渡嘉敷島の戦闘(海上挺進第3戦隊) とかしきじまのせんとう (かいじょうていしんだい3せんたい) 

海上挺進第3戦隊 戦隊長 赤松大尉

3月23日
 正午過ぎから米艦載機の銃爆撃を受けた。航空攻撃の主目標は部落及び谷間に指向され、日没までには部落はほとんど全滅し全島各所に山火事を生じた。

3月24日
 早朝から艦載機が来襲。赤松戦隊長は軍司令部と連絡し「戦備を整えること、米機動部隊が沖縄本島の南東50マイルにある」ことを知った。


3月25日
 
早朝から空襲と共に慶良間海峡に侵入した米艦艇は、慶良間初頭に猛烈な艦砲射撃を開始した。赤松戦隊長は部隊を待避壕に入れ損害軽減に努めると共に要点に配兵して警戒を厳にした。赤松戦隊長は軍司令部に渡嘉敷島の状況を報告すると共に今後の処置について問い合わせたところ25日夜軍司令部から「敵情判断不明、戦隊は状況有利ならざるときは本島糸満付近に転進せよ。転進の場合は糸満沖に電灯を円く振れ」との指示電報を受けた。
     
 赤松戦隊長は本島転進を考慮して2200頃特攻艇の泛水を命じた。このとき軍船舶隊長大町大佐一行が戦隊本部に到着し(慶良間巡視のため阿嘉島から到着した)、大町大佐は直ちに泛水を中止することを命じた。(この泛水中止命令後、再度転進命令を発したが機を失し、さらに企図秘匿という名目のため自沈することを命じた。ただしこの自沈命令は第1中隊には伝わらず出撃準備を完了した)


3月26日
 
赤松戦隊長は、渡嘉志久海岸地区にあった戦隊本部を東側山地の旭澤に転移させ、多数の非戦闘員を含む諸部隊を複郭陣地と予定した留利加波東方高地に移動させた。天明と共に米軍の砲爆撃は激烈となり艦載機は常時20〜30機が在空した。26日夜半には第2中隊・第3中隊の一部を警戒部隊として残置し、残余を複郭陣地に集結すべきことを命じた。第1中隊には残存舟艇による出撃を命じたが、第1中隊は米艦艇の砲撃を受け泛水不可能で出撃はできなかった。
 
 
          



3月27日
 
27日0400頃米軍が上陸したとの報に基づき、第2中隊・第3中隊に後退を命じたが誤報であった(第1中隊・第3中隊には後退命令が伝わらず第2中隊のみ後退した)。0900頃猛烈な砲爆撃の支援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。第3中隊長皆本少尉は渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を攻撃して前進を阻止したが反撃を受け戦死者を生じた。第3中隊は1000頃から撤退を開始し翌日1000頃に戦隊本部に到着した。阿波連方面の第1中隊は舟艇がほとんど破壊されたため、阿波連北東高地に陣地を占領した。
 27日朝複郭陣地に到着した戦隊主力は、234.2高地を中心とする配備を採り陣地構築に着手した。複郭陣地と言っても名ばかりで、陣地はおろか各隊は事前の偵察さえもしていなかったが、大急ぎでタコツボ陣地を構築した。
 
      


 慶留間島から野砲隊が砲撃を加えたのち、第306連隊第1上陸大隊は、3月27日午前9時11分、渡嘉敷島西岸に上陸し、さらに数分後には、第2大隊が第1大隊の南方地点に上陸した。渡嘉敷島の上陸作戦も他の慶良間群島のやり方と同じだった。はじめの抵抗はほとんど無視できるほどのもので、米軍は日本軍に対する応戦よりも、どちらかといえば険しい地形に悩まされた。第2大隊が先発となって細い道を伝って北方に前進していった。第306連隊の第3上陸大隊は、最初に予備軍として編成されていたのだが、島の南部を掃討するという使命を帯びて上陸した。夜までに第1大隊、第2大隊は東海岸にある渡嘉敷集落を翌日攻撃ができるよう準備を整え、第3大隊は島の南部に到着した。

          

           



3月28日
 3月28日1000頃から米軍は我が複郭陣地地区に銃爆撃及び迫撃砲の集中火を浴びせてきた。このころ第3中隊長以下が到着して配備についたが、第1中隊との連絡は途絶し状況は不明であった。
 米軍の上陸によって一般住民も軍が陣地占領している高地方面に避難してきた。部隊は陣地北方の盆地に避難するように指示したが、米軍の攻撃は避難地区にも及び、刻々迫る危機に住民は悲壮な決意を固め、集団自決を遂げる悲惨事が生じた。その数は300名であった。


         

 3月28日、第306連隊第2大隊がさらに北方へ前進し、野砲で500回もの攻撃を加えた後、部隊はついに前もって艦砲射撃や空襲、砲撃で攻撃した後、渡嘉敷集落を占領した。港湾一帯は特に反撃に会うこともなく一掃された。進撃は、散発的な抵抗に会うだけで、北の方へ続行され、3月29日には第3大隊が全島を偵察、ここに渡嘉敷島確保が宣言された。この日の夕方までに慶良間列島の全島がアメリカ軍の手中に帰した。3月26日の上陸開始から占領宣言の31日までの間に、日本軍は530名が戦死、121名が捕虜となった。米軍は戦死31名、負傷者81名であった。 
         

3月29日
 米軍は0700頃から我が陣地に対し猛烈な迫撃砲の集中火を加えてきたが、歩兵部隊の近接攻撃はなかった。戦隊長は夜間斬込隊を派遣したが、派遣隊の報告により陣地前方附近及び渡嘉敷部落方面には米軍が所在しない事が判明した。

3月30日
 米軍は艦載機の攻撃の他地上部隊の来攻はなかった。第1中隊は1000頃複郭陣地に到着した。




米軍の渡嘉敷掃討作戦
 
5月9日、米軍は阿波連方面に艦砲射撃を実施すると共に、阿波連湾及び野嘉良崎附近に約1000名が上陸してきた。10日0950頃艦砲射撃の支援下に米兵約150名が渡嘉敷方面に上陸し、渡嘉敷部落周辺の高地に陣地を占領すると共に部落北側に物資の集積を開始したが、我が陣地に対する攻撃行動は活発でなかった。この後12日まで米軍と近距離に相対し、我が陣地に機関銃・迫撃砲の射撃を加え少数の米軍が前進陣地に近接したが撃退した。
 13日1330頃から迫撃砲の支援下に約40名の米軍がA高地正面に攻撃して来たが撃退し、次いで14日には180名の米軍が渡嘉敷島に上陸、一部がA高地を攻撃してきた。




 この後数度の攻撃を受けるが、8月16日米軍から終戦の放送があったので、戦隊長は17日木林明中尉以下4名を米軍に派遣して確認させた。翌18日戦隊長は米軍指揮官と会見し終戦処理について協議し、まず停戦を協定し、8月24日1000部隊全員武装解除を受けた。

  筆者は集団自決の場所も訪ねたが、今では道もほとんどなく訪ねる人もほとんどいないと思われる。遠くに海の波が砕ける音と、深い森の木々のざわめく音しか聞こえなかった。かつて血で染まったと言われる清涼な小川が流れるが、どうしてもその当時の光景と今の風景が重ならなかった。写真掲載も控えることにした。

    
渡嘉敷島へは現在では高速船で35分の距離である
   
   




本島転進の命を受けて、赤松隊長は転進の準備を進めた











大町大佐の本島転進のために命令が2転3転する。この重大時期に任務を基本に考えたときに、大町大佐の本島転移の必要性が果たしてあったか。大いに疑問を感じる。この大町大佐の渡嘉敷来島が第3戦隊の運命を大きく変える。

大町大佐は26日深夜に渡嘉志久を出発し本島へ帰投する。帰投できるのであれば特攻艇の使用は可能だったはずである

戦隊長は各中隊に「軽戦の後、複各陣地に後退」するように命じた

   
   










渡嘉志久は僅かな開発にとどまっていて、当時の様相をそのまま留めている








第3中隊は約30分の交戦で9名の戦死者を生じた



   
   







第1中隊・第3中隊とも米軍と戦闘を交えているが、米軍側には詳しい記述はなく、ほとんど散発的な状況であったと思われる












   
   











大がかりな地下司令部があったという某出版物の記述等(これが戦後、渡嘉敷島の戦闘の真実を覆い隠す結果となった)ががあるが、実際は非常に固い隆起珊瑚で形成された島である。人ひとり隠れる穴さえ掘るのが困難であったと伝えられる



写真の各陣地位置はあくまでも当時の地図から判断したものであり、確実とは言い難い。それほどまでに地形は見事に削り取られている



   
   


「A高地」の名前の意味不明














   
   






住民の集団自決は命令であったか否か、ここでは論ずるのを避けるが、集団自決があったという点で沖縄戦では避けては通れない禍根である。