首里東部戦線 2011年作成 |
首里東部戦線の崩壊![]() 4月1日の米軍上陸以来、日本軍は米軍の圧倒的戦力に押されて逐次後退し、5月中旬には沖縄第32軍司令部の位置する首里は北・東・西の3方面から包囲される形となった。 しかしながら、5月20日頃には沖縄地方の梅雨時にもあたり、ぬかるむ道路に機動力を失った米軍は進撃速度が停滞し、各方面の戦闘は一時的に膠着状態となった。 一方沖縄第32軍は5月22日に沖縄南部喜屋武半島への後退を決定する。 その後退のためには、軍主力部隊が首里から南部へ転進するために安全な経路を確保しておくことが必要で、そのためには何としても米軍の包囲を阻止して東部戦線を保持しておくことが重要なポイントであった。 首里の東、与那原方面では歩兵第89連隊が守備する運玉森が頂上部を米軍に占領されながらも、辛うじて戦線を保持して頑強に抵抗を続けたが、戦力の低下は著しく、そのために軍司令部は戦闘能力も経験も少ない後方部隊を東部戦線に投入する必要性に迫られた。 2 東部戦線における日米両軍の作戦地名 日本語は日本軍が、英語名が米軍が使用した作戦上の地名。 例えば日本軍の 「宮平東側高地」 は米軍は「Ella」と呼称した。 ![]() 5月22日(第32軍喜屋武半島への後退を決心) ![]() 軍は、さきの牧港及び安謝川の戦例などから、与那原方面に侵入した米軍の尖端戦力が強化しないうちに撃滅することが重要であると考え、第24師団及び軍砲兵隊を督励すると共に、特設第3連隊(第32野戦兵器廠)を第24師団長の指揮下に入れた。特設第3連隊は22日津嘉山東方1.5kmの86.6高地付近に進出し、部隊を同高地南北の線(兼城〜86.6〜喜屋武)に配備した。 また軍は特設第4連隊(第32野戦貨物廠)に対し高平付近に進出して南下する米軍を阻止することを命じた。 第96師団主力が運玉森東斜面とその南側の「シュガーヒル」を確保したことにより、米軍は東部海岸を南下するにおいて右側から日本軍の瞰制を受けることなく機動できるようになった。このことで与那原まで南下し、さらに西進できることにより首里の包囲も可能となった。 5月21日1900、米第184連隊は我謝高地に集結を完了した。先遣中隊のG中隊がこの集結地を離れて前進を開始しようとした1時間程前 から降り出した雨は徐々に強くなり、出発の頃には本降りとなった。 5月22日0200、ポンチョを纏った将兵は遠くの砲撃の音を聞きながら、漆黒の闇、しかも雨と泥濘の中を南に向かって歩を進めた。闇の中で日本兵と遭遇したが敢えて射撃をせずに与那原郊外を通過、0415には廃墟となった与那原交差点に到達、ここで小隊を並列として「スプルースヒル」に進出した。進撃は全くの無傷で完遂された。「スプルースヒル」に到達後、G中隊は信号灯を打ち上げF中隊の「チェスナットヒル」進出を誘導した。 ![]() ![]() ![]() 第2大隊に引き続き第3大隊が与那原を通過、第2大隊を超越して「チェスナットヒル」の南側に位置する「ジェニパー」や「バンブー」に進撃して行った。第184連隊が一帯の高地帯を確保したことで第32連隊も海岸平野を通過して西進、首里の背後に回り込むことが可能となった。 第184連隊が南進を図っている頃、第32連隊F中隊は与那原の西側(運玉森稜線の最南端)に進出、本隊進撃路の右側面の防護を命じられた。しかし第32連隊の主力は前進経路の安全性が確認するために23日朝まで進撃を延期した。 ![]() 5月23日 ![]() 与那原から西進を企図する米軍は23日与那覇付近に進出してきたが、所在部隊(歩兵第89連隊、海軍勝田大隊、独立第27大隊)は奮戦して西進を阻止した。 運玉森は接戦をしながらも辛うじて保持していた。 5月23日も雨の中第2大隊と第3大隊の攻撃は続行され、それそれの目標に向かって進撃した。この日の終わりまでに「ジェニパー」のG中隊(2大隊)と「バンブー」のL中隊(3大隊)の間に間隙が生じたものの、第184連隊は海岸部〜「チェスナットヒル」の南斜面〜「ジェニパー」〜「バンブー」という戦線を確立する事が出来た。雨の中の2日間にわたる作戦で与那原南側で防御陣地を構築していた日本軍の陣内に約2kmほどの浸透したことで任務は終了した。これからはこの戦線を拡張し日本軍を首里に包囲するという第32連隊が主役となる。 ![]() ![]() 5月22日、第184連隊が南進を図っている頃、第32連隊F中隊は与那原の西側(運玉森稜線の最南端)に進出、本隊進撃路の右側面の防護を命じられた。しかし第32連隊の主力は前進経路の安全性が確認するために23日朝まで進撃を延期した。5月23日1045、第32連隊第2大隊が与那原を通過して西に向かって進撃した。当初の目標は与那原の西の小さな丘陵地区と那覇〜与那原街道の南側にある「オークヒル」であった。夜までに第2大隊・第3大隊は与那原の南西約1.8km側付近で西に向かって陣地を確保、今後の戦闘態勢を整えた。この付近ではすでに重機関銃が指向されて進撃も困難となり、今後の日本軍の激しい抵抗が予想される状況であった。降り続く雨で運玉森北側に集結した戦車部隊は泥沼に喘ぎ、指揮官達が移動する装甲車も動けなくなっていた。重火器も動けず、ただ歩兵のみが移動できる部隊であった。 ![]() 5月22日〜24日の戦闘図 (日本軍の細部部隊名・陣地は資料がほとんどなく、生存者証言などを元にしている) 5月24日 東岸与那原方面は米軍の攻撃が続けられた。 第24師団長は与那原方面に侵入した米軍を撃退するため、師団作戦主任参謀稲代正治少佐を歩兵第89連隊本部に派遣して戦闘指導を援助させた。同方面は激戦を繰り返し、与那覇南北の線を確保して米軍の進出を阻止したが撃退は出来なかった。 雨乞森南方約800mの大里東方に進出した米軍に対し、船舶工兵第23連隊は再び24日払暁反撃を行ったが成功しなかった。 5月24日、米第7師団の脅威に対して日本軍が兵力を西側に転用したスキをついて第32連隊は部隊の展開を図ろうとした。目指したのは「マウスヒル」から那覇・与那原街道(与那原から西へ約2km)を通り、さらに南西へ向かって「ジューン」、後に戦闘の鍵となる「マーベル」(黄金森87高地)に至る戦線であった。「マーベル」は交通の要衝を制する丘で首里の南3km付近に位置している。、またこの戦線の正面には日本軍の強力な拠点である「オークヒル」があった。この地域は日本軍が首里から撤退するために必要な道路網が存在した。 ![]() 5月25日 東部の与那原方面においては、西進を企図する米軍に対し、所在部隊(海軍勝田大隊、特設第3連隊、第2歩兵隊第3大隊)は勇戦して与那覇付近で阻止した。 雨乞森から南下した米軍は25日与那原の南東2kmの高地付近に進出してきた。 25日軍司令官は、与那原方面の米軍突破口の拡大を阻止しつつ、第62師団主力(戦闘員約3000名)を首里地区に転用し、悪天候泥濘のため米軍の戦車、空軍、艦砲の活動困難、物量補給の不十分に乗じて与那原方面に退却攻勢をとり、米軍に痛撃を加えて与那原以北に撃退し、軍は依然なるべく長く首里戦線を保持することに決定した。 日本軍は与那原の南地区で迫撃砲と砲兵射撃の支援下に逆襲を企てた。 後方部隊が小部隊編成で突撃を敢行したが戦線を分断するだけの力量もなければ突進力もなかった。 24日から25日にかけて与那原正面へ増援されたと思われる日本軍第24師団の部隊が184連隊のに対して逆襲を行い、また25日0230頃から与那原西側に位置する第32連隊主力に対して逆襲を行った。一時戦線を突破されたが、結局は夜明けまでに遺体を残したまま退却していった。 25日には日本軍第62師団が首里から与那原南側地区に展開する第184連隊を包囲する形で大里村付近へ転進してきたが、戦況を変化させるような際だった効果はなかった。 5月26日 ![]() 雨乞森南方地区の米軍は逐次南方に浸透しており、この方面の重砲兵第7連隊及び船舶工兵第23連隊は幹部の死傷が多く戦力は低下し、特設第4連隊の協力を得て米軍の南下阻止に努めた。 5月25日から26日にかけて日本軍第62師団の首里撤退が開始され、一部の部隊が第184連隊正面の戦闘に加入するために転用されてきた。だがこれらの部隊が大里村付近に進出してきても戦局は大きく変化することはなかった。26日には「ヘムロック」「ローカストヒル」付近には敵影はなく、第184連隊はさしたる抵抗も受けずに嘉良原近郊(知念半島の付け根)にまで南進することが出来た。敵中に深く侵入した偵察部隊からも敵はほとんど存在しない旨の報告が上がってきた。日本軍はこの東部戦線からすでに後退し、残って戦闘を行っている部隊も退却掩護のための戦闘であることが判明してきた。 この期間の中で最も激しい戦闘は喜屋武の東側、「ダック」と「マーベルヒル」で行われた。5月26日第32連隊は日本軍の抵抗を排除しようとしたが、「ダック」において日本軍と遭遇し多くの死傷者を生じて退却するという激しい戦闘に陥った。この戦闘は激烈で、戦線を突破してきた5名の日本兵が最前線で治療中のI中隊唯一の医官に襲いかかった。彼は拳銃でこの5名を射殺し負傷兵が後送されるまでその場に留まった。「ダック」から撤退する際には遺体を後送することすら出来なかった。 ![]() ![]() ![]() 5月27日 与那原方面においては米軍の攻撃もゆるやかで戦線に変化はなかった。 27日は何の進展もなかった。 5月28日 東正面においては運玉森の一角を保持し、宮城・与那覇西側の線、及び与那覇南西方の宮平、87高地、仲間の線を確保して米軍の西進を阻止した。 雨乞森南方においては、米軍が船舶工兵第23連隊、重砲兵第7連隊を圧迫して逐次南下していた、 28日は偵察を行った以外に格段の戦闘はなかった。 5月29日 東方の与那覇及びその南西方地区は米軍の猛攻を受けたが、宮平北側高地〜87高地〜仲間の線を確保した。29日第24師団に配属された船舶工兵第26大隊は宮城付近に進出して勇戦敢闘し米軍に一歩も譲らない戦闘を行った。 雨乞森の高地沿いに南下した米軍は29日真境名付近に進出してきた。 5月29日夜、第24師団主力は撤退を開始した。 29日夜は特別の混乱もなく、概ね計画通りに撤退した。 歩兵第89連隊は第3大隊(船舶工兵第26大隊配属)を宮平北側高地に残置し、主力は29日夜陣地を撤退し、東風平を経て31日与座付近に集結した。 ![]() ![]() ![]() 5月30日 5月30日、雨の中で米軍は全戦線にわたって活発な攻撃をして来た。 東方の与那覇方面の米軍は西方向に向かって猛攻して来た。 夕刻には宮平東側高地は米軍に占領され、我が部隊は宮平北側高地(82高地)〜黄金森87高地〜仲間の線を保持して米軍の進出を阻止した。 西進を企図した第32連隊にとって戦闘が最も進展を見たのは5月30日と31日のことであり、この時は3個大隊が連携を取って攻撃を行った。5月30日には第32連隊は「オークヒル」や「エラ」、そして「ジューン」を確保した。この進展によって連隊は喜屋武地区の「マーベルヒル」や「へティ」に対して攻撃を仕掛ける態勢を執ることが出来た。 第184連隊の偵察部隊が30日に敵の抵抗を受けることなく知念半島奥深くまで侵入した。このことにより日本軍は知念半島を主戦場とする企図がないことが明らかとなった。 ![]() 5月31日 5月31日津嘉山東方地区は引き続き猛攻を受け、兼城北側高地、黄金森87高地は米軍に占領された。 軍情報所長薬丸参謀は歩兵第32連隊長にその本部を第64旅団司令部洞窟に位置することを要請し、津嘉山周辺の防御において歩兵第64旅団と歩兵第32連隊の連携を密にすることを図った。 第24師団の第一線残置部隊は、31日各方面から浸透した米軍の包囲を受け苦戦したが、31日夜米軍の間隙を縫って撤退した。 5月31日、第32連隊は「ダック」と「マーベルヒル」北側の「ターキーヒル」を占領、「マーベルヒル」の一部に取り付いた。日本軍は依然として「マーベルヒル」の反対斜面や喜屋武集落を確保していた。日本軍の攻撃は目に見えて低下してきたが、彼らはその場に留まって死守しようとしていた。まさに退却掩護を請け負った部隊としての戦闘であった。 ![]() ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 変わりゆく沖縄の戦場 ![]() ![]() |
海軍勝田大隊は5月13日に歩兵第89連隊に配属されたが、海軍の記録では5月28日までの与那原西側の戦闘において、総員約600名のうち約480名を失った。 この後、小禄〜大里へと転戦してほぼ全滅したと思われる。 船舶工兵連隊は大発動機艇(一般的に大発と呼ばれる)という上陸用舟艇を所有して海上輸送を担当する部隊であり、後に登場する船舶工兵大隊は海上挺進基地大隊(海上特攻の支援部隊)を改編して歩兵大隊とした部隊であった。いずれも陸上戦闘の訓練も装備も不足した部隊で、これらを第一線部隊として使用せざるを得なかったことは、沖縄第32軍の窮状を物語っている。 与那原正面に正規の歩兵部隊等を配置できなかった沖縄第32軍の作戦指導に問題があると思われるが、実際は手持ちの予備部隊もない状況であり、この時点で東部戦線の崩壊が決定づけられたと言っても過言ではない。 スプルースとは松科の樹木のことであり、台上に木々があったと思われる。 独立第27大隊は、与那原に駐屯した海上挺進基地第27大隊を歩兵大隊へ改編したものである。おそらく与那原駐屯のまま戦闘に加入したものと思われる。 写真にもあるとおり、184連隊が与那原南側を固めることで、黄金森方向に対する砲兵射撃のための観測点を獲得している。 これ以降は砲兵射撃の精度が高まったと思われる。 与那覇の戦闘は、日本軍側の記録にはほとんど残されていないが、生き残りの混成部隊による防御戦闘であった。長く戦闘を継続出来たのは、運玉森や宮平東側高地(Ella)や宮平北側高地(82高地)からの支援射撃があったからであろう。 この地図からも与那覇がいかに長く防御戦闘を継続したかがわかる。 日本軍主力が首里から島尻南部へ撤退できたのは、この与那覇の戦闘において早期に米軍の進出を許さなかったことによる部分が大きい。 第62師団主力と言いつつも、各部隊の戦力は極端に低下しており、連隊や大隊といえども実戦力は1個中隊程度であり、「退却攻勢」などは机上の空論であった。 第62師団に配属中の沖縄第32軍司令部薬丸参謀は、「勇猛を誇った第62師団も精鋭のほとんどが倒れ、各級の幹部以下は疲労の極に達し、軍の希望するような退却攻勢は絶望である」 との報告をしている。 米軍は与那覇の戦闘で膠着状態となっていた。そこで戦線の南側から一気に黄金森攻略に着手したわけだが、ここでも手痛い敗北を喫して再度30日まで膠着状態に陥った。 「ダック」については生存者の手記による戦闘の細部についての記述が残されている。 渡辺山の戦闘 陸上勤務第72中隊第1小隊は本来後方支援部隊であったが、ついに第一線部隊として最前線に配置された。 小隊長渡辺中尉以下は奮戦して米軍に大きな損害を与えている。「渡辺山」の名称は、戦闘後に小隊長を称えて残された部下達が名付けたものである。 船舶工兵大隊など本来の後方支援部隊の奮戦によってこの東部戦線は維持されたと言っても過言ではないだろう。 歩兵第89連隊第3大隊は残置部隊として宮平北側高地(82高地)で防御戦闘を担任した。 ただし、撤退した第1大隊・第2大隊も大名東側の陣地にそれぞれ将校を長とする1個小隊程度を残置して撤退掩護に当たらせた。 目的達成後本隊に合流する予定であったが、ほとんどが戦死玉砕している。 陸軍病院南風原壕は25日頃から患者の後送を開始している。しかしながらすでに米軍の艦砲射撃や砲兵射撃下にあり、その行動は苦渋を極めた。 重篤の患者には手榴弾や青酸を渡すなど、現在に伝えられる悲劇的な惨状となった。 もはや東部戦線は風前の灯火であった。 30日には黄金森87高地の西側津嘉山地区に歩兵第32連隊が到着して「収容陣地」を構築開始、かろうじて首里からの撤退経路を確保出来る見込みが出来た。 宮平北側高地(82高地)が一帯を瞰制していることがわかる。 この高地を歩兵第89連隊第3大隊が保持したことで、かろうじて5月31日まで東部戦線が維持できた。 5月31日についに東部戦線の戦闘は終了した。 以降は津嘉山収容陣地の戦闘となる。 結果として、東部戦線(与那原方面の戦闘)は日本軍主力の撤退に大きく寄与することが出来た。 与那原から黄金森87高地までの距離は直線にして3km弱。 この距離を後方支援部隊を投入して約10日間防御し得たことは、米軍との戦力差を考慮すると驚嘆に値するのである。 |