阿波茶・沢岻の戦闘                                                                                2013年作成
阿波茶・沢岻の戦闘

1 戦闘までの概要 

 4月19日の米軍総攻撃において、日本軍主陣地帯の最右翼であった牧港・伊祖地区が突破され、それまで頑強に抵抗を続けていた嘉数高地や西原高地も側背からの米軍による包囲を避けるために戦線を後退させざるを得なくなった。 そして次なる第2線陣地西側は、前田高地を中心とした安波茶〜城間を結ぶ線、その後方に位置する沢岻高地であった。 この中核となるのが、地形的に大きな渓谷を挟む安波茶・沢岻地区である。 安波茶はこの渓谷の一番奥に位置し、ここを米軍が過早に通過すれば、それ以降は地形を生かしての戦闘は成り立たたない。 また沢岻高地は首里へ続く高地帯の最北西端に位置する重要地区であった。 だが、ここを守備する独立歩兵大隊は、いづれも嘉数高地や伊祖高地で中核となる中隊長の大半を失い、戦力も約3分の1まで低下している状態であった。
 一方米軍は、北部戦線の終了に伴い、南部へ転進してきた海兵隊を中心としており、十分な休養や人員・装備の点からも、日本軍の劣勢は明らかな状況であった。



2 部隊編成

(1) 日本軍 
    独立歩兵第15大隊・21大隊・22大隊・23大隊は第62師団歩兵第64旅団の隷下部隊であり、各大隊の編成は同一である。
   
   独立歩兵大隊(大隊人員1233名)
    大隊本部(人員57名)
    歩兵中隊(人員189名)  × 5個中隊 (1個中隊は3個小隊で構成される) : 中隊は軽機関銃9,重敵弾筒9を装備
    機関銃中隊(人員129名)× 1個中隊 (1個中隊は4個小隊で構成される) : 中隊は重機関銃8を装備
    歩兵砲中隊(人員102名)× 1個中隊 : 中隊は92式歩兵砲2門(大隊砲)、41式山砲2門(連隊砲)を装備


  ア  
独立歩兵第15大隊
     大隊長 飯塚豊三郎少佐
      第1中隊長    江戸公平大尉 
       第2中隊長    伊藤貫一中尉
      第3中隊長    松島武夫中尉 (第5中隊を指揮、5月10日戦死)
      第4中隊長    松田實大尉   (5月上旬戦死)
      第5中隊長    岸本孝中尉   (途中負傷のため第3中隊長が指揮)
      機関銃中隊長  水崎正之助中尉
      歩兵砲中隊長  須川隆一中尉 (4月21日戦死)
  
      (ア) 4月中旬  独立速射砲第32中隊第2小隊、野戦高射砲第79大隊大1中隊配属
      (イ) 4月13日 独立歩兵第23大隊第2中隊(秋津中隊)配属 (5月11日・12日の戦闘においてほぼ全滅)
      (ウ) 4月20日から戦闘加入。伊祖・内間・勢理客の戦闘において損耗し、沢岻高地の戦闘開始時には約400名となっていた。
      (エ) 5月12日 独立歩兵第22大隊第1中隊配属 (13日の戦闘において残存兵は34名であった)
    
  イ
 独立歩兵第21大隊
     大隊長 西林鴻介中佐
      第1中隊長    加藤中尉       (4月19日戦死)
      第2中隊長                (4月29日戦死)
      第3中隊長    長澤文夫中尉    (4月20日未明戦死)
      第4中隊長    早川中尉       (4月20日未明戦死)
      第5中隊長    平井泰次郎中尉  (4月20日未明戦死)
      機関銃中隊長  中島中尉       (5月10日戦死)
      歩兵砲中隊長  田中中尉       (4月19日戦死)

      (ア) 3月 5日 知念半島から伊祖付近に移駐し陣地構築
      (イ) 4月19日 牧港、伊祖高地で戦闘開始。
      (ウ) 4月27日 生存者を統合し屋富祖58高地に後退するが、29日に米軍の集中攻撃を受ける
      (エ) 4月30日 残存者約100名・連隊砲1・大隊砲1・機関銃1となり、経塚地区へ後退し陣地構築
      (オ) 5月 6日 大隊長入院のため、独立歩兵第23大隊へ配属となる
      (カ) 5月13日 独立歩兵第23大隊長戦死のため、独立歩兵第22大隊へ配属となる  

  ウ 
独立歩兵第22大隊
     大隊長 磯崎?大佐
       第1中隊長    平井都士雄中尉  (5月13日戦死)
       第2中隊長    松田克己中尉
      第3中隊長    藤田偵三中尉
      第4中隊長    山下善彰中尉    (5月上旬戦死)
      第5中隊長    小上友雄中尉
      機関銃中隊長  小野弘照中尉
      歩兵砲中隊長  末長二郎大尉

      (ア) 4月20日 第4中隊は独立歩兵第23大隊へ配属。 前田西側(安波茶東側)で戦闘を実施するがほぼ全滅
      (イ) 5月12日 第1中隊は独立歩兵第15大隊へ配属。 13日に沢岻集落南西側で攻撃。 残存者34名は第2中隊へ編入。

  エ 
独立歩兵第23大隊
     大隊長 山本重一少佐
      第1中隊長    石原正広大尉  (5月8日戦死)
      第2中隊長    秋津芳重中尉 (5月11日戦死)
      第3中隊長    御池義男中尉 (5月13日戦死)
      第4中隊長    袴田敏雄中尉 (5月16日戦死)  *
戦死者名簿に従ったが、第4中隊は5月上旬に仲間で玉砕となっている
      第5中隊長    加藤良信中尉
      機関銃中隊長  吉広角一中尉
      歩兵砲中隊長  服部正雄中尉 (戦死)

      (ア) 4月15日 独立速射砲第32中隊の中隊本部・第1・第3・第4・段列が配属 (第2小隊欠) 
      (イ) 4月23日 嘉数より後退し、仲間・安波茶地区に陣地構築。
      (ウ) 5月  2日  独立第3大隊(海上挺進第3戦隊)が配属となるが、大半が戦死し5月7日原隊復帰  


 (2) アメリカ軍
    
第1海兵師団
     
第1海兵連隊
         第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊)
      第5海兵連隊
        第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊) 
     第7海兵連隊
        第1大隊 (A中隊・B中隊・C中隊)  第2大隊 (E中隊・F中隊・G中隊)  第3大隊 (I中隊・K中隊・L中隊)



3  安波茶沢岻一帯の地勢
   

 (1)  安波茶集落一帯の高地と沢岻高地の間には、小湾川の流れる大きな渓谷があり、米軍はこれを「安波茶ポケット」(Awacha Pocket)と称し
      た。
 (2) 小湾川は上・中流では戦車等の渡河は可能であり、川自体は機動障害とはなっていない。
 (3) 安波茶ポケットはそれ自体が機動障害ではなく、日米両軍とも相互に動きが監視出来ることが地形上の大きなリスクであった。
 (4) 灰色で塗っている集落が沖縄戦時に存在した集落であり、地図内では概ね5つの集落しかなく、あとは森林・水田・畑という地形であった。
 (5) 県道251号線は当時の軽便鉄道路線であり、線路の切通しや土手を米軍は遮蔽物として有効に活用している。
   




5月6日
 
安波茶付近においては激戦が展開し、同高地付近の独立歩兵第23大隊を基幹とする部隊は連日の激戦の中にもよく奮闘して米軍の南進を阻止した。 この日独立歩兵第21大隊長西林中佐が病気後送されたため、歩兵第64旅団長は、同大隊を独立歩兵第23大隊長の指揮下に入れた。
 沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地地区は、6日 1000頃から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。我が部隊は迫撃砲の支援を受け、戦車3両を擱坐させて午後には米軍を撃退した。
 安波茶・沢岻方面の戦況を憂慮した軍は、6日独立混成第44旅団から第2歩兵隊第3大隊を抽出して第62師団に配属した。第2歩兵隊は独立歩兵第15大隊長に配属され、沢岻・末吉・大名地区に配備された。



 第1海兵連隊の戦闘は「50m閉鎖曲線高地の戦闘」を参照してください。


 
西海岸においては当初第6海兵師団が前線に投入される計画でったが、依然として安波茶地区及び澤岻高地では第1海兵師団が混戦に陥っていた。
安波茶ポケット一帯は日本軍の独立歩兵第23大隊と第14機関銃大隊が防御戦闘を行っていた。 5月6日においては砲兵4個大隊及び艦砲射撃・航空攻撃による激しい攻撃準備射撃を実施しても第5海兵連隊はほとんど進撃できなかった。

【第1海兵連隊】
 第1海兵連隊は戦闘力を集中して沢岻丘陵を西側から攻略するために、その行動地域を狭めるように処置された。 第1海兵連隊の担当区域は安謝川付近から安波茶ポケットの北側の第5海兵連隊の地域が含まれるようになったために戦闘力の集中は急務となった。攻撃部隊は約1km離れた複雑に組織された澤岻高地西端の日本軍陣地によって正面及び側面から攻撃を受けた。
 
【第5海兵連隊】
 第5海兵連隊第1大隊と第3大隊は直射火器や火焔戦車などの支援を受け、前進を阻む原因となった日本軍洞窟陣地などを破壊した。
 第5海兵連隊第2大隊は夜明けに日本軍の激しい逆襲を受け、師団境界地区にある陸軍第307連隊と連携を取ることができなかった。 昼までには第2大隊は前線には3個中隊が並列となり、G中隊とF中隊は師団境界付近を約400mほど確保、E中隊が第5海兵連隊第1大隊と連携をとった。

   




5月7日
 
安波茶方面においては、強力な米軍の攻撃に対し、辛うじて安波茶南側高地を保持していた。 沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地付近 (独立歩兵第15大隊第5中隊基幹) は昨6日に引き続く米軍の強襲を撃退して陣地を保持した。

【第5海兵連隊】

 第5海兵連隊第1大隊の正面、第2大隊の右側にある深い谷が日本軍陣地の核であった。作戦会議が開催され、攻撃準備射撃に引き続き1個戦車中隊の支援する歩兵部隊が1200から攻撃開始するよう策定された。 第5海兵連隊の中央に位置する第1大隊が谷の出口までの400m程度を前進する一方、第1大隊の右に投入された第7海兵連隊第3大隊L中隊の支援下に第3大隊及び第2大隊が限定的に前進することにした。 この日は第5海兵連隊第1大隊が火炎放射器と爆破班によって敵の洞窟陣地を爆破して前進、これにより日本軍の安波茶ポケット防御が衰えを見せたが、なお楽観は出来ない状況であった。

   




5月8日
 
安波茶・沢岻北側地区で接戦が行われ、前田部落方面への米軍の進出によって苦戦を続けた。沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地地区では、8日にも米軍の攻撃が続けられたが、善戦して陣地を保持した。


 5月8日は激しい雨のため全ての前線で攻撃が中止となった。各部隊は陣地周辺の掃討を行い、一部は前方の日本軍陣地へ斥候を送り込んだ。また第6海兵師団第22海兵連隊が知花を発ち南進を開始、1530には第22海兵連隊第2大隊と第3大隊が安謝川北岸で第7海兵連隊第2大隊と交代した。(内間付近を第2大隊、河口付近を第3大隊)



  

     独立歩兵第23大隊が最後まで守り抜いた米軍名「Wilson Ridge」は現在の浦添市役所南西側にあった。同じアングルで撮影している。


   




5月9日

 安波茶付近においては米軍は不断の圧迫を加え続けていた。沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地は9日米軍に占領され、内間付近も強圧を受けつつあった。

               
第1海兵連隊の行動は非常に複雑です。 「50m閉鎖曲線高地の戦闘」を参照してください。

 師団最前線に補給が行われた5月9日には第1海兵師団は効果的に前進を重ねた。師団の攻撃は当初地域の泥濘化のために延期されたが、その後戦車部隊が攻撃部隊を掩護できるというメドがたったために1200から攻撃開始とされた。

 第5海兵連隊第3大隊の予備として行動していた第7海兵連隊第3大隊K中隊は9日に配属を解かれて元の指揮下に復帰、L中隊の右側に配置された。 航空攻撃及び艦砲射撃・砲兵・迫撃砲射撃による攻撃準備射撃に引き続き1200から各大隊は攻撃を開始した。
 第7海兵連隊第3大隊が暴露した左翼から敵の射撃を受けて停止した以外、進撃は順調のうちに最初の目標に達し、第1海兵連隊第1大隊と同じ稜線上に達した(第5海兵連隊第3大隊I中隊が接触した)。1515には城間から進出していた第7海兵連隊第1大隊が第7海兵連隊第3大隊と第5海兵連隊第1大隊との間隙を閉塞した。
 5月9日午後に新しい師団命令が発出された。第5海兵連隊(第3大隊を除く)は師団左翼の限定的な攻撃に充当され安波茶地区の敵勢力の減殺という任務を付与された。 第7海兵連隊(第5海兵連隊第3大隊配属)と第1海兵連隊は新しい連隊境界線をひかれ5月11日の攻勢開始のための態勢を取るように指示された。1855、第7海兵連隊長は前線に第1大隊・第3大隊を前線並べ、配属の第5海兵連隊第3大隊を併せて指揮を執ることとなった。

    
   5月9日までの担任区分 第1海兵連隊は海岸まで担任していた        5月10日以降の担任区分 第7海兵連隊が戦闘加入した

   




5月10日
 
安波茶南側の独立歩兵第23大隊は、安波茶方面のみでなく右側背に進出して来た米軍の包囲攻撃を受け苦戦の極みに達した。

【第1海兵連隊】
 第1海兵連隊の目標は、沢岻丘陵の西端に延びる道路であった。 第1海兵連隊第3大隊は0800から攻撃を開始、連隊の行動地域を二つに分断する線路の切通しまで迅速に前進し、そこで第1大隊の攻撃前進を待った。 第1大隊は支援の戦車部隊が進出経路上で地雷により擱坐し攻撃開始が遅れていたが、1020に戦車部隊が到着したために攻撃を開始した。 その後第1大隊・第3大隊とも順調に進撃して目標の道路にまで達した。 だが、第1大隊のA中隊・B中隊、第3大隊のK中隊・L中隊は道路を越えてからの進撃は効果的ではなかった。 沢岻丘陵からの縦射によって送り込まれた斥候はことごとく退散させられたが、これは南進するためにはそれ以前に沢岻丘陵を確保せねばならないという証でもあった。 この日第5海兵連隊第3大隊I中隊が第1海兵連隊第1大隊の攻撃進展に伴って前進し、夜には第1海兵連隊と第7海兵連隊が連携を取ることが出来た。
   
   

【第5海兵連隊】
 5月9日から10日にかけて第5海兵連隊第1大隊は2回にわたって日本軍の逆襲を受け、侵入してきた日本兵と白兵戦を演じることとなった。 この逆襲では60名の日本兵の遺棄死体が確認された。
 第5海兵連隊第1大隊はこの逆襲終了後の0600に攻撃命令を発し、0800にはA中隊を先頭に縦隊で攻撃を開始した。 迅速に約450mほど前進し軍の境界線にまで進出、C中をA中隊の左側に進出させ大隊の最前線を強化した。 戦車部隊は計画通りに行動を開始したが、適切な経路が見つけられずに歩兵部隊と合流することが出来なかった。  0845、第1大隊は正面及び両翼から激しい機関銃射撃と迫撃砲の射撃を受け、また背後からも的確な射撃を受けるにに至り死傷者が一気に増加した。 負傷者を搬送することが出来ず、急遽戦車及び装甲車がその任に当たることとなったが、複雑な地形によって前線との調整がうまくいかなかった。 1700には撤退命令が下され、大規模な発煙下に各中隊は負傷者を搬送しつつ撤退、1945までに第5海兵連隊第1大隊は朝方に進出した線まで後退を完了した。
 第5海兵連隊第2大隊は、12両の戦車及び火焔戦車を使用して第2大隊正面の安波茶渓谷をほぼ制圧することに成功した。火焔放射によってまず安波茶渓谷の北斜面を焼き尽くし、引き続いて戦車で第2大隊および第1大隊正面の敵陣地を破壊した。 戦車部隊と共にG中隊が渓谷に侵入、火炎戦車の支援下に日本軍を撃滅した。 E中隊とF中隊は渓谷を渡り、日本兵の掃討を行った。 夜までに第2大隊は日本軍の安波茶陣地の中核を撃滅したが、まだなお絶望的に抵抗する拠点が多く存在した。 
   

【第7海兵連隊】

 第7海兵連隊第3大隊は攻撃開始位置で正確な敵の砲撃を受けて身動き出来ず、結局この日は終日進撃できなかった。
 第7海兵連隊第1大隊は第5海兵連隊第1大隊と0800に攻撃を開始したが、左側面が無防備な状態であった。 当初敵の反撃もなく順調に前進、0842に先頭中隊であるB中隊の左にA中隊を並べて前線を強化した。 しかし、その後は友軍の砲兵射撃や81ミリ迫撃砲を沢岻高地一帯に集中射撃させているにもかかわらず、沢岻高地からの敵迫撃砲や機関銃射撃が徐々に強まってきた。 1145、第5海兵連隊の行動地域の渓谷から機関銃射撃を受けた。 この射撃によりB中隊は背後から射撃を受ける結果となり前進が滞った。81ミリ迫撃砲により煙幕を構成し、第7海兵連隊第2大隊G中隊がこの機関銃射撃を排除しようとしたが失敗したために第1大隊は前進を中止した。 第5海兵連隊第1大隊が1700に撤退を開始、第7海兵連隊第1大隊も1754に元の位置までの撤退命令を発した。 




5月11日
 
沢岻・経塚正面は米軍の攻撃を受け、経塚方面の独立歩兵第23大隊、独立機関銃第14大隊などと旅団司令部とは連絡が切れ、米軍は沢岻台上北端付近に進出し沢岻高地は危機に陥った。
 11日夜半後退命令を受けた独立歩兵第23大隊長山本重一少佐以下50〜60名が沢岻に到着して有川旅団長の指揮下に入った。同大隊の戦力は歩兵砲中隊40〜50名(大隊砲一門)を主とするもので、各中隊はほとんど戦力がないという状況であった。


【第1海兵連隊】

 師団境界線(第6海兵師団と第1海兵師団)である鉄道の切通の土手は第1海兵連隊第2大隊の前進経路に含まれていた。 第2大隊の攻撃目標は大名西側の高地であった。第2大隊は沢岻丘陵を攻撃する第1大隊を超越して前進を開始した。 左翼のE中隊は、澤岻高地の反対斜面および大名高地正面から正確な射撃によって釘付け状態となり、この日本軍の反撃を沈黙させるために進出した戦車部隊も激しい砲迫射撃に曝された。 一方、鉄道沿いに前進するF中隊だけが順調に目標に向かって前進したが、第2大隊長はF中隊の後退経路の確保及び連絡を保つために1300にG中隊を投入を決定した。 1600にはF中隊が目標の一部に到達し、第22海兵連隊第2大隊と連携が取れるようになった。 前進を開始したG中隊は激しい砲撃に曝されて死傷者が急速に増大した。 G中隊とE中隊を敵の攻撃から救い出すために砲兵や航空機による攻撃を集中的に実施したが、とりあえず両中隊にはその場で掩体を構築するように命令が下された。 第1海兵連隊第2大隊と第7海兵連隊との間隙には第3大隊が投入されたが、その際は鉄道切り通しの東斜面に占位した砲兵から継続的な支援射撃を受けた。
     


【第5海兵連隊】
 第5海兵連隊は第2大隊が安波茶ポケットにおける敵の最後の組織的戦闘を潰滅させた。 第1大隊は第7海兵連隊第1大隊の後方に回り込んで敵の重要な拠点を排除した。
  夜になって第5海兵連隊第1大隊は師団境界付近でようやく第305歩兵連隊と連携を取ることに成功した。 同じく第2大隊は第305歩兵連隊の後方で支援任務を実施していた第307歩兵連隊第2大隊と連携を取ることが出来た。 



   
   

【第7海兵連隊】

 第7海兵連隊地区にあった戦車部隊には負傷兵の後送という任務が付加された。 ある戦車は脱出用ハッチから負傷者を収容し、またある戦車は後ろに負傷者を乗せたうえで防弾板を立てて後送した。戦車を使用しての負傷者後送は第1大隊および第2大隊に集中した。 両大隊は第3大隊正面の目標に対し両翼から敵拠点を包囲して約700m前進、澤岻高地に確固たる地歩を確立した。
 第2大隊F中隊は澤岻高地の稜線を越えて沢岻集落の郊外に達したが、反対斜面にある洞窟陣地やトーチカからの激しい反撃に遭遇したため、その後は大隊が確保した稜線付近の敵を掃討する任務に変更した。
 第1大隊C中隊は1116に稜線の頂上部に達したが、その際同じような激しい抵抗に遭遇した。 そのため午後の早い段階にA中隊を投入、前線を確保するとともに、左の師団境界線付近まで進出するように命令した。 両中隊は戦車・火炎放射器・手榴弾・爆雷などを使用して洞窟陣地を封鎖し占領を確実なものとした。
   
   
   
   




5月12日
 
沢岻方面においては12日早朝から沢岻高地台上の争奪の激戦が繰り返され、遂に夕刻には台上の大部は占領され、歩兵第64旅団司令部、独立第15大隊は沢岻高地南側の洞窟陣地に拠り、独立歩兵第23大隊は沢岻高地東側地区、第2歩兵隊第3大隊本部は沢岻北西側高地陣地にあってそれぞれ頑強に戦闘を続けた。同夜台上奪回の逆襲を行ったが成功しなかった。
 安波茶南側で孤立奮戦していた独立機関銃第14大隊は13日夜包囲を突破して沢岻付近に後退したが、途中で大隊長村上甚太郎中佐は戦死し、下士官以下数名が到着したのみであった。





【第1海兵連隊】

 第1海兵連隊は大名高地の西側に地歩を獲得しようとしていたが、第2大隊に糧食・弾薬・水・薬品などが空中補給されるまで約3時間攻撃を停止した。 第2大隊地域は全域にわたって激しくかつ正確な砲撃に曝されて死傷者が増大した。 このためE中隊とG中隊の残存兵を統合して強力な攻撃部隊を再編成し、指揮官にはG中隊長を当てた。
 1030、この中隊がF中隊と並列となってから攻撃が開始された。前進経路は至るところで日本軍の狙撃兵が待ち構え、大名高地付近からは激しい機関銃射撃を受け続けた。 大名高地にいる日本軍の砲兵観測員は第2大隊左翼の補給状況や後送状況を完全に観測していた。 このような状況下で各中隊はほとんど前進が出来ず、動こうものなら激しい銃撃で直ぐに釘付けになった。 夕暮れになって、もはや今立っているところに掩体を構築せざるを得ない状況となり、最も前進した箇所でも11日の前線から数メートル進撃しただけであった。
 第2大隊の左から攻撃した第3大隊K中隊・L中隊は第2大隊の側方を東側に前進しようとした。 安謝川の南岸の土手を遮蔽物として南東進し、一部が渓谷方向へ約300m程前進したが、敵の砲撃が増大したために停止した。 2230、掩体構築が終了した頃、L中隊は勢力不明の日本軍の逆襲を受けた。 第1海兵師団は2300に第5海兵連隊に対して第1海兵連隊への支援準備を命令したが、第1海兵連隊第3大隊は日本軍の逆襲を自力で撃退した。
   

【第7海兵連隊】

 第7海兵連隊第1大隊と第2大隊との間には11日夜には約450mの間隙が生じていたが、この間隙も12日には封鎖した。 第2大隊E中隊(左)・F中隊(右)は戦車および火焔戦車の協力を得て澤岻高地反対斜面の掃討を実施した。 E中隊正面の目標に対しては艦載機による航空攻撃が実施され、高地一帯は破壊し尽くされた。だが攻撃開始に応呼して敵の砲兵・迫撃砲射撃が激しさを増した。 澤岻高地の山脚部から連隊境界線に沿って進撃するF中隊は特に迫撃砲の集中射撃を浴び、その日だけで93発の砲弾が中隊に落下した。1522に沢岻丘陵上でE中隊が第1大隊C中隊と接触し連携が取れるようになった。両大隊はその夜澤岻集落の北側および高地の両翼で連携して防御線を構築した。
   




5月13日 
 沢岻高地地区では13日引き続き激戦が展開され、第64旅団の中堅として勇戦敢闘して名指揮官とうたわれた独立歩兵第23大隊長山本重一少佐以下多数の戦死者を生じ、沢岻高地は完全に占領された。13日未明増援のため沢岻に到着した独立歩兵第22大隊第1中隊も一日の戦闘で5分の1の戦闘力となった。歩兵第64旅団長以下の残存者は沢岻の洞窟に立て籠もって健闘を続けた。沢岻を攻略した米軍は大名高地に対して攻撃を開始してきたが、同高地守備部隊は巧みな戦闘で撃退した。


【第1海兵連隊】

 第1海兵連隊第3大隊に対して、夜明け前に激しい逆襲が行われたが、火力を集中して撃退した。 1200には第3大隊K中隊の火力支援を受けたL中隊が渓谷の入口にある高地を占領するために南東に向かって攻撃を開始した。 歩戦(歩兵と戦車)チームがその目標たる高地に達したと同時に3方向から激しい機関銃射撃を受けるとともに迫撃砲・手榴弾・小銃射撃の嵐に巻き込まれた。 撤退は避けられない状況となり、戦車が援護射撃や発煙弾を撃ち込む中で死傷者の後送に当たり、部隊は元の攻撃開始の位置まで撤退した。 同じようにL中隊も側面から激しい銃撃を受けて撤退したことで第2大隊は左翼をF中隊が保持する大名西側の高地方向へ展開することが出来なくなった。
   
                   浦添高校から見た第1海兵連隊第2大隊の位置(現在内間市営住宅)を同じアングルで比較
  1 中央右の小さな丘を第2大隊が確保した。戦時の写真ではその奥(2本の木の陰))に丘が見えるが、海兵隊はこの丘の確保を目指した。
  2 戦時においては周囲に一軒の民家もなく、米軍にとって戦車の機動は実に容易な地域であった。


【第7海兵連隊】
 第7海兵連隊第1大隊C中隊は0235に日本軍の逆襲を受けたが撃退した。 0737、第1大隊は澤岻高地の掃討及び集落南に進出して第2大隊の前進を援護するよう命じられた。 A中隊が0821に攻撃を開始したが、反撃もなく0912には徒歩で沢岻集落に進出し、C中隊は稜線上の洞窟陣地を掃討した。 1330には大隊は進出目標線に達し、B中隊がA中隊の左後方に占位して攻撃態勢を整えた。
 沢岻集落はは5月13日に第7海兵連隊によって完全に確保された。 第7海兵連隊第2大隊が集落内を掃討し、第1大隊は高地上の狙撃兵を排除して日本軍壕を潰し、第3大隊は連隊後方地域を掃討した。 戦車、自走砲、対戦車火器はG中隊の攻撃を支援したが、午後になっても日本軍の組織的抵抗は止むことがなかった。日本軍最後の中心的拠点は旅団司令部だと推定され、最後まで手榴弾戦を戦い抜いた上で我が戦線を突破して首里方面へ脱出した。
   

   




5月14日
 沢岻高地を制した米軍は、14日沢岻南側の大名高地を北西から攻撃し、その一部は大名高地中腹まで進出して来たが、逆襲を加えて夕刻には撃退した。
 沢岻の洞窟陣地には死を決した歩兵第64旅団長有川少将以下が依然として頑張っていた。第62師団長は有川旅団長を撤退させることを考え、軍司令部とも連絡し、軍司令官からの撤退の示唆を得て、14日夜師団長の親書持参の連絡将校を派遣して後退を命令した。有川旅団長以下は14日夜全員斬込を準備中のところ、0時頃師団の撤退命令が到着したために、斬込を中止し所在部隊に撤退を命ずるとともに、旅団長以下血路を開いて15日未明首里北側に後退した。旅団司令部は撤退時二十数名の戦死者を出した。
 独立歩兵第15・21・23大隊、第2歩兵隊第3大隊なども14日夜沢岻から首里北側地区に後退した。独立歩兵第22大隊第1中隊(生存者34名)は大名に後退して同大隊第2中隊長の指揮下に入った。


第5海兵連隊第3大隊K中隊 ユージン・スレッジ伍長手記】
 5月14日、第5海兵連隊第3大隊K中隊は、今や全てが灰燼に帰して見る影がなくなった沢岻集落に入った。頑丈な石垣だけが残っているだけだった。その時前方300mに異様な光景を目撃した。450人ほどの日本軍が瓦礫の中を退却しているのである。時間をおいて彼らに対して砲撃が始まった。びっくりした日本兵は慌てて逃げ出す。ところが彼らの逃げる様子を見ていると決してパニックにに陥った人間ではない。雨あられと降り注ぐ鉄の暴風に見舞われ、こちらに背を向けて走っているときでも、私たちは彼らの背中に何かしらの自信に満ちた一種の威厳を感じ取った。彼らは命からがら逃げているのではない。堅固に築城された後方の防御陣地に単に移動しているに過ぎないのだ。そしてそこでまた戦う。もし後退の命令が出ていないのなら、彼らはその場に留まって熾烈な反撃を行う。いづれにしろ日本兵は死ぬまで戦うつもりなのだ。


八原博通高級参謀著「沖縄決戦」より有川旅団長(歩兵第64旅団長)の後退問題
  有川旅団司令部は、5月12日には完全に馬乗り攻撃を受け、旅団長自ら手榴弾を投じつつ戦闘するといった悲境である。これを見殺しにするか、あるいは重囲を突破して後退させるか重大な問題になってきた。有川将軍は鹿児島出身で薩摩隼人型の人物である。斗酒なお辞せず、辺幅は飾らず、悠々たるタイプの人だ。軍司令官が同郷のよしみで「貴様は田舎の百姓親父のような風采だったのに、将官になったら多少将官らしい感じになってきたな」と揶揄されると、旅団長は「閣下も、近頃は軍司令官振りが板についてきましたが、まだまだ十分とは言えませんな」と応酬するほど遠慮ない打ち解けた間柄であった。かつて、将官達の宴会で、軍参謀長が「有川、貴様生意気だ!」と言ったという噂まである。軍参謀長や第62師団首脳部は、有川旅団長は軍司令官と同郷なのを鼻にかける嫌いがあるというので、心よからず思う節があった。しかも有川旅団は、牧港・伊祖方面の戦闘以来勇戦はしているが、戦績が芳しくなく、軍、師団首脳部の印象があまり良くない。そこに今回のような状況が起こったので問題がややこしくなる。
  5月13日夕方、第62師団参謀長から私に電話がかかってきた。上野参謀長は例の熱気のある早口で、「八原君、ご承知の如く、今有川少将が馬乗り攻撃を受けている。師団長は少将に対し、現陣地を固守して死ぬるようすでに親書を送られた。従来このような境地に追い込まれた指揮官は、後退を命ぜられるのが常であるのに、有川少将をここで見殺しにするのは情において忍びない。部下もまだ相当生存していることだろうから、なんとか救出し、今後の戦闘を続けて指揮してもらいたい。しかし、師団長がすでに厳命を下しておられるので、自分としては手の下しようがない。軍の方で良い思案はないだろうか」 という相談だ。
  こんな場合、私もまた人並みに気が弱くなる性分である。戦術理論上からして、沢岻付近を全滅を賭してまで死守する必要はない。私は軍参謀長に 「師団長藤岡将軍の真摯にして厳然たる処置は師団長の立場上命ぜられたと存じます。軍としては、この際有川将軍に後退を命ぜられるのが適当であります」 と意見を具申した。参謀長、軍司令官ともに別に拘泥される様子もなく、すぐ同意して下さった。私は大喜びで後退させる旨を上野参謀長に伝えたが、彼の喜びは私以上のものがあった。この夜遅く、有川将軍以下同司令部の生存者は巧みに敵の包囲を突破し、無事首里市内に後退した。

























歩兵第63旅団は、独立歩兵第11大隊・12大隊・13大隊・14大隊で編成される





戦死日が記載されていない方は、安波茶・沢岻の戦闘終了まで生存されていた方である。

独立歩兵第15大隊は4月20日・21日の伊祖地区の戦闘で約3分の1の戦力を喪失し、22日に沢岻へ復帰した。

独立歩兵第23大隊第2中隊(秋津中隊)の配属日は不明であるが、独立歩兵第23大隊が嘉数守備に当たった際にはすでに第2中隊の関する記述がないことから、第62師団が戦線整理を実施した4月13日だと推定した。

安波茶・沢岻の戦闘開始時において独立歩兵第21大隊が最も損害が大きかった。 戦闘部隊の指揮は実質機関銃中隊長中島中尉が執る状況で、負傷していない将兵はひとりもいなかったと伝えられる。











独立歩兵第22大隊は、4月12日に一時夜間攻撃のために待機したが、その後は比較的大きな戦闘には加入することがなかった。







独立歩兵第23大隊は嘉数の戦闘で大きな損害を受け、安波茶への後退時には戦力の3分の1から2分の1の損失を出していた。

歩兵第64旅団司令部史実資料には、独立第3大隊の他に44旅団3大隊も配属になったという記述があるが、該当する部隊が不明である。一時独立混成第15連隊第1大隊が62師団に配属になった(4月27日配属、29日復帰)際の誤記と思われる。



























































独立歩兵第21大隊は経塚、独立歩兵第23大隊が安波茶という配置で果たして無線連絡が確保できていたのか、配属が有効に作用したのか大きな疑問である。


第2歩兵隊第3大隊が独立歩兵第15連隊指揮下で戦闘行動を開始するのは5月8日からであり、配置場所は沢岻高地にある第2中隊の西側となる。 この場所はそれまでは独立歩兵第15大隊第1中隊・第4中隊・機関銃中隊(いづれも仲西・勢理客から後退)の混成部隊が守備したと思われる。










第1海兵連隊の担任区域が広すぎるため、第6海兵師団第22海兵連隊の到着(8日)まで、一時的に第7海兵連隊第2大隊が安謝川河口〜内間を担任することになった。























一見すると突出して見える独立歩兵第23大隊の安波茶陣地であるが、ここを撤退すると東にある前田高地の日本軍(独立歩兵第12大隊・14大隊・歩兵第32連隊第2大隊)が完全に孤立することになるため、安波茶の保持は重要な意味合いを有していた。 事実、9日夜に独立歩兵第12大隊等が米軍の包囲を突破して撤退するが、これは独立歩兵第23大隊の安波茶からの掩護が大きく関係している。
 この日、独立歩兵第23大隊の右翼に位置していた機関銃中隊が壊滅し、米軍の一部が経塚北側まで侵入するようになった。




















独立機関銃第14大隊の陣地位置は各資料からも判然としない。ただし、独立歩兵第23大隊と行動を共にしていること、一部資料に「安波茶南側高地」(独歩23大隊陣地の位置の記述)ではなく、「安波茶南側」と記述されていることから、小湾川最上流の南側、経塚の北側に位置していたものと推測される。

雨は7日夕から降り始め、8日08時の観測も雨であったが、18時の観測では曇りとなっている。沖縄では例年梅雨入りの時期である。(沖縄地方気象台の記録)







































この日の午前中に第1海兵連隊第3大隊だけが行動しており、  Nan Hillを確保している。これにより50m閉鎖曲線高地一帯のの日本軍相互支援が瓦解し、午後からの海兵隊の攻撃が一気に進捗することになった。





















































第7海兵連隊第1大隊が遭遇している日本軍は独立歩兵第15大隊に配属されている独立歩兵第23大隊第2中隊(秋津中隊)である。現在の昭和薬科大学附属高校グランドの北端付近が陣地であり、ここで第2中隊は玉砕している。












































独立歩兵第23大隊陣地のうち最右翼に位置していた機関銃中隊陣地が7日に壊滅状態に陥り、その後海兵隊はこの右翼部分から経塚方向に度々侵入するようになった。 海兵隊の記述でも「渓谷の北斜面を焼き尽くした」とあり、独立歩兵第23大隊の背後まで侵入したことがうかがい知れる。




































































































































































独立歩兵第23大隊の守備した沢岻東側高地には近年まで「ウェルサンピア浦添」という宿泊施設が建設されていたが、平成22年には新興住宅地「沢岻ヒルズ」に生まれ変わった。この宅地化により、それまで存在していた壕入口などはほとんど破壊されている。










第1海兵連隊第2大隊の位置する丘陵(現在の内間市営住宅)は、そもそも緩やかな丘であり、防御戦闘に適した地形的坑堪性を有していなかった。恐らく身動きできない状態であったと思われる。














































歩兵第64旅団長有川旅団長も独立歩兵第15大隊長飯塚少佐も意志強固で「ここでがんばるんだ」と言い出して梃子でも動きそうにない状況であった。








この逆襲が独立歩兵第22大隊第1大隊であったと思われる。この日沢岻高地上(米海兵隊C中隊正面)にも逆襲があったが、独立歩兵第22大隊第1大隊に命令が下達された時刻から考えても0235という暗黒の時間に高地上に達していたとは考えにくい。
























































有川旅団長への撤退命令に関しては沖縄第32軍首脳部内の人間関係が大きく関わっていた。最下段にそのことを示す八原博通高級参謀著「沖縄決戦」の一文を載せる。公刊戦史に記述されている文面が実は全く異なったニュアンスであることがわかるのである