八重岳の戦闘                                                                    2005年12月作成


日本軍公刊戦史記述を青
米海兵隊公刊戦史記述を赤で示した。また米軍側の部隊は全て「第6海兵師団」隷下部隊である。したがって第4連隊とあるのは「第4海兵連隊」を表す。なお、海兵隊記述については筆者による抜粋とした。

概 要

 独立混成第44旅団は昭和19年6月上旬に九州で編成を終えて沖縄への輸送を待った。
  編成時の編制は次の通りである。
    独立混成第44旅団
      旅団長 鈴木繁二少将
      第1歩兵隊(柴田常松大佐) 
      第2歩兵隊(宇土武彦大佐) 
         本部、歩兵大隊3、歩兵砲中隊1、速射砲中隊1 (隊人員合計 2046名)

  6月25日鹿児島を出航したが、29日0720頃徳之島東方で敵潜水艦の雷撃を受けて沈没し、乗船部隊(独立混成第44旅団・45旅団)約4600名中行方不明3700名の大損害を生じた。第2歩兵隊は約2000名の将兵のうち生存者200名であった。この結果第1歩兵隊は復員解消され、第2歩兵隊は再編成基幹要員を7月〜9月にかけて本土から輸送及び現地召集者を加えて再編成された。宇土大佐は7月7日に那覇に到着、独立混成第44旅団長から「国頭地区隊」として名護付近に位置することを命じられた。昭和19年11月、軍は第9師団の抽出に伴う配備変更において、第2歩兵隊長宇土武彦大佐の指揮する歩兵2個大隊を基幹とする部隊をもって「国頭支隊」として国頭方面の防衛に当たらせた。しかし伊江島に1個大隊を配備することとなり、結果本部半島は第2大隊を基幹とする小兵力となったために、本部半島の陣地を八重岳を中心とする地区に縮小することとなった。配属の重砲兵小隊も八重岳北側の真部山(第2歩兵隊第2大隊指揮所)の船窪台に配備した。
 尚、海軍部隊の蛟龍隊(小型潜水艦部隊 鶴田大尉指揮)及び第27魚雷艇隊(白石大尉指揮)が運天港に配置していたが3月30日に空襲を受けて機能を失った。




4月7日
 
名護方面は米軍の艦砲射撃を受けた。

 装甲偵察隊が1200頃に名護に到達、午後には第29連隊主力が市街に進出して掃討を実施したのちに郊外で編成を整えた。名護の爆撃効果を確認した後、午後に偵察中隊のうちの1個偵察小隊が戦車に援護されて西海岸を安和に向けて変進した。同時に残余の偵察中隊と戦車部隊は本部半島の付け根を仲尾次に向かって前進を開始した。


4月8日

 
米軍は名護から本部半島方面に接近してきた。1000第2大隊長は全員戦闘配備につくことを命じた。1500頃ナシリ堂付近に侵入した米軍に対し、第3遊撃隊第3中隊は猛射を加えたため米軍は三ッ堤南方に後退した。また歩兵砲中隊は崎本部付近に進出して陣地構築中の米軍に対し、1900頃約150発の砲撃を加え撃退した。

 4月8日、偵察隊の行動範囲は航空偵察や航空写真によって日本軍の
配備が本部半島の地形急峻な地区に集中されていることが解明された。
 第29連隊第2大隊は名護から本部半島の付け根を横断し、我部祖可の村々を占領した。
 第29連隊第1大隊ナシリ堂に向かった。1500第1大隊の全中隊はナシリ堂(伊豆味東側)において敵の重機関銃や小銃の前に蝟集した。2カ所の強力な拠点は撃破したものの、夜間になり大隊はその場で終夜掩壕を掘ることとなった。



4月9日
 空海の支援下に本部半島に進出して来た米軍に対し、我が前方部隊は進出阻止に努めた。9日伊豆味付近に進出してきた米軍に対し、遊撃隊は猛射を加えて前進を阻止した。

 4月9日、第29連隊は敵主力に対して3方に分かれて行動を開始した。第1大隊は本部半島中央部、第2大隊は半島東海岸、第3大隊は半島西海岸を進撃した。各大隊は日本軍と遭遇し、これにより伊豆味西側から渡具知にかけて強力な日本軍が対峙しているものと判断された。 中央の第1大隊は伊豆味を占領し防御するよう命じられたが、強力な敵の抵抗に遭遇して夜を迎えた。


4月10日
 伊豆味付近において、西進を企図する米軍に対し、八重岳及び乙羽岳方面から射撃を加えて前進を阻止し、夜間米軍陣地に斬込隊を派遣して反撃した。西海岸の米軍は10日には渡久地付近に進出し、主陣地の前方満名付近にも一部が進出して来た。

 第29連隊第1大隊(中央部)は伊豆味を突破した。
 第2大隊(東海岸)は日本軍が潜水艦や特攻艇を配備していた運天港を確保した。大量の装備品や補給品が破棄されているのを確認するとともに現地住民から約150人の海軍兵士が内陸部の山中に移動したことを聞き出した。
 第3大隊(西海岸)は渡具知を占領し内陸部へ(満名方面)斥候を派遣した。


4月11日
 米軍は八重岳地区に対し猛烈な艦砲射撃と飛行機の対地攻撃を加えると共に、地上部隊はわが主陣地前面に進出して活発な偵察行動を行った。渡久地南側の207高地(第4中隊第3小隊の2個分隊)は11日1100頃から米軍の攻撃を受け、わが守備隊は軽戦ののち喜納原の中隊指揮班陣地に後退した。
 連隊砲中隊はその全力を持って1100から1500頃までにわたり渡久地方面の米軍を射撃した。この方面の米軍は夕刻渡久地付近に後退した。伊豆味地区においては西進を企図する米軍を阻止した。

 第29連隊第1大隊(中央部)の偵察部隊はこの日小勢力の日本軍と遭遇した程度であった。 第2大隊(東海岸)は北部海岸への進出を中止して伊豆味周辺地区へ進出し第1大隊近傍で防御拠点を構築するよう決定された。
 第3大隊(西海岸)は内陸部に向かって第1大隊と連携を取ろうとしたが、満名(渡具知東2km付近)付近で強力な日本軍の攻撃に遭遇し渡具知に撤退した。

                     


4月12日 
 八重岳地区は早朝から米軍機による猛烈な銃爆撃を受けた。
 伊豆味方面の第5中隊は、伊豆味〜渡久地道沿いに西進しようとする米軍を撃退し、歩兵砲中隊は1門をもってこの方面の戦闘に協力した。
 1100頃から第4中隊正面に約2個中隊の米軍が進出して来たが、第4中隊は機関銃及び主力をあげての歩兵砲の協力によって撃退した。
 独立重砲兵第百大隊の平山大尉は、重砲の射撃開始を宇土支隊長に意見具申したが、許可されなかった。(結局平山隊は一発も射撃せずに、砲を破壊して本部半島から後退することになる)
乙羽岳地区の第3遊撃隊第3中隊及び302高地地区の鉄血勤皇隊も米軍の攻撃を受け、遊撃隊は激戦を交え、小隊長3名、兵10名が戦死した。

  
第29連隊は日本軍の戦闘陣地の解明を続けた。第1大隊(中央部)の斥候は西進したが伊豆味〜渡具知道の南側高地帯に強力に組織化された敵の拠点で激しい攻撃に遭遇した。
 第3大隊(西海岸)H中隊は満名で第1大隊と連携を取ることを命じられた。I中隊は(渡具知)南東部の高地帯の偵察を命じられた。
 満名へ前進したH中隊は敵迫撃砲・軽機関銃・狙撃兵の集中攻撃を受け、大きな損害を覚悟しなければ進撃が出来ない状況に陥った。南東部の高地帯の偵察に向かったI中隊は午後には四周からゲリラ攻撃を受け戦死者8名、負傷者33名を出して危機を脱した。H中隊とI中隊は渡具知の防御線まで撤退した。
 最大の日本軍の防御陣地は第29連隊第3大隊地域にあることが判明した。H中隊が大きな打撃を受けたことによって第22連隊第3大隊が師団予備として安和に前進待機するよう命じられた。



4月13日
 伊豆味から西進した米軍は、屋名座付近の第6中隊の陣地を攻撃して来たが、同中隊は機関砲、機関銃などの協力を得て撃退した。安和方面から安和岳地区(第5中隊第2小隊守備)に一部の米軍が前進してきたが、交戦1時間の後撃退した。第5中隊長は予備隊の船舶工兵第26連隊の山形小隊を安和岳第2小隊の右に増加配置した。
 歩兵砲中隊は米軍砲火の合間を見て終日射撃した。
 この夜、支隊長は転進を企図し、第3遊撃隊(村上隊長)にこの旨を電報した。

第29連隊は伊豆味〜渡具知道での敵の掃討を継続し、第1大隊(中央部)と第3大隊(西海岸)が連携できるように試みた。しかし満名へ向かった第1大隊A中隊は伏撃に遭遇した。
 同時に日本軍砲兵は我が砲兵陣地に照準を定めた。この激しい砲撃で2名の砲兵指揮官と将校を含む32名の死傷者、弾薬集積所と105ミリ瑠弾砲2門が破壊された。
 損耗の激しい第29連隊第1大隊は半島における日本軍の強靱さを見せつけられた。八重岳の周辺に日本軍は巧みにかつ組織的に配置されていた。八重岳からは内陸部の全般と名護湾までも俯瞰できた。急峻で複雑な地形は装甲車両の使用を制限し歩兵ですら通過が困難な地形であった。どこからこの陣地帯に近づこうとも幾重にも構築された地雷原と火力から逃れることは出来なかった。
 本部半島の敵の防御態勢から八重岳の日本軍を撃滅するには現状の部隊だけでは不可能であることは明白であった。そのため名護の南にある第4連隊(第3大隊欠)に対し移動命令が下された。



4月14日
 4月14日米軍は飛行機の対地攻撃と砲撃の支援下に0800頃から攻撃を開始し、戦闘は午後から激烈となった。伊豆味方面の米軍は八重岳、嘉津宇岳のわが陣地を攻撃して来たが善戦して陣地を保持した。
 西方渡久地方面においては、207高地南北の線に進出した米軍は、正午頃から第4中隊正面を攻撃して来た。わが部隊は巧みに地形を利用し、急襲火力を発揮するなどにより米軍の攻撃前進を阻止した。 
 

  この日の攻撃は2方向から敵の防御陣地の中核を攻撃しようとするものであった。到着した第4連隊(3個大隊+第29連隊第3大隊)は西海岸から八重岳へ向かって攻撃し、第29連隊(第1大隊・第2大隊)は半島の中央部から八重岳に向かっての攻撃を計画した。
 第4連隊の行動地帯においてはまず最初に207高地(日本軍名)を確保することが命じられた。この高地は西海岸の道路を瞰制するとともに12日に第29連隊第3大隊I中隊が伏撃を受けて分断され、手痛い目にあった地域のすぐ背後にあたっていた。

 4月14日、攻撃は予定通り0800から開始された。渡具知周辺から第29連隊第3大隊G中隊とH中隊が、その右(南)の第4連隊第2大隊もG中隊とE中隊が戦闘隊形で進撃を開始した。支援射撃下に両大隊は昼までに目標地域へ到達した。右の解放翼を防御するために第4連隊第1大隊が一番右(南)に位置した。
 引き続き、第4連隊第2大隊と第29連隊第3大隊は次の高地(約1km前方の真部山付近)を確保するために攻撃を開始した。前進を援護するために艦砲射撃と砲兵射撃、航空攻撃が再興された。しかし次の高地に至る手前の低地部(辺名地)に進入したとたん、敵の強力な反撃が開始された。複雑な地形と低木の針葉樹林、下草の藪はまさに防御側にとっては最適な場所であり、日本軍はこれを最大限に利用した。
 敵はあらゆる手段を講じて我が前進を遅滞させ前進を阻み、防御拠点が判明できないように隠されていた。あらゆる小径に火器が指向されており、妨害されずに前進することは出来なかった。指揮官が部下とともにある地点へ移動すれば、そこに日本軍の集中砲火が指向された。将校の死傷率が格段に高くなった。この地域への支援射撃は30分間全く実施できなかった。第4連隊第1大隊長は機関銃射撃により戦死した。
 「全く幽霊のような敵であった」。丘や渓谷は日本軍に支配され、彼らに接近することさえ出来なかった。敵は小部隊で機関銃を使用し、深い植生の中でその位置を頻繁に変更した。
 1630までに第29連隊第3大隊と第4連隊第2大隊は後退して207高地の稜線上で掩壕を構築、第4連隊第1大隊もその右に占位した。

                     
 第29連隊第1大隊・第2大隊は伊豆味から縦隊で進撃を開始した。数日間による偵察で得た日本軍の攻撃拠点をつぶしながら西進し、伊豆味〜渡具知道(の一部)を確保した。
 先頭の第29連隊第1大隊は抵抗を受けながらも急な斜面を250mほど前進したが、午後遅く第1大隊は前方の高地から敵の正確で激しい射撃を受けて停止した。

     



4月15日
 米軍は早朝からわが主陣地に猛烈な砲爆撃を加えると共に、有力な兵力をもって八重岳を包囲攻撃して来た。
 西方第4中隊正面は猛攻を受けて混戦となり、死傷続出して遂に辺名地の第1小隊、第3小隊の陣地は崩壊し、残存者は真部山の第2小隊陣地に後退した。この方面の米軍は八重岳西側の歩兵砲陣地(真部山東斜面)の500〜600m前方まで進出して陣地を構築した。
 渡久地〜満名道に沿う地区を東進した米軍に対し、第6中隊は一時苦戦したが善戦して陣地を保持した。この方面の米軍は1630頃攻撃を中止して後退した。屋名座南側の第6中隊第2小隊正面も混戦状態となり、佐藤大隊長は各小隊の陣地撤退を命じたが、第6中隊長はその陣地の保持を意見具申し、機関銃中隊の増援を得て確保した。
 八重岳東側正面においても激戦が展開され、嘉津宇岳付近の第5中隊第3小隊の陣地は米軍に占領された。第5中隊は夜間逆襲してこの陣地を奪回した。

          

          

          

          


 第4連隊は昨日と同じ隊形で0700から攻撃を開始した。当初敵の小部隊が反撃して来たが、正午頃の目標まで半分の道程まで来たところで、日本軍の反撃は一気に増大した。敵は洞窟や拠点によりその地域一帯を支配し、我が急斜面を登ろうとしたその時に激烈かつ効果的に砲弾を浴びせた。
 第4連隊に配属の第29連隊第3大隊(西海岸左翼)は敵の機関銃・迫撃砲・砲兵の激しい攻撃を受けながらも東と南に約800m前進した。しかし前線から450m右手にある210高地の敵攻撃拠点からの攻撃で前進は完全に頓挫した。あらゆる手段を講じて前進を継続しようと試みたが損害が大きくなるばかりであった。
 全ての戦線で戦闘は辛酸を舐め続けた。第4連隊第2大隊(西海岸中央)は3個中隊並列で再度前進を開始した。しかしながら、目標到達から5分後にG中隊は日本軍の激烈な射撃を受け、中隊指揮官3名を含む65名が死傷し最大の危機を迎えた。
 午後遅くに第1大隊はついに八重岳の南西の鍵となる高地を確保した。
 この日の攻撃は1630に停止した。第4連隊の第1・第2大隊は目標を確保、第29連隊第3大隊は目標の少し手前まで進出して掩壕を掘ることになった。この日補給はますます困難になり、死傷者は増大し、各部隊の将兵の疲労はピークに達した。しかし多くの敵洞穴を封鎖し1120名の日本軍兵士の遺体を確認した。



4月16日
米軍は15日に引き続き、早朝からわが陣地に対し猛烈な砲爆撃を加え、東・南・西の3方面から猛攻して来た。
 真部山北方の陣地にある第4中隊主力は米軍の猛攻を受けて死傷者続出したが、協力の機関銃小隊の奮戦によりよく陣地を確保した。
 真部山の歩兵砲中隊正面の米軍は、0900頃南及び南西方向から歩兵砲陣地の台上に突入して来た。このころ歩兵砲は既に全部破壊されていた。歩兵砲中隊長は中隊主力を率いて壕外に逆襲したが、ほとんどが死傷し、中隊長以下約20名が戦死し、陣地は米軍に占領された。
 東正面においては、稜線沿いに八重岳に向かって攻撃してくる米軍に対し、第5中隊は海軍部隊特に機関砲の協力によって善戦したが、嘉津宇岳、安和岳付近の陣地は夕刻には米軍に占領された。この頃第5中隊と第2大隊本部の連絡は途絶した。
 宇土支隊長は戦況を考慮し、本夜転進の時機なりとして、16日1500タニヨ岳への転進を命令した。しかし第一線中隊に命令が伝達されたのは夜に入ってからであり、第4中隊などは17日0100頃に転進命令が伝わった。米軍と近接しているため、各隊は小隊・分隊の小部隊に分散し、夜暗に紛れてタニヨ岳に向かった。宇土支隊長は1900頃に八重岳を出発した。

  
 第6海兵師団は日本軍に対して3方向から最大の攻撃を企図した。第29連隊は今まで通り東から攻撃。第4連隊(第29連隊第3大隊配属)は西及び南西から。南からは第22連隊第1大隊が進撃し、第4連隊と第29連隊の間隙を封鎖して両連隊の連携を保持させようとした。
 前線から450m前方の恐るべき210高地確保のために第29連隊第3大隊が攻撃を続行。その右の第4連隊第2大隊は現在地を確保し第29連隊第3大隊の支援を実施する。

 攻撃は補給の遅れから0900に開始され、第29連隊第3大隊の右翼であるH中隊が210高地の正面に位置していた。中央のG中隊は左翼のI中隊と離れ南から敵の強力な拠点に対して攻撃を開始した。(3/29は北からI・G・Hの編成)
 八重岳の敵の包囲はこの攻撃の成否にかかっていた。1230までに第29連隊第3大隊は目標を占領した。散在した敵山砲は沈黙し147名の日本軍兵士の遺棄死体が確認された。


 1230から第4連隊第1大隊の行動地帯にある八重岳に対し攻撃が開始された。第1大隊は左にA中隊が正面、C中隊が右から渓谷を登った。急な斜面にかかり必然的に進撃速度が低下したところで敵の散発的な攻撃を受けた。しかしA中隊が頂上近くに辿り着いたときにはこの散発的な反撃が至近距離からのもかなり弱まっていた。頂上部は殺人的な射撃のため両軍とも踏み込むことが出来なくなったが第4連隊第2大隊が反対斜面に支援火力を集中したことにより、ついにA中隊とC中隊が攻撃前進し、ついに頂上に立つことができたのである。(1730頃)
 A中隊とC中隊が八重岳に向かって攻撃していた頃、状況は非常に危機的であった。両中隊では50名以上の死傷者をかかえ、弾薬も底を尽きかけていた。
 (特に第4連隊第1大隊は補給に苦労した。連隊本部の兵士に弾薬を持たせ、水を入れたバッグを背負わせて人力で補給させた。またK中隊は負傷者を麓に降ろし登るときは弾薬と水を担いだ)

          
 八重岳を占領してから1時間後の1830に日本軍は第1大隊正面に万歳突撃を敢行した。約75名の兵士が攻撃をしかけてきたが砲兵の援護射撃などにより撃退した。八重岳頂上付近は日が沈むまでに完全に周囲を支配することが出来た。


 第29連隊が遭遇した日本軍の反撃は第4連隊が受けたものと同様に激しいものがあった。日本軍は高地帯からありとあらゆる種類の火器をもって激しく抵抗したために第29連隊の前進はなかなか進まなかった。複雑な地形と困難な補給により第29連隊の任務である高地帯に隣接する伊豆味〜渡具知道の確保を困難にした。
 敵は地形を克服して自然を最大限に有利なように作為していた。全ての道路も小径も火制されていた。安易に道路を選択すれば効果的な射撃により辛酸を舐めさせられた。



4月17日
 大がかりな準備射撃が攻撃に先立って実施された。0800第29連隊は伊豆味〜渡具知に沿って進撃し第4連隊と連携を取ることが出来た。 

 その後、4月20日に北部海岸に到達し日本軍の本部半島での戦闘は瓦解した。第6海兵師団は207名戦死、757名戦傷、6名が行方不明であった。















第1歩兵隊の復員解消により独立混成第15連隊が旅団に編合された。独立混成第44旅団にとっては主力を国頭・伊江島に残し、最後まで苦しい戦闘であったに違いない




海軍部隊は4月6日に「当隊今より陸上戦闘移行、国頭支隊長の指揮下に入る」と電報し、八重岳に移動した。

運天港航空写真。白く見える港湾施設の南側海域を海軍が使用した 




ナシリ堂の戦闘は日本軍側には一切の記録がない。公刊戦史上の記述は、米軍側資料からの推定であると思われる



















後に第29連隊第1大隊と第2大隊は伊豆味付近で合流して八重岳を東から攻撃、第3大隊は第4連隊の配属となり八重岳を西から攻撃することになる








伊豆味(第1大隊)と渡久地(第3大隊)に米軍が進出し、伊豆味〜渡久地道の戦闘が開始される







「喜納原」とあるが、現在の地図では「辺名地」となっているため、資料では「辺名地」と書き換えた


米海兵隊は、あくまでも八重岳の攻略を第29連隊を主体として実施しようとした














多くの戦例から、弾薬の節約、陣地の秘匿のために射撃を制限したことで有利な戦闘に導かれたことはない。戦機に応じて集中的に火力を使用することが好機を作為する最大の手段である。一発も射撃せず砲を破壊して後退する気持ちは察するに余りある

米軍は結果として威力偵察により日本軍の陣地配備を知ることとなった

威力偵察とは
「火力を持って偵察に任じ、敵の反撃によりその配備・火力・勢力を解明する」


海兵隊はここで初めて第29連隊主体の戦闘では八重岳の攻略不可能と判断した




国頭支隊の任務が「本部半島の確保」にある点から、第3遊撃隊長は何のための転進であるのか、その企図に疑念を抱いた。しかし国頭支隊長(宇土大佐)は3月下旬からすでに転進を考慮しており、タニヨ岳に弾薬・食糧を集積していた








ついに海兵隊は第4連隊の投入を決定した



辺名地での戦闘は日本軍側の記録よりも米軍側の記録が詳しく、その戦闘が米軍にとって如何に困難であったかが推察できる












日本軍は11日に207高地から撤退しており、その占領は容易であった



12日に辺名地付近で苦戦したにもかかわらず、攻撃準備射撃と航空攻撃の支援下に力で日本軍を圧倒しようとした。特に207高地を占領したことにより、有効に砲兵射撃が実施でき、その支援下に攻撃前進できると考えたのであろう

米軍は完全に窮地に陥った。何をしようにも日本軍の位置が全く偵知できなかった


















第29連隊第2大隊は伊豆味〜満名道の他に、更に内陸の道路沿い(日本軍が建設した道路であるという証言がある)に前進しようとした

























真部山については、地図上に明記された山はない。左の写真では小高い山を真部山としたが、残された第2大隊命令から判断すると写真全域の山々を真部山とするほうが正しいのかもしれない









































210高地というのは真部山を指していると思われる



八重岳南西の鍵となる高地は地図上の標高374mの山であると思われる







歩兵砲中隊が壕外に逆襲したことは、海兵隊公刊戦史と一致する。米軍側の資料では遺棄死体147とあるが、これは歩兵砲中隊以外の部隊が含まれていたのであろう

転進部隊は途中米軍の警戒網にかかり損害を出しながらタニヨ岳に向かった。第2大隊長佐藤少佐は途中戦死している。また重傷患者は八重岳に残地され悲惨な状況であったと言われる







昼頃に第4中隊陣地は米軍に占領されたため、八重岳の日本軍主陣地帯はこの時点で破綻したと言ってよい。この状況を鑑みて宇土支隊長は1500に転進命令を発したのであろう


実際に八重岳周辺に立ってみると通常でも登るのが困難と思われる場所がほとんどである。日本軍も苦しかったであろうが、米軍も同じように苦しみながら前進を継続したに違いない

4月14日から17日まで天候は晴または快晴であり、気温も23度〜24度であった。この気温でこの斜面を登りつつ重装備で攻撃することは非常に体力を消耗したであろう





















伊豆味〜渡久地道は日本軍が撤退してから確保できたことから、この正面では日本軍が限定的に勝利したと言っても過言ではない