渡辺山の戦闘 (わたなべやまのせんとう)                                                       2008年5月作成

「沖縄一兵卒の足跡」から抜粋     著者 小板橋 平三氏

 「渡辺山」とは渡辺小隊が米軍と戦闘を交えた丘の名称で、戦闘後にその功績を称えて命名されたが、現在に残された地名ではない。またこの小さな丘を米軍は作戦上 「DUCK」 と称しつつも、公刊戦史ではわずか数行に触れられているに過ぎない。 現在は戦後の農地改革でその姿をあまり留めておらず、そこで起こった戦闘は今や歴史の中に埋もれかけている感がある。 

  筆者所属の渡辺小隊は、陸上勤務第72中隊(群馬県高崎で編成:中隊長剣持中尉)の第1小隊のことであり、小隊長は渡辺研一中尉であった。渡辺小隊(第1小隊)は
特設第3連隊(第32野戦兵器廠連隊)に配属となり、当初山川集落、次いで稲嶺集落→山川集落→阿波根集落と各地に駐屯した。
当HPにおける「渡辺山の戦闘」は主に昭和20年5月22日から戦闘があったとされる5月26日までを掲載した。日本軍は首里を中心として西は那覇市を、東は与那原を突破され、米軍に包囲される寸前の状態で、5月28日から首里撤退を進めようとしている時である。主力部隊はほぼ戦力が尽きた状態で、渡辺小隊のように本来なら後方地区で任務に当たる部隊を第一線に引き出して米軍の主力部隊に対応させるなど、事態は深刻であった。

● 日本軍の公刊戦史である「戦史叢書」には次のように記されている。
 *  5月22日、軍は米軍が雨乞森に侵入したことにより東部戦線の崩壊を懸念し、ここに
特設第3連隊を第24師団の指揮下に入れ、津嘉山東方
    1,5kmの87高地(黄金森)付近に進出させて、同高地南北の線(兼城〜87高地〜喜屋武地区)に部隊を配備した。
  *  5月25日には与那原から西進を企図する米軍に対し、与那覇付近で海軍勝田大隊・
特設第3連隊・第2歩兵隊第3大隊が勇戦しこれを阻止。
  *  5月26日、豪雨の中で激戦が続いた。
米軍は与那覇地区から西方および87高地方面に猛攻してきたが、所在部隊は善戦して米軍に多大の
    損害を与えた。

  * 5月27日、米軍の攻撃不活発。
  * 5月28日、宮平〜87高地〜仲間の線を確保。
  * 
5月29日、与那覇及びその南西方は米軍の猛攻を受けたが、宮平東側高地〜87高地〜仲間の線は確保した。
  * 5月30日夕刻には宮平東側高地は米軍に占領され、我が部隊は宮平北側高地、87高地、仲間の線を確保して、米軍の進出を阻止した。
  * 5月31日、兼城北側高地、87高地、高平北側高地は米軍に占領された。

●  米軍の公刊戦史である「Okinawa the last Battle」には次のように記されている
   
この期間の中で最も激しい戦闘は喜屋武の東側、「ダック」と「マーベルヒル」で行われた。5月26日第32連隊は日本軍の抵抗を排除しようと
  したが、「ダック」において日本軍と遭遇し多くの死傷者を生じて退却するという激しい戦闘に陥った。この戦闘は激烈で、戦線を突破してきた
  5名の日本兵が最前線で治療中の I 中隊唯一の医官に襲いかかった。彼は拳銃でこの5名を射殺し負傷兵が後送されるまでその場に留ま
  った。「ダック」から撤退する際には遺体を収容することすら出来なかった。

                          

                          
           * 縮尺の異なる2枚の地図を同縮尺にして表示した。現在の地図は2万5千分の1,1947年の地図は4500分の1のものであった。
 


渡辺山の戦闘

第一線出陣
 日米両軍でひとつの丘を奪い合う戦闘が繰り返される。首里北方の戦いのため、後方の南風原の陸軍病院壕は二千余名の入院患者で満員となり壕に入れない数百名の負傷兵は木陰や溝の中に置き去りにされ砲火に曝されていた。早く壕内に入れてくれと看護婦やひめゆり部隊の看護助手の学生に頼んでいたがどうすることも出来ない。彼らが壕に無事に収容される頃までには幾人の兵隊が生き残っていられるであろうか。
 遂に首里戦線の右翼は東の運玉森の陣地を突破され敵は太平洋岸の漁港与那原に進出した。渡辺隊に出動命令が下り5月22日夕刻阿波根を出発する。完全武装であった。その夜のうちに友寄の壕に入った。また元の駐屯地近くにきたのである。武装を解いて一休みする。歩き疲れて脚を投げ出して揉んでいると隊長が呼んでいると言う。ローソクの灯の下で地図を調べていた隊長は「本日付をもって上等兵を命ずる。明日は第一線に立つ予定である。こんな時の進級で肩章はない。指揮班兵の長として頑張ってくれ」。自分は改めて隊長に進級の申告をして自分の場所に戻る。進級したというものの複雑な気持ちであった。明日は戦場で敵と闘う訳だ。長と言っても炊事班長と違って今度は十数名の指揮班兵の長である。責任の重さが気にかかり、初めての進級の時とは全然違った実感であった。翌朝薄明かりのうちに壕を出発する。身につけているものは戦闘に必要な武器と乾パンだけでその他の物は総て壕内に置く。
 元の駐屯地山川部落に出て北東に進むが自分には初めての処ばかりでさっぱり何処を通り何処に向かっているのか解らない。只先頭に立つ隊長の後に続くだけである。既に周囲は明るくなりグラマンが飛んでくるのも間もない事であろう等と思いながら時々空を見上げつつ歩く。「止まれ」、隊長の号令で家屋や木陰などにそれぞれ退避した。この付近の民家の人々は既に南に下り殆ど空家になっている。雨戸を開け中に入った。腰を下ろす間もなく隊長が呼んでいる、すぐに来るようにとの連絡で先頭に居る隊長の処に飛んでゆくと「そこに見える高い土手に沿って左に行くと右側に山がある。友軍が占領しているから渡辺隊が来たと連絡をとれ。土手の向こう側を行くのだ。指揮班の兵を二名連れて行け」。言われて前を見ると2〜3m位の高さの土手が左に続いている。上は線路かな?ふとそう思った。
 2名を連れて先頭で走る。土手の向こう側に出て土手下を左に進む。約20m位行くと右手に平らな畑の奥にぽつんと独立した山がある。「あれだ!」。後ろの兵に自分が言った時である。ダダダダーと機銃の音に慌てて土手下にある浅い小さな溝に飛び込んで伏せる。頭上の左の土手にブスブスと音を立てて弾丸が突き刺さる。我慢してじっと伏せて待っているとやっと射撃が止んだ。雑草が溝を隠す様に生えている。雑草をそっと分けて山を見ると八合目辺りに2カ所土嚢を積み上げて機銃を据えそれぞれに3〜4名くらいの兵隊が居るのが鉄兜の数でわかったが、敵兵であるとは確認できない。少し溝を下って傍に落ちていた小枝の先に鉄兜を乗せてそっと持ち上げてみる。また機銃がうなり鉄兜が弾丸でくるりと回る。土手の土が掘られてパラパラと頬に当たる。二人の兵隊は自分より5m位後ろに下がらせておき撃っている山の兵隊が敵兵であることを確認するように伝えてある。自分も下って解ったかと聞いたが土嚢が高くまた陣地から離れることもなく見えるのは鉄兜のみで確認出来なかったとの事である。友軍が見間違えている事はあるまいが、隊長は友軍が占領していると言う。確認の最後の手段を思いついた。鉄兜の中から折り畳んだ故郷からもってきた寄せ書きの日の丸の旗を取り出し、先程の小枝に縛り持ち上げてみた。猛射とはこのことであろう。二つの機銃は再度唸って火花を散らし擲弾筒らしきものまで爆発し始めた。「下がれ」と怒鳴って溝を這いながら後ずさる。先に居た場所の雑草も土も蹴飛ばされている。既に敵は確実にあの山を占領している事がわかった。早く隊長に報告せねばと思ったが左は高い土手で右は平らな畑続きであの山がある。動きがとれない。とにかく溝を下がれるだけ下がってみろと後の兵に伝える。少し下がると「行き止まりです」と最後の兵は叫ぶ。続けて「ですが土管が向こう側に通じています」と言う。土管は潜れるかと聞くと潜れる程の大きさなので入れるが、水が半分ほど溜まっていると言う。他に方法はない。溝から一歩出れば蜂の巣の様に撃たれる。「潜れ」と命令する、後の兵隊から順に土管に入る。最後に自分が潜る。中は泥とゴミと水で進むのが大変である。鉄兜と銃が邪魔で持て余す。四苦八苦の有り様であったが、やっとの事で向こう側に這い出すことが出来た。ずぶ濡れの上、顔も服も泥んこで三人はお互いの顔や姿を見て声もなく笑った。泥で汚れた笑顔に安堵の色が浮かんでいた。やれやれ助かったとその顔は言っていた。駆け足で隊長の処に戻り報告する。直ぐ部隊はその場から引き返して別の方に移動を始めた。歩きながら自分は泥水で汚れた日の丸の旗を拡げて見ると弾丸で三カ所破れていた。濡れて汚れているので鉄兜の中に入れる訳にもゆかず隣の兵に片隅を持たせて乾かしながら進む。
  

  



 翌朝(24日)早く南風原の陸軍病院壕のすぐ南で病院壕と低い畑を隔てた山を占領し陣地とする。この陣地の東はやっぱり低い畑でその先の高地は既に敵が占領し陣地にしており我が隊と畑を挟んで対峙する形であった。我が陣地に入る時、敵から移動するのが見える場所が一カ所あった。南の丘から丘続きを楯にして部隊は北端にある陣地を占領すべく進むのであるが丘と丘の間に切れ目があり、敵の機銃はその場所に照準を合わせて駆け抜ける我々を撃ってくる。自分も前の兵隊が飛ぶように次の丘の陰に入ってから間合いをとってパッと駆けだし通り抜けたなと思った瞬間、尻が熱く感じてやられたかと尻をそっと触ってみると、水筒の底に弾丸がかすめた小さな穴から水が垂れていた。
              
 陣地を占領したその夜から敵に夜襲をかけた。この夜の斬込みで自分の班長である重田班長達は戦死された。次の晩も続けて決行する。しかしこれは敵に恐怖心を与え、かつ敵の兵力兵器を探る為の少人数による攻撃であり、主力が入っているこの陣地を死守する事が目的だったのである。我が隊は後方部隊であるために、兵器は貧弱なものであった。小銃の他は擲弾筒2門、手榴弾が各人2〜3個、それに対戦車用に配給された爆雷の木箱約十数個それだけで軽機関銃すらなかったのである。敵の軍備とは比較にならないものであった。昼間は迫撃砲が我が陣地の山に撃ち込まれるので歩哨のみ山上の塹壕に配備して他は壕内に過ごすのである。夜は我が軍が壕を出て活動を開始するのであった。
 終戦後三十数年、兵器廠連隊副官であった長瀬氏と文通し教えられた事であるが、敵が東海岸の与那原を攻撃し更に首里後方に進出を始め、兵器廠部隊はこれを迎撃すべく西海岸の糸満を中心の警備陣地から急遽5月22日夜、東方へ移動を開始する。渡辺隊は兵器廠第1大隊に所属していた。第1大隊は大里村島袋を目指し、第2大隊はそれより北の与那原から那覇に向かう道路端の宮城に、第3大隊は一番南寄りの大里村南風原部落(旧大里村役場所在)を占領すべく進撃する。兵器廠連隊本部は陸軍病院壕と切通の道路を隔てた西隣の高地に置く。一番北部は第2大隊、中央部を第1大隊、南は第3大隊の順で南北にほぼ一直線に結ぶ各部落を目標にしたのであるが、敵の進撃が予想以上に早く、各大隊ともに目的地を占領することが出来ず、やむなくそれより後方に守備陣地を占領したのである。渡辺隊は第1大隊所属であったが生粋の兵器廠の部隊員でないためか、大隊とは別行動で独自の部隊移動を行っていた。
 陸軍病院壕で夜移動が開始された。闇にまぎれて後方の南部に撤退するのである。この頃沖縄はよく雨が激しく降り、負傷兵達は肩を借り、杖をつき、あるいは這って泥水の中を南に向かう。軍医、看護婦、女学生等も一緒であった。自分で動けぬ重傷者二千名余の兵隊は薬により命を絶ったと後に聞き、その兵員数と凄惨さに驚いた。隊長の命令で友軍の陣地に連絡のため夜半出発する。南風原村喜屋武部落の四つ角まで行くと迫撃砲の集中射撃で通れない。付近の家屋は火に包まれている。道端の溝に伏せ暫く止むのを待っていたが迫撃砲は連続炸裂で、仕方なく山裾や畑を廻り連絡を済ませたが、敵の惜しげもなく砲弾を撃ちまくるその戦法と物量には全く敵ながら脱帽の思いであった。今更ながら今後の戦いの酷たらしさを肌で感じた。

 我々の陣地の形態は中央部分が指揮班壕で真っ直ぐ山に登れば頂上である、頂上から左にかけて山は緩やかに下りで低い畑地まで降りて行く。右は小高い丘続きである。指揮班壕の左翼は第1分隊壕で、右翼に第2・第3分隊壕になっていて地下ではそれぞれの壕と通じ合っていた。左右の壕の大きさに比べると指揮班壕ははるかに小さい。陣地に入ってからの敵の攻撃は迫撃砲と機銃であった。
 3日目の早朝は前日までの砲撃とは異なり、迫撃砲が物凄く炸裂する。ただ事ではないと直感する。いよいよだと思った。その時である。山上に居た指揮班の歩哨兵宮崎一等兵が転げ落ちるように指揮班壕に飛び込んできた。全身血だるまである。敵軍が一斉に我が軍に向かって進撃を開始したと報告する。隊長は「よしわかった。すぐ元の位置に戻れ」と命令するが、宮崎は動けない。「早く行け」と再び命令する。隊長は遂に軍刀を抜き「戻れ、戻らんとぶった斬るぞ。我々はこの山を死守するのだ。最後の一兵になっても戦い、この山を死守するのだ。俺に斬られて死ぬか、敵と闘って死ぬか、どっちだ」と軍刀を振り上げた。やっとのことで宮崎は壕を出て再度山に登って行った。我々はこれ程激しい隊長の言動を見たことは始めてである。いつも部下想いの優しい人柄である。部下の過失の為に遠く戦闘部隊の駐屯地まで出かけ、兵をかばって話を付けてくれ「もう心配するな。これからはよく注意する様に」と諭してくれる隊長であっただけに驚いた。陣地と砲兵隊との間には有線電話があり、すぐ敵の位置を指示して発砲するように頼む。ところが「今日の予定分の10発は早朝に撃ったため、もう撃たない」との返事に隊長は電話をひったくる様に取り上げ、すぐ撃てと命令するが同じ繰り返しの返事に電話を放り投げ、全員に銃に着剣する様に命令する。白兵戦を行う心算である。
 隊長は恩賜の煙草に火を付けて美味そうに二服すると煙草を自分に渡し、順に廻すように顎で指示する。一服づつで皆に廻す。激しい迫撃砲が止んだのを確かめ、隊長は壕の出入口に立ち、兵隊の顔を一瞥すると「続け!」と大声で号令し先頭で壕を飛び出す。隣にいた臼田一等兵が続き三番目に自分が出る。続いて指揮班兵が続々と後ろを追ってくる。敵兵が我が陣地に近づいた故砲撃が止んだのだと隊長の後を追いながら思った。隊長は真っ直ぐに頂上目がけて駆け上る。山の中腹まで登った時である。激しいダダダッ!と鳴る機銃音にサッと隊長は体を沈め、片膝と軍刀をついて止まった。指揮班兵も無意識に同じ姿勢をとる。一秒、二秒、自分はおやっと思って隊長の後ろ姿をみた。すぐ再び駆け登るはずの隊長が動かない。かすかな白煙が隊長の腹部付近から左に流れるのが見えた。慌てて隊長の処に走る。既に即死していたのであった。腹部盲貫銃創である。同じ姿勢のままの臼田をふり返って見れば、鉄兜の下の額から脳味噌を白く出して彼も即死していた。ふと人の動きに左を見ると第1分隊が続々と山を登り始めている。反射的に右の第2分隊第3分隊の壕を見ると誰も出ない。「早く山に登れ。塹壕に入れ!第2分隊・第3分隊を出してくる!」。後の指揮班兵分隊長を先頭に第2分隊第3分隊は四列縦隊で出口に整列していた。隊長命令として出動を命じる。
 敵に陣地を馬乗りされては戦いは負けである。自分は壕内を走り、再び指揮班壕から山に登る。既に戦闘は開始されていた。山上のタコツボに飛び込む。頂上付近であった。山裾に米兵が見える。夢中で銃を撃つ。暫く撃つと銃身が焼けて熱くて撃てない。手榴弾を2個投げた。廻りを見ると塹壕の中でうつ伏せになって死んでいる兵隊の銃が転がっていた。これでまた銃を撃つ。未だ小銃弾はたっぷりとある。狙撃兵も命じられていた事を思い出し、懸命に銃を撃つ。敵が倒れても自分の弾丸が当たったのか他の兵隊の弾丸かさっぱり解らない。手榴弾が山裾でいくつも炸裂する、夢中になって撃っていて、どの位戦闘をしていたのかわからないが、敵兵は退却を開始した。ホッとすると同時に隊長の事が気がかりになって戻ってみると、以前の処に遺体があった。そのすぐ傍に一軒の家がすっぽり入る程の大きな穴が重砲の炸裂によって出来ていた。中を覗くと一番底に田部井兵長が死んでいた。指揮班兵の山田一等兵を呼び、手伝わせて隊長もその穴に入れ田部井兵長と共に埋葬し、水筒の水と近くの草花を、いや草だけであったかもしれないが、手向けた。隊長の遺品として認識票、軍刀、拳銃、財布(280円在中)、印鑑、時計、包帯包を自分の身に付け、いづれ剣持中隊長に会った折りに渡したいと考えた。山は再び迫撃砲に曝された。
 吉田第1分隊長も緒戦に大腿部貫通重創で第1分隊壕内で衛生兵の看護を受けていた。渡辺隊長が戦死され、吉田分隊長がそれ以来指揮を執る事と成った。指揮班兵の竹内の後日談によれば、激戦中「そこに敵の機銃が居る」と傷を負った他班の班長が叫ぶように後方を指す。ふり返って見ると山裾で敵が我隊員を後方から撃っているのである。竹内は手榴弾を投げる。他の兵隊も同時に投げたらしく、誰の手榴弾によるものかわからないが3名の敵兵は即死し機銃は止まった。長い戦闘の後、敵が退却を始めた折、あの敵機銃があるのを思い出して、その機銃で敵に追い打ちをかけたとのことである。この話を聞いた時、渡辺隊長を戦死させたのもその機銃であろうと想像した。陣地の北側の低い畑から陣地の内側に廻り込み、左側面から攻撃してきたのである。敵は退却を始めたが、未だ日は高く、逆襲の恐れがあるとの吉田分隊長の判断で山上にて警備に着く。敵撤退後再び砲撃が開始され戦死傷者を更に出す。竹内は吉田軍曹と共に、夕刻兵器廠連隊本部に行き、連隊長に白兵戦の後に敵兵を撃退し陣地を確保したこと、渡辺隊長が戦死し陣地に埋葬した事、敵の機銃で退却する敵兵を撃った事等を報告したのである。連隊長は大いにその戦果を賞賛し敵の機銃を連隊本部に持参せよとの命令で竹内が運んだそうである。以後、この山を兵器廠で「渡辺山」と命名したのである
 その後、吉田軍曹が渡辺隊の戦闘能力は大勢の戦死傷者で殆どなくなったので原隊である剣持中隊に復帰したい、陣地は他部隊と交替させて欲しいと申し入れると、元気な兵隊は総て残して行けと命じられた。しかし「負傷者を収容する兵隊が必要なので出来ない、全員撤退する」と答えると連隊長は激怒し「吉田軍曹貴様は軍法会議にかける」と怒鳴ったが「結構です。かけてください。全員撤退します」と答え竹内の背に負われて兵器廠の壕を出たそうである。
 その頃には渡辺隊の兵隊達は負傷者に肩を貸しながら阿波根の壕に向かって雨でドロドロにぬかるむ赤土の道を軍靴の上まで、深いところは膝まで沈ませながら歩いていたのである、。吉田軍曹が兵器廠連隊本部に行く前に阿波根に終結する様に命じ、兵隊達は陣地を後にしていたのであった。


・・・・群馬県高崎市の長井様のご協力に感謝いたします・・・・






第2・第3小隊は特設第4連隊(第32野戦貨物廠連隊)配属となっている。












生存者の方の 「渡辺山の戦闘」は5月27日であったという証言があるが、日米双方の公刊戦史から当HPでは5月26日を戦闘のあった日として取り扱っている。

鉄人28号さんのHP 「鋼鉄の浮城」
中の 「艨艟を訪ねて」→「沖縄527」に渡辺山の戦闘日の検証が実に詳しくなされている。























































































日本軍は黄金森(87高地)を東側の防御線として、その背後の津嘉山を経由して首里から撤退した。写真右側の市街地が首里・那覇方面であり、左側方面が島尻半島となる。まさに薄氷を踏むような実に際どい撤退であった。

写真は東側からの撮影であるが、「MINNIE」と 「LINDA」は手前の丘に隠れて見えていない。























地元の方の話しでは、のどかな小さな二つの丘の間に峠があって、戦前は子供達の遊び場であったそうだ。




























南風原陸軍病院壕から負傷者が撤退を開始するのは、多くの文献から5月25日夕刻とされる。筆者が喜屋武集落に入ったのは25日夜ではないかと思われる。












砲兵部隊の生存者の記録などでは、撃てば必ず敵を撃破できるとわかっていながらも、弾薬使用統制がかけられていたために射撃することが出来なかったという記述がみられる。























































吉田軍曹はその後負傷、「皆の足手まといになる」として本島南部地区の喜屋武集落の亀甲墓において渡辺隊長の形見の拳銃で自ら頭部を撃ち抜いたとされる。