浦田挺進隊の戦闘                                                                    2005年作成

浦田挺進隊の戦闘


 軍司令部と国頭支隊間の通信連絡は、国頭支隊本部(第2歩兵隊本部)が八重岳からの転進に伴い4月16日に断絶した。軍司令部勤務の浦田國夫少尉は、国頭方面の情報を収集するため、自ら挺進連絡することを計画し4月20日に軍命令を受けた。

浦田挺進隊の隊員は次の通り
  隊長 浦田國夫少尉
        岡 幸夫軍曹  村上千秋伍長  仲地朝明2等兵(国頭出身)
  電信第36連隊(無線機1を携行)
     木村 勇伍長  山内 豊1等兵  原田育甫1等兵

 浦田挺進隊は与那原付近から海上挺進第27戦隊の海上特攻艇5隻により海路を突破して国頭に向かうことになった。この特攻艇による輸送要員は前田見習士官以下7名であった。
 4月23日2000頃、軍司令部(首里)を出発、2330頃与那原に到着した。
 4月25日2130頃、特攻艇5隻に分乗して与那原出発。
 4月26日0530頃に大浦湾スギンダ浜に上陸。





 浦田少尉は部下を海岸近くに潜伏させ、岡軍曹を率いて久志岳に入り、第3遊撃隊第4中隊長竹中少尉と会い同隊に1泊した。浦田少尉が海岸を出発した後、26日1000頃スキンダ海岸に米軍が上陸したので、特攻艇を爆破して山中に待避した。
4月27日、浦田少尉は海岸に引き返して敵の攻撃を受けたことを知ったために、山中の前田見習士官以下と合流し再度久志岳竹中中隊に合流、無線連絡を開始した。久志岳にある間浦田少尉は遊撃戦に積極的に協力した。しかし無線は通じず、やむなく国頭方面の状況報告のため軍司令部に決死の伝令を派遣することに決した。

 5月7日 陸路隊(岡軍曹以下5名) 海路隊(前田見習士官以下3名) の2班を編成。
 5月8日 陸路隊は久志岳を出発し恩納岳に向かい、恩納岳で第4遊撃隊長岩波大尉と連絡し、岩波大尉の依託報告書を受領して屋嘉に出た。嘉屋からクリ舟に乗り濱比嘉島に渡り、11日同島で海路隊に合流した。
5月12日2200頃、前田見習士官、岡軍曹、木村伍長の3名は濱比嘉島からクリ舟に乗り与那原へ向かった。クリ舟は途中津堅島付近で米掃海艇と遭遇し、木村伍長が戦死したが、前田見習士官と岡軍曹は10余キロを泳いで与那原に到着し、14日に軍司令部に状況報告した。


 岡軍曹は軍司令部に報告後、再度国頭に挺進することを企図し、木村延義兵長と防衛隊の船頭数名と共にクリ舟により5月23日0500頃、屋嘉に上陸した。上陸と同時に米軍の攻撃を受け岡軍曹は戦死、木村兵長は数日後久志岳の浦田少尉のもとに到着した。

 5月26日に浦田挺進隊は第3遊撃隊を通じ「軍参謀長の指示」を受領した。その内容は、遊撃隊各隊は浦田挺進隊と連絡をとり軍との連絡を確保すべしというものであった。
(第3遊撃隊は軍司令部との連絡のため伝令班7名を5月13日に出発させた。伝令班は24日に第3遊撃隊に復帰した)
(軍参謀長指示は宇土大佐との連絡がとれないために、青柳中佐が支隊長となり国頭の全ての部隊を指揮して遊撃戦を展開せよという主旨であった)

 浦田挺進隊はその後も無線連絡に努めたが連絡は取れず、ついに通信を断念した。6月6日に無線機を埋没し、3組に分けて軍司令部帰還を企図したが果たせず、その後第3遊撃隊長と連絡を取り、第2中隊長(菅江少尉戦死)となることを命じられ、タニヨ岳東方の第2中隊に向かい遊撃戦を展開した。














4月25日頃には中城湾内には米艦隊が常時艦砲射撃を行っている状況であった


























通信という軍の作戦行動の基幹をなす手段を人間に託さざるをえなかったことで、沖縄戦は既に勝敗が決していたと言わざるをえない。各方面の戦闘でも常に通信手段の欠如、無線機材の不良が取りざたされており、それを補う「伝令」で如何に多くの人材を失ったことか。将来に生かすべき重要な教訓である