与座地区の戦闘                                                                                          2012年作成
与座地区の戦闘

1 戦闘までの概要 

 首里からの撤退後、沖縄第32軍は国吉(糸満)〜与座〜八重瀬岳〜具志頭を最後の主陣地線としての防御戦闘を準備した。
  主陣地線の西半分を担任する第24師団が防御陣地の核心としたのが与座岳であり、東半分を担任する独立混成第44旅団の防御核心であった八重瀬岳とともに、日本軍最後の重要拠点としての双璧を担うこととなった。
 その与座岳への米軍の接近を阻むのが、与座岳の北西側に位置する与座集落周辺一帯で、この場所は沖縄戦開戦以前に第24師団司令部が強固な地下陣地を構築した場所であり、これを一部利用して、与座岳への米軍の接近を許さない布陣で戦闘の開始を待つこととなった。



2 部隊編成(与座岳一帯)

(1)  歩兵第89連隊
    隊長 金山 均大佐以下総員2876名(編成上)
         歩兵第89連隊は5月4日の日本軍攻勢移転、
   その後の「運玉森の戦闘」で大半の将兵を失っ
   ており、島尻への撤退時の正確な人数は不明で
   ある。
 ア 第1大隊
   大隊長 田中大尉(前第24師団勤務)
    開戦時の大隊長丸地大尉は5月4日戦死    
 イ 第2大隊
   大隊長 深見 八千代大尉
   開戦時からの大隊長
 ウ 第3大隊
   大隊長 佐藤大尉(前第89連隊副官)
    開戦時の大隊長和田大尉は5月4日戦死

  第5中隊(編成数179名)が島尻への撤退時に24   名であったことから、各部隊とも生存率は約15%程
 度であったと推察できる。 また第1機関銃中隊の資
 料から戦闘可能な人員は約40%であったことから、
 連隊としては、生存は約400名、戦闘可能人員は約
 160人程度と推定する。

(2)  工兵第24連隊
   隊長 兒玉 昶光(こだま のぶてる)大佐 以下761名(編成上)
 ア  開戦時には防衛召集が250名加わり、合計1000名の部隊編成であったが、重なる戦闘で消耗し、首里撤退時は大幅減となっていた。    イ  開戦時に3個中隊はそれぞれ歩兵連隊(歩兵第22連隊・32連隊・89連隊へ配属された。 その後、6月3日の第24師団命令から、「工兵第
   24連隊」 として大里地区に配置されている。

(3) 捜索第24連隊
  隊長 才田 勇太郎少佐 以下449名(編成上)
 ア 5月21日から首里弁ヶ岳で戦闘を行い、最終的には馬乗り攻撃を受ける等、大きな損害を被った上で首里を撤退している。
 イ 首里撤退後に布陣した66高地(宇江城南側)、96高地(宇江城東)は、開戦以前から捜索第24連隊が陣地を構築した場所であった。
 


3 日米両軍双方の境界線
  

 元来、作戦境地(境界線)付近は攻撃側・防御側双方にとって弱点となりうる地域であり、与座地区の戦闘においては、この負のセオリーが双方に顕著に表れた。

(1) 日本軍側
 ア 重要防御地点である八重瀬岳と与座岳の間に
  第24師団と独立混成第44旅団の境界線を設定
 イ このため本来相互支援により防御すべき要衝
  が、それぞれ単独の孤立した戦闘となった。
 ウ 歩兵第89連隊右側には連携がとれた部隊がな
  く 、万一右側の独立混成第44旅団が突破され
  た場合に は、第24師団は右側背から崩壊する

(2) 米軍側
 ア 第1海兵師団の攻撃前進を側面から妨害する大
  里地区が、陸軍側の作戦境地内に含まれている
 イ このため、第1海兵師団の左翼は常に大里地区
  (工兵第24連隊)から射撃を受けて攻撃進展が遅
  れ、さらに与座の歩兵第89連隊第2大隊の左側
  背を強固に防御させる結果となった。
 







与座地区の戦闘 (米軍側の記述は全て「米海兵隊公刊戦史」による)



6月8日
第24師団正面においては、米軍が照屋北側、座波南方、世名城に進出し、わが前方警戒部隊と接触するに至った。一般的には米軍は攻撃準備中と看取された。

6月9日
糸満・照屋の前方部隊の陣地は9日米軍の攻撃を受けたが、これを撃退して陣地を保持した。



           



  




6月10日

米軍の行動が活発となり、米軍は10日夕に国吉北側、大里北側、与座西側、世名城の線に進出し、わが主陣地と戦闘を交えるに至った。

 第1海兵連隊の左翼大隊も激しい戦闘を行った。6月10日朝、陸軍部隊は第1海兵連隊第1大隊の横に並列となったので、0915第1大隊が与座集落の真西の与座西側高地に対して攻撃を開始した。 当初敵の反撃は不活発であったため攻撃は順調に行われた。先頭のC中隊は高地の西の先端部に登り、そこから尾根に進出した。しかしその後の代償は大きかった。中隊175名のうち約70名が攻撃中に死傷した。
 与座西側高地の占領は要塞化された与座岳に至る道筋をつけ第96師団(陸軍)の前進を円滑にした。 ただC中隊の東側は無防備であった。 そこで第1海兵連隊第1大隊長はC中隊の東側(与座集落)にB中隊を投入し、第96師団(第383連隊第2大隊)と会合するよう命じた。 しかしながら、与座岳地区からの激しい砲迫射撃で身動きできず、午後になってもB中隊はやっと与座西側高地でC中隊の右に進出しただけであった。 C中隊は全将校を失い夜間は先任下士官が指揮をとった。予備のA中隊は開放翼(左翼)後方に占位した。 与座西側高地占領後も戦闘が行われ、2個中隊はその日合計で120人の死傷者を出した。

一方、第381連隊と第383連隊は八重瀬岳と与座岳の高台を激しく攻撃した。
第383連隊は6月10日に与座集落に向かい翌11日に到達した。この集落に達するまでに石垣ひとつひとつを潰さねばならない激しい戦闘を交え、加えて集落南側の与座岳からは常に射撃を受けた。10日夕刻には敵の射撃が激しさを増し、撤退せねばならないほどであった。

  

  



【与座西側高地の戦闘詳細】

    
                   与座及び与座西側高地の昭和23年米軍制作地図と平成22年作成地図

  

     
                 与座集落西端から与座西側高地を見る 同じ撮影位置であり、当時の攻撃の様相がよくわかる




6月11日
第24師団正面においては主陣地の各方面は米軍の本格的攻撃を受け、一部の米軍が与座集落付近に進出し、また戦車3両を伴う米軍が照屋の前進陣地を制圧して照屋南側に進出して来た。

与座岳からの機関銃射撃により時間を追う毎に死傷者が増大、6月11日0400頃C中隊は日本軍の逆襲を撃退した際にさらに20人の死傷者を出した。この日から3日間第1大隊は与座岳の敵戦力減殺を待つために与座高地に留まることとなった。第1海兵連隊第1大隊はこの高地を保持すること自体に困難はなかったが、隣接部隊がこの突角(与座岳)に進撃するまでの2日間常に敵からの射撃を受けた。





  

  



6月12日

 第24師団正面の米軍は本格的攻撃を開始して激戦が展開された。一部の米軍は国吉台地北西の一角に取り付いた。軍は、数日来右翼混成旅団正面のみが激闘を続け、第24師団方面の戦況がゆるやかであるので、同師団が正面の米軍と戦闘しないうちに、右翼を突破した米軍から背面攻撃を受けて潰滅することを憂慮し、右翼方面の強化に努めた。いま第24師団が正面から米軍の本格的攻撃を受けるに及んで、軍首脳部は重荷をおろした感を持った。 
 
【独立混成第44旅団正面】
 沖縄第32軍に対し第24師団及び軍報兵隊から、八重瀬岳の米軍を撃退して同地付近を確保すべき要求がしきりに届いた。 独立混成第44旅団司令部からは「八重瀬岳方面に将校斥候を派遣して偵察させたが敵影を見ない。122高地東側から米軍が突破侵入する気配はあるが、既に旅団は配兵しているし、更に独立臼砲第1連隊を配備しているからご安心願いたい」との報告があるなど、軍司令部は一時判断に苦しんだ。

  



6月13日

 第24師団正面においては、昨日に引き続き強力な米軍の攻撃を受けた。与座岳及びその西方の大里付近では終日激戦が展開され、歩兵第89連隊及び工兵第24連隊などは善戦して米軍に多大の損害を与えたが、大里付近には一部の米軍が進出して来た。

 
【独立混成第44旅団正面】
 右翼独立混成第44旅団正面は、13日依然激戦が続き、右翼戦線は危機を告げた。 旅団は第一線に兵力を増加して陣地の保持に努めたが、対戦車火器がなく、米軍戦車の傍若無人の活動を許し、わが損害は刻々と増加し、戦線は危機に陥った。






6月14日

 第24師団正面は14日終日激戦が続き、与座岳及び大里付近は米軍の猛攻を受けたが善戦して与座岳及びその西方高地を確保した。第24師団から軍司令部に対し、八重瀬岳の崩壊防止の請求が急であり、「米軍は八重瀬岳に侵入しつつある。混成旅団は何故これを放置しているのか。師団の右側背が危険であるので、作戦地境外であるが捜索第24連隊で撃攘させる。万一を考慮し右翼の歩兵第89連隊の陣地を与座岳を中心として南方158高地にさげて鉤型とする準備をした。独立歩兵第15大隊には師団の捜索連隊と策応して進撃するよう連絡したが、進出が遅れている」と第24師団参謀長から厳しい電話があった。



  



6月15日
八重瀬岳と与座岳の中間地区に陣地を占領していた歩兵第89連隊の右第一線第1大隊は、八重瀬岳の陥落も影響し遂に15日戦車を伴う米軍に突破されるに至った。第24師団は巧妙な砲兵の運用と果敢な斬込みによって連日米軍に多大の損害を与え、12日〜13日ころまでは、むしろ米軍を圧するの観があって軍の中堅兵団の実力を示したが、衆寡敵せず、今やいかんともし難くなった。第24師団長は歩兵第89連隊方面の状況が急迫したため、歩兵第32連隊に配属中の歩兵第22連隊第3大隊の1個中隊を与座岳に増強し歩兵第89連隊の指揮下に入れた。

与座岳は周囲より約100m高く、あたりの要塞化された防御陣地の核心であり、敵の火力発揮の中心点でもあった。与座岳の占領は第96師団第383連隊の任務であった。与座岳は西に向かって稜線が伸びて国吉高地となり、約1.8kmの隆起珊瑚礁による障壁となって第1海兵師団の前に横たわっていた。与座岳頂上への進攻は広範囲敷設された地雷原によって制限された。
 12日からの3日間で第383連隊は与座集落から敵を駆逐したが、毎回集落に侵入すると兵士に向かってその奥の峰から機関銃弾が撃ち込まれ、その度に攻撃開始位置まで後退せざるを得なかった。そして後退すると夜間に日本軍が再度占領するという繰り返しであった。
 実質上の前進は第383連隊の中央にいた大隊と交代した第382連隊第2大隊が、与座岳の北側斜面を確保した15日に開始された。第383連隊の残りの大隊は35日間連続の戦闘における疲労のため翌16日に予備となり、爾後は第382連隊に与座岳攻略の任が与えられた。


  




6月16日
 与座岳及び大里付近は歩兵第89連隊及び工兵第24連隊などの健闘もむなしく、16日夕遂に米軍に占領され、同連隊は反対斜面でなお奮闘を続けた。16日夜、捜索第24連隊は、157高地付近を占領すると共に、八重瀬岳方面に斬込隊を派遣した。












6月17日
与座岳及び大里付近のわが残存部隊は頑強な抵抗を続けたが、兵員は逐次死傷し、米軍は新垣北方高地、真栄平東方高地に進出して来た。

【捜索第24連隊史実資料より】
 157高地に第2中隊○○機関銃隊及び第1中隊の1個小隊を陣地配備。 同日午前9時、重軽戦車16両を基幹とする敵の攻撃を受け激戦、我が方の損害大、直ちに連隊主力を現地に急行、高地一帯に吹きまくる火焔放射と近代兵器に連隊は全滅に瀕す。同夜11時脱出。連隊長以下重軽傷者合わせて二十数名。

6月17日夕刻までに、米軍は153高地(日本軍呼称158高地)、115高地(日本軍呼称109高地)を結ぶ戦線を維持し、日本軍の支配下にある南部地域全域を見下ろすことが出来た。 日本軍は153高地に対して逆襲を試みたが、翌18日の早朝には隆起珊瑚礁の尖峰のあちらこちらに日本軍将兵の遺体が散乱していた。



 



ただし、第24師団司令部の壕はあくまでも本島南部に米軍が上陸した想定でのものであり、北から接近する米軍に対しては壕は十分な効力を発揮することは出来なかったと思われる。しかしながら、短い防御戦闘準備の中では非常に重宝したものと思われる。







同規模の歩兵第32連隊は、首里撤退後の人員は約900名で、編成上の人員数2876名の3分の1まで低下している。さらに、戦闘可能人員数はその数の約30%であった。 おそらく歩兵第89連隊も同様の状況であったと思われる。




















捜索第24連隊長才田少佐の宿舎は真栄平集落内に当時のまま現存している。











特に日本軍側は通信網がほぼ途絶しており、境界地付近では隣接した部隊の位置や部隊名さえ不明の場合が多く、この負のセオリーを更に増長させる結果となった



大里が海兵隊境地内であれば、海兵隊は大里を確保した後に工兵第24連隊を牽制しつつ、歩兵第32連隊方向に進撃が可能であったと思われる。













与座岳正面の米軍は、日本軍の小禄海軍部隊の殲滅に時間を要したために八重瀬岳・具志頭に比べて進出が遅れた。 6月8日・9日は八重瀬岳・具志頭正面ではすでに日本軍主陣地帯に接して激しい戦闘が行われている。





































与座岳頂上付近には日本軍部隊が配置されていたが、現在では正確な部隊名が掴めない。 しかしながら、地域全般を瞰制出来ることから、軍砲兵観測班や迫撃砲部隊等が配置されていたと考えられる。



























軍砲兵は島尻地区への撤退時においても15糎加農砲2門、15糎榴弾砲16門、高射砲約10門を保有していた。 沖縄第32軍司令部は島尻地区の戦闘は北西地区(与座岳地区)から開始されると考えていたが、小禄海軍部隊の健闘により、予期に反して東部(独立混成第44旅団)から開始された。 このため砲兵火力は与座岳方面から東部戦線に指向され、与座岳方面は主として迫撃砲による火力支援とならざるを得なかった。










昭和23年米軍地図には与座集落に「家屋」の表示がなく、戦闘において与座集落は壊滅状態になったと考えられる。









現在では植生の生い茂る与座西側高地は当時は米軍の砲撃により岩盤むき出しの台地であった。
 米軍は当初低い位置から接近して与座西側高地稜線を前進したが、頂上部に近づくにつれ与座岳から完全に観測され、徹底した集中砲火を浴びる結果となった。




























第1海兵連隊第1大隊C中隊に逆襲を行った部隊は、歩兵第89連隊第2大隊であった。 歩兵第89連隊第2大隊は、沖縄戦開戦以前の第24師団司令部壕の一部を利用したため、米軍火力に対し抗反性を有していた。 他の日本軍部隊は陣地と言えども、ほとんどは自然洞窟を利用したもので、戦闘に適した環境にはなかった。










写真は歩兵第89連隊第2大隊の逆襲地点でもある。





























6月12日は、東部の独立混成第44旅団主陣地に米軍が浸透し、八重瀬岳方面つまり第24師団右翼に崩壊の足音が聞こえ始めている。
 八重瀬岳の危機は担任する独立混成第44旅団から沖縄第32軍司令部には伝えられず、八重瀬岳で観測業務に当たっていた軍砲兵から沖縄第32軍司令部に米軍侵入の情報が伝えられた。







歩兵第89連隊第1大隊は、重要拠点である与座岳と八重瀬岳の中間部(唯一戦車が機動できる)を担当する重要な位置にあった。 ここを米軍に突破されると両拠点が背後から攻撃されることになり、一気に勝敗が決することになる。 









「大里付近に一部の米軍が進出」との日本軍側の記述があるが、米軍側には大里付近に進出した記録がない。 おそらくは後日の攻撃前進資するための偵察部隊による威力偵察であったと思われる。













八重瀬岳に日本軍部隊崩壊により、第24師団は独立混成第44旅団との連携した防御戦闘を捨てざるを得なくなった。 このため歩兵第89連隊第1大隊を後退させ、自らの右翼戦線防御に移行した。

独立歩兵第15大隊が進出命令を受領したのは喜屋武地区(与座岳の南西約4.5km)であったが、暗夜下における米軍の絶え間ない交通妨害射撃で道路網も寸断され、加えて大隊長が病身のため担架で移動する等、迅速な対応には応じることの出来ない状況であった。 結局は命令された地点までは前進することは出来ずに部隊は壊滅することとなった。















歩兵第89連隊第2大隊左翼戦線が崩壊に瀕し、大里地区を強固に守り続けた工兵第24連隊が第一線陣地を放棄して、第二線陣地まで後退した。 第24師団は与座岳周辺の第一線を収縮して対応したが、もはや劣勢を跳ね返す戦力を失っていた。