遊撃隊とは                                                                          2005年作成

遊撃隊について

 第三遊撃隊および第四遊撃隊は昭和19年9月9日に沖縄第32軍に編入され、その幹部要員である村上・岩波・廣瀬大尉ら以下15名は9月中旬に沖縄に到着した。
 幹部はいづれも陸軍中野学校(秘密戦並びに遊撃戦教育)を終了したものを中核とし、その他の者についても「少壮、積極果敢な者」を選定した。また個人装備火器等も他の一般部隊よりも充実した装備を与えられた。 
 これらの遊撃隊の任務については明確に記述したものが現存(亡失された)せず、その詳細な内容が不明であるが、配属された国頭支隊の任務の中でその一部が散見される。その内容は「遊撃隊をもって国頭郡内に遊撃戦を展開する」とあり、その名の通り遊撃戦を展開して敵の後方攪乱を主体とするゲリラ的な戦闘を目的したものと考えられる。各遊撃隊は3〜4個中隊(各中隊は3個小隊、各小隊は3〜4個分隊)から編成され、遊撃隊長および中隊長は全員が陸軍中野学校出身者であり秘密戦並びに遊撃戦教育を終了し専門的な知識を有していた。さらに小隊長以下の分隊長・兵員は大半が在郷軍人や学校生徒、鐵血勤皇隊(県立第三中学校生徒)からなり、地元の地理や情報に詳しいものが集められたのも特徴である。このため情報の収集・食料の取得などの点で一般民衆の協力が良好であったとされる。
 両遊撃隊とも沖縄第32軍の玉砕後は秘密遊撃戦に移行するが、在郷の兵員は各の出身部落に帰還させ家業を行いつつ情報収集を続行させ、兵員も隊長を慕って食料とともに情報を持ち寄る場合や、隊長が変装して密かに隊員の家を訪ねて激励することもあったという。第三遊撃隊は昭和21年1月3日、第四遊撃隊は昭和20年10月2日に米軍に投降した。
 尚、第1遊撃隊はニューギニア、第2遊撃隊はフィリピンで編成されている。



中野学校は「後方勤務要員養成所」として昭和13年に設置された。昭和15年に東京の中野駅前(現中野区役所)に開校したためこの名称が用いられた。
 尚、昭和19年には遊撃戦部隊幹部要員の短期養成を目的として静岡県盤田郡に二俣分校を開校し、小野田寛郎少尉などを輩出している。