29連隊第3大隊は第1大隊と交代、第2大隊とともに行動地域の敵を撃滅するために攻撃を開始した。南東への進撃は順調であり両大隊は前線を押し上げた。同時に第3大隊は海岸方向へ転進した。小規模の戦火を交えながら各中隊は混乱した日本軍を水際の湿地帯に追い込んだ。予備中隊が火炎放射器を持って追従し洞窟を封鎖していった。
 戦闘は終息に向かった。敵は武器を放棄して海兵隊の接近に際して逃走するものもあった。多くの将兵が降伏したものの手榴弾をもって最後まで奮戦する者もあれば、絶望の中で手榴弾で自らの命を絶つ者もあった。
 海岸には昼頃に到達し、その後はサトウキビ畑や水田に潜む日本兵の掃討に費やした。海兵隊は午後遅く小禄における組織的な戦闘は終結したと報告した。

       
 
 
 
大田司令官は6月6日夜、沖縄県民の献身的作戦協力について海軍次官宛に次のように電報した。
062016番電
 左の電を次官に御通報方取計を得度
 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく32軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看破するに忍びず之に代つて緊急御通知申上ぐ
 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき 然れども本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ僅かに身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難尚砲爆撃下???風雨に曝されつつ乏しき生活に甘じありたり 而(しか)も若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦炊事婦はもとより砲弾運び挺進斬込隊すら申出るものあり 所謂敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られ毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍営門に捨つる親あり
 看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し見寄無き重傷者を助けて??真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず 更に軍に於いて作戦の大転換あるや自給自足夜の中に遙に遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり 之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫勤労奉仕物資節約を強要せられて御奉公の??を胸に抱きつつ遂に?ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形?一木一草焦土と化せん 糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂う 沖縄県民斯(か)く戦えり  県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを

 ※ 原文は漢字カナであるが漢字ひらがなにした
  ( )内は筆者の加筆である、また句読点も筆者の加筆である
 

    








丸山大隊は第32軍の島尻地区への撤退時に那覇市識名において残置部隊として奮戦、その後南部八重瀬岳に撤退したときには生存者22名であった

山口大隊は安里52高地の戦闘(シュガーローフの戦闘)に加入し、大隊約400名のうち生存者22名となった。

海軍部隊の南部撤退に際しては同司令部内にも強硬な反対意見があったという







    

真玉地区の戦闘は海軍部隊としているが、資料からすれば陸軍に配属した「山口大隊」と思われるが、その場合であれば海軍の指揮下での行動ではなく、加えて2日までの守備命令であった

以降、山口大隊の記述は見当たらず、その動向は明らかでない











    





第6戦車大隊B中隊の上陸は悪天候のため一日遅れた






    



雨は6月4日が特にひどかったようである。他方面の第1海兵師団も川の洪水などで進撃が停止状態となり補給もできない状態であった。6日以降天候は回復する











現在の明治橋は奥武山と那覇市を結ぶ橋であるが、当時は奥武山と小禄半島を結ぶ橋であった(下の古地図参照)



    






    






第32軍八原高級参謀によれば、軍司令部では海軍部隊は短時間で壊滅するであろうと考えていたようである



    

第4連隊は当初の計画通り當間付近から内陸に侵攻し豊見城地区に進撃予定であったと思われる



1945年1月3日米軍撮影の當間集落





    











57高地については一連の丘陵のうち一部しか現存せず正確な位置の確定には至らなかった。




奥武山(おおのやま)は上陸作戦や浮橋の構築が必要な島であった。現在は埋め立てられ当時の面影はなくなった

    










「シュガーローフ」とは那覇市北部安里52高地のことで、この戦闘で米軍は甚大な損害を受けた

米軍写真は南側から撮影と思われる

米軍資料では57高地南東に62高地があり、一連の嶺を形成していたようである。現在はショッピングセンターや新興住宅地でその痕跡は全くない

赤白タンクの後ろは整地された住宅地

    






「破壊された橋」の場所については確定できなかった

第29連隊第2大隊・第3大隊が大きく進撃できるのは日本軍の組織的戦闘がほぼ瓦解した12日になってからである。小禄西側高地や「Easy Hill」などの相互支援射撃で身動きできなかったのが実情である








    

  








    




 



小禄西側高地を奪取とあるが米軍が地下陣地内の日本軍の抵抗を排除できたのは11日である
 
      




  

    

7日には第1海兵師団第7連隊が小禄半島の南で海岸線に達している

















    





    

一応の進撃は果たしたものの、第4連隊と第29連隊はほとんど停止状態となった。この後は22連隊のみが南から進撃を果たすこととなる

    















28高地は戦術的に意味のない高地に思えるが、唯一直接的に第4連隊と連携の取れる場所であったと思われ、これで小禄半島内での日本軍に対する完全包囲が完成したと言える







    

    





















    
実数を上回る誇大な戦果が後の作戦指導を誤らせる結果となることを踏まえての返電であろう

    




















    

    























    

    










米陸軍の資料では63高地を62高地と記述しているが、ここは海兵隊資料に従った


63高地は削られて判別困難である




15分で占領と言うことから判断して、日本軍の抵抗はほとんどなかったものと思われる

    

    
















「Easy Hill」は日本側の資料には全く出てこない地名である。日本軍が考える以上に米軍にとってはその進撃を阻止された重要な拠点であったのであろう



    

    

13日には瀬長島の掃討が実施されたが、島内には日本軍の遺体のみが残されており、交戦の記録はない