142高地の戦闘   米軍呼称 Rockycrags                                                 2009年作成

142高地の戦闘

米軍のある書物に次のように記されている。

「沖縄戦そのものが激戦であったが、その中でも第1海兵師団の大名渓谷の戦闘、 第6海兵師団のシュガーローフの戦闘(日本名安里52高地)、 第7師団のロッキークラッグスの戦闘、 第77師団の石嶺高地の戦闘、 第96師団のコニカルヒルの戦闘(日本名運玉森)。 これらはそれぞれの師団が最も過酷な戦闘に巻き込まれた場所である」。
 その第7師団が戦った 「ロッキークラッグス」、日本名「142高地」は、現在琉球大学の西側に忘れ去られたようにひっそりと残されている。その山容は沖縄自動車道に削り取られ、更に再開発のあおりをうけて頂上部の土砂が持ち運ばれたために、当時の威容は見るべくもないが、この小さな丘が沖縄戦緒戦において果たした役割は果てしなく大きい。





     



4月9日
 独立歩兵第12大隊及び第14大隊正面の142高地陣地は9日米軍の猛攻を受けたが、激戦ののち撃退した。

 4月8日から9日にかけて第184連隊は攻撃を続け、9日には「ツームヒル」を攻略したことで、第7師団が一気に数百メートル前進することが可能となった。



4月10日
 142高地陣地の守備部隊は同陣地を確保して米軍の進出を阻止した。






4月11日〜18日

 4月13日、第62師団長は第一線の強化を図るため戦線を整理した。
 棚原正面増強のため独立歩兵第12大隊長に所要部隊を増加、同大隊長の指揮下部隊は次のとおりとなった。
   独立歩兵第12大隊
   独立歩兵第14大隊
   歩兵第22連隊第2大隊
 

 米軍記述事項なし (米軍は日本軍の主陣地帯と接触し、攻撃前進が停滞したため)



4月19日
 西原高地、我如古東側高地、142高地 (Rocky Crags)、南上原にわたる正面には独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊を基幹とする部隊が防御を担任していた。4月13日から独立歩兵第12大隊に配属となり、142高地付近にいた歩兵第22連隊第2大隊は17日に原隊へ復帰した。
 142高地の陣地(独立歩兵第12大隊、14大隊の混合守備)も0700頃から攻撃を受けたが、守備部隊は米軍の近接を待って迫撃砲、機関銃の不意急襲射撃を加えて撃退した。19日夜142高地所在の独立歩兵第14大隊の部隊は、大隊命令により西原の同大隊本部に撤退した。


 第7師団の右翼では、南北に延びる隆起珊瑚礁の尖った丘である「ロッキークラグス」を攻撃した。アメリカ軍は横に展開しつつ、さらに1.5kmほど後方にある棚原高地に向かう予定であった。
師団は2日間にわたってこの地区に激しい砲撃を加え、第184連隊第3大隊K中隊を「ロッキークラグス」の北端付近に配置した。斥候が接近したが何ら抵抗を受けることはなかった。何人かの日本兵が墓地付近で走り去るのを確認した。しかし、この地区に武器を配置して蜂の巣状にトンネルや壕を張り巡らしているなど考えもしなかった。ましてこの地区が砲迫射撃や機関銃射撃の火力集中点であり、正確な照準がなされていることなど夢にも思いもしなかった。4月19日K中隊は約200m前進をした。直後の0730、K中隊はこの火力集中点に踏み込んだと同時に、敵砲火によって地面に釘付けになった。左から掩護する予定だった部隊も「ロッキークラグス」からの熾烈な射撃によって身動きすら出来なかった。 K中隊は正午過ぎには東側斜面に沿って撤退、この日は一歩たりとも前進することは出来なかった。
 第7師団の4月19日の「ロッキークラッグズ」攻撃は全く進展がないままに終わっていた。この高地は178高地への北西側からの接近を制していた。約200m東の高台に機関銃陣地を構築し、南東の178高地と南の棚原高地及び西側の高地からは長射程の機関銃射撃および迫撃砲射撃によって「ロッキークラッグズ」は掩護されていたし、加えてそれ自体にも壕をトンネルで結んで蜂の巣状の陣地を構築していた。




4月20日
 142高地のわが陣地は20日米軍の猛攻を受けたが善戦して米軍を撃退して陣地を確保した。
 
4月20日の攻撃でも全く前進できなかった。178高地攻略はこの「ロッキークラッグズ」の奪取にその成否がかかっていた。師団の最重要地区は爾後この右地区に変更され、第184連隊に配属された第17連隊B中隊が1620には戦線に加入して来た。B中隊は少しばかり前進したものの、敵の手榴弾攻撃を受けて撤退し、その場に掩体を構築して夜を迎えた。

  




4月21日

 142高地は戦車・火焔戦車を伴う米軍の攻撃を受け、接戦となり陣地の一部は米軍に占領される状況となったが、夕刻には米軍を撃退して陣地を確保した。西原高地付近の戦闘には、わが迫撃砲、機関銃が極めて有効に支援した。

4月21日、B中隊は攻撃を再開したが直後には敵の機関銃射撃によって身動きが取れなくなった。戦車と火焔戦車が「ロッキークラッグズ」先端(北端)の西側斜面直前にまで迫り、これによって歩兵部隊はその西側斜面に進出した。この時、稜線の反対側に潜んでいた日本兵の会話する声が聞こえた。攻撃は稜線を越えて東側へ進出することに重点が置かれたが、ある兵士が稜線上に身を乗り出した瞬間に顔面に弾丸を浴びせられるなどして進出は出来なかった。西側にいた戦車部隊と歩兵部隊は南下して「ロッキークラッグズ」南端の西斜面に進出しようとしたがこれも失敗に帰した。B中隊は朝いた位置にまで撤退した。

    



4月22日
 142高地は22日午前近距離から155ミリ榴弾砲の射撃と同時に、戦車・火焔戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが、有効な我が砲兵、迫撃砲の支援火力を得て米軍を撃退した。この夜、独立歩兵第12大隊長賀谷大隊長は142高地の守備隊を棚原付近に後退させた。

城間北側同東側〜屋富祖東側〜58高地〜安波茶西北500m〜仲間西北側500m〜70.1高地〜嘉数〜西原北側地区〜142高地〜上原〜101〜掛久保


 4月22日、砲兵部隊の1個中隊が155o榴弾砲を「ロッキークラッグズ」まで約800mの位置にまで前進させた。ここから7回にわたって東側斜面を砲撃した。高地の隆起珊瑚礁岩が吹き飛ぶのが見えた。吹き飛んだ場所の機関銃が猛然と反撃し、砲兵の2名に命中、他の兵とたまたまその場所に居合わせた師団長も身動きできなくなった。戦車部隊と歩兵部隊が前進を開始し「ロッキークラッグズ」西側の開けた場所を横切った。火焔戦車は南端部に接近して火焔放射を実施した。8名の日本兵が爆雷を持って飛び出してきたが戦車に肉薄する前に倒された。火焔放射で立ち昇った黒煙が解消されたと同時に歩兵部隊は戦車部隊の後方に続行して「ロッキークラッグズ」の麓に辿り着いた。しかし日本兵が再び現れ、上から機関銃射撃を加えながら手榴弾を下に投げ降ろしたり、稜線上からは擲弾筒射撃を加えた。数分の内に小隊の12名が負傷した。またある小隊は稜線付近で近接手榴弾戦に陥った。戦車が1両砲弾を受けて火焔に包まれた。昼頃には攻撃を一時中断し、中隊を再編し、負傷者を後送した後の1600から攻撃を再度開始する計画を立てた。
 155o榴弾砲は朝から身動きできなくなっていたが、煙幕下にその位置を変更した。その位置から再度射撃を開始して43発の砲弾を撃ち込んだ。「ロッキークラッグズ」の形状は一変した。新たに露出した珊瑚礁岩が白く光って見えた。
 1600、2個小隊が西側斜面への攻撃を再開した。3両の中戦車と3両の火焔戦車が射撃と火焔放射を行いながら先行した。歩兵部隊は日本兵が小銃に弾を装填している音が聞こえるほど陣地に接近した。同時に敵の砲兵射撃が開始され、再度稜線上から手榴弾が投げ込まれ、擲弾筒射撃が始まった。この反撃で31名中18名が死傷、5名のみが戦闘を継続した。この日の終わりまでに第17連隊B中隊は2日間の戦闘でその40%を失っていた。東側斜面を担当した第184連隊は「ロッキークラッグズ」やそれを掩護する陣地を実質上全く制することは出来なかった。
 
 B中隊の大損害を受けて、第17連隊第1大隊の残りの部隊が23日の攻撃を担当することになった。攻撃に先だってありとあらゆる火器をつぎ込んで「ロッキークラッグズ」を砲撃し、火焔戦車で焼き尽くした。敵の抵抗はほとんどなかった。1030、「ロッキークラッグズ」はアメリカ軍の占領するところとなった。4日間の戦闘で第184連隊第3大隊は186名の死傷者を、第17連隊第1大隊B中隊は2日間で57名の死傷者を生じた。合計で243名もの死傷者を出す結果となったのである。



        
 東側から見た142高地。左は米軍が戦闘直後に撮影したもので、一部に日本軍の壕が見える。右は現在の写真。ほぼ現存していると言える


142高地は、日本軍側では「千原陣地」とも呼ばれ、一部の資料では「141高地」と記されたものもある。 

















日本軍の主陣地帯(第一線陣地)は、西原高地〜我如古東側高地〜142高地〜155高地を結ぶ線であった。
142高地は北上原陣地から南下してくる米軍のみならず、我如古東側高地・我如古南側高地に進出する米軍を側射する、この地域一帯の要となる陣地であった。



























当初の所在部隊であった独立歩兵第14大隊が後退してきた独立歩兵第12大隊長の指揮下に入ることに多いに疑問が残るところであるが、おそらく12大隊長が14大隊長よりも先任(階級上位)のための処置であろうと推察する。



4月19日時点での142高地所在部隊については、日本軍側の公刊戦史には詳しい記述がない。
 しかし戦後作成された、独立歩兵第12大隊史実資料・独立歩兵第14大隊史実資料等から、
・独立歩兵第12大隊第4中隊
・独立歩兵第14大隊機関銃中隊
・独立歩兵第14大隊大隊砲中隊
と推察される。

独立歩兵第14大隊機関銃中隊・大隊砲中隊の142高地からの後退時期は、一部手記には22日とする記録があるが、史実資料は19日夜としている。
















20日からの戦闘は、独立歩兵第12大隊第4中隊が遂行している。
第4中隊は、米軍上陸直後から第一線で戦闘を継続、第1小隊・第3小隊は緒戦でほぼ全滅しているため、実戦力は2個小隊程度(50%)まで激減していたと思われる。






















































米砲兵部隊の位置は、記録から推定して「Triangulation Hill」と思われる。 この位置の砲兵に機関銃弾が浴びせられたことから考えて、142高地の日本軍は重機関銃を装備していたようだ。


















22日夜に日本軍は後退しており、当然の事ながら23日の米軍攻撃に対しては全くの無反撃であった。 この戦闘においては、米軍の死傷者数は日本軍の死傷者数を上回っていた可能性がある。