座間味島の戦闘(海上挺進第1戦隊) ざまみじまのせんとう (かいじょうていしんだいいちせんたい)

海上挺進第1戦隊 戦隊長 梅澤少佐
 
3月24日
 
早朝から空襲があり、夜に入って阿宝島方向から艦砲射撃を受けた。この夜梅澤戦隊長は船舶工兵の乳井少尉に対し座間味部落西方の阿間峠に至りその方面を警戒することを命じた。

3月25日
 
座間味島は本格的な艦砲射撃と空襲を受け、島の各所に火災が発生した。部隊の大部は海岸地区の防空壕及び特攻艇秘匿壕附近で警戒を厳にした。

3月26日
 3月26日空襲と艦砲射撃の掩護下に0900頃、水陸両用戦車約30を伴う米軍が座間味部落正面(主力)及び南東海岸(一部)に上陸を開始した。梅澤戦隊長は水際撃滅戦も考えたが、戦力差と自己部隊の特殊任務とに鑑み、各部隊に特攻艇を破壊して番所山に集結することを命じた。
各隊は夕刻までに番所山に集結したが、戦隊の第3中隊は集結が遅れた。同中隊は27日零時頃中隊の特攻艇秘匿壕を出発し番所山に向かう途中米軍と遭遇し、中隊長以下白刀を振るって攻撃したが、中隊長津村一之少尉以下多数の戦死者を生じたため、小野伍助少尉は残余を指揮し舟艇秘匿壕に帰った。 米軍は昼間座間味部落及び高月山付近まで進出して陣地を占領した。

         

         

    
 3月26日0900、第305連隊第1上陸大隊は、座間味島に進撃した。日本軍は最初ある程度の応戦を試みた。部隊は装甲車と共に南部海岸に深く入り込んでいる湾から上陸した。水際から5mのところに石垣があり装甲車の前進を阻んだため、兵は徒歩で進撃を続けた。米軍は散発的に日本軍の迫撃砲や機関銃弾を受けながら、ついに海岸にある座間味集落まで到達した。日本軍の1個中隊と推定される部隊が、およそ300名の朝鮮人労務者とともに、この村落から北方の山中に退却した。座間味では第305連隊第1上陸大隊の先遣隊は、午後は何らの応戦も受けずに高地を占領することができた。
          

          



3月27日
 梅澤戦隊長は27日零時を期して全力をもって夜間斬込を行うことを計画したが、月明の関係上(月齢12)全力をもってする攻撃を中止し、戦隊の第1中隊及び第2中隊のみに攻撃を命じた。両中隊は猛烈果敢な斬込を実施して第1中隊は中隊長以下ほとんど全滅し、第2中隊も中隊長以下大部が戦死するに至った。この戦闘には防衛隊のほか青年女子も協力した。
 戦隊は番所山の陣地を撤して同地北東約1kmの高地帯に陣地を占領した。28日以降米軍の攻撃は活発でなく、わが方は少数の斬込隊を派遣したが格別の戦果はなかった。


 真夜中から翌朝未明にかけて、日本軍は小銃、拳銃、軍刀をもって海岸近くの米軍陣地に斬り込んできた。日本軍の攻撃主力はC中隊を襲い、高地での一連の簡単な斥候戦で48名の日本軍を倒した。日本軍は洞窟や塹壕から小さい火器で戦ったが効果のある防衛戦ではなかった。26日の午後5時までに、阿嘉島の三分の二を占領し、300の日本軍と400の民間人がまだ島に逃げ隠れしていた。座間味島では、第305連隊第1上陸大隊の前進隊が、午後になってから日本軍と対戦したが、その後は夜襲の連続で、一挺の機関銃を数名が交代して撃つという激戦も繰り返し、時にはまた凄まじい白兵戦ともなったが、結局日本軍は100名以上が戦死し、米軍もまた戦死7名、負傷者12名の犠牲を出した。

「高月山の夜襲」第2中隊第2群 日置英男氏の回想(抜粋)
 上陸した米軍が、部落と高月山に陣地構築を始めているという情報に基づき、日暮れを待って高月山に将校を長とする斥候を出すことになり、我々の中隊から中隊長の安部少尉、第2群長の江口少尉と私の3名が決定され出発の命令を待っていたが、日没になっても命令はなく、結局はとり止めになった。この時斥候が出ていれば、敵の状況も判り、2個中隊殆ど全滅という結果は避けられたものをと、いまだに残念でならない。
 敵が高月山に陣地を設けたのは間違いないと判断されこれを破壊するための斬込命令が出されたのは日没前の午後5時であった。

 午後7時敵陣地襲撃の行動は開始された。だが地理不案内のために目的地に達するのに相当の時間を要していた。合い言葉は「山」と「川」で、第1中隊は敵陣地左側の窪地から、第2中隊はその正面と道路沿いの右側から同時に殺到する作戦とされた。第2中隊の第2群は道路の右端を、第1群は山際になる道路の左側、中隊長を先頭とする第3群は敵陣地の正面から密かに進行した。号令があり次第直ちに突入する隊形でしばらく前進を続けた。
 もう敵陣地に近い頃と思った時、突然進行する道路上の台地から機銃掃射を受けた。この射撃に左側にいた第1群の者は道路の山際にへばりついたようだが、右側にいた我々は道路から崖下に飛び降りた。その機銃弾はしばらくの間此の道路一帯に飛んできたが、少しして第1中隊の方が攻撃を始めたらしく、撃つ方向を変えたので私は道路に這い登ってみた。そこには佐伯少尉が弾を受けた右腹を押さえて倒れていた。彼を道路左上にある雑木林の窪地に引き上げ手当したが、暗いながらも重傷と判った。敵は機銃や小銃を撃ちまくるので、ここには敵が相当いるなあと思った。

佐伯少尉はしばらく傷の痛みを堪えるように唸っていたが、その辺の仲間に聞こえるように「俺はもう駄目だから自決する。お前達も恥ずかしい死に方をするな」と言い「天皇陛下万歳」と叫んで頭を拳銃で撃った。この叫びに負傷で助からないと思っていた者が、続いて自決したらしい拳銃の音が2・3発近くで聞こえた。私はそこを這い出してもう一つの窪地に行った。顔を上げて前を見ると、すぐそこに特幹の青木君が倒れ、その先に江口少尉が刀を握ったまま戦死、その更に前にこれも刀を手にした安部少尉が、敵兵の死体に覆い被さって戦死しており、横に3人の敵兵が倒れていた。目の前の窪地には銃口をこちらに向けた米軍の機関銃が残っていた。この状況から察するに、安部中隊長以下此の銃座を襲撃し、彼我共に戦死者を出したようだった。
 この頃にはもう夜明けが近くなった。その崖下にいる者と協議した結果、ここで全員戦死したのでは隊長に状況の報告もできないので、ひとまず報告に帰ることに決め、残っている者、負傷者の中で救える者はいないかと探したが、まだ暗くてよくわからず、やむを得ずここにいる者だけで帰ることにした。




3月28日以降
米軍は4月10日から第2次攻撃を開始した。我が部隊は逐次北東方に圧迫され、11日には梅澤戦隊長は重傷を負った。戦隊長は組織的戦闘は継続不能と判断し、各隊に独自の行動を採ることを命じた。(戦隊長は後米軍に収容され、阿嘉島の海上挺進第2戦隊の武装解除説得にあたった)
     


−座間味島の悲劇より−
座間味部落の裏山から、東に急坂を登る高月山は、ここからの展望のよさは沖縄でも屈指の場所で、そこに立つと眼下の古座間味海岸の絵のような白い砂浜と、何段かに変化のある青い慶良間海峡の海の色と重なり合って見える島々の姿が一望できる。東の方には阿佐の廃屋の赤い瓦が鮮やかに見え、その背後に続く樹木の少ない大岳に連なる山塊が、やや霞を帯びて望まれ、それを超えて遙かに沖縄本島が薄れて見える。
 この景勝の台地は、戦闘の記録を読むことがなければ、この台地を目指して凄絶な斬込が行われ、そこに若者の屍が累々としていた様は、想像するのも困難であろう。だが、35年前ここに展開された現実は、今改めてこの高月山の台地に立って、風に鳴る松の枝音を耳にするとき、この一帯に倒れて逝った仲間達の、喊声(かんせい)とうめき声となって再現し、身辺を吹き抜けて行くような感じに襲われる。

    

第11船舶団長大町茂大佐は作戦指導のため22日以来座間味島に来島していたが、24日0400に出発して阿嘉島に向かった

第1戦隊は24日夕以降出撃準備を整え、それぞれの壕内に2、3人づつ分散待機した


戦隊本部は当初「高月山」に後退したが、米軍の進出により番所山に移動した









    




この古座間味には特攻艇約100隻があり、山の裾の部分に横穴を掘って秘匿した。しかし26日古座間味海岸にも米軍が一部上陸したため、舟艇をへん水し出撃は不可能と判断し、各中隊に対して舟艇を破壊し本部番所山に集結せよとの伝令を出した 

第3中隊残存将兵は4月10日に古座間味を脱出、本隊に合流した





    






日本軍は重機関銃一挺が主要兵器であった。期待した海軍砲は23日揚陸直前に米軍の空襲で沈没した











    










戦後、梅澤隊長は「この夜間斬込を命令したことはない」と証言しているが、2個中隊規模の夜襲が各中隊長の発案で独自に実施されたとは考えにくい。


日本軍将兵の戦死者数が58名であり、防衛隊他の参加者の人数は含まれていない






日本軍の戦死者が100名以上という数から判断すれば、防衛隊・青年女子も約40人戦死したということになる

    




























    







28日以降は米軍の攻撃速度は弱まり、積極的な攻撃を避けて宿営施設の構築などを開始した。4月9日まではほとんど交戦の記録がない。

戦隊長梅澤少佐は5月に米軍に包囲され捕虜となった

最後の兵が投降したのは昭和21年になってからであった