130高地・140高地・150高地の戦闘 (130こうち・140こうち・150こうちのせんとう)                         2008年3月作成

1 歩兵第22連隊(愛媛県松山市)
  歩兵第22連隊 
  連隊長 吉田 勝中佐(20年6月10日大佐進級)
   連隊本部、歩兵大隊3 歩兵砲中隊1 速射砲中隊1 通信中隊1
      からなる連隊人員2876名
   歩兵大隊は大隊本部、歩兵中隊3、機関銃中隊1,歩兵砲小隊1
      からなる大隊人員799名
   歩兵中隊人員179名

  
 上記定数約2900名弱であるが、4月22日から5月10日までの
「幸地の戦闘」において歩兵第22連隊の総実数は約250名程度まで戦闘力は激減していたと思われる。したがって、「大隊」(約800名)と記述するも実数は中隊勢力以下、加えて重火器等はほとんど失われ、小銃と軽機関銃および擲弾筒などが主力火器となっている。



2 130高地・140高地・150高地付近の名称・地勢

 (1) これまでの各資料等では上記3つの高地について誤記・誤解が散見され、それが地名の混乱を招いている。
  ・ 正確には130高地(ワート:Wart) 140高地(フラットトップ:Flattop) 150高地(ディック)  【左が日本軍名 カッコ内は米軍呼称名】 
  ・ 150高地(Dick)は米軍は更に5つ (Dick able・Dick baker・ Dick right・ Dick ceter・ Dick left)  に区分している。
  ・  日本軍の指す150高地は「Dick right」のことである。
  ・ 米軍呼称の 「チョコレートドロップ:Chocolatedrop)」 は日本軍は 「西部130高地」 と呼称した。
   ・ 130高地(ワート:Wart)の南北に延びる稜線の一番南に小山があるが、日本軍はこれを 「130高地南コブ」と称した。
  ・ チョコレートドロップを「弁ヶ岳」と説明する資料があるが、これが沖縄戦研究を大きく歪めている原因である。
 (2) 地勢
    この一連の高地帯から沖縄第32軍司令部のある首里までは直距離にして2km弱。標高で一番高い150高地を観測点にすれば迫撃砲弾で
    も正確な射撃が可能となるという首里複郭陣地の最後の要地と言える場所である。東西いづれの方向からも低地から「攻め上げる」という戦術
    上の不利を米軍は克服して勝利を収めるが、激減した戦力で対した日本軍も 「反斜面陣地」「相互支援」 という戦術上の工夫で応戦した。 こ
    の戦闘の後、米軍は首里へ進撃出来る態勢を整えたものの、沖縄の梅雨によって補給が滞り、結局この方面から首里に進撃することはなかっ
    た。    
              



130高地・140高地・150高地の戦闘

5月10日

 
幸地地区においては、昨9日米軍が侵入した幸地南西500mの閉鎖曲線高地で争奪戦が行われた。10日夜、歩兵第22連隊長は同高地奪回の逆襲を実行したが、多数の死傷者を生じ失敗に終わった。歩兵第22連隊長は各部隊の戦力低下が甚だしいため、10日夜主陣地の線を弁ヶ岳北東地帯に後退させた。この頃、同連隊の第1大隊・第2大隊は100名以下、第3大隊は第10中隊長渡邊大尉以下数十名の戦力となっていた。



5月11日
 
幸地南西の歩兵第22連隊正面は米軍の攻撃を受けたが撃退し、連隊は戦力の再建に努めた。

 
首里を取り囲む日本軍陣地群の中でも地形的に最も特筆されるべきはチョコレートドロップだと言っても過言ではない。当初、第77師団司令部では「130高地」と呼称されていたが、平地部から突出した岩だらけのこの高地はその形状からチョコレートドロップと呼ばれるようになった。このチョコレートドロップ付近には沖縄で最大の地雷原が構築されており、東側のフラットトップ(140高地)、南西の石嶺高地、及びアメリカ軍の進撃する北側を除くあらゆる方向から掩護を受けられる地形であった。日本軍はこのチョコレートドロップとワート(チョコレートドロップとフラットトップの間の南北に長い稜線)では反斜面陣地を構築して戦闘を行った。
 5月11日0700、30分間の攻撃準備射撃終了と同時に歩兵部隊が進撃を開始した。第306連隊第3大隊は第77師団の最左翼(東側)として主攻撃を担当した。大隊は約200m前進をしたが、ここで砲迫射撃を受けて前進は停止した。チョコレートドロップの北側には網密な機関銃火網が形成されており、全ての道は塞がれていた。0900頃には中隊がチョコレートドロップの北麓で近接戦闘に陥った。他部隊はこれの左側から進撃しようと試みたが、ワートの麓には敵の対人・対戦車壕があり、これに阻まれて前進することができなかった。戦車、自走砲、野戦砲、迫撃砲とあらゆる火器でこの攻撃を掩護したが、反対斜面にある日本軍の陣地を破壊できたものはなかった。更にフラットトップの日本軍火器で多くの犠牲者を出した。フラットトップから全く暴露していた1個小隊はこの攻撃の開始当初の短時間に11名の死傷者を出した。また日本軍の47ミリ対戦車砲は我が戦車が開豁地に出た瞬間に的確に射撃を行った。2両の戦車が撃破され、6両がこの火器で損害を受けた。またこれを逃れて前進した戦車は日本軍の肉薄攻撃によって破壊された。この日53名の死傷者を出して第3大隊は昨晩の進出線まで撤退した。
  

 
 5月10日から11日にかけての夜、日本軍は10日にアメリカ軍に占領された地域を奪還するために夜襲をかけてきた。0730になってこの攻撃は下火になり、日本軍は122体の遺体を遺棄して撤退した。5月11日は第96師団第382連隊がついにZebra Hill頂上部を占領するに至った。しかしZebra Hillの反対斜面はDick Hillの日本軍陣地から火制されており、この斜面の確保は実に困難を極めた。開豁地に飛び出してDick Bakerまで前進しようと試みたものの、日本軍の正確な射撃の前に断念せざるを得なかった。ある小隊はその日だけで全ての下士官と1等兵を失うという状況であった。


5月12日
 歩兵第22連隊正面は戦車を伴う米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退した。


 
5月12日、第306連隊は現在地から両翼の友軍の攻撃を掩護した。。1個戦車小隊の配属を受けた第306連隊第2大隊は第96師団の右側を掩護、第306連隊第1大隊は第305連隊の攻撃を掩護した。

 5月12日、第382連隊は第1大隊を西側、第3大隊を東側に配置して攻撃を開始した。Zebra Hill南斜面の日本軍陣地を沈黙化させるために37ミリ対戦車砲で直接照準射撃を実施する中、砲兵射撃と37ミリ対戦車砲の支援下に第3大隊のBaker Hill進撃は順調に開始された。戦車と歩兵が協同で進撃した第1大隊がZebra Hillの反対斜面の掃討を続ける間に、第3大隊はZebra HillとItem Hillの間をゆっくりと前進した。第1大隊はさらにDick Baker攻撃に移行したが、このときいきなり背後から日本軍の攻撃を受けた。2個大隊を投入してZebra Hill周辺を掃討したにもかかわらず、未だに日本軍陣地が健在であったのだ。しかしながら、この状況下に第1大隊がDick Bakerに辿り着き、煙弾射撃下に稜線上に掩体を構築したが、直ぐに敵の激しい砲撃を受けて撤退した。
    

  午後になって、A中隊がDick Bakerの東斜面を攻撃前進した。だが中隊が半分も登らないうちに南側から激しい射撃を受けて釘付けになってしまった。アンダーソン中尉と3人の兵士だけが斜面を登り続けて山上に到達したが、激しい迫撃砲射撃によってアンダーソン中尉とデュラン1等兵が即座に戦死、残り2名は北西側斜面の友軍の方角に向かって駆け下りて行った。この日の進撃は中止された。この日の戦果は第3大隊がZebra Hillの約600m南にあるBaker Hillを占領しただけであった。
 



5月13日

 
石嶺東方約1kmの130高地・140高地・150高地方面は、13日戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。歩兵第22連隊は勇戦して大部を撃退したが、140高地東側200m付近高地を占領された。石嶺地区の戦車第27連隊は側方から歩兵第22連隊に密接強力した。特にその砲兵中隊(90式野砲4門)は対戦車戦闘い威力を発揮した。
  
 5月13日、フラットトップとチョコレートドロップの同時攻撃が計画された。攻撃準備射撃後、第306連隊はチョコレートドロップへの攻撃を開始した。第2大隊は北東側から攻撃を開始。チョコレートドロップ北麓に敵の砲迫射撃が集中したため、先頭中隊は13分でチョコレートドロップに到達した。主攻撃部隊は攻撃方向をチョコレートドロップとフラットトップの間に指向したが、今までになかった激しい反撃で直ぐに停止することになった。歩兵部隊は何とかチョコレートドロップに足場を確保しようとしたが、直ぐに丘の麓まで押し返された。1400頃、敵は20発の150ミリ榴弾をチョコレートドロップ北側に撃ち込んできた。大隊は全火器の援護下に3回目の攻撃を敢行したが、結局約300m後退することになった。105ミリ砲を装備した中戦車2両はこの日に撃破された。ある部隊はチョコレートドロップから撤退せずにワートの麓に掩体を掘ってここに留まろうとしたが、この部隊に日本軍は夜襲をかけた。この攻撃は執拗でついにアメリカ軍は掩体を放棄して撤退した。

 5月13日、この日の攻撃は右側の第77師団第306連隊と密接に連携を取りながら実施された。第382連隊第1大隊は1100頃から前進を開始。計画では先頭部隊であるA中隊がDick Bakerを攻撃中に、B中隊が左に展開してDick Ableに向かうことになっていた。しばらくの間全ては順調に進展した。両中隊はほとんど反撃を受けることなくそれぞれの目標の稜線に到達したが同時に日本軍の洞窟陣地やトーチカを掃討し始めた。突然にDick Ableに嵐のような砲撃が開始され、90ミリ迫撃砲弾および150ミリ榴弾が200発以上も稜線上の狭い地域に集中した。B中隊長とその周辺にいた14名は1ないし2名を残して全員が戦死、A中隊はDick Bakerを占領した。

【フラットトップ(Flattop:140高地)とディックヒル(Dick Hill:150高地))は関係位置が非常に近かったにもかかわらず、第96師団と第77師団の担任地域の境界線上にあったために当初はそれぞれが単独で攻撃を行って損害が増大した】
 


5月14日
 
歩兵第22連隊の陣地130高地・140高地・150高地は、14日戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、守備隊は勇戦したが、150高地南側の一角が米軍に占領された

 
5月14日、第306連隊は戦力が低下したために、小銃手を再編成して1個大隊編成とした。5両の戦車の掩護を受けて、この集成大隊はワートに対して攻撃を開始した。ある小隊がワートの斜面に到達したと同時に、両翼及び正面から虐殺とも言える熾烈な射撃を受けた。数分で小隊の戦力は半減、小隊長・小隊付軍曹・分隊長は全員が死傷した。戦車は稜線に達したと同時に敵の対戦車砲弾を浴びて6両が撃破された。今回のこの攻撃も何の戦果をも得ることが出来なかった。第306連隊は5月6日以来、471名の死傷者を出して第307連隊と交代することとなった。

 5月14日午後、第382連隊は右翼の第306連隊と調整を行った上でDick AbleとDick Rightを攻撃することになった。Dick BakerのA中隊の掩護を受けてB中隊がさしたる抵抗も受けずにDick Ableの稜線上に進出(夕刻までに撤退している)した。C中隊の1個小隊が北側からDick Rightを攻撃したが、斜面の半ばに達したときに敵の小銃射撃によって3名が射殺され、更に敵の迫撃砲弾が落下し始めたために退却することになった。
     


 第3大隊もBaker Hill地区からDick Rightの東突出部を攻撃した。K中隊は何とかこの突出部の北斜面に取り付いた。戦車小隊に支援されたL中隊は谷間を登ってDick Rightに向かった所で迫撃砲射撃を浴びた。数発が戦車に命中すると同時に随伴して来た歩兵部隊にも迫撃砲弾が降り注いだ。先頭を進んでいた小隊は23名のうち2名を残して戦死または負傷した。しかしながら降り注ぐ迫撃砲弾をものともせず、小隊長は生存者を率いてDick Rightに到達しK中隊の右側に占位した。こうしてDick Rightの一部を確保することができたが、第3大隊はその代償として戦死6名、負傷者47名を支払うこととなった。


第382連隊が攻撃を繰り返しつつ西側のフラットトップ(第77師団の最左翼側)に徐々に近づきつつあった。
 フラットトップは北側から見ると、名の通り稜線が平らなテーブル状の形をしており、その両側は馬の背の稜線が急な斜面を作り出していた。この高地は首里防衛の東側の緊要な地形であり高地上からは幸地に至る北側の谷を1km以上にわたって見下ろす事が出来、さらに北西のチョコレートドロップやディックヒル(Dick Hill)との間の隘路をも制する位置にあった。このフラットトップの反対斜面はかなりの急斜面で、ここに多くの日本軍陣地が存在した。
 このフラットトップは第77師団第306連隊の目標であり、5月11日からその攻略に着手していた。フラットトップはもうひとつの連隊の目標であるチョコレートドロップやディックヒル(Dick Hill)の西斜面を火制しており、この高地さえ占領すれば必然的に周囲の高地帯を制する事ができるはずであった。5月11日第3大隊主力はゆっくりと前進を開始し、フラットトップ北側の占領地区を徐々に拡張していった。5月12日、戦車と歩兵の協同部隊がフラットトップに取り付こうとして失敗。日本軍の火力はこの地区へはアメリカ軍を一歩たりとも踏み込ませないという意志が感じ取れた。5月13日・14日と同じような攻撃を繰り返して進展しなかったものの、砲兵射撃や支援火器がこの地形を徹底的に叩きつづけた。
   



5月15日
 
歩兵第22連隊の守備する130高地・140高地・150高地は15日戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受け、130高地南側、140高地北側斜面い米軍が侵入し、150高地東側半部は米軍に占領された。
この頃歩兵第22連隊の戦力は尽き果てていたため、第24師団長は15日夕刻、150高地奪回のため、昨夜前線から撤退した歩兵第32連隊から1個大隊を派遣して140高地・150高地の奪回確保を命じた。また師団長は独立29大隊、独立速射砲第3大隊主力を歩兵第22連隊に配属した。独立第29大隊は130高地正面に、独立速射砲第3大隊主力は130高地から150高地全正面の戦闘を支援するように16日夜配備された。
 歩兵第32連隊長は140高地・150高地奪回攻撃を第1大隊(伊東大隊長以下約200名)に命じた。伊東大隊は夜暗の中を130高地を経て140高地に到着した。同高地南側を歩兵第22連隊第2大隊(平野大隊)が保持しているのを見て、増援として機関銃中隊主力(高井和平中尉)に歩兵を付して残置して150高地に向かった。150高地南側崖下に歩兵第22連隊第9中隊長渡邊祐二大尉以下少数が頑張っていた。伊東大隊長は第1中隊に150高地の攻撃を命じ、同高地西半部を占領し、米軍と30m〜40mの近くで対峙して天明となった。

    

        

 
5月15日0900、新たに投入された第307連隊が306連隊を超越して攻撃を開始した。今回の攻撃は左のフラットトップと右のチョコレートドロップを同時に攻撃しようと計画された。前日夜から雨の降る中をフラットトップとその周辺の高地帯に対して一晩中砲兵射撃を行ったものの日本軍の砲迫射撃・機関銃射撃は止むことはなかったが、昼までに第3大隊はチョコレートドロップ北麓及びフラットトップ北側斜面下に到着し更なる攻撃準備に着手した。午後将兵はぬかるんだフラットトップの斜面を手榴弾や爆雷・火炎放射器を背負って登りはじめた。戦車は稜線部をはじめとして全域に直接射撃を行った。午後は敵と終日の手榴弾戦を戦い抜き、その後稜線直下に掩体を掘って夜に備えた。第307連隊第2大隊は第3大隊の右側に約500m進出した。

 第382連隊第3大隊はDick Hill稜線上にまで進出することは出来なかった。ある小隊は7度攻撃を仕掛けて、この稜線を確保しようとしたが、その度に稜線の下側にまで押し返された。



5月16日

 
130高地・140高地・150高地方面は戦車を伴う強力な米軍と終日激戦を展開したが、現陣地を確保した。
 歩兵第22連隊は連隊本部の人員まで第一線に増加して防戦に努めた。140高地・150高地奪回を図った伊東大隊も30〜40名の死傷者を生じ、現陣地保持に奮闘した。
       
 
5月16日も第307連隊は攻撃を続行した。第3大隊の1個小隊がフラットトップの稜線に到達したが、到達と同時に南約1km付近のTom Hillから迫撃砲の集中射撃を受けて、あっという間に頂上部から追い落とされた。一方、支援の戦車部隊がフラットトップ周辺に埋められていた6両の日本軍戦車を撃破したが、アメリカ軍戦車も日本軍の地雷原と47ミリ対戦車砲によって3両が撃破されている。この日第3大隊は稜線確保のために4度攻撃を繰り返したが、その度に北側斜面に押し返された。
 第2大隊はチョコレートドロップの頂上部と反対斜面確保のために攻撃を行った。1個小隊が午後にチョコレートドロップ攻略に失敗したが、その他の部隊は東側斜面に取り付くことが出来た。

 第96師団第382連隊は5月15日から20日の間、ディックヒル(Dick Hill)で苦しい戦いを続けた。Dick Hillの稜線を越えようと何度も試みたのだが、左側に位置するOboe Hillや右側のフラットトップからの機関銃射撃に遮られた。5月16日に第1大隊は第2大隊と交代、その第2大隊の攻撃は何度も繰り返されたが、いっこうに日本軍の抵抗は弱まることが無く夜となった。ディックヒル(Dick Hill)の稜線部西側を確保しようとするが、兵士は常にフラットトップから暴露した形となっていた。第382連隊は17日もほとんど前進することが出来なかった。
 



5月17日
 130高地・140高地・150高地は17日終日激戦が続き、140高地頂上は一時米軍に占領されたが夕刻には撃退した。130高地は背後に迂回した米軍から攻撃を受け、洞窟陣地の一部は閉塞される状況となった。150高地の伊東大隊は依然同高地の西半部を固守して奮闘したが、死傷者が逐次増加した。なお、石嶺高地と130高地の中間地区の高地(西部130高地と称していた)にも一部の米軍が進出した。


歩兵第32連隊第1大隊長の伊東大隊長(150高地)の手記によれば、思わぬ方向から撃たれていたために当初140高地を敵が奪取したかと思ったが、確かめてみると130高地南コブからの射撃だとわかったという。 日本軍側の戦史叢書などでは独立29大隊が130高地などに配備されているようになってはいるが、伊東大隊長が数日後に確認したところ、この17日にはすでに独立29大隊は撤退していたことが判明したという。右の地図上の西部130高地(チョコレートドロップ)や130高地(ワート)には日本軍陣地を記入してあるが、実際はすでに日本軍は撤退していた可能性が高い。


 5月17日、第307連隊第3大隊はフラットトップの稜線を挟んでの混戦となった。第一線攻撃部隊であるK中隊はこの日には14名を残すのみとなり、ついには撤退せざるを得なくなった。戦車部隊はフラットトップとディックヒル(Dick Hill)の間の「切通し」を突破しようと試みたが、2両が地雷により擱坐して通路を塞ぐ形になった。その後この隘路の地雷原は地雷処理戦車によって掃討されている。
第2大隊はチョコレートドロップ周辺にまで進撃、夜には敵の洞窟陣地を封鎖するまでに進展した


                        

5月18日

 130高地・140高地・150高地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け18日終日激戦が続いた。
 130高地は馬乗り攻撃を受け、所在部隊(独立第29大隊基幹)は洞窟陣地に拠って敢闘した。140高地・150高地はその背後に進出した米軍戦車から背面攻撃を受け、各頂上付近は米軍に占領され苦戦に陥り、140高地の洞窟陣地は馬乗り攻撃を受けるに至った。150高地の伊東大隊は対戦車戦闘の火器がないので擲弾筒で応戦した。


 
18日・19日でチョコレートドロップ周辺は完全にアメリカ軍が支配するに至った。
5月18日、戦車部隊が「切通し」突破を図る一方で、歩兵部隊は敵兵と白兵戦に陥った。先頭の戦車は敵の47ミリ対戦車砲によって吹き飛ばされたが、この47ミリ対戦車砲はすぐにアメリカ軍の105ミリ自走砲の反撃により撃破した。この頃にはアメリカ軍は初めてフラットトップとディックヒル(Dick Hill)の反対斜面に対して直接照準射撃が出来るようになった。これが決定的な転機となり、翌19日からは戦車と歩兵部隊が日本軍陣地に対して激しい攻撃を仕掛けることが出来るようになった。フラットトップ南西側からの日本軍の銃剣突撃も砲迫射撃によって撃退した。
  


  
5月19日
 130高地・140高地・150高地の陣地は昨18日と同様米軍戦車から背面攻撃と高地上からの攻撃を受け、130高地の独立第29大隊は洞窟に閉じ込められており、140高地の歩兵第22連隊第2大隊(平野大隊)の本部洞窟も馬乗り攻撃を受けるに至った。150高地の伊東大隊は同高地西側斜面に頑張って苦戦を続けた。


 
5月18日にフラットトップとディックヒル(Dick Hill)の間の隘路を確保したことは本戦闘の大きな転機となった。5月19日から第382連隊によるディックヒル(Dick Hill)の反対斜面進出が着実に進展した。敵陣地から対戦車砲が撃ち込まれる中、戦車と歩兵の協同部隊は日本軍の強力な拠点を破壊して行った。




5月20日
 
130高地・140高地・150高地は20日完全に米軍の制圧を受けて陣地は破壊され、洞窟は封鎖される状況となった。20日夜各大隊は脱出を命ぜられ後退した。
 150高地の伊東大隊などは大隊長以下25名という状況であった。
 この日、第24師団長は歩兵第22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。


 
5月20日、第307連隊第3大隊は手榴弾を多用した最後の攻撃に取りかかった。フラットトップの麓から兵士が列を作って並び、手榴弾を次から次へと手渡して頂上の部隊へ補給し、手榴弾を手にした兵士は安全ピンを外すや矢継ぎ早に敵方へ投擲した。このような状況下に歩兵部隊は爆雷と火炎放射器で日本軍陣地を破壊しながら反対斜面を下って行った。1545ついにフラットトップは陥落した。頂上部や反対斜面では250体以上の日本兵の遺棄遺体を確認した。


   

   























米国陸軍公刊戦史の翻訳版である光人社 「沖縄」 外間征四郎氏訳が多くの認識違い・誤訳を生んでいる。








「Flattop」東側の道路の取付に注意する必要がある。現在の道路は新道であって、旧道は「Dick baker」「Dick able」付近を走っていた。150高地と140高地の間の「切通し」は旧道側に位置するものである。











歩兵第22連隊が幸地地区を撤退し、次に陣地を構えたのが130・140・150高地である。







チョコレートドロップは米軍公刊戦史上では非常に多く記述されているが、日本軍側の戦史叢書等にはほとんど登場しない。敵方に突出し、戦闘力を縦深に配置できない地形から、日本軍は死力を尽くして守るべき地形ではないと判断していたようだ。

一方米軍は最大の地雷原を駆逐すれば戦車を主力とした戦闘が可能となるために、この地区からの攻撃に重点を置いたものと思われる。



















チョコレートドロップは沖縄戦時の地図と現在の地図を比較することからその位置が判読できるが、実際には完全に削り取られており、その姿を断片的にさえ見ることは出来ない。

















日本側には記述がないが、Zebraには依然として日本軍が配置されていたようで、米軍の接近を妨害する前進陣地としての役目を担っていたと思われる。撤退して新陣地に配備された歩兵第22連隊にとっては何としても時間を稼ぎたかったであろう。











南側からの射撃ということは、150高地(Dick right)からのものであろう。射距離約300m前後であり、十分な有効射程距離であったため、日本軍の的確な射撃により釘付けになったと思われる。保有弾数が少なく、有効射程が短い日本軍の小銃にとってはこのような射撃が最も効果的であった。



「Dick baker」の戦時の形状はこのページの最下段に1985年当時の写真で掲載している。





140高地東側200m付近高地というのが「Dick baker」を指す。















日本軍側の記録にも戦車第27連隊の砲兵中隊の射撃が記載されていることから両軍の記録に一致性が見られる。



第77師団と第96師団の担任境界線がこの地区を二つに分けていたために、それまでは連係の取れた攻撃を行うことが出来なかったが、13日からは連係を図るようになった。





































「Dick right」正面を攻撃して来た、B中隊・C中隊を撃退した日本軍にとって、「Dick center」にK中隊・L中隊が取り付かれたことは側背を敵に突かれた感を持ったのではないだろうか。










記述に「Dick right」に到着という部分があるが、米軍公刊戦史の当日の進出状況から見ても、「Dick right」までは達していない。したがって文章はそのままとしているが、当HPでの地図には「center」までの進出とした。


140高地には第22歩兵連隊第2大隊(平野大隊)主力が配置されていた。第1大隊・第3大隊は「幸地の戦闘」で疲弊しており、第2大隊が最も損害が少なかった点からの処置であろう。




















増援する伊東大隊にしても、数的にはすでに人員の75%を失っている状況である。

140高地に増援として到着した第1機関銃中隊長高井中尉が第2大隊(平野大隊)の壕をのぞいて「お〜い皆んな元気か〜」と声をかけたところ20数名の兵の中から「お前挨拶が悪いぞ」と文句を言った。それが平野大尉であったという。

歩兵第32連隊第1大隊長(伊東大隊)が自ら渡辺大尉の存在を確認したという。ところが、双方が配属の形態ではなく、指揮関係がなかったために連係した戦闘は行われていない。「到着と同時に歩兵22連隊長の指揮下に入れ」等の師団としての処置が必要であったのではと考える。




















この日、ついに130・140・150高地に米軍が取り付いた。日本軍は重大な危機感を持ったが、あまりの彼我接近のため、米軍は大口径弾(砲兵・艦砲等)の使用を控えるようになったと思われる。記述からも迫撃砲が主体となってくる。




























「Tom」とは首里の弁ヶ岳を示す。






歩兵第32連隊第1大隊 伊東大隊長はその手記で140高地(Flattop)と150高地(Dick right)間での相互機関銃支援が威力を発揮したと記されている。写真で見るような至近距離であるために、非常に精度の高い射撃であったことが推察できる。











歩兵第22連隊と歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)の指揮系統が異なるために、歩兵第22連隊の一部の部隊が伊東大隊に通報することなく陣地から撤退するなど、日本軍内部での横の連係が破綻する場面が見られるようになる。

すでに通信機材も失われ、日本軍の連係は皆無に等しい状態となっている。この時期、各方面で無断撤退(実際は連絡しようにも出来ない)が問題となり、戦後においても部隊間で戦場道義についての論争が起こっている。一部は公刊戦史である「戦史叢書」にも記述されている。
















対戦車火器を持たない伊東大隊は苦肉の策として擲弾筒を使用した。ハッチを開けた敵戦車に擲弾筒が飛び込んで撃破するという偶然などもあって、米軍はそれ以上の突進を行わなかった。






伊東大隊は切通しを越えて背後に回り込もうとする米兵と白兵戦に陥った。僅かに高い位置から銃剣で刺殺するなど、彼我入り乱れての混戦となっている。その場所については伊東大隊長自らの案内で左写真の位置であることが判明している。











19日には切通しを突破した米軍は140高地・150高地の日本軍陣地壕の爆破を開始する。もはや自力での反撃は不可能な状態ににまで追い込まれる。唯一、150高地南側の高地(米軍呼称Hen)からお対戦車火器による攻撃だけが米軍の動きを制していた。










歩兵第22連隊が後退命令を発したが、本部の離れていた歩兵第32連隊は伊東大隊へ伝令を出したものの命令が伝わらなかった。
140高地の歩兵第22連隊第2大隊(平野大隊)は撤退に際して、増援部隊であった歩兵第32連隊第1大隊第1機関銃中隊高井中尉に対し、「俺の大隊は今夜撤退するから、君の隊も撤退しろ」との指示を行った。

150高地の伊東大隊は壕を爆破され生き埋めとなったが21日未明に這い出した。最後の突撃を覚悟したが、寸前に本部と無線が通じ撤退を命令される。

伊東大隊は生存者25名。撤退の途中に助けを求める歩兵第22連隊兵士の重傷者に遭遇するが、もはや助けるだけの気力も体力もなく、心を鬼にしてその脇を通り過ぎたという。