島尻南部の戦闘総史                                                                 2012年作成
島尻南部の戦闘総史

1 「島尻南部の戦闘総史」のについて

 「島尻南部の戦闘総史」は、日本軍(沖縄第32軍)の首里撤退後から沖縄戦終結までの最後の戦い全般を記述したものである。
 沖縄第32軍は、第24師団・独立混成第44旅団を第一線部隊として主陣地線を構築し、第62師団を沖縄第32軍予備として後方に配置したが、これまでの戦闘とは異なり、戦闘地域が広範であり、同時並行的に第24師団正面と独立混成第44旅団正面の戦闘を記述することが困難なため、各地区の戦闘を統合して日米両軍全般の動きを知るために「戦闘総史」として設定した。 ただし、島尻南部の戦闘は当時の通信事情や部隊が解隊・全滅となったこともあり、正確な記録が残されていない場合が多く、そのため以下ことについて注意を必要とする。
 (1) 日米両軍の部隊位置 
     日米両軍の部隊位置(陣地)は、両軍の公刊戦史に基づいているが、特に日本軍側の陣地は正確な
   記録が残されていない場合が多く、その場合は米軍側の記録による交戦状況や戦術の妥当性から筆者
   の推定によって記述した部分がある。
 (2) 日本軍部隊の陣地表示
     首里撤退以前は戦術的観点から明確に陣地を構築していたが、島尻南部の戦闘においては十分な
   陣地構築の時間がなく、それぞれが自然洞窟や沖縄戦開戦以前に米軍が南部から上陸侵攻してくることを前提に構築された壕を利用して陣地とした。 したがって、線で示すように
   明確な陣地ではなく、前後周辺に散在している状況が多い。
 (3) 日本側の記録は、各部隊が戦後に記述した「史実資料」を優先して採用した。 したがって日本軍公刊戦史である「戦史叢書」とは異なった部隊位置や記述がある。


2 日本軍の陣地配備
 
   日本軍陣地はいずれも前方に平野部が広がる台端を第一線陣地としたことがわかる
  

  ※ 細部部隊配置は「国吉台地の戦闘」「与座地区の戦闘」「具志頭・八重瀬岳地区の戦闘」を参照



3 島尻南部の戦闘推移

 6月6日
  
 1 米海兵隊は糸満市を中心とする西部戦線を担任したが、第6海兵師団の小禄地区の戦闘(6月13日戦闘終了)により第1海兵師団の進出も遅れ、その結果東部戦線を担任す
  る陸軍部隊が八重瀬岳・具志頭地区に早く到達した。
 2 独立混成第44旅団の前進陣地である、新城前進陣地(第2歩兵隊第3大隊)及び具志頭陣地(独立混成第15連隊第1大隊) が米軍部隊と交戦に至った
 3 八重瀬岳を守備する特設第6連隊及び海軍勝田大隊が米軍の攻撃を受けるが撃退



 6月7日
  
 1 新城前進陣地 (第2歩兵隊第3大隊) が米軍に包囲され馬乗り攻撃を受ける
  2 具志頭前進陣地 (独立混成第15連隊第1大隊) はその重要性から主陣地に変更された



6月8日
  
 1 6月6日から7日にかけて小禄地区が第6海兵師団によって封鎖されたために第1海兵師団が南下可能となった。 第1海兵師団(第1海兵連隊・第5海兵連隊・第7海兵連隊)
  は報得川(むくげがわ)北岸に進出し攻撃準備を実施した
 2 新城前進陣地 (第2歩兵隊第3大隊) は敵中に孤立、各中隊とも死傷者増大したため大隊本部壕に集結
 3 前進陣地である独立混成第15連隊第2大隊陣地が米軍により一部突破され、夜間に離脱撤退


6月9日
  
 1 第6海兵師団隷下の第7海兵連隊が報得川を渡河し日本軍前進陣地を攻撃するが、いづれも撃退される。 西部戦線の米軍部隊は攻撃準備のためほとんど行動せず。
 2 新城前進陣地 (第2歩兵隊第3大隊) が夜間撤退
 3 米第17連隊第3大隊が日本軍主陣地帯に取り付く

 
 
6月10日
  
 1 西部戦線の米軍部隊(第6海兵師団、第96師団)が攻撃を開始。 与座集落南側の歩兵第89連隊第2大隊が米軍と直接交戦したが、他は日本軍前進陣地での戦闘であった。
  2 東部戦線では第17連隊第3大隊が日本軍主陣地の一角を確保する。
  3 具志頭陣地の独立混成第15連隊第1大隊が重囲に陥り分断孤立の状況となる



6月11日
   
  1 西部戦線では第1海兵連隊第2大隊が69高地に進出。第1海兵連隊第1大隊が与座西側高地で日本軍の集中攻撃を受け身動き出来ない状況
  2 具志頭陣地の独立混成第15連隊第1大隊は訣別電を発して総員斬込を実施
  3 東部戦線右翼の日本軍主陣地の核心であった91高地が米軍に占領される。 日本軍主陣地の一部が突破された。

 
6月12日
  
 1 西部戦線「国吉台地の戦闘」が開始される。 米軍が歩兵第32連隊陣地に到達するが、損害は米軍側の方が大きい。
 2 東部戦線の八重瀬岳南東側に霧に乗じて米軍が侵入する。東部戦線の日本軍(独立混成第44旅団)は一気に危機を迎えるが、情報が混乱し沖縄第32軍司令部は適切な処
  置が出来ない。
 3 沖縄第32軍司令部は、予備である第62師団を独立混成44旅団への増強を決定。                                                                                                                                                                      


6月13日
  
 1 西部戦線「国吉台地の戦闘」において、日本軍守備隊歩兵第32連隊陣地に達した第7海兵連隊は十分な補給も負傷者の後送も出来ず、一旦平地部へ撤退、戦線の再構築を
   図る。与座集落周辺では日本軍の与座岳からの良好な観測により米軍の進撃は膠着状態となる。
 2 東部戦線八重瀬岳台上に米軍戦車が進出。独立歩兵第23大隊第5中隊は全滅の危機に瀕する。 また玻名城の特設第3連隊が壊滅状態となり、いよいよ独立混成44旅団の
  戦線破綻が現実味を帯びてくる。 

                                

6月14日
  
 1 西部戦線「国吉台地の戦闘」において米軍が再度日本軍陣内に侵入するが、ことごとく撃退される。 ただし歩兵第32連隊第2大隊陣地の一部が米軍によって確保され、日本
  軍戦線の一部に綻びが見え始める。
 2 東部戦線では八重瀬岳頂上部がついに米軍に占領される。 これにより右翼からの米軍進出を恐れる第24師団が歩兵第89連隊第1大隊を後方へ移動させて、与座岳〜158
  高地に戦線を構築。
 3 八重瀬台上の独立歩兵第23大隊第5中隊が全滅。 八重瀬岳南東側には日本軍部隊が不在となり、米軍は一気に158高地へ進出を企図する。
 4 独立混成44旅団は91高地を奪還して陣地の回復を図るが、攻撃部隊はほぼ全滅した。これで戦線の破綻が明確になった。


6月15日
  
 1 西部戦線国吉台地の戦闘は依然膠着状態であるが、日本軍側の犠牲者が増大し、米軍の戦線突破も時間の問題となる。
  2 西部戦線与座岳南東側の歩兵第89連隊第1大隊が米軍に突破される。 日本軍第24師団にも戦線破綻の危機が迫ってくる。
  3 八重瀬岳台上は完全に米軍に制せられる。 独立混成44旅団は122高地を中心として戦線の維持を図るが、すでに戦力は尽き果て、米軍戦車に対抗する術はない。


6月16日
  
   1 西部戦線国吉台地の戦闘において、米軍がついに日本軍陣地上に地歩を確保する。
   2 与座岳が米軍に占領される。 これにより日本軍は砲兵の観測点を失い、有効な射撃効果を得られなくなり、組織的な戦闘を発揮することが出来ない。


6月17日
  
 1 西部戦線国吉台地の戦闘において、米軍が日本軍主陣地を突破、第24師団左翼戦線は壊滅した。
 2 東部戦線の独立混成44旅団はほぼ戦力を失い、代わりに第62師団が第一線に進出するが、有効な機動力も戦力もなく、組織的戦闘はついに破綻する。


6月18日
  
 1 西部戦線には組織立った日本軍部隊はなく、沖縄県民と日本軍将兵は南部喜屋武岬方面に向かって南下を続ける。
 2 東部戦線には疲弊した第62師団隷下部隊が戦線を形成しようと企図するが、各部隊とも各個に撃破されて壊滅状態となる。



6月19日
  
 日本軍は真栄平・真壁・摩文仁に封入される。事実上日本軍の戦闘は終結した。


6月20日〜22日
  
 この3日間は米軍の日本軍殲滅作戦である。 22日正午頃に摩文仁集落で沖縄第32軍司令部守備隊の銃声が消え、これで全ての戦闘が終結したものと考えられる。