沖縄戦概説


1 太平洋戦争開戦から沖縄「第32軍」創設まで


 昭和16年12月開戦以来南方作戦は順調に進んだが、17年中期に入ると早くも連合軍の反攻が開始された。18年2月にはガダルカナル島での敗戦を機に南方における日本軍の拠点は次々と米軍に占領され戦局は重大な段階となった。

 大本営は18年9月新作戦指導(いわゆる絶対国防圏の設定)を策定した。これは戦争遂行上絶対確保すべき要域を示したものであり、すなわち資源(石油・農産物など)を確保すること及び戦術上日本本土が直接敵の攻撃を受けることのない地域を確保することがねらいであった。
 しかしながら大本営陸軍部の一部ではマリアナ方面(サイパン・グァム等)が一挙に突破されるのではという疑念を持ち、この頃から南西諸島(沖縄)の防衛についての研究が行われるようになった。 
 19年7月大本営が確保し得ると判断していたサイパン島が陥落して絶対国防圏の構想が崩れ去り、米軍は日本本土の空爆を直接的に実施することが可能となった(実際はこの前にも中国大陸から離陸したB−29の空襲を受けている)。またこの頃には周辺海域の制海権をほとんど米軍に奪われ、海路における人員物資の補給も困難を極める状況となっていた。

 19年3月南西諸島方面防衛強化のために「第32軍」が創設された。
沖縄方面の作戦準備の重点は「航空基地の建設、敵の奇襲上陸に対し航空基地及び港湾を防衛する」とされ当初 混成旅団×2・混成連隊×1 とされたが、その後沖縄の重要性が認識されるにしたがい防衛強化のために逐次部隊増強が図られた。7月には 師団×4、混成旅団×5 を基幹とする強力な軍となり決戦準備を進めた。
    沖縄本島 : 第9師団、第24師団、第62師団、独立混成第44旅団
    宮古島  : 第28師団、独立混成第59旅団、独立混成第60旅団
    石垣島  : 独立混成第45旅団
    奄美大島 : 独立混成第64旅団

 沖縄の防衛は「皇土防衛と南方圏の交通の確保」が主眼とされ、作戦準備は「航空作戦準備を最重点」とされた(十号作戦準備要項参謀総長指示)。このことは最後まで沖縄32軍と大本営の意思統一を欠くこととなり、戦後も本土防衛の捨て石とされた沖縄(沖縄は皇土ではなかったのである)に大きな禍根を残す結果となっている。



2 沖縄戦戦闘準備
19年6月に軍参謀長「長 勇」少将、8月には軍司令官「牛島 満」中将が着任、各師団・旅団も順次到着し8月に第62師団が本島に到着するに及び、沖縄本島は第32軍の要求通りに充足された。
 ところが沖縄作戦において大本営と沖縄第32軍の間で大きな意見齟齬(そご)が生じてくる。それは航空基地建設についてであった。サイパン失陥後大本営は航空機主体による作戦行動の重要性を強く認識するようになった。しかしながら沖縄第32軍首脳(特に長参謀長と八原高級参謀)は、従来の各方面の作戦経過から航空絶対重点の方針に対し深い疑念を抱いており、比島(フィリピン)作戦の経過をみて航空作戦については疑念から不信感さえ抱いていた。一方大本営にとっては沖縄第32軍は地上作戦の強化には極めて活発であるが、航空基地建設に対する努力が不足していると判断していた。この問題は開戦後に至っても大きな不信感を残すことになった。

 10月10日、那覇市は米軍の大空襲を受け、市街地の大半を焼失した。沖縄第32軍にあっては軍需品を那覇港に揚陸直後であり各所に分散していなかったために、特に弾薬・糧食が実に大きな被害を受け、その後の作戦遂行上大きな影響を与えることになった。。一般市民の被害も甚大であり、この空襲により戦局の苛烈さを痛感することとなり、島外疎開も促進された。

 10月下旬、米軍のレイテ島上陸に伴い、大本営ではフィリピン方面に急速に兵力を投入する案が浮上した。そこで沖縄32軍から1コ師団の抽出が検討された。沖縄第32軍は当然のことながらその抽出を拒むものの、結局は「第9師団と中迫撃砲第5・第6大隊」の抽出が決定した。沖縄防衛の中核とされた第9師団と橋頭堡殲滅射撃(米軍の上陸後まだ海岸線に部隊が集結中に射撃を行う)の中核となる両大隊を失った。
 この配備変更と橋頭堡殲滅射撃部隊を失うことで沖縄第32軍は大きな戦術変更を行った。それは北(読谷飛行場)・中飛行場(現米軍嘉手納基地)を放棄することであり、これは航空作戦上の大問題に発展する。
 また配備変更により、それまで自分の死に場所として心血を注いで陣地を構築してきた各部隊は、その陣地を捨て新たな場所に転進することになった。各部隊の陣中日誌等を見ても、配備変更に伴う士気の低下を懸念する文面が多く、精神的にも物資的にも部隊は大打撃を受けた。

独立混成第44旅団長の訓示の一節
 「過去数か月に渡り、全力をもって多数の将兵の血と汗とを傾倒し営々として刻苦励精日夜を分けず、作戦に築城にまた教育訓練に邁進し、今まさに敵撃滅の準備が完成するときにこの配備変 更は誠に忍ぶことが出来ないものである」 注:原文カナ漢字文を口語訳した
 
 さらに昭和20年1月、沖縄第32軍は現在の陣地が不備であることを痛感し、またしても配備変更を行う。これが米軍上陸を迎える際の最終的な陣地配備になるが、この命令を受ける各部隊は数回にわたる配備変更に徒労感を抱き、資材を消費し、更に上級部隊に対する不信感が生まれ作戦準備の意欲にブレーキをかけた。特に独立混成第15連隊などは沖縄到着以来7回の配備変更を行った。連隊の陣中日誌には「設営作業は度重なる宿営地変更に妨げられ遅々として進行せず。明確なる上級司令部の意図の下達の必要性を痛感する」と書かれている。
 独立混成第44旅団は19年7月に沖縄に到着していながら、確定した陣地の構築に取りかかったのは米軍上陸二か月前ということになった。(しかも実際の戦闘時にはこの陣地も捨て前線に向かったのである)  



3 沖縄戦作戦計画

上陸予想地域 
図にあるとおり3つの地域を予想した。
 (中飛行場正面がこの予想地域からはずれていたことに関し当時から疑問の声があった)
各師団・旅団はこの上陸予想に基づいて陣地を構築した。当然陣地は海から上陸する米軍に対するため海に向かって構築された。これが後に北から攻撃してくる米軍に対しほとんど効果を発揮できない結果となった。

作戦計画
 「一部をもって極力長く伊江島を保持すると共に、主力をもって沖縄本島南部島尻地区を占領し、島尻地区の主防御陣地帯沿岸においては敵の上陸を破砕し、北方主陣地帯陸正面においては戦略持久を策する。敵が北・中飛行場方面に上陸する場合は主力をもって同方面に出撃することがある」

これは
 「米軍が上陸して来た場合はその地区の防御担任師団・旅団で敵を撃滅すること」
 「現在の普天間基地周辺より南の地域を防御(戦略持久)すること」
 「現読谷飛行場や現嘉手納飛行場正面に敵が上陸した場合は、今は部隊を配備していないので、上陸後部隊をその方面に前進させる」を意味する。

 戦略持久とは「沖縄戦において時間を稼ぎ、米軍の本土攻撃の時期を遅らせ、その間に沖縄戦の教訓を生かし本土の防衛準備を整える」という意味である。言い換えれば沖縄戦では決定的な勝利を得ることが出来ないこととなる。この戦略持久に関しては沖縄第32軍の戦闘の骨幹をなすものであるが、「座して死を待つ」ことの難しさであろうか、数度の攻勢(陣地をから出て攻撃する)を計画実行し、その都度に戦力を削ぎ落として行くのである。



4 米軍の作戦
 米軍は当初台湾の攻略を目指した。その目的は台湾に「重爆撃航空機基地を確保すること」と「中国大陸への補給基地の設定」にあった。しかしフィリピン「ルソン島」を確保すれば台湾の必要性がないという意見から、「ルソン島」「沖縄」「硫黄島」の確保という戦略が固まった。台湾攻略放棄の理由として「沖縄攻略は人員資材の犠牲が少なく、短期に攻略できる」「台湾からの日本本土重爆撃に際し、途中沖縄からの航空妨害が予想される」という点であった。
 この決定により台湾はほとんど戦火を受けることなく終戦を迎えることとなった。

 米軍は沖縄において「浸透作戦」を行った。本来戦闘(攻撃)には主攻撃と助攻撃があり、主攻撃は狭い範囲に戦闘力を集中して敵を迂回・包囲・突破して撃滅する。しかしながら沖縄においては、並列する部隊と連係をとりながら一歩一歩前進する方策を採用している。これは全ての日本軍陣地(兵力)を破壊しなければ占領とは言えないという認識が米軍にあったためで、それほどまでに頑強に戦う日本軍を恐れていたのである。


5 沖縄戦
(1) 慶良間列島の占領
 3月26日、第32軍の予期に反して米軍は慶良間列島に上陸を開始する。米軍は慶良間列島を水上機の係留地および艦隊の投錨地(艦船の修理・補給等を実施する)として確保するのがねらいであった。
  慶良間には日本軍3個海上挺身戦隊が配備されており、約300隻の特攻艇(爆薬を積載 し米艦艇に体当たりする)により第32軍は大きな戦果を期待したものの、そのほとんどは出撃できなかった。各戦隊は構想にない地上戦に移行せざるを得ず、飢餓と戦いながら終戦を迎えることとなった。この間住民の集団自決などもあり、戦後に大きな禍根を残す結果となった。

(2) 米軍上陸から主陣地(第1線陣地)の戦闘まで
 4月1日嘉手納正面に米軍が上陸を開始する。上陸部隊の北半分はその後北上して国頭地区に進撃(国頭地区の戦闘参照)し、南半分は南下して首里方面に進撃した。当初独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)が遅滞戦闘(敵の進撃を妨害しながら後退する)を行うが、4月6日には概ね米軍は日本軍主陣地線に達した。
 第1線陣地は大謝名〜85高地(現在の普天間飛行場南端)〜我如古〜上原〜和宇慶の線であったが、85高地が突破され第1線はじりじりと後退を余儀なくされた。しかしながら牧港〜嘉数〜西原〜我如古〜142高地〜155高地〜和宇慶の線で日本軍の防御戦闘は効力を発揮し、米軍の進撃はほぼ停止する状況となった。4月8日から4月19日まで概ねこの線で両軍は対峙する。特に嘉数高地では日本軍の巧みな反斜面陣地の活用、西原高地との地形を利用した相互支援射撃などにより米軍の侵入をことごとく撃退したため米軍は大きな損害を受けた。
 4月19日早朝牧港方面から米軍が侵入を開始、これを契機に日本軍第1線陣地は側背に米軍の脅威を受け、約2週間にわたる強靱な抵抗が破綻することとなった。 

(3) 第2線陣地から首里撤退まで
 4月24日、沖縄第32軍は戦線を整理すると共に、これまでの第62師団に加え島尻地区で防御準備をしていた第24師団、知念地区の独立混成第44旅団を投入することに決した。戦場も城間〜前田高地〜幸地〜小波津を中心としての防御戦闘に移行する。
 この間5月4日には「攻勢転移」(それまでの防御一辺倒の戦闘から戦力を集中して攻撃に転じ、状況を一変することを狙った)を行ったが、敵の圧倒的な火力の前に攻撃は頓挫し、かえって損害を増大する結果となった。
米軍は安里52高地(シュガーローフ)などで日本軍を上回る大きな犠牲を払うが、着実に首里に向けて進撃し、ついに5月31日には首里を制することとなった。

  ※ 第1線陣地・第2線陣地という名称は公的には使用されておらず、筆者の分類である。

(4) 島尻南部の戦い
第32軍は米軍の首里占領に先立って、計画に基づき首里を徹して島尻南部に撤退した。
  小禄海軍部隊は現地に踏みとどまり抵抗を続けたが6月12日には組織的戦闘を終えた。 国吉台(糸満近郊)や具志頭などで果敢に戦闘を実施したものの、すでに往時の戦力も砲兵火力もなく予備部隊・食糧もなく、ついに6月23日に沖縄戦は幕を閉じた。



(5) 国頭地区の戦闘
 沖縄第32軍は国頭地区においては「遊撃戦」を主体として戦闘を継続し、米軍戦力をなるべく長く吸引し、結果として本島南部の主作戦を容易にしようという考えであった。また伊江島にも戦力を配備し、飛行場の米軍使用の阻止を計画した。
  米軍は4月1日嘉手納海岸上陸後、主として海兵隊を国頭地区に北進させた。日本軍は恩納岳や八重岳を中心として米軍をよく撹乱し、終戦(8月15日)以降までゲリラ戦で抵抗を続けた。伊江島にあっては4月16日に米軍が上陸、守備隊は頑強に抵抗し、一部地域に「血の稜線」と米軍が名付けるほどの激戦を展開したが、ついにはほぼ全滅状態となり占領された。心血を注いで建設した飛行場を開戦直前に自らの手で破壊しなければならなかった無念さが偲ばれる。



6 沖縄戦その後
 8月15日の日本の無条件降伏以降も沖縄では散発的に戦闘が発生したが、残存の将兵も逐次投降して沖縄戦は真に終結した。しかしながら戦時中の住民問題や米軍基地問題は今日にまで残された未決の大きな課題となっている。
 沖縄県民と日米両軍将兵が血を流した沖縄の地は、めざましい発展を遂げ、その戦場を記憶に 留めることはもはや困難となってきた。20年前には多くの人から沖縄戦に関しての話を聞くことが出来たが、今ではそれもほとんど機会がなくなった。終戦から約60年。当然の時の流れではあろうと思われる。










疑念を持った中心人物は大本営陸軍部第2(作戦)課長服部卓四郎大佐である





ほぼ第32軍の要請が満たされる軍編成となった






























沖縄は隆起珊瑚礁で出来ているため、単に穴を掘ることでさえ大変な重労働であった







精強な部隊でさえ、約1ヶ月間は虚脱感により作業が進展しなかったくらいに陣地構築に対する意欲が失われた



























第32軍司令部内からも「攻勢」に転ずるべきという意見があったが、大きくは大本営など他の方面からの圧力が大きかったといわれる





















































6月22日夕には遊撃戦への移行指示、勤皇隊の解散などが実施されたため22日を沖縄戦終戦とする意見もある。