津嘉山収容陣地の戦闘と退却攻勢                                                                          2011年作成
津嘉山収容陣地の戦闘と退却攻勢

 津嘉山収容陣地の戦闘と第62師団が行った退却攻勢は本来別の作戦であり、区分分けすることが望ましい。 しかしながら、第62師団隷下の歩兵第63旅団と歩兵第64旅団の行動と第24師団歩兵第32連隊の行動が重なる部分があること、独立歩兵第22大隊のように第24師団配属から第62師団に復帰するなどにより、ひとつの作戦として解説したほうが理解しやすいと判断して一戦闘として作成した。

1 戦闘の概要
 5月22日に沖縄第32軍は首里を撤して、喜屋武半島(島尻南部)への転進を決定した。 この頃、首里は北(石嶺地区)・東(与那原地区)・西(那覇地区)から米軍の攻勢に晒されており、唯一残された首里南部から喜屋武半島への撤退経路の確保が転進成功のための最重要課題であった。 このため地形的にも不利であり、戦力の消耗が激しい東部戦線に後方部隊まで動員して増強を図り、さらに与那原から南部へ浸透した米軍に退路を遮断されることを防ぐ意味で、第62師団主力部隊を東部地区に展開させた。これを 「退却攻勢」 と称した。 一方現在交戦中の主力部隊(第24師団・独立混成第44旅団)を計画的にかつ段階的に撤退させるため、これを概ね3つのグループに区分けした。 それは南部への転進部隊・現戦線への残置部隊、そしてこの残置部隊を受け入れる津嘉山収容陣地への転進部隊であった。 幸いにして悪天候により米軍の進撃速度が鈍ったことや航空偵察が不可能で日本軍の企図が明確に掴めなかったこともあり、残置部隊は米軍の追撃を受けることなく、概ね当初計画したとおりに整然と撤退行動が遂行されたのである。


2 部隊編成(本戦闘に登場する部隊と戦闘開始時の戦力) 

 (1) 第62師団(師団長 藤岡 武雄中将)
   ア 歩兵第63旅団(旅団長 中島徳太郎中将)
    (ア) 独立歩兵第11大隊
       5月15日歩兵砲中隊長を大隊長代理とし、集成第1中隊・集成第2中隊・機関砲小隊・歩兵砲小隊として再編成。戦力30%程度。
    (イ) 独立歩兵第12大隊
      集成2個中隊編成。 歩兵砲1門。 推定総員220名で内120名は5月11日以降に補充された将兵。戦力20%程度。
    (ウ) 独立歩兵第13大隊
       1個中隊+1個小隊編成(?)。 戦力20%程度。
    (エ) 独立歩兵第14大隊
      第1中隊・第2中隊・機関銃中隊を再編して1個中隊(西野中隊)。他に木坂中隊、歩兵砲中隊の3個中隊編成。戦力30%程度。

   イ 歩兵第64旅団(旅団長有川主一少将)
    (ア) 独立歩兵第15大隊
      資料なし。4月末において戦力50%以下とあることから、20%〜30%程度と思われる。
    (イ) 独立歩兵第21大隊
      5月30日夜東風平付近へ転進。
    (ウ) 独立歩兵第23大隊(第5中隊欠) 
      沢岻の戦闘にてほぼ玉砕状態。 生存者は独立歩兵第21大隊・22大隊等へ配置換えされている。

 (2) 第24師団(師団長 雨宮 巽中将)
   ア 歩兵第32連隊
     (ア) 第1大隊
      沖縄戦開戦時総員950名であったが、津嘉山到着時には110名(内65名以上は他部隊からの配属)。戦力15%程度。 
     (イ) 第2大隊 
       5月初旬に前田高地から後退できずに孤立状態。したがって歩兵第32連隊には帯同していない。
     (ウ) 第3大隊
      前田高地で壊滅的な打撃を受けており、おそらく第1大隊程度の戦力と思われる。
   イ 独立歩兵第22大隊 
    (ア) 第2中隊・第5中隊・機関銃中隊を主力としているが、各中隊とも戦力は半数以下と思われる。
    (イ) 5月31日津嘉山到着をもって歩兵第64旅団へ復帰






5月22日
22日夕方、沖縄第32軍の最後の戦闘態勢について、軍司令官牛島中将は喜屋武半島に後退することを決心し、第一線の後退は5月29日頃と予定し、傷者及び軍需品の後送を直ちに開始するよう命令した。



5月25日
 軍司令官は、与那原方面の米軍突破口の拡大を阻止しつつ、第62師団主力を首里地区に転用し、悪天候泥濘のために米軍の戦車、空軍、艦砲の活動困難、物量補給の不十分に乗じて与那原方面に退却攻勢をとり、米軍に痛撃を加えて与那原以北に撃退し、軍は依然なるべく長く首里戦線を保持することを決定した。
 軍司令官は、第62師団長に下記の部隊を配属して退却攻勢を命じ、第24師団長に独立歩兵第22大隊を配属して首里正面第62師団の守備地域の防衛を担任させた。

 
第62師団配属部隊
  独立歩兵第272大隊  配属された時点で戦闘員27名。 その他の負傷将兵は野戦病院担架補助隊配属となっていた。
  独立歩兵第273大隊  5月4日の時点で第1中隊・第2中隊・作業小隊・機関銃1個小隊となっていたが、その後の戦闘でほぼ全滅状態
  戦車第27連隊      27日に連隊長戦死。すでに戦車はなく徒歩部隊として137名を2個中隊編成とした。(6月2日残31名)
  重砲兵第7連隊      大里地区ですでに戦闘中。損耗大。
  船舶工兵第23連隊    大里地区ですでに戦闘中。 相次ぐ逆襲により戦力をほとんど喪失。
  独立機関銃第4大隊   兵員30名。使用可能機関銃2。 その後師団より機関銃2,擲弾筒3の交付を受ける。(定数344名)
  特設第3連隊、特設第4連隊、、独立速射砲第22大隊、独立速射砲第32中隊、独立迫撃砲中隊数個は資料なし。



5月26日
 第62師団は次のように指示した。
  歩兵第63旅団
    特設第4連隊、戦車第27連隊、重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊、独立歩兵第272大隊、独立歩兵第273大隊、独立機関銃第4大隊
    独立速射砲第22大隊などを指揮し、大里(与那原南約1.5km)方面に侵入南下中の米軍を撃破させる。
  歩兵第64旅団
    特設第3連隊その他を併せ指揮し、おおむね宮平〜喜屋武の線を確保させる。
    25日夜歩兵第64旅団司令部は津嘉山、独立歩兵第21大隊は兼城に移動、独立歩兵第15大隊は28日夜津嘉山東方87高地付近に移動
    した。

 第62師団は5月26日夜から次のように移動集結した。降雨のため移動は極めて困難であった。  師団司令部 津嘉山
  歩兵第63旅団司令部 長堂
   独立歩兵第11大隊(独立歩兵第273大隊配属)  友寄
   独立歩兵第12大隊(独立速射砲第22大隊配属) 宜次
   独立歩兵第13大隊(独立機関銃第4大隊配属)  平良
   独立歩兵第14大隊                        金良
   戦車第27連隊                            長堂
   特設第4連隊          23日以来高平で戦闘中
   重砲兵第7連隊       大里付近で米軍と対峙中
   船舶工兵第23連隊 25日頃稲福に集結中  



5月27日
 沖縄第32軍司令官は27日首里から津嘉山へ移動。 司令部先遣隊が直路摩文仁へ向かった。
第62師団主力の攻撃行動は、雨天悪路のため兵力転用も意のようにならず、そのうえ兵器・弾薬・糧食を僅少な自隊兵力で運搬しなければらないので、活発な行動は不可能な状況であった。
歩兵第63旅団司令部は27日長堂から神里に進出し、隷下部隊を次のように部署した。
   独立歩兵第11大隊 大里付近に進出して敵を攻撃
   独立歩兵第12大隊 神里付近に進出して敵を攻撃
   独立歩兵第13大隊 平良に進出して敵を攻撃
   独立歩兵第14大隊 在金良 旅団予備
   戦車第27連隊    神里付近に進出して敵を攻撃
   特設第4連隊      26日高平から目取真に後退したが、高平固守の命を受け28日高平へ

       



5月28日
 第62師団の退却攻勢は、各部隊の進出が遅れ、28日歩兵第63旅団司令部及び独立歩兵第11大隊が大里付近に進出し、戦車第27連隊が仲間西方地区に進出して戦闘を準備した。 第62師団に配属中の沖縄第32軍司令部薬丸参謀から軍司令部に、「勇猛を誇った第62師団も精鋭のほとんどが倒れ、各級の幹部以下は疲労の極に達し、軍の希望するような退却攻勢は絶望である」旨の報告があった。また軍砲兵隊の各砲兵部隊間の通信連絡は容易でなく、第62師団との通信連絡も思うに任せず、適時適切な火力支援は極めて困難な状況であった。
5月28日、軍司令官は全般の状況を考慮し、29日夜を期して喜屋武半島に後退することを下令した。
 軍の撤退命令を受けた第24師団は、28日師団の撤退命令を下達した。主力部隊は喜屋武半島南西部への後退及び陣地占領を命ぜられたが、歩兵第32連隊及び独立歩兵第22大隊(24師団へ配属中)には津嘉山への集結及び陣地占領を、歩兵第89連隊第3大隊には宮平北側高地残置を命じた。



5月29日
 歩兵第63旅団は、29日司令部及び独立歩兵第11大隊は大里付近で陣地を占領しており、29日夜には独立歩兵第13大隊は目取間付近、独立歩兵第14大隊は大城北側150高地に転進して米軍の南下阻止に当たった。
 沖縄第32軍司令部は臨時に第62師団に配属していた薬丸参謀を津嘉山に残置して軍情報所長とし、各兵団毎に第24師団の残置部隊と第62師団主力との連携に当たらせた。
沖縄第32軍司令官は深夜零時過ぎに津嘉山を出発、夜明け前に摩文仁に到着した。
 5月29日夜、第24師団主力は撤退を開始した。津嘉山収容陣地集結を命じられた歩兵第32連隊主力は29日2000頃陣地を撤し、首里城址に侵入した米軍を避けて津嘉山に撤退した。 また独立歩兵第22大隊は、平良町・大名高地・首里西側地区を保持して撤退掩護に任じた。

【歩兵第32連隊第1大隊長手記】

 
29日昼頃撤退命令が伝達されてきた。 軍の意図は勇壮な言葉で表現されていたが、実は最後を何処にするかということだ。それにしても、軍を島尻南部の集結させるには、集結の掩護がうまく行かねばならない。そのた首里の南4kmにある津嘉山付近の抵抗と、右翼へ侵入しつつある敵に対する第62師団の攻勢に期待した。
 大隊は29日2330津嘉山に向かって転進を開始した。その夜は月の出がなく静かだった。私達は砲弾に掘り返され、降り続いた雨に泥土と化した道なき小山の背を歩いた。

 


5月30日

 歩兵第63旅団は、独立歩兵第11大隊を高平付近に後退させて防御に当たらせ、特設第4連隊を高平から目取間付近に移動させ、司令部は目取間に位置した。
 独立歩兵第22大隊は、首里城址に侵入した米軍を撃攘するため、一部を平良町・110高地の守備に当たらせ、第2中隊・第5中隊・機関銃中隊により首里城址の米軍攻撃を行った。
   
 
【歩兵第32連隊第1大隊長手記】
 かつて第24師団司令部があった津嘉山へ0300過ぎに辿り着いた。 しみじみと体力の限界を感じたが、気力を奮い立たせて疲労困憊の態を悟らせまいとした。 常に行動を共にしている副官でも気づかなかっただろう。 稲代参謀がいて、連隊長はどうしたかと聞かれたが返事に窮した。 その頃連隊本部は南の方へと移動中だった。この大事な退却掩護の戦闘指導は津嘉山で連隊長自らやるものと稲代参謀は思っていたらしい。私も同感である。「連隊は津嘉山で収容部隊となる」と発令しながら肝心の連隊長がいないとは・・。 参謀の意向を連隊本部へ無電で連絡したところ、連隊長はだいぶ不満のようであったが、後刻少数のものと引き返してきた。
 先に指示していた第一線の配備も終わった頃に大隊本部を高津嘉山集落北東側に進め、明日からの戦闘に備えた。 第一線の配備は、北正面を新たに配属された我が連隊の速射砲隊の斎藤准尉以下30名で守らせた。もちろん火砲などなく小銃手のみである。 また東正面には、重田主計中尉に30名を与えて守らせた。主計将校も駆り出さねばならぬほど将校が不足していた。



5月31日
 軍情報所長薬丸参謀は歩兵第32連隊長にその本部を歩兵第64旅団司令部洞窟に位置することを要請し、津嘉山周辺の防御において歩兵第64旅団と歩兵第32連隊の連携を密にすることを図った。津嘉山南東地区においては、山川(特設第3連隊)、神里(戦車第27連隊)、高平(独立歩兵第11大隊)、目取間(歩兵第63旅団司令部・特設第4連隊)、大城(独立歩兵第13大隊)でそれぞれの米軍の進出を阻止していた。 独立歩兵第11大隊は昨30日夜高平北側の米軍を攻撃したが、不成功のため更に31日夜再び攻撃を実施したが米軍を撃退出来なかった。
 31日首里はほとんど米軍に制せられ津嘉山北側高地に収容陣地を占領した歩兵第32連隊は首里南東方地区に進出してきた米軍と交戦するに至った。
31日北方稜線に敵が現れ、斎藤准尉の隊と銃火を交えた。
 第24師団の第一線残置部隊は、31日各方面から浸透した米軍の包囲を受け苦戦したが、31日夜米軍の間隙を縫って撤退した。 
 独立歩兵第22大隊は津嘉山到着とともに歩兵第64旅団の指揮に復帰し、津嘉山北東方高地に配備されて与那原方面の米軍と相対した。
独立混成第44旅団は、旅団予備であった海軍丸山大隊を繁田川、識名、国場付近に残置し、旅団主力を後退させた。旅団長は31日夜、識名から長堂に後退し、同地において米軍の重囲を脱出して来た特設第6連隊長平賀中佐と会って同隊を掌握することが出来た。

 
      

   

     


6月1日
 残置部隊となった海軍丸山大隊は、6月1日米軍と激戦を交えたのち、夜2200陣地を撤して武富に後退した。丸山大隊は総員220名中約120名の損害を生じた。
 津嘉山地区は東方及び北方から米軍の攻撃を受けた。識名、国場付近では海軍丸山大隊が奮闘していた。津嘉山地区に収容陣地を占領中の歩兵第32連隊、歩兵第64旅団(独立歩兵第15大隊、22大隊、特設第3連隊など)は善戦して米軍の進出を阻止した。
 津嘉山南東方地区の神里付近では戦車第27連隊及び独立歩兵第12大隊が、また高平付近では独立歩兵第11大隊が奮戦し米軍の南進を阻止した。
       
      

   

   

【歩兵第32連隊第1(伊東)大隊長手記】
 
31日北方稜線に敵が現れ、斎藤准尉の隊と銃火を交えた。 翌6月1日は斎藤准尉の隊が北から、重田主計中尉の隊が東からの敵と交戦した。不用意に平地を通過してくる敵に猛射を浴びせて相当な損害を与えて撃退した。すでに敗勢明らかになった今日、なお兵達は勇敢に戦って、少しでも多く敵をやっつけようと頑張っている。
【伊東大隊長の証言】
 5月30日に当初示された北側陣地を偵察した際に東側にも立ち寄ったが、そこには部隊が配兵されておらず、そのままでは側面から敵に攻撃される恐れがあったので、重田隊を編成して配備した。その後も6月2日に至るまで独立歩兵第22連隊の兵や本部との連絡は一切とれず、東側は最後まで第1大隊が担任することになった。 配備した重田主計中尉は実に勇敢であった。そもそも目が悪いために主計将校となったが、歩兵将校として十分にやっていけるだけの能力を備えていた。 重傷を負ったところまでは確認しているが、その後の消息は全く不明である。
【独立歩兵第22大隊の記録「戦闘経過の概要」より】
 大隊は、6月2日に第5中隊を津嘉山東北方台上に、本部歩兵砲中隊を西北方台地に、左隣接部隊山兵団の一部、右隣接部隊独機の一部と連携戦闘す。


   
   



6月2日
 津嘉山地区は6月2日米軍の猛攻を受け、津嘉山地区の陣地は逐次米軍に侵入されつつあったが日没となり、米軍の攻撃は中断した。
 津嘉山付近の収容陣地の保持は6月2日までの計画であり、四周に米軍が浸透して来たので、歩兵第64旅団及び歩兵第32連隊は2日夜陣地を撤して南部に後退した。 歩兵第32連隊主力は6月3日夕までに糸満南東方の国吉地区に到着して陣地占領に着手した。

【歩兵第32連隊第1大隊長手記】

 6月2日、東方の敵は昨日の重田隊の奮闘に懲りてか、重田隊を避けて背後へと一意南下を図ったらしい。北方の敵は斎藤隊と激戦を交え、遂に陣地を奪い、さらに大隊本部にも攻撃を加えるに至ったが、日没となった。
 
重田主計中尉以下昨日までの負傷者は担架で収容されていった。大隊は本夜陣地を撤して島尻へ向かうことになっている。本日の重傷者2名は残すほかなかった。僅かの食糧・薬品・ローソクを与えて、津嘉山の壕奥深くそっと寝かせた。斎藤准尉も重傷を負って津嘉山の壕にいたが、私達の捜した時には見当たらなかった。既に患者収容隊に収容されたとか、手榴弾で自決したとかの噂がとんでいた。それを確かめるいとまもなく、撤退の途につく外はなかった。

   


 神里付近も6月2日米軍の猛攻を受けた。同地付近の戦車第27連隊は多大の損害を受け、2日夜命令により将校以下31名(神里到着時は140名)が米須に向かって後退した。また神里付近にあった独立歩兵第12大隊も多数の死傷者を生じ、2日夜命令により米須に後退した。
 歩兵第63旅団司令部は目取間に位置して作戦指導していたが、6月2日隷下部隊に対して島尻南部への撤退を命じ、旅団司令部も同夜撤退した。 独立歩兵第14大隊は依然大城北側の150高地付近に陣地を占領していた。

      

  


6月3日

 知念半島方面においては、重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊は米軍の圧力を受け、糸敷方向へ後退しつつあった。この頃両部隊は幹部の死傷多く解隊状況を呈しつつあった。 大城150高地には依然として独立歩兵第14大隊が陣地を占領していた。

6月4日
 大城150高地の独立歩兵第14大隊は、4日1000頃から米軍400〜500名の攻撃を受けた。 大隊は善戦し、米軍に多大の損害を与え夕刻には撃退したが、我が方も約20名の損害を受けた。 同大隊は旅団命令によって4日夜目取間に後退し、次いで5日夜には米須へ後退した。


変わりゆく沖縄の戦場

   





 





退却攻勢は沖縄第32軍司令部高級参謀八原大佐の発案であった。主力であった第62師団が首里周辺で予備部隊として態勢整理中であったため、これを投入して東部戦線で米軍の撃破、軍主力の島尻南部への退却行動の掩護を目的とした。










第62師団・第24師団のこの戦力の現状を考慮すれば、退却攻勢という作戦がいかに無謀なものであったか理解できる。
 なお、左記の数値や編成については公刊戦史には記載していないため、復員後生存者の記述した「戦闘実史」や手記、証言に基づいて作成した。  


















独立歩兵第22大隊は5月25日に第24師団へ配属された。それまでの沢岻・大名高地の戦闘での損害が大きく、3個中隊に再編成されている。

















配属部隊にして左記の状況である。概ね10%〜20%の戦力であろう。 米軍は部隊戦闘力が90%になると交代することを考えると如何に過酷な状況で第一線に向かったかがわかる。














沖縄はすでに初夏ではあったが、降り続く雨で体温が奪われ、その上空腹で、もはや整斉とした行動は不可能な状況であったという。
さらに示された地点へ到着しないうちに次の地点が指示され、部隊は疲弊するばかりであった。

戦車第27連隊長村上中佐は26日夜、出発後の首里城址で敵迫撃砲弾の破片により大腿部重傷となり、東風平病院に搬送中の27日未明に戦死された。


残された輸送手段である自動車部隊は、軍主力の後退支援に当てられており、砲の移動も手搬送であった。
























第62師団はすでに退却攻勢実行不可能を悟っていたが、軍司令部・第24師団はこの時点でも期待を持っていたことが残された資料から判断できる。 現場の状況はなかなか上級部隊には伝わらないものである。








































軍の撤退の成否を左右する「津嘉山収容陣地の戦闘」には歩兵第32連隊が主力として敵方正面を防御することとなっていた。 軍司令部をはじめとして、32連隊各大隊長とも、連隊長が直接戦闘指示に当たると考えたが、連隊本部は島尻南部への転進経路上にあった。




薬丸参謀は歩兵第32連隊長に津嘉山洞窟陣地に位置することを「要請」しているが、実際は非常に不信感にかられていたものと思慮される。


独立歩兵第22大隊の配備位置については後述する。









日本軍が西部戦線に対し多くの部隊を投入しなかった理由は、識名高地と国場川という大きな地形障害が存在したことが挙げられる。 特に那覇市の南側の漫湖や国場川の対岸は小禄半島であり、そこには強力な海軍部隊が存在した。 実際、那覇市北部の安里52高地(シュガーローフ)を失っても、司令部はさして動じることはなかった。









































海軍の記録は陸軍の記録と異なる。 丸山大隊350名を2個中隊編成で、これに951航空隊小禄派遣隊220名で丸山大隊第3中隊を編成した。 丸山大隊第1・第2中隊は350名中150名を失い、第3中隊は220名中120名を失った。
 これからすると公刊戦史たる戦史叢書は、誤って951航空隊小禄派遣隊の損害のみを記述している。 正確には 「丸山大隊は570名中270名の損害を生じた」 となる。




















































左記の証言等を総合すれば、伊東大隊が津嘉山に到着した5月30日から6月1日まで独立歩兵第22大隊は布陣していなかったことになり、伊東大隊長の証言通り東側には部隊がいなかったため、重田隊を配備したという証言が裏付けられる。 
 また独歩22大隊が6月2日に配備したのは1個中隊(おそらく1個小隊程度の実勢力)であったことから、守備範囲はかなり狭いものと推察される。 
 さらに右隣接部隊を独機(独立機関銃大隊)としているが、これは独立歩兵第15大隊に配属された独立速射砲第32中隊(独速)の誤りと思われる。




















6月2日を期して、津嘉山収容陣地及び退却攻勢に当たった第62師団部隊が一斉に後退行動に移った。 しかしどの部隊も更に戦力を低下させる結果となった。
 しかしながら、軍主力の撤退掩護の観点からすれば、この作戦は概ね成功したと言っても過言ではない。


























独立歩兵第14大隊は、退却攻勢部隊の最東端部隊として、主力が撤退した後の6月4日まで米軍の進出を阻止した。