具志頭・八重瀬岳地区の戦闘                                                                     2012年作成
具志頭・八重瀬岳地区の戦闘

1 戦闘までの概要 

 5月29日夜、沖縄第32軍は首里地区から喜屋武半島への後退を下令した。 第24師団、第62師団、独立混成第44旅団は混乱の中に戦闘を継続しつつ、概ね整斉と6月3日頃までに島尻南部に後退を完了した。
 軍は、後退してくる各部隊を掌握して陣地配備につかせる一方、混乱した部隊を整理・再編成して戦力化に努めた。 しかしながら、兵力数をはじめ主力兵器数さえ実数を把握することが出来ず、その後の統制した戦闘力の発揮に大いに懸念を持たざるを得ない状況となった。 加えて当初の予想よりも早く米軍が追撃してきたことで、第一線陣地は後退後の混乱の中で防御陣地構築に充分な時間も休養も与えられることなく戦闘が開始された。

この頃、喜屋武半島は後退してくる軍と住民が各所で混乱を生じていた。5月29日に第24師団と島田沖縄県知事が連絡会議を開き、住民の知念半島への立退きを議題としたが、この時すでに米軍が知念半島に進出し不可能であった。





2 部隊編成

独立混成第44旅団 
(1)  独立混成第15連隊(総員200数十名)
   連隊長 美田千賀藏 大佐 
 ア 第1大隊
     大隊長  野崎大尉
    大隊固有兵員約70+配属部隊(6月5日時点) 
 イ  第2大隊
    大隊長 中島少佐(独立速射砲第7大隊長から)
    約30名(5月30日時点、全員負傷者)
 ウ 第3大隊
    大隊長 西村少佐
    兵力80〜90名(負傷者含む)
    第7中隊長 高橋中尉、第8中隊長 今井曹長
    第9中隊長 志村大尉(第9中隊+海軍草野隊)
 エ 第4大隊(臨時編成)
    大隊長 伊藤少佐(特編大隊長から)
    +海軍伊藤大隊
 オ 連隊砲(歩兵砲)中隊
    残存者は丸池部隊として第1大隊へ
 カ 速射砲中隊
    残存者はは各隊へ
 キ 工兵中隊
   5月18日に残存者は各大隊に配属され解隊  

(2)  第2歩兵隊第3大隊(総員約600名)
   大隊長 尾崎大尉
   新城警戒陣地での戦闘前の兵力の記述なし。(5月8日より首里戦線で戦闘に参加しているため、相当数の減員となっていると思われる)

(3) 配属部隊
 ア 独立速射砲第7大隊       詳細不明なるも6月12日に仲座で斬込玉砕の記録 (記述は「玉城村中座」とあるがおそらく誤記)
 イ 独立歩兵第23大隊第5中隊  特設第6連隊へ配属(5月6日に特設第6連隊へ配属され、那覇地区の戦闘を経てここに至る)
 ウ 独立臼砲第1連隊         6月6日独立混成第44旅団に配属され中地区隊長として独立混成第15連隊第3大隊を指揮
 エ 特設第6連隊            平賀中佐は左地区隊長として海軍丸山大隊・独立歩兵第23大隊第5中隊指揮
 オ 臨時編成高射歩兵第2大隊  詳細不明
 カ 独立高射砲第27大隊      第1中隊は具志頭付近、第2中隊は輿座仲座付近、第3中隊は具志頭陣地で戦闘
 キ 海軍丸山大隊           特設第6連隊へ配属
 ク 海軍勝田大隊           詳細不明なるも、海軍資料から残存約30名程度と推察
                        (八原高級参謀手記から兵力百数十名で旅団直轄と推定)
 ケ 海軍伊藤大隊             第4大隊へ配属
 コ 重砲兵第7連隊            知念支隊として6月5日輿座仲座より知念に向かい後方攪乱任務。
                      (残された史実資料には知念半島に向かった記録はなく、解隊状況を呈して統制した行動を行っていない) 
 サ  船舶工兵第23連隊        知念支隊として6月5日与座仲座より知念へ。 17日知念村知名で部隊長戦死。
                      (21日に摩文仁西の山城・米須地区で斬込玉砕の記録もあり、詳細不明)
 シ 特設第3連隊          独立混成第15連隊第4大隊に配属されているようであるが細部不詳

  




3 日本軍の部隊配置(戦闘開始時)  
 
日本軍の部隊配置については正確な資料がなく、日本軍側の公刊戦史である「戦史叢書」においても曖昧な点が見受けられる。 このため生存者の手記や各部隊の史実資料等からの情報を組み合わせて筆者が作成した。(戦史叢書における部隊名のない陣地位置を基盤として作成)

(1) 特設第6連隊(平賀隊)
   部隊配置の記録が残されていないが、沖縄第32
  軍八原高級参謀の記録から、八重瀬岳台上に部隊
  を配置せず八重瀬岳山脚北東部にあったと思われ
  配属の海軍丸山大隊も同様に八重瀬岳山脚部に
  配置されたと考えられる。

(2) 海軍勝田大隊
    同じく八原高級参謀の記録から唯一台上に配置
  された部隊とある。

(3) 独立歩兵第23大隊第5中隊
   独立歩兵第23大隊史実資料による陣地位置

(4) 独立混成第15連隊
  ア 第1大隊・第2大隊・第3大隊は各大隊の史実
   資料による陣地位置
  イ 第4大隊(+特設第3連隊)は、戦史叢書の記
   述内容からの推定

(5) 第2歩兵隊第3大隊
   第2歩兵隊第3大隊史実資料による陣地位置


【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
独立混成第44旅団は、平賀特設連隊(特設第6連隊)をもって八重瀬岳を、爾余の旅団主力をもって、与座・仲座を中心とする平地方面を占領した。ところがこの肝心な平賀連隊が八重瀬岳を直接占領せず、その北東麓断崖下に陣してしまったことが後日判明した。高地上は飲料水がなく、砲爆の目標となり、しかも拠るべき陣地がないためなのか、或いは部隊の素質に鑑み背水ならぬ背断崖の陣地を占領したのか? いずれにせよ、重要な八重瀬岳ががらあきになり、万一平地から敵が突破侵入してこの高地に駆け上がれば、苦もなく敵に落ちる。 そこで私は同高地の占領を強化するように督励したが、独立混成第44旅団は海軍勝田大隊を山上に配置したのみであった。





具志頭・八重瀬岳地区の戦闘


6月5日

与那原方面から南下した米軍は、我が62師団の撤退に伴い、早くも6月5日独立混成第44旅団正面の具志頭付近に出現して(約200名)来た。
 新城南方の警戒部隊及び具志頭の前進陣地は6月5日から米軍の攻撃を受ける状態となった。
 独立歩兵第44旅団の左地区隊平賀中佐は5日海軍丸山大隊の一部を東風平南東地区に派遣して警戒部隊とし、陣地占領掩護と友軍の撤退支援にあたらせた。
 第62師団の撤退に伴い、重砲兵第7連隊長樋口大佐の指揮する大里支隊(重砲兵第7連隊及び船舶工兵第23連隊)は独立混成第44旅団長の指揮下に入った。6月5日夜樋口大佐は残存者を率いて、与座仲座に後退してきたが、独立混成第44旅団長は大里支隊に糸敷高地を根拠として米軍の背後を攪乱すべきことを命じ同夜糸敷高地に向かわせた。
 軍の撤退掩護のため志多伯付近にあった重砲も5日夜南部に撤退した。



6月6日
 6日朝世名城に浸透した有力な米軍が八重瀬岳北側に向かって攻撃してきた。所在部隊(船舶工兵、丸山大隊等)は来攻した米軍に急襲火力を浴びせ多大の損害を与えて撃退した。
 具志頭の前進陣地及び新城南方の警戒陣地も米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退した。
 6日独立臼方第1連隊が独立混成第44旅団長の指揮下に入り、同旅団の中地区隊となった。

 八重瀬岳に一番近い位置にあった第381連隊が最初の攻撃部隊となった。 八重瀬岳の西側断崖には中間地点に一段突き出した部分があった。連隊長は第1大隊に対してこの部分に兵を進めるよう命じ、あわよくばこの突出した敵陣地に対して西側から側面攻撃を仕掛けようと考えた。
 
6月6日朝、第1大隊長は八重瀬岳の散発的な抵抗を見て、一気に部隊を八重瀬岳に引き上げようと考えた。そのためにB中隊を先遣させて断崖周辺の状況を探らせた。 3個分隊からなる偵察部隊がまず敵火の中を前進したが、この敵の位置が思いの外洞窟深くにあるために手榴弾では制圧出来なかったが、何とか断崖の下に辿り着いた。中隊の残りがこれに続行し、さらにC中隊がB中隊の左に進出して並列となった。正午頃から沖縄最大の断崖に対して最初の攻撃を開始した。 C中隊が断崖麓の水田を越え、B中隊が断崖の中頃にあるせり出しに向かって急な斜面を登り始めた。この攻撃は日本軍の意表を突いたようで、敵の対応は遅れたかのように思われた。
 だが日本軍は米軍が予め定めていた機関銃射撃位置に入って来るをのじっと待っており、この地域に立ち入ると同時に一斉に射撃を開始した。大隊長は直ちに撤退の態勢を取り、砲兵大隊に対して両中隊の前面に煙弾を撃ち込むように要請した。 だがこれはうまく行かず、多くの将兵が元の位置に撤退できたのは日が暮れてからであった。 C中隊は戦死5名、負傷者多数、B中隊は行方不明者14名を含む死傷者43名であった。行方不明者のうち4名は戦死、2名が翌朝に帰隊、8名は敵陣地付近で身動き出来なかったことが後に判明した(8名のうち3名が戦死、5名は14日まで動けず)。
 翌日から3日間第96師団は八重瀬岳断崖に対して砲兵射撃や航空攻撃を加え、敵の射撃位置や強力な拠点を探り続けた。

   



6月7日
 7日米軍は八重瀬岳地区に猛烈な砲爆撃を加えると共に、独立混成第44旅団正面に猛攻してきた。
 新城南方の警戒陣地(第2歩兵隊第3大隊)は夕刻には馬乗り攻撃を受けるに至った。
 東風平南東地区にあった警戒部隊(海軍丸山大隊)は、5日以来米軍の重囲の中で奮戦し、7日夜八重瀬岳陣地に撤退した。総員65名中43名の損害を生じた。
 独立混成第44旅団長は、当初具志頭付近を前進陣地とするよう命令していたが、同地の重要性に鑑み、7日主陣地としてこれを保持することを独立混成第15連隊長に命じた。


「第2歩兵隊第3大隊史実資料」
 6月7日、湊川正面及び新城南方の敵の攻撃熾烈となり、大隊は勇戦奮闘するも我に利あらず、17時頃敵の馬乗り攻撃を受く。



        
     第2歩兵隊第3大隊の陣地構成 (左は昭和23年の米軍地図に陣地を記入したもの。 右は平成22年の地図に陣地を記入したもの)

   

   



6月8日

 独立混成第44旅団正面は昨日に引き続き8日朝から米軍の猛攻を受けた。新城南方の警戒部隊は洞窟陣地に立て籠もって陣地を固守した。具志頭台上の美田連隊第1大隊も多大の損害を受けながらも陣地を保持した。
 鈴木旅団の右地区隊(美田連隊)の前進陣地(第2大隊富盛南側の田原付近)は多大の損害を受けたため、連隊長は8日夜同部隊を玻名城南方に後退させて連隊の予備隊とした。撤退した兵力は大隊長以下20数名に過ぎなかった。
 8日湊川付近においては、米軍の揚陸作業が行われ、これを見た軍としては砲撃撃沈を企図したが、15糎可農砲が使用不能のため口惜しい思いであった。

【第2歩兵隊第3大隊史実資料】
 未明各大隊は大隊本部壕に集結命令を受け集結す。本集結に当たり、第7中隊の山田分隊は殆ど全員戦死し、第7中隊第3小隊長渡辺豊三郎少尉負傷し、中隊指揮班長奥野久人曹長戦死し、第7中隊は本戦闘にあたり相当の戦死傷者を出せリ。


一番激しい戦闘は東端地区第7師団正面で行われた。第184連隊第1大隊B中隊は95高地
(日本軍は91高地と呼称)の北東で激しい戦闘に陥っていた。沖縄独特の荒々しい峰が約900mに渡って続く隆起珊瑚礁の台地であった。そこは日本軍兵士が潜む無数の洞窟があり、陣地が幾重にも取り巻いていた。峰全体が敵火力によって制せられ、95高地以外の場所から常に米軍兵士の動きが観測されていた。前進は困難で、中隊が攻撃前進しても進出できるのは僅かばかりに限られた。6日から9日にかけて第17連隊の攻撃地帯で約2km進出したのが最大の進出距離であった。
 

 第32連隊は知念半島における偵察を6日間行い、6月8日午後に南進を開始、第184連隊との交代を企図した。道路状況は改善され、多くの補給品が港川地区に陸揚げされた。戦車2個中隊が前線付近に置かれ、残りは更に前方へ展開した。師団長アーノルド将軍は、日本軍の新陣地に対して6月9日0730から一撃を加える計画であった。それには二つの目標が設定された。第32連隊第1大隊には前面の95高地一帯の弱体化、第17連隊第3大隊には八重瀬岳の斜面がなだらかに下った位置にある安里集落北側に位置するポイントの確保であった。



6月9日

 独立混成第44旅団正面は戦車16両を伴う有力な米軍の攻撃を受け、新城南側の警戒陣地は包囲され多大の損害を受けながらも防戦に努めた。
 具志頭台地の美田連隊第1大隊地区にも一部の米軍が侵入して来たが夕刻には撃退した。安里北側地区の美田連隊第3大隊(中地区隊長独立臼方第1連隊長の指揮下)の主陣地前に米軍は逐次浸透してきた。
 独立混成第44旅団長は9日夜新城南側の警戒陣地に後退を命じた。同守備の第2歩兵隊第3大隊は9日2400頃から敵中を突破し仲座付近に後退したが、戦力は大隊長以下80余名となっていた。

【第2歩兵隊第3大隊史実資料】
8時頃敵は大隊本部壕に黄燐弾により攻撃し来たる。我が防毒面を所持せざる将兵は非常に苦痛を感じ壕外に飛び出し戦死せる状況にあり。爆雷攻撃・黄燐弾射撃等、夕刻まで4回ないし5回まで実施せり。16時頃より敵は壕外200mの丘陵に陣地を構築し始めたるにより、機関銃2個分隊をもってこれを撃退したり。21時頃大隊は仲座に撤退を命ぜられたため、各中隊は3〜5名を一組とし、距離50m〜100mを取り、24時から撤退を開始す。

   

 第17連隊第3大隊の最大の問題は、前面に広がる開豁地を2個中隊に渡りきらせることであった。  大隊長は掩護できる全ての火器を使用し、兵士には徹底したカモフラージュを指示した。 しかしながら先頭小隊がその地域に脚を踏み入れた直後から日本軍の射撃が開始された。 兵士達はぬかるむ水田を這い回った。I中隊は攻撃発揮位置から1時間かけてようやく2個分隊が目標の麓に辿り着いた。これを見て日本軍は新たな拠点から機関銃射撃を開始し、分隊は主力と分断されたが、左にいた分隊だけが攻撃前進を続けた。I中隊の残りの将兵は結局敵の火力に分断され、水田の中のクリークで動くことが出来なかった。

 I 中隊の左分隊は何とか崖の端に達し、草茂る頂上部に向かい静かに匍匐前進した。 ある兵士は日本兵のかかとを掴んで刺殺し、また別の兵士は10分間で8名以上の日本兵を刺殺した。 予定より1時間遅れで頂上に到達したが、激しい日本軍の射撃により8名が戦死した。結局I中隊の12名が夕刻までにこの小さな目標を確保した。
 K中隊は目標から約250m手前で正確な敵の射撃を受け1名が戦死、2名が負傷した。ここで中隊の前進が停止したが、9名の兵士が敵の射撃を避けつつ前方へ向かい、高台に辿り着いた。そこから中隊に対して射撃している敵機関銃に集中射撃を浴びせた。K中隊は45分間動くことが出来なかったが、その後1330までに八重瀬岳の南東端に辿り着いた。

   

   

   6月9日夜明け前、第32連隊C中隊の警戒隊が95高地
(日本軍呼称91高地)正面の隆起珊瑚礁の峰を偵察したが、日本軍は、重装備のC中隊主力が攻撃開始して100mほど前進する前から素早く反撃して来た。どのように頭を低くしても敵の射撃は的確で、前進しようとしても小銃・機関銃・擲弾筒までもが集中し、弾着と共に鋭い角の珊瑚礁の跳ね石が兵士に襲いかかった。中隊長は戦線を保持しつつ、95高地に砲兵射撃を要求、通算で2000発の砲弾が撃ち込まれた。と同時に1個小隊が95高地具志頭側の2カ所の強力な敵の拠点を破壊した。この攻撃は部分的に成功を収めた。小隊は13名の日本兵を殺害し、最も危険な機関銃を破壊したが、夕刻には元の位置に復帰した。
   




6月10日

 独立混成第44旅団正面特に具志頭、玻名城、安里付近は10日早朝から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。
 米軍は具志頭陣地を制し、玻名城東側の91高地前方に進出してきた。具志頭陣地(美田連隊第1大隊基幹)は分断孤立の状態となり、安里北側台地にも米軍が進出し安里正面は危険な状況となった。
 
 6月10日、戦車部隊は0600から前進を開始した。
 第32連隊第1大隊C中隊は95高地の瀕死の日本軍に未だ苦戦していた。攻撃2日目(6月10日)も海軍の艦砲射撃が高地の側面を砲撃し、砲兵や戦車部隊、機関銃などで95高地の頂上部やその側面を射撃し続けた。それとともに第2大隊が玻名城集落に向かって攻撃を開始したが、日本軍は決して撤退することはなかった。 C中隊は前進とともに敵を駆逐し、昼までには95高地北東端に位置して散発的に射撃してくる2箇所の日本軍の拠点を除いて概ね敵を制圧した。連隊長はここで火焔放射の使用を提案した。
  第713火焔戦車大隊C中隊長は一両の火焔戦車を2箇所の敵拠点の麓に移動させ、それに火焔燃料を送るため特別に用意した約200mのホースを取付た。 2箇所の敵拠点に向かってナパームを注ぎ込み、中にいた35〜40名の日本兵をあぶり出し、出てきた日本兵を小銃や機関銃で射殺した。 第1大隊は夕刻までに日本兵を駆逐して防御線を構築した。  逆襲部隊は迫撃砲の掩護下に手榴弾を携行してC中隊に襲いかかり、さらに突進して他の第一線中隊にも攻撃を加えた。この2日間の戦闘でC中隊は戦死者10名を含む計43名の死傷者を生じた。

   


【八重瀬岳北側】

八重瀬岳北側からも米軍の攻撃を受け、大部は撃退したが、八重瀬岳北側断崖下の台地が占領された。

 第381連隊は八重瀬岳を攻撃した。
 第381連隊は、急峻な高地である八重瀬岳からその前進を阻まれた。 ここは6月6日に第381連隊第1大隊B中隊とC中隊が八重瀬岳下の平らな部分(岩棚)に進出したものの、日本軍の反撃によって煙幕下に撤退せざるを得なかった場所でもある。 激しい砲撃に耐えた日本軍は4日間この場所を死守したが、今回は同じルートながらも戦車の支援を受けつつ攻撃を行った。
 しかし厳しい地形と地雷原で戦車は有効に使用出来ず、 B中隊とC中隊は戦車なしで突進、0900までに3個小隊が、前回進出した岩棚にまで達することが出来た。 だが日本軍の機関銃が以前と同じく正確な射撃を加え、前進は再度阻止された。 攻撃部隊の半数がこの岩棚に辿り着いたが、残り半数は後方の水田の中に取り残されるた。 中隊長は何とかして部隊を前進させようと試みたが、夕方になってもどの手段も不成功であった。 水田にいる部隊を煙幕下に前進させ、夜に備えて防御線を準備させようとしたが、煙幕が消散しても両中隊ともその位置から動けなかった。
 6月11日夜明け前に第1大隊の残りの部隊が前進し二つの中隊に合流した。 第381連隊は11日には戦果を拡張せず、戦車砲と砲兵部隊に八重瀬岳の日本軍洞窟陣地攻撃を依頼した。
 
   




6月11日
 具志頭、安里付近は11日も引き続き米軍の猛攻を受け、玻名城東方の91高地頂上付近は米軍の占領され、玻名城集落、安里集落、安里北側断崖に続く主要陣地も辛うじて保持する状況となった。独立混成第44旅団長は91高地の奪回攻撃、安里方面の増援などの処置を採ったが、91高地の奪回は出来ず頂上近くで米軍と対峙した。
 具志頭陣地で抵抗を続けていた美田連隊第1大隊はいよいよ兵力消耗し、大隊長野崎大尉以下20余名は 11日夜旅団に訣別電を発して総員斬込みを敢行しほとんどが戦死した。

【独立混成第15連隊第1大隊史実資料】
6月11日、大隊は善戦又善戦、具志頭台死守に決し最後まで奮闘す。同夜大隊長は最期の無線を打電、残存兵力二十数名を数班に分ち各個撃破を画して斬込を敢闘し局部的戦闘に移行す。


   
      
 6月11日朝、 32連隊第1大隊はB中隊を先頭中隊として高地の北東端へ向かったが、戦車や砲兵部隊の射撃による土埃で一部視界が悪くなり、加えて生き残った敵の陣地から機関銃射撃を受けて部隊の進撃が阻止された。 この状況を見て火焔戦車の投入が決定された。 
 第713火焔戦車大隊C中隊長は火焔戦車を95高地に隣接する玻名城に進め、そこから歩兵部隊が登坂しようとしていた断崖に対して攻撃を行った。 この攻撃で洞窟からの敵の反撃は駆逐された。次は高地頂上部の平らな部分に兵を進めて全体の制圧に乗り出した。 
 1100、火焔戦車C中隊長や歩兵小隊が協力してホースを火焔戦車に取付け、反対斜面に対しての攻撃に着手した。 これに戦車、砲兵、迫撃砲、機関銃なども加わって敵の戦力を低下させ、歩兵は蜘蛛のように断崖を這い登り始め、45分かかってようやく狭い足場がある地点にたどり着いた。一度ここで進撃を停止し、その上で待ちかまえているであろう日本軍に対してナパーム攻撃を行った。この攻撃に皮接して歩兵小隊が前進を開始、その直後にB中隊の残りの将兵がこれに続いた。B中隊は直ちに95高地北東端にまで展開し、火焔戦車が日本軍の拠点に対して攻撃を行っている間に更に南に向かって進撃した。火焔戦車の燃料が無くなると、直ちに他の戦車にホースを取付替えた。
 B中隊の攻撃に、A中隊の2個小隊が増援された。夕刻頃までに第1大隊は敵を駆逐して、概ね高地一帯を制圧した。日本兵の一部が残余の洞窟陣地で抵抗したが、第1大隊の守備は固かった。遂に日本軍を南部沖縄の一角に追い詰めたのである。
         
  
玻名城付近から91高地に向かう火焔戦車       91高地北東端付近と思われる        火焔放射用燃料を台上まで伸ばしている

   



6月12日
 12日未明南部一帯に深い霧が立ちこめた。あたかもこれを利用するかのように米軍の一部(3個中隊)が八重瀬岳東方122高地北方地区に侵入し、独立混成第44旅団司令部(109高地)と左地区隊(平賀部隊)との連絡は断絶した。
 八重瀬岳周辺の防御部署について、軍の高級参謀八原大佐は、配備の重点が八重瀬岳東麓の断崖下にあって頂上付近が薄弱なのを見て、牧港付近を米軍に潜入突破された形に似ていたので間隙閉塞を指摘していたところであった。部隊が比較的低部に陣地占領した1つの理由は八重瀬岳山頂付近は全然飲料水がないためであった。
 91高地、玻名城、安里地区でも終日激戦が続き、陣地は逐次浸食され、91高地西側斜面、玻名城集落、安里集落、122高地の線を辛うじて保持した。
 軍に対し第24師団及び軍砲兵隊から、八重瀬岳の米軍を撃退して同地付近を確保すべき要求がしきりに届いた。独立混成第44旅団司令部からは「八重瀬岳方面に将校斥候を派遣して偵察させたが敵影を見ない。122高地東側から米軍が突破侵入しようとする気配はあるが、既に報告してあるとおり旅団としては配兵してあるし、更に独立臼方第1連隊もこの正面に配備してあるからご安心願いたい」と報告があるなどで軍司令部は一時判断に苦しんだ。しかしいずれにしても八重瀬岳に危機が迫りつつあることは明らかであった。
 12日軍司令官は第62師団に対し、既に準備を命じてある2個大隊を独立混成第44旅団長の指揮下に入れ、師団主力をもって随時東方へ移動し、混成旅団を併せ指揮して軍の右翼戦線担任を準備すべき軍命令を下達した。
 独立混成第44旅団長は配属された独立歩兵第13大隊を旅団右翼に、独立歩兵第15大隊を左翼八重瀬岳方面に増加するよう部署した。
 独立歩兵第13大隊は14日夜山城から仲座南側に移動して旅団長の掌握下に入ったが、独立歩兵第15大隊は進出が遅れ、14日夕真栄平南東側に進出した。

【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
12日の夕方、軍砲兵高級部員砂野中佐から怒気を含んだ声で電話がかかってきた。 「敵の戦車十数両が二、三百の歩兵を伴い、安里から122高地の東側を経て八重瀬岳に進入中だ。同方面には旅団の兵が一人もおらず、今軍砲兵隊の一部で阻止している。 いったい旅団は何をしているのだ。不注意千万にも程がある。八重瀬岳は東方に対する重要な軍砲兵の観測地帯だ。これを敵に取られては一大事だ。早く軍において、対抗処置をとってもらいたい」と凄い剣幕だ。
 私は独立混成第44旅団司令部の京僧参謀を電話に呼び出し、軍砲兵の報告通りの戦況か否かを詰問した。
京僧参謀は落ち着いた調子で 「こちらにも同じような通報があったので、将校斥候を派遣して偵察させたが、八重瀬岳の山中には敵影を見ない。なるほど、122高地東側付近より米軍が突破侵入せんとする気配はあるが、既に報告している通り、旅団としては配兵しているし、さらに旅団長の指揮下に入った臼砲第1連隊もこの正面におることであるからご安心願いたい」 との返事だ。


   
 米第17連隊第1大隊登坂地区の写真。中央に小道(白)が見える。現在の写真は同位置から撮影したが、丘が削られ低い位置からの撮影となった

【第17連隊正面】
第17連隊長には夜間攻撃を決断するだけの理由があった。  理由のひとつは、昼間では八重瀬岳南東側で行動する第3大隊が常に敵の妨害を受けることにあった。 対して第1大隊正面は切り立った断崖であったが、その断崖上に向かう狭い道路が2本あり、これを使えば日本軍の火力を簡単に制することが出来るのではないかと思われた。 しかも部隊はここ数日間断崖の麓に展開しており、夜間攻撃に必要な「地形の熟知」を満たしていた。

 夜間攻撃部隊は、第1大隊A中隊が台上内陸部へ数百メートル進出して第381連隊第3大隊との境界地区まで進出すること、B中隊はその約200m南東へ進出、第3大隊L中隊は第1大隊目標地点と第3大隊地区の中間点にある小さな丘に直行するが決められた。 それぞれの中隊は別々の経路を使用した。 A中隊の使用する経路は断崖を真っ直ぐ登り、直接目標に向かう道路であった。 B中隊は渓谷を一旦南に向かい、それから台上に登り、さらに右に曲がって目標に向かう道路であった。 L中隊は渓谷の終わりの部分に近い比較的接近しやすい道路を使用した。 また各攻撃中隊にはそれぞれ重機関銃班が配属された。
 第17連隊長は注意深く計画を立案し、攻撃部隊全隊員に対して徹底して機動経路を教え込んだ。 偵察部隊は台上に至る経路を調べさせ、爆発物処理班には断崖にある敵洞窟陣地の位置を徹底して調査させた。 それでもなお、全員が暗夜かつ状況不明下で起こりえる混乱を懸念した。

      
   左:昭和23年米軍作成の地図に6月12日の戦闘を展開したもの  右:平成21年の地図に展開したもの。 農地改革で平地が拡大している。

    

 6月12日0400に進撃が開始された。 この攻撃は秘密裡に行うため、砲兵部隊による攻撃準備射撃は実施されなかった。 しかしながら、前日の11日午後には合計21個砲兵大隊による射撃が実施され各中隊の目標周辺には徹底した砲撃が加えられていた。 また夜間には敵に対する機動妨害射撃も実施されたが、照明弾射撃も含め全て0400までには終了した。 
 各攻撃中隊は一列で出発した。 このときまるで計画されたかのように沖縄南部一帯に霧が発生した。 
霧は数メートル先も見通せない濃霧であったが、攻撃部隊は混乱もなく計画された道を進んだ。 台上に登るA中隊は途中に民間人に遭遇した。 B中隊の先遣小隊は日本兵3名を発見したが、敢えて無視して歩を進めた。日の出前数分の0530までに、A中隊とB中隊は一発も発砲せずに目標に達した。 L中隊も何事もなく目標に達した。L中隊長は小隊を約50m左方の丘に送り込み、これを数分で確保し、2名の日本兵を射殺した。小隊長は中隊長に対し迫撃砲射撃を要求した。小隊長の前方には約50名の日本兵が列をなして接近していた。中隊は小銃や機関銃を一斉射撃してこの日本兵の縦隊を攻撃した。これにより37名の日本兵が戦死し、残りが逃走した。  

 第1大隊将兵は夜間攻撃成功を喜んでいる暇はなかった。目標に到達したA中隊に対して、数分後には4名の日本兵が、 続いて更に4名が突入して来たが、全員を射殺した。 B中隊には占領地域の中央部の洞窟陣地から日本兵が飛び出してきたが日本兵はその場で射殺された。 日の出直後からC中隊が一帯の掃討を開始し、続いて大隊の残余の将兵が台上に集結し始めた。
0800までに集結は完了。八重瀬岳上の日本軍は前夜の機動妨害射撃によりすでに撤退した後であった。 第17連隊は見事に夜間攻撃を成功させて八重瀬岳上に確固たる防御陣地を構成した。
 この日、第17連隊第3大隊が任務を果たし、第2大隊と交代した。


   
【第381連隊正面】
 6月10日に第1大隊が八重瀬岳と与座岳の鞍部にある岩棚を確保、 第3大隊が富盛集落を確保していたが、いづれも急峻な八重瀬岳にまで兵を進めることが出来なかった。 
 6月12日0600、第17連隊の夜間攻撃に合わせて富盛の第3大隊が攻撃前進を開始した。 前日の激しい砲兵射撃と戦車砲射撃にも係わらず、断崖の日本軍洞窟陣地の麓に近づこうとすると以前にも増して敵火が激しくなった。 第3大隊の進撃速度は低下して犠牲も増大した。 第3大隊長はK中隊を引き抜き、崖下近くの敵陣地の掃討に当てるとともに、L中隊に対して第17連隊担当区域内にある南東の崖を登るように命令した。 そこでL中隊は一度崖に沿って後退し、K中隊の頭上に進出することとなった。
 L中隊は昼頃にようやく台上に到達した。 一方、K中隊は敵の攻撃に晒され続けたため煙幕を張って対処しつつ断崖の麓を進撃した。この2個中隊は夜までに何とか合流しようと試みたが失敗に終わった。 だが、第381連隊はこの3日間の停滞を打開し、次の段階に移行すべく準備を整えた。
 この日、予備部隊である第2大隊が戦線の西側に進出し第383連隊との間隙を閉塞した。
 
(最終的に第381連隊が八重瀬岳頂上を占領したのは6月14日であった)



6月13日
 独立混成第44旅団正面は13日依然激戦が続き、右側91高地方面、与座集落、122高地北方地区には逐次米軍が浸透して来て右翼戦線は危機を告げた。 独立混成第44旅団長は第一線に兵力を増加して陣地の保持に努めたが、火器特に対戦車火力がなく、米軍戦車の傍若無人の活動を許し、わが損害は刻々と増加し、戦線は危機に陥った。玻名城を死守した特設第3連隊の杉本少佐以下大部が戦死した。また左地区隊とは依然連絡が途絶したままであった。 13日午後、米軍戦車は158高地付近に出現するようになった。

【独立歩兵第23大隊史実資料】
中隊は有利なる地形を利用し敵に大打撃を与えたるも数門の戦車砲により射撃する砲弾の為、銃眼が破壊せられ我も又損害大にして6月14日には僅か十数名となり、次いで敵戦車安里方向より台上に進出し来たる為遂に全滅に至る

   
     



6月14日

 右翼独立混成第44旅団正面は依然死闘が続いた。米軍の浸透を受けた後も、91高地及び玻名城付近の拠点に残存し得抵抗を続けていた独立混成第15連隊第4大隊(臨時編成)も大隊長以下ほとんどが戦死した。
 14日夜独立混成第15連隊長は第2大隊に91高地の奪回攻撃を命じた。中島大隊長は新たに配属された電信第36連隊の中隊を併せ指揮して果敢に攻撃したが、大隊長以下死傷して奪回攻撃は失敗した。
 旅団の左地区隊平賀中佐も孤立の中に奮闘していたが、14日頃地区隊本部が爆破されて戦死するに至った。
 独立混成第44旅団は仲座南側台地、仲座集落、122高地、八重瀬岳156高地の線を保持した。14日夜独立歩兵第13大隊が仲座南側に到着して鈴木旅団長の掌握下に入った。

 第24師団から軍司令部に対し、八重瀬岳の崩壊防止の請求が急であり、「米軍は八重瀬岳に侵入しつつある。混成旅団は何故これを放置しているのか。師団の右側背が危険であるので、作戦地境外であるが捜索第24連隊で撃攘させる。 万一を考慮し右翼の歩兵第89連隊の陣地を与座岳を中心として南方158高地に退けて鈎型とする準備をした」 と第24師団参謀長から厳しい電話があった。


 
第381連隊がビッグアップル(八重瀬岳)頂上部を確保したのは6月14日であった。 しかし多数の洞窟陣地を封鎖するまでには至らず、日没後には闇の中から現れる日本兵と夜通し戦わざるを得なかった。

   



6月15日
 独立混成第44旅団正面は15日米軍の強圧を受け、旅団司令部と中地区隊との連絡も途絶えた。旅団の右翼は仲座南側台地、仲座南西端付近を保持して米軍の突破を辛うじて阻止していた。14日仲座南方地区に移動増援した独立歩兵第13大隊も15日から戦闘に加入したが、陣地設備の余裕もなく、敵火に曝されて多大の損害を受けた。
 八重瀬岳方面の米軍は逐次増大し、15日1100頃から158高地を攻撃して来たが同高地守備部隊(歩兵第89連隊第3大隊基幹)は善戦して同高地を保持した。
 八重瀬岳と与座岳の中間地区に陣地を占領していた歩兵第89連隊第1大隊は、八重瀬岳の陥落も影響し遂に15日戦車を伴う米軍に突破されるに至った。
 沖縄第32軍司令部は、地形的に最も堅固と判断していた与座岳、八重瀬岳の中間地区が突破されるに及んで、第62師団主力を独立混成第44旅団正面に投入して東正面の米軍に最後の出血を強要することに決心した。

【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
 15日夜、独立混成第44旅団参謀京僧少佐がやって来た。 彼は一般の状況を報告した後、声を落とし例の親しみ深い語調で次の如く語った。
「今では旅団は手も足も出ません。軍の右翼戦線を崩され、誠に申し訳ない次第ですが、各部隊長は空しく死んで行く部下を見殺しにする無念さに、皆男泣きしています。いくら戦っても、ただ我が方が損害を受けるのみで、戦果が揚がらないからです。これは各部隊長の最後に当たっての私的意見ですが、もはや沖縄における我が軍の運命は尽きた。大本営は何らの救援もしてくれない。残念ながらやがて祖国日本も敗亡の途をたどることであろう。この秋(とき)にあたり、我々は何とか処置はないだろうか・・・と言うのです」と京僧はいかにも言いづらそうに口ごもった。




6月16日

 独立混成第44旅団正面は、多数の戦車を伴う米軍の猛攻を受け、独立混成第15連隊本部(109高地東方)は重囲に陥った。旅団司令部の109高地前方においては、第2歩兵隊第3大隊が奮戦して米軍の一挙突破を阻止し、109高地及びその南側地区では独立歩兵第13大隊が奮戦していた。
 16日夜独立臼方第1連隊指揮班長久保少佐が独立混成第44旅団司令部に到着し、中地区隊は多大の損害を受け、敵の重囲下にありながらも連隊長以下健闘中との報告があった。旅団長は久保少佐に中地区隊は158高地付近に陣地を後退すべきことを命令した。
 
 
6月16日、ついに与座岳を確保した。 また第17海兵連隊と第32海兵連隊がそれぞれ153高地(158高地)と115高地(109高地)に到達した。



  



6月17日

 独立混成第44旅団司令部(109高地)地区は17日米軍の猛攻を受け、仲座北西端付近の第2歩兵隊第3大隊の陣地は火焔戦車の攻撃を受け、戦車数両は旅団司令部を攻撃し、その後方にも進出してきた。旅団司令部は洞窟陣地に立て籠もって奮戦し、独立歩兵第12大隊(11大隊配属)、13大隊も戦車攻撃を受け、独立混成第44旅団の主陣地は突破され、旅団の組織的戦闘は崩壊した。
 
 旅団司令部との連絡を終わった独立臼方第1連隊の久保少佐は17日未明122高地の本部に帰還したところ、連隊長以下多数の戦死者を生じていた。久保少佐は残存者を集め、敵火の中を数百米後退し、158高地南東地区に陣地を占領した。兵員は久保少佐以下13名であった。陣地としたところは既設陣地はなく、岩石を利用した程度であって、終日砲火に曝され、夕刻までに生存者は久保少佐以下4名となった。久保少佐はやむなく部下3名を率い、17日再び109高地の旅団司令部に行き、状況報告をしたところ全員旅団司令部勤務を命じられた。かくて精鋭を誇った独立臼方第1連隊も全滅の状態となった。 
   
   

 





















独立混成第15連隊編成人員数
 (編成完結時の定員数)
 独立混成第15連隊 1892名
   連隊本部   105名
   第1大隊   479名
   第2大隊   479名
   第3大隊   479名
   連隊砲中隊 102名
   速射砲中隊  64名
   工兵中隊   184名

独立混成第15連隊は、5月中旬に「安里52高地の戦闘」の主力部隊として戦闘を実施し、兵力は約8分の1まで低下している。

第4大隊(臨時編成)は他の大隊の人員数からすれば、約30名程度の人員数と判断される。









他にも第11船舶団、電信第36連隊、野戦築城隊なども配属されたが、いづれも装備・訓練とも不十分であり、実質上の戦闘力とはならなかった。



































最大の疑問点は「八重瀬岳台上に部隊配置がなされていたか否か」という点である。
 八原高級参謀著書「沖縄決戦」では台上に配置されたのは海軍勝田大隊のみとされるが、独立歩兵第23大隊史実資料では、同大隊第5中隊も台上に配置された記録がある。
 米軍側資料では八重瀬岳北側では崖下に日本軍陣地を攻撃した記録があり、これが特設第6連隊だと思われる。また海軍丸山大隊は左に布陣した歩兵第89連隊第1大隊との関係上崖下に配置されたものと推定される。




















樋口大佐は軍参謀長や独立混成第44旅団長の受け芳しからぬ人であったとされる。それが理由とはならないと思われるが、殺到する米軍の真っ直中に引き返させられるという理不尽な命令を下されている。





海軍丸山大隊が八重瀬岳陣地で守備に就いたのは6月7日であり、この日の戦闘は実際は船舶工兵・海軍勝田大隊などで対応したと思われる。

独立混成第15連隊第3大隊が臼砲第1連隊の配属となり中地区隊の主力となった。(第3大隊の記録では指揮下に入ったのは7日)


米第381連隊は戦車等の支援もないままに歩兵だけで攻撃を開始した。 結果的には戦果を得られなかったものの、威力偵察として日本軍の陣地構成、火力等の情報を収集することとなった。































第2歩兵隊第3大隊の任務は「敵の雄樋川渡河の阻止」であったが、警戒陣地に配備(3日)された翌4日には予期に反する早さで米軍は雄樋川を渡河して接近してきた。

前進陣地であった具志頭陣地を、この日一転主陣地線の一部としての命令が「下されたが、前進陣地は前提として真摯な戦闘を避け後退するという概念があり、これを一転死守せよと命じられた第1大隊長の心中は如何ばかりのものであったろうか。






新城東側に米軍の雄樋側渡河阻止のため平賀支隊を配置したが、その後の動向の記録はない。

第7中隊の損害が著しく、必然的に第8中隊・大隊本部壕方向への集結となった。

















































第2大隊の兵力はおそらく戦闘開始前に補充されたと思われるが、それでも大隊規模で前進陣地を守備する程度の勢力であった。
(本来ならば前進陣地は1個小隊程度で防御戦闘を行う)










そもそも具志頭地区一帯は、米軍上陸適地として見積もられていたため、南側や東側に対しての防御陣地が当初から構築されていた。













































日本軍の当初の対応は第9中隊であったと考えられ、米軍が接近してからは第7中隊が戦闘加入し側面からの射撃により米軍の進出を妨害したと思われる。



















地形的には防御する日本軍が圧倒的に有利な地形であった。日本軍主陣地前面に迫撃砲弾幕を構成できるだけの火力があれば、戦闘結果は正反対のものとなっていたに違いない。






















着弾した際に飛び散る珊瑚礁は日米両軍を苦しめた。この堅い岩盤はタコツボさえ掘ることが困難で、身を隠す場所もないままに戦闘を続けることが多かった。








































91高地は現在は緑に覆われた台地であるが、実際にその場所に立つと至る所に火焔放射によって黒く変色した岩を見ることができる。

























沖縄第32軍は安里正面(八重瀬岳東側)の米軍が戦車を伴って近接して来ることに注視しており、健在な西側第24師団と接する八重瀬岳北側については比較的楽観視していた様子がうかがえる。
























日本軍にそれなりの砲兵火力・迫撃砲火力があれば、地形的に負けるはずのない戦闘であった。













具志頭陣地(独立混成第15連隊第1大隊)の喪失により、独立混成第44旅団本来の主陣地帯全域が戦闘状態となった。 特に安里周辺の部隊(中地区隊)とは連絡がとれなくなり、爾後の戦闘指導に大きな影響を与えた。



































91高地(米軍呼称95高地)を米軍が占領したことで、日本軍主陣地帯の右翼が崩壊し、戦術上重要な「翼の委託」(重要な地形を確保して敵の側面突破を阻止する)が不能となり、独立混成第44旅団は戦線の崩壊という重大な危機を迎えることとなった。



























独立混成第44旅団司令部は10日に中地区隊との連絡がとれなくなっており、さらにこの日左地区隊との連絡が途絶している。 通信の断絶により、組織的戦闘は不能となり、独立混成第44旅団の戦線崩壊は時間の問題となった。










12日頃から、摩文仁の沖縄第32軍司令部に放心状態の将兵が後退して来るようになったと八原高級参謀の手記に記録されていることから、独立混成第44旅団の分散・解隊状態が顕著になってきたものと推察される。



結果的には軍砲兵高級部員砂野中佐からの情報が正しいものであった。 斥候により情報を収集する(無線途絶のため)独立混第44旅団司令部は、自陣内の敵情さえ掴めない状況に置かれていることがわかる。















夜間攻撃成功の要訣は「地形の熟知」と「下から上に攻める」ことである。夜間では下から見ることで相手を空際線上に浮かび上がらせることができるが、反対に上からは闇に紛れて相手が見えないのである。








































日本軍には、「米軍は夜間攻撃を行わない」という共通認識があったが、沖縄戦においては「石嶺高地の戦闘」「与那原の戦闘」(首里東部戦線)など、重要な局面には夜間攻撃を採用している。 このような戦訓が全軍に伝わらない点が日本軍の弱点であった。













A中隊・B中隊の進出場所付近には、日本軍独立歩兵第23大隊第5中隊が陣地占領中であったが、この時点で残存兵力はほとんどなかったと思われる。 米軍側は前夜の機動妨害射撃で日本軍部隊がすでに撤退したと考えているが、記録から実際に前日撤退した部隊はない。





米軍の記述からも、特設第6連隊は最後まで八重瀬岳崖下で戦闘を継続したと思われる。






日本軍は八重瀬岳台上を喪失したことにより、独立混成第44旅団主陣地帯に対する砲兵の観測点を失い、これを境に残り少ない砲兵を有効に使用することも出来なくなった。 この6月12日が沖縄第32軍の敗北を決定的とした日になった。






地図からみてもわかるように、海軍勝田大隊と臼砲第1連隊の間には僅かに独立歩兵第23大隊第5中隊(数十名)が残されるだけとなった。158高地まで完全に無防備状態である。
































地図から、八重瀬岳上にほとんど日本軍が配兵されていないことがわかる。特に第17連隊第1大隊正面は全くの無防備で、独立混成第44旅団残存全部隊が背後から米軍に攻撃されて殲滅される可能性が高まった。こうなるともはや撤退しか方策は残されていない。


西側を担任する第24師団は、国吉(糸満)地区・与座(大里)地区で米軍と互角に交戦中であった。そのため八重瀬岳方面から戦線が崩壊することにより、自身の右側背から米軍に侵入されることを最も恐れていた。 それゆえに、自らの戦闘力を割いて作戦境地外である八重瀬岳方面へ兵力を配置したのである。

























八重瀬台上は1日にして完全に米軍に占領された。












京僧少佐は、歩兵学校の対戦車築城の専門家であった。対戦車戦闘を重視した沖縄第32軍の要請により普及教育のため沖縄に派遣されたが、戦況悪化のため帰還できなくなり、独立混成第44旅団司令部に参謀として配置された。左の文言は暗に降伏を示唆したものと思われる。





第2歩兵隊第3大隊は、6月10日に新城警戒陣地から後退の後に旅団予備となり、船舶工兵等からの増員によって3個中隊編成の総員約250名の部隊となった。しかしながら、大半負傷者であり、武器も少なく実戦力としては限られた勢力であった。


























6月14日に第62師団命により独立歩兵第12大隊(11大隊配属)は、独立混成第44旅団配属となっている。