津堅島の戦闘 つけんしまのせんとう

津堅島の戦闘

津堅地区隊
 長 重砲兵第7連隊第1中隊長 苧島(おじま)秀雄大尉
 重砲兵第7連隊中隊(約130名)
        12糎(センチ)速射加農砲2門、野砲2門
 独立混成第15連隊第1中隊第3小隊
  小隊長 山崎實少尉以下33名
        重機関銃4 軽機関銃3 擲弾筒3
  防衛津堅独立中隊 約40名 小銃若干
  補助看護婦、島民女子約30名



4月5日
 
4月5日1550頃中城湾に侵入した有力な米艦艇は、知念岬および勝連半島を砲撃するとともに掃海を開始した。津堅地区隊は接近した米掃海艇を砲撃し命中弾を浴びせたが撃沈し得なかった。この直後津堅島は砲撃を受け、また爆撃も受けた。



4月6日
 
0230頃50〜60名の米軍が津堅島北部に上陸したことを知り津堅地区隊長は、独立混成第15連隊の山崎小隊をもって攻撃させて撃退した。この戦闘で同小隊の2名が戦死した。
 その後津堅島は連日敵の砲爆撃を受け部落はすべて焼失破壊されたが、陣地の被害は少なかった。
また8日頃から米軍は航路標識の浮標設置作業などを行い上陸準備を進めた。




4月10日
 
4月10日0700頃から、津堅島全域は艦砲射撃を受け、同島南西に米軍の上陸用舟艇が接近して上陸態勢をとった。接近した米艦艇に砲撃を加えて若干の被害を与えた。0830頃米軍機約10機の対地攻撃(島南東端地区)に引き続き、戦車を先頭として約1個大隊の米軍が津堅島南部及び南東部に上陸を開始した




            


 
わが守備隊は米軍の先頭部隊が上陸した後に主火力の射撃を開始した。部落北東地区にあった12糎速射加農砲小隊(1門)は集中火を受け、火砲は破壊され多数の死傷者を生じた。砲兵小隊長西脇二郎中尉は砲兵小隊を指揮して一本松高地に後退した。
 守備隊主力は津堅島部落西部側高地の陣地に拠って防戦した。南部地区に上陸した米軍は、我が陣地に対し南部海岸沿いと、部落東方から攻撃するとともに北方に迂回して攻撃してきた。

 38高地東側地区を守備していた独立混成第15連隊の山崎小隊主力は、小隊長自ら重機関銃を射撃して勇戦した。機関銃が戦車砲によって破壊されたため、軽機関銃、擲弾筒、小銃によって戦闘を継続した。地区隊長苧島大尉は、山崎小隊に地区隊本部の36高地洞窟拠点に後退を命じ、南部海岸正面に配置した歩兵部隊(山崎小隊の一部)の殆どが死傷したため砲兵中隊の小銃兵を配備して敵の攻撃を阻止した。

   
 
1000頃、山崎小隊長以下が36高地洞窟に到着したので、守備隊長は山崎小隊長に砲兵中隊の中村少尉以下(砲1門)を配属し洞窟陣地の防御を命じた。防御戦闘において野砲の零距離射撃も実施した。降雨の中に激戦が続けられ、守備隊は米軍に圧迫されながらも善戦して拠点を確保して夜に入った。米軍の攻撃は夜に入り注しされたので、守備隊は夜間を利用して死傷者の収容を行い明日の戦闘準備を整えた。

 
            


             


慶良間列島を出発した第105連隊第3大隊は4月10日早朝に津堅島沖合に到着した。航空攻撃と艦砲射撃で偵察によって判明した日本軍陣地を攻撃した。0700支援艦船が上陸海岸から津堅集落、司令部のある丘陵に対して砲撃を開始した。0720日本軍の迫撃砲(注:野戦砲であろう)が艦砲射撃に対して反撃を開始したが上陸用舟艇(LST)の危険水域には達せず損害はなかった。しかし557号艇が被弾して2名戦死、1名負傷したため上陸前に安全な海域に避難した。0830に計画された上陸の少し前に12機の艦載機が上陸海岸を攻撃したが、天候の悪化のために帰投、1回の攻撃で終了した。





 
艦砲射撃は内陸部に延伸され、装甲水陸両用戦車(LVT)が攻撃開始線(水線)から前進を開始、0839に海岸に到達した。2分後に攻撃部隊が到達して第105連隊第3大隊の攻撃前進が開始された。当初抵抗はほとんどなかったが、すぐに左翼中隊のI中隊は津堅島の岩石とコンクリートで固められた日本軍の拠点と長い一日の戦闘が始まった。右翼中隊のL中隊は直ちにK中隊の増援を受け抵抗の弱い島北部の確保に移行した。
 雨と弾幕で敵の強力な拠点は隠蔽され、I中隊はこの日ほとんど前進できなかった。夜になっても敵の孤立した部隊は津堅島を固守し続けた。また集落の背後の高地帯から迫撃砲の攻撃を受けて負傷者が増加した。K中隊とL中隊は北部地域を確保した後にI中隊付近に戻り日本軍に対して戦線を形成した。





4月11日
 
米軍は早朝から戦車の支援下に我が拠点を攻撃してきた。守備隊は各拠点によって敢闘したが、死傷者続出し一本松高地は占領されるに至った。守備隊は36高地の米軍に対し榴霰弾(空中炸裂により霰弾を撒布し人馬殺傷を目的とする弾丸)射撃を持って制圧したが、午後に至り迫撃砲の集中火を受けて砲は破壊された。
 地区隊長は一本松高地の奪回を企図し森拠点の部隊と呼応して反撃を加えたが、多数の死傷者を生じたため、部隊主力を36高地に集結して防戦に努めた。別拠点にあった野砲第2分隊は砲を破壊して36高地拠点の主力に合した。



 
36高地拠点も米軍の猛攻を受け、陣地前10m付近まで近接した米軍と手榴弾戦を交える状況となったが、残存する重機関銃1の好調と相俟って陣地を確保した。幸いに米軍戦車は破壊された部落の石垣などによって洞窟に近接できなかった。
 日没前米軍は、戦車をもって約30分にわたり洞窟拠点を砲撃したのち攻撃を中止した。11日夜守備隊は、明日はいよいよ玉砕なりと覚悟を固め、夜間を利用して死傷者の収容を行うと共に陣地を補修し、最後の決戦準備を整えた。





 4月11日各中隊は日本軍守備隊の壊滅に傾注した。反撃は当初非常に強固であったが、次第に抵抗は弱まっていった。1530までには日本軍の組織的抵抗は終了した。その後大隊は再度乗船を命ぜられた。激烈な戦闘にもかかわらず大隊が早期に撤退したために僅かながら日本軍兵士の中には生き残った者があった。敵は本島の本隊への合流を企図した。
 大隊は1日半の戦闘で11名が戦死、80名が負傷、3名が行方不明となった。日本軍は234名が戦死、島内の施設は全て破壊した。捕虜となった者はいなかった。

           



4月12日

 
朝、守備隊は米軍の攻撃を予想していたところ、全然その気配がないので島内を偵察した結果、米軍は津堅島から撤退して一兵も存在しないことが判明した。地区隊長は直ちにこの状況を独立混成第44旅団司令部に電報報告した。12日1200頃旅団司令部から「地区隊は勝連半島に転進し中頭地区において遊撃戦を実施し、状況により軍主力に合すべき」旨の旅団命令を受けた。
津堅地区隊長は12日夜、クリ舟によって勝連半島に転進することを決し、戦死者を埋葬した。
10日以来の津堅島戦死者は、重砲兵第7連隊44名、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊13名で、転進人員は約80名となった。



  地区隊はその後13日天明までに勝連半島平屋敷付近に到着したが、陸路本隊に合流することは困難と考え水路中城湾を突破して島尻(本島南部)に転進することに決した。14日夜与那原に向かって海上を南下したが、米艦艇に遭遇し3隻が再び津堅島に回避、残りが与那原付近に到着して原隊に復帰した。津堅島の3隻は15日夜に再出発したが、敵に発見され再び津堅島に戻った。
(西脇中尉一行)
 4月20日夜、与那原に帰還していた兵が負傷者収容のため(離島の際に負傷者は島に残置した)来島した。西脇中尉一行と負傷者を収容し直ちに出発しようとしたが負傷者が多く中止した。
22日夜再出発しようとしたが、重傷者の搬送に時間を要し、乗船完了が23日0230頃となったため再び出発を中止して全員洞窟拠点に引き返した。
 4月23日朝米軍再上陸。洞窟も火焔攻撃を受け、西脇中尉以下30余名の戦死者と多数の負傷者を生じた。残存兵員十数名は25日夜津堅島を脱出して与那原に帰還した。
 米軍上陸以降25日までに重砲兵第7連隊82名戦死(130名中)、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊22名(33名中)であった。 米軍戦死11名。負傷80名、行方不明3名。

重砲兵第7連隊は中城湾要塞重砲兵連隊を改称したものである。この砲台を防護するために歩兵小隊が配属された

独立混成第15連隊は第44混成旅団配下の部隊であり、本隊は知念半島にあった



米軍は津堅島他の東海岸にある島からの抵抗を排除して安全を確保した後、中城湾に艦艇を進め、海上から本島米軍の攻撃支援を実施する計画であった。事実これ以降日本軍は中城湾の米艦艇からの艦砲射撃を受け苦戦する


伊計島・宮城島・平安座島・浜比嘉島には4月7日に偵察隊を上陸させ日本軍の無配備を確認してる






津堅島はほぼ平らな地形であり、加えて事前の砲爆撃により木々もなかったために、日本軍守備隊は米軍の上陸行動を逐一確認していたであろう












   

戦史叢書は一本松高地を38高地付近としている。しかし速射加農砲の位置、及び後退に際して山崎小隊陣地の前面を通過することは考えにくい。したがって砲の位置から真っ直ぐ西進した場所付近が一本松高地であったと判断する

米軍の北への迂回は事前の航空偵察等から日本軍守備隊の陣地が手薄であること、対戦車壕の位置を回避するためのものであると判断する











零距離射撃
 通常砲口を上向きにして射撃して砲弾は放物線を描いて飛翔するが、敵があまりに近い場合は砲口を直接的に向けて射撃することをいう。砲兵部隊にとってはあまりに敵が近接した場合の最後の対抗手段である











    

















米軍の予備部隊は第1大隊と第2大隊であったが、この時は慶良間列島に所在した。短時間での投入は不可能であることを考えると、第3大隊だけで戦闘を終了できる確信があったのであろう








   



















一本松高地の喪失により38高地や36高地が側面から攻撃を受けるために何としても確保しようという意志がうかがえる














   



「島内の施設は全て破壊した」とあることから、事前偵察で得られた情報と破壊兵器数が一致したのであろう。米軍としては長射程火器さえなくなれば、人命をかけて奪い取るだけの価値はないと判断したと思われる