前田高地の戦闘                                                                   2010年作成

前田高地の戦闘


1 前田高地地区の概要

 4月19日に日本軍第一線主陣地線(牧港〜嘉数〜西原〜南上原)に対する米軍の総攻撃が開始された。この攻撃に日本軍は頑強に抵抗したものの、4月24日には第二線主陣地線への後退を余儀なくされた。
 この前田高地は、その日本軍第二線主陣地帯の核心にあたる地区で、首里地区防衛に関して特に重要な地位を占めていた。 また米軍にとっても、眼前にそびえる絶壁の前田高地を奪取することが、首里攻略そして日本本土への進攻の第一歩として位置づけられ、日米両軍にとって沖縄戦の成否をかけた一戦となった。
 そのような重要な戦場ではあったが、日本軍にはこの前田高地を守備する新鋭の部隊はなく、嘉数高地や西原高地そして南上原地区で激しい戦闘を繰り返した第一戦部隊(第62師団)が後退して前田高地の守備に就いたのであった。
 だが米軍の前田集落への進出が予想以上に早く、慌てた沖縄第32軍は新戦力である第24師団歩兵第32連隊を前田奪還のために急遽投入した。 しかし米軍の進出状況等に関する情報収集が出来ないままに夜間攻撃を行い、貴重な新戦力を一気に壊滅させる結果となった。

更にこの戦闘を厳しくしたのは、前田高地はそもそも司令部や後方兵站部隊の配置された地区であったことから、戦闘を前提とした防御陣地としての機能を全く有していなかったことであった。 守備に就いた各部隊は、それまでの戦闘で大きな損害を受けたうえに、戦闘機能を有しない陣地において、強大な機動力を誇る米軍との戦いを強いられることとなった。

 前田高地は、前田集落の北側に広がる高地で、その北斜面は戦車の機動不可能な絶壁であり、歩兵部隊でさえ縄ばしごを掛けて登坂せねばならない最大の地形障害であった。 その断崖の東部には石柱のような「為朝岩」(米軍名ニードルロック)がそびえ立ち、その東約200mには130m閉鎖曲線高地(同Hill 150)、さらにその南東250mには135高地(同 Hill152)が連なっていた。 いづれも戦車の機動を阻む地形であったが、唯一130m閉鎖曲線高地と135高地の間のみが、戦車の機動可能な傾斜であった。


               
                       前田高地地区における作戦上の高地等名称


      
                      前田集落付近の変遷(左昭和初期・右平成19年)
 
   ● 「前田集落」は戦時には丘陵に囲まれた小さな集落であったことがわかる。
   ● 130m閉鎖曲線高地は、北斜面が一部残されているだけで大半が削り取られた。 当時の頂上部は現在「浦添市消防署」となっている。
   ● 135高地は造成されて「国家公務員宿舎前田住宅」(アパート群)となっている。
   ● 「浦添国民学校」の校舎(「Barracks」または「Apartment House」)のあった場所は、現在では「浦添小学校」のグランドとなっている。
                     
                  米軍が撮影した戦闘直後の浦添国民学校 前田集落を一望する丘陵であることがわかる

2 日本軍の編成
  (1) 第62師団 
  ●
独立歩兵第11大隊 (総員1233名)  大隊長 : 三浦 四出四郎中佐
     4月6日から24日まで、南上原・和宇慶地区において戦闘後、前田北東高地に後退。 実戦力は50%以下。   
    独立歩兵第12大隊 (総員同上)
        4月1日から4日まで遅滞戦闘を実施。その後南上原地区及び棚原地区において戦闘後、前田高地に後退。 実戦力40%程度。
 
   独立歩兵第14大隊 (総員同上) 
      
 4月6日から24日まで我如古・西原地区において戦闘、独立歩兵第12大隊に配属中。 実戦力20%程度。    
 (2) 第24師団
  ●
歩兵第32連隊(総員2876名) 連隊長 : 北郷格郎大佐
     4月24日に連隊主力は本島南部から首里南東側地区へ進出。27日に第2大隊、28日に第3大隊が前田高地の米軍を攻撃。

        ※ 前田高地の守備に就いた第62師団各部隊に対して、第24師団歩兵第32連隊が増援されたという構図である。




3 米軍の編成
 米陸軍は4月29日から30日にかけて当初の第96師団から第77師団へ部隊交代をおこなっている。
 (1) 第96師団 
  ● 第381連隊及び第383連隊
     4月24日から前田高地攻撃に従事したが、第381連隊は29日朝、第383連隊は30日朝にそれぞれ部隊交代を行った。
    特に第381連隊は上陸以来戦闘を継続し、交代時には実戦力は40%まで低下していた。

 (2) 第77師団
  ● 第307連隊及び第306連隊
    第307連隊は29日朝に第381連隊と、第306連隊は30日朝に第383連隊と交代している。





4月25日
 
仲間、前田の高地に対し、25日米軍は猛砲撃を加え、飛行機によるナパーム攻撃を行った。全般に米軍は次の攻撃準備中と観察された。

 
第96師団は第383連隊を左側(幸地地区から150高地)、第381連隊を右側(前田断崖の正面)に配置した。25日は第96師団が一日かけて最大の難所である断崖の前面を偵察し、敵の配備状況などを探ろうとした。この間にも砲兵部隊は第381連隊担任地区に対して1616発の砲弾を撃ち込み、空からはナパーム弾を投下して断崖周辺を焼き払った。






     

     



4月26日

 
4月26日0600頃から米軍は猛烈な砲撃を仲間、前田、幸地の地区に集中し、1000頃から全正面にわたって攻撃を開始して来た。仲間、前田の高地帯においては接戦激闘となり、頂上付近の争奪が繰り返された。正午前後から前田東方幸地の陣地(独立歩兵第11大隊基幹)は戦車を伴う米軍に突破され、米軍の戦車及び火焔戦車は前田集落東端付近に侵入し、前田高地のわが陣地を背後から攻撃する状況となった。また、仲間集落南端付近にも一部の米軍が侵入した。
 この戦況を憂慮した軍司令官は26日1600第62師団長に対し「戦車を伴う敵は1300以降前田の南方及び東方地区に侵入しつつあり。第62師団長は諸隊を急派し前田に侵入中の敵を攻撃し徹底的に撃じょうすべき」旨を命令し、また同時に軍司令官は第24師団長に対し「第24師団長はその作戦境地にかかわらず第62師団の戦闘に協力すべき」旨を命令した。
 軍司令官は前田付近に侵入した米軍を撃滅するため、26日夕第24師団長に対し「軍は前田付近を突破せる敵を粉砕せんとす。第24師団は今夕首里北東方地区に主力を集結すべし」との旨を命令した。
 第24師団長は軍命令に基づき26日夜、歩兵第32連隊長に対し「1個大隊を前田高地に派遣して同高地を占領確保し、連隊主力は首里北側地区へ進出すべき」ことを命じた。


 
4月26日前田高地への攻撃準備が整った。歩兵部隊は殆ど無傷で攻撃前進したが、第381連隊G中隊は断崖をよじ登った直後に攻撃を受けて瞬時に18名の死傷者が出た。前田高地の日本軍は完璧な反斜面陣地を構築していた。このため前田高地の前面(北斜面)を占領するのは容易であったが、断崖の頂上部やその奥の反斜面(南斜面)に歩を進めることは困難を極めた。
 第381連隊F中隊はニードルロック付近を攻撃したが、断崖をよじ登るためには梯子を使用したが、最初の3人が稜線上に到達すると同時に機関銃射撃を受けて戦死した。夕闇が迫る頃にはE中隊が150高地の南側の小さな丘の確保を目指したが、その場所に到達するや数十挺の機関銃から一斉射撃を受けて、2名戦死、6名が負傷した。このため約400発の煙幕弾を撃ち込み、その煙下に中隊は撤退を行った。
 東側の第383連隊地区の攻撃は比較的順調に進み、連隊主力は150高地や152高地稜線付近まで進出し、眼下に日本軍兵士を見下ろすことが出来た。一部の戦車と火焔戦車が前田集落の東端まで進出し、壕に潜む日本兵が火焔から逃れて脱出するところを射殺した。150高地と152高地及びその反対斜面への進出は日本軍首脳陣に衝撃を与えたが、これ以降ほとんど前進することが出来なくなった。
    

    




4月27日

 
4月27日米軍は早朝から引き続き全正面に攻撃して来て各所に激戦が展開された。
 前田高地頂上付近は昨日と同じように彼我争奪の死闘が続けられ、戦車を伴う有力な米軍は前田北東高地から前田集落に侵入して同集落付近を占領し、前田高地を背後から攻撃した。前田高地付近の我が部隊は苦戦しながらも頂上及び南斜面を確保した。
 第24師団長は27日歩兵第32連隊長に前田高地への進出を命じると共に、歩兵第22連隊長に対し、歩兵第32連隊に連携して前田東方高地の占領を命じた。歩兵第22連隊長は同連隊の左第一線の第2大隊に前田東方高地の占領を命じた。




 
前田高地の稜線が南西に向きを変える地点、つまり150高地と152高地付近では第381連隊第1大隊と第383連隊の主力が攻撃を担任、第763戦車大隊と第713大隊の火焔戦車の支援下に150高地と152高地の間をそれぞれの歩兵部隊が進撃して行った。しかしこの歩兵と戦車の連携攻撃も数時間後には大損害を受けることになった。戦車と火焔戦車は地下壕に籠もる日本兵を焼き出してその防御陣地を切り刻み、ついには前田集落の南端部まで進出した。しかしここで歩兵は敵火により身動きが出来なくなった。断崖の頂上部からは全火力を日本軍陣地に指向するものの、F中隊とG中隊を分断している地下陣地を攻略出来ず、この試みは失敗した。多くの日本兵を断崖の南東部で殲滅したものの、結局この日は150高地と152高地から前田集落までの僅かな距離を前進したのみで、他は殆ど前進出来なかった。
    


【歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)の夜間攻撃】

 歩兵第32連隊第2大隊長志村常雄大尉は27日1000頃前田高地を占領すべき連隊命令を弁ヶ岳付近において受領した。志村大隊長は敵情不明のため、将校斥候4組を準備して逐次派遣し、大隊主力は27日夕刻弁ヶ岳付近を出発した。この際、独立速射砲小隊とは連絡がとれず、残置することとした。
 志村大隊は首里北端から宜野湾街道沿いに北東進し前田部落南側地区に到着したが、先遣した将校斥候とは全然連絡がとれなかった。志村大隊長は現地に於いて敵情地形を観察したが、夜間のため確認することは出来なかった。大隊長は右第一線第7中隊、左第一線第6中隊、大隊予備第5中隊の部署をもって、2400頃前田南側稜線に向かって攻撃を開始するや、たちまち猛烈な米軍の迫撃砲の集中射撃を受け、第7中隊長太田昌次中尉戦死し、第一線中隊の死傷続出し混乱した。志村大隊長は両第一線に攻撃中止を命じ、所在の壕などを利用しての陣地占領を命じた。
歩兵第32連隊長は、27日夜第3大隊を率いて首里北側の大名東側(平良)付近に進出し、前田攻撃の準備をしたが、志村大隊との連絡は途絶していた。

    
※ 一部の記録では、「第7中隊は為朝岩に突撃したところ、夜間のため誤ってひとつ手前の稜線に突撃を行い、米軍の集中射撃を受けた」とされて いるが、実際は米381連隊第1大隊が既に前田集落に進出して防御態勢にあるという情報を入手出来ないままに攻撃を仕掛け、いきなり防御態勢 にある米軍部隊の正面に飛び込んだのである。

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4月28日

【4月28日昼間】
 
4月28日米軍は早朝から全線に猛爆撃を加えて攻撃してきた。
 27日歩兵第22連隊長は前田東側高地の奪回の師団命令を受領し、連隊の左第一線の第2大隊に同高地の奪回を命じたが、同大隊正面は28日米軍の強力な攻撃を受けたため前田東側高地の奪回攻撃は実施できなかった。
 前田高地及び前田集落地区においては終日近接戦闘が行われ、我が方は多大の損害を生じながらも前田高地を保持した。 首里−宜野湾道の東側に沿う地区に戦車8両を伴う有力な米軍が侵入してきたが、第62師団輜重隊及び所在部隊が奮戦して撃退した。


      

  第381連隊K中隊はこの日敵の抵抗を弱体化させるべく、西側の第27師団地域下にある仲間集落南東の「アパートメントハウス」への攻撃を命じられた。この建物は仲間集落と前田集落の中間点付近にあるコンクリート製の学校校舎で、日本軍防御陣地の中核付近に位置していた。K中隊は攻撃開始後30分間にわたる白兵戦を繰り広げたが、死傷者が続出し煙弾下に撤退した。K中隊は24名にまで激減したため、第381連隊I中隊と再編成を行い、重機関銃手4名と砲弾観測員1名の合計70名の中隊となった。


   



【4月28日夜〜4月29日早朝】

 昨27日の攻撃に失敗した志村大隊は、28日天明とともに米軍戦車の徹底的射撃を受け、昼間は身動きならぬ状態であった。 夜になってようやく連隊本部と連絡がとれ、本夜攻撃を再行し前田高地を奪取すべき連隊命令を受領した。志村大隊長は夜間敵弾下において部隊の掌握も容易ならず、敵情もまた不明のため焦慮していたところ、斥候の報告により独立歩兵第12大隊(賀谷大隊)が前田洞窟に健在することを知り、また洞窟への連絡通路も判明したので、大隊長は先頭に立って前進し、ほとんど損害を受けずに前田高地に達して賀谷大隊と合流した。
      
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 第3大隊(大隊長 満尾大尉で第9中隊欠)は、右第一線第11中隊、左第一線第10中隊とし、前田南東の130高地、135高地を夜間攻撃したが、猛烈な集中火を受け、第10中隊は中隊長が重傷を受け自決するなど多大な損害を被った。29日天明と共に米軍の火力はますます激烈となり、火焔戦車も出現し死傷者はいよいよ増加したため、高地頂上付近から後退せざるを得なくなった。 満尾大隊長は29日夜に残存兵力を大隊本部付近に集結させて部隊の整理を行い、爾後の戦闘を準備したが戦力は極度に低下していた。
 第9中隊は28日2400頃、石嶺において前田高地を占領すべき命令を受け、29日天明までに経塚東側に進出して攻撃を準備した。

                                                                       
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4月29日早朝、第96師団の全面に日本軍の逆襲が行われた。0515、第383連隊第2大隊は手榴弾と槍で装備した日本兵の激しい攻撃を受けた。G中隊のある小隊はこの戦闘で30名の将兵は残すところ9名となった。2度にわたる日本軍の逆襲で第383連隊は265名の日本兵を射殺した。さらに戦車などの活躍で200名以上の日本兵を殺害した。

    

    
 
    


 

4月29日
    4
月29日前田高地の我が部隊は米軍と近接戦闘を交えながらも、その頂上付近及び南斜面を確保した。独立歩兵第12大隊、疲弊第32連隊第2大隊などは、前田高地の確保に努めるとともに前田集落付近の米軍を攻撃したが、わが方の死傷続出し撃退できなかった。
 前田集落南側地区においては、歩兵第32連隊満尾大隊が昨夜攻撃に失敗し、米軍と近く対峙していた。宜野湾街道東側平坦地方面に、戦車を伴う米軍が南下して来たが、第62師団輜重隊、高射砲部隊などが善戦して撃退した。
 歩兵第32連隊第3大隊第9中隊は、29日明け方に経塚東側に進出して攻撃を準備していた。 29日夜に仲間南端の米軍を攻撃したが、敵火のため攻撃は失敗した。本戦闘において中隊長は重傷を受け、死傷者約100名を生じ、中隊の残存兵力は約140名となった。


 

 第96師団左翼地区では順調に首里に向かって進撃していた。138高地では第383連隊L中隊が激烈な戦闘を繰り広げた。戦車部隊は138高地頂上部に接近して南側の日本軍47ミリ対戦車砲と対峙した。ついに沖縄上陸後約1ヶ月を経て、初めて数マイル先の「首里」に向かって直射火器が狙いをつけたのである。



4月30日 
 
前田高地は終日接戦激闘を交え、多大の損害を生じながらも勇戦して同高地を確保し、前田集落付近の米軍の南下も阻止した。歩兵第63旅団長は30日旅団予備の独立歩兵第273大隊を前田洞窟に進出させて独立歩兵第12大隊長の指揮下に入れた。
 仲間付近の陣地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが、わが部隊(独立歩兵第23大隊基幹)は安波茶東西の線を確保して米軍の南下を阻止した。


 
4月29日に第77師団第307連隊は第381連隊の攻撃地区から前田高地を超えて進撃した。30日朝には第306連隊が第96師団左翼の第383連隊と後退した。30日昼には第96師団地区は全面において第77師団と交代を完了した。この交代までに第381連隊は戦闘力が40%までに低下し、1021名が死傷したいたが、このうちの536名がこの4日間の前田地区での戦闘で受けた損害であった。ある小隊は5〜6名が残るだけとなり、彼らも疲労の極みで装備を持って稜線を下ることができず、後方地区へも車での移動となった。
 第307連隊はニードルロック周辺に展開したが、そこで初めて稜線上が極端に狭いことを理解できた。南側斜面は北側斜面ほどではないがそれなりに急な斜面であった。日本軍はこの南斜面に壕とトンネルを連接し、それは稜線上の掩体にまでつながっていた。しかしこの地下陣地の存在が明確になったのは実は5月2日になってからであった。この日ある戦車が洞窟に黄燐弾を撃ち込んだところ、15分後に南斜面の約30カ所から煙が立ち昇ったのである。
 第307連隊は地下壕からの日本軍の逆襲などを受けつつ苦戦し、その後ニードルロック付近で主導権を得るまでに5日間を要した。それまでに連隊は9回にわたる攻撃を行った。
    



5月1日
前田高地においては依然その頂上争奪の激戦が展開され、わが部隊は多くの損害を生じながらも健闘して陣地を保持した。この頂上付近では、米軍の砲迫の集中火を受ける間は壕内に待機し、米軍歩兵が頂上付近に現れると壕から出て反撃するという状況が繰り返された。前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷を生じ成功しなかった。前田集落南側の米軍は南方に向かって攻撃して来たが、わが部隊は善戦して阻止した。

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30日夜から第307連隊第1大隊は断崖に4つの15m梯子と5つのカーゴネットを架け終えた。5月1日A中隊は断崖の東端で梯子を登り始めた。しかしながら全員が戦死するか負傷するかで攻撃は行き詰まった。その西側ではB中隊がカーゴネットを使用して登頂し、夕方までに2個中隊が稜線上を確保することになった。しかし彼らも夜間の日本軍の逆襲を受けてこの稜線から追い落とされる結果となった。
 第77師団の右翼に位置する第307連隊第3大隊は第27師団の行動地域を通過して断崖を超え仲間集落に向かい、そこから東進してアパートメントハウスに向かって攻撃を開始した。この間、日本軍の砲撃は仲間地区に集中して5名が戦死、1時間にわたって弾薬の補給が停止した。
               
写真は5月4日の米307連隊第1大隊の前田高地北斜面の登坂状況である。右の写真はほぼ同じアングル(当時の写真より下側から撮影)で、ネットを掛けた突き出た岩が現在の写真でも確認できる。 



5月2日

 
5月2日は雨の中で戦闘が続けられ、米軍機の攻撃はほとんどなかった。
 前田高地においては、引き続き頂上争奪の死闘が繰り返され、わが部隊は前田集落方面からの米軍戦車の射撃に苦しみながらも、勇戦して頂上付近を確保した。


 
5月2日、第1大隊A中隊およびB中隊は稜線上に釘付けにされ、一歩も前進できない状況であった。敵の機関銃射撃は熾烈で、ある兵士は頭が吹き飛ばされた。



5月3日
 
前田高地の争奪戦の死闘は終日続き、頂上付近に進出してくる米軍に対し、手榴弾、擲弾筒、迫撃砲による攻撃を加えて撃退した。

 
第307連隊第1大隊は断崖の頂上部を占領すべく絶望的な手榴弾戦を行った。日本軍は頂上部に対して南側斜面から雨のように手榴弾を投擲し、さらに迫撃砲弾を集中させた。第1大隊将兵は狭い頂上部から泣き叫びながら北側斜面に転げ落ち、もうこの戦闘の継続は無理だと口にした。だがある小隊長が叫んだ。「まだだ。5分間だけあの場所に戻って素早く安全ピンを抜いて手榴弾を投げつけろ」。








前田高地の陥落
 5月5日、前田高地の南斜面及び洞窟を保持するわが部隊は、5日米軍の包囲攻撃を受け、大部は洞窟内に閉じ込められる状態となった。  
5月6日、前田高地は完全に米軍に制せられ、独立歩兵第12大隊、歩兵第32連隊第2大隊などは、果敢に反撃したが、同高地南側の洞窟に封じ込められる状況となった。前田集落南側地区においては、歩兵第32連隊主力、独立歩兵第11大隊、第62師団輜重隊、などの部隊が混淆して米軍と接戦を交えた。各部隊間の通信連絡は困難で戦線の整理は容易でなかった。

      
  現在も前田高地には多くの壕が残されている。当時収容した戦死者は壕の内部に埋葬されたり放置されたため、戦後多くの遺骨が収集された。

 5月4日、稜線上の戦闘は激烈を極めた。第1大隊のコーニー大佐は断崖の東端から西に向かって約200mにわたって日本軍の地下陣地を完全に爆破した。大隊はついに日本軍が反撃を繰り返す南側斜面に戦線を拡大した。この4日の戦闘だけで約600名の日本兵を殺害した。5月5日は斜面の洞窟をひとつひとつ爆破して封鎖していった。5日から6日にかけて日本軍は前田高地を取り戻すべく数回にわたって逆襲を行った。特に右翼の第307連隊第3大隊が激しい戦闘に陥ったが、白兵戦によって守り抜き、結局は250体の日本兵の遺体が確認された。5月6日、第307連隊は南進して187高地に達した。これをもって前田高地の戦闘は終了した。

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沖縄第32軍司令部は、伊祖高地において米軍侵入に対する対応の遅れから戦線の破綻を招いたことを重視し、前田高地においては可能な限り新鋭の部隊を迅速に投入することを重視した。

司令部壕としての機能は充実していた。有線(電話)も堅固に構成していたため、戦闘終盤まで外部との連絡が取れていた。






130m閉鎖曲線高地と135高地の間は、当然緩斜面であり戦車機動が可能であることには日本軍側も気づいていたはずである。
 しかしながら、両高地を保持していれば敵の進撃を防げると確信していたようで、この地区に戦車機動を阻止するような対戦車壕・対戦車障害等の構築は一切見られない。













「勝山集落」は日本軍側の記述でも頻繁に記述されているが、現在では廃村となっており、その場所には現在水道タンクが建設されている。






























前田地区という限定された地域に第62師団と第24師団のそれぞれの隷下部隊が配備されたわけで、当然指揮系統の問題が発生する。 当然沖縄第32軍司令部は62師団部隊を第24師団部隊に配属する処置を採ろうとしたが、それまでの師団相互の不信感から、指揮系統の一元化が実現できなかった。(後述)








休養十分の部隊を投入する米軍と、開戦から常時戦闘を継続してきた日本軍との間には、兵力・装備の差以上の開きがあった。





































前田守備部隊である第62師団には編成上砲兵部隊がなく、第一線部隊に対する砲兵射撃支援は、軍砲兵に頼らざるを得なかった。
 軍砲兵は、米軍の中飛行場使用を妨害する「飛行場制圧射撃」や4月12日の第62師団の攻勢など限定された場面にしか使用されず、しかも弾薬の使用も制限されていた。

第24師団は砲兵部隊を有していたが、4月22日以降は全て軍砲兵の指揮下に入り、前田高地の戦闘においても、師団隷下部隊に対する支援射撃は一切行われなかった。





独立歩兵第11大隊が早期に突破されたことは、沖縄第32軍にとっては計算外のことであった。
独立歩兵第11大隊にとっては、正面から米383連隊第2大隊が、右側面から同第3大隊が攻撃前進してくるなど、圧倒的な戦力差に如何ともしがたい状況であったと思われる。




「第62師団の戦闘に協力」という実に曖昧な命令であった。相互の師団には情報を共有する手段も、調整をする手段もなく、まさに机上の命令であった。



日本軍の前田陣地は司令部用の壕であったため、北側にいる米軍に対して、積極的に攻撃することは出来なかったのである。 したがって崖を登ってきた米軍に攻撃するしか方法はなく、米軍の記述するような「反斜面陣地」を意図を持って構成したわけではない。

















































米軍は前田集落に進出したものの、背後の前田高地から日本軍の攻撃を受けて進撃が停滞した状況を表している。





130m閉鎖曲線高地は、戦後北側斜面の一部だけが残されて、大部分が削り取られた。 その頂上部があった場所に、現在は浦添消防署が建設されている。










将校斥候とは接触できず、連隊本部に敵情を確認するも、「前田高地には第62師団の部隊が一部居るはずだが、その状況は不明。敵の戦車は本朝前田高地南側に行動しているらしい」 という極めて曖昧な情報しか得られなかった。 これが沖縄戦の戦場の実相である。


第7中隊は中隊長戦死により、一時戦場パニックに陥り、部隊の組織的戦闘は崩壊している。


















夜間攻撃成功の要件は「準備の周到」であるが、それをさせる時間的余裕を第2大隊へ与えることが出来なかったのが最大の失敗の原因であった。













歩兵第32連隊第2大隊は、突撃の失敗により、近在の墓地などに避難して米軍戦車の攻撃を回避することに努めた。この間、部隊内の連絡は完全に不通であり、昼間にあっては部隊掌握は全く出来ていない状態であった。




120高地は、米383連隊第3大隊がすでに確保しており、歩兵第22連隊が前田高地に進出できる可能性は皆無であった。













前田高地の戦闘においては、浦添国民学校のある丘陵の占領が最終的な目標となった。
 日本軍も前田高地からの反撃に加えて、安波茶・仲間地区の独立歩兵第23大隊が頑強な抵抗を行い進撃する米軍部隊を撃退した。独立歩兵第23大隊にとっても、浦添国民学校を失うことは右側背からの米軍の攻撃を受けることを意味した。









米軍は日本軍の夜間攻撃を避けるために、夜間もほぼ間髪を開けずに横一線の弾幕を形成した。 
そのため、第2大隊は地形の一番低い場所を縦隊で進撃する方法を選定した。

大隊は編成上約800名であるが、前田高地に辿り着いたときの人員は約300名であった。












夜9時頃、第2大隊(志村大隊)集結場所付近を、第3大隊の斥候が通過した。ここで第3大隊が夜間攻撃を行うことを知った志村大隊長は、敵情不明のまま突撃することは自分の大隊と同じ運命を辿ることになると考え、連隊本部・第3大隊に攻撃の中止を具申しようとするが、無線は通じず、予定通りに第3大隊は攻撃を行ったのである。

第3大隊は、約800名の大隊編成人員の内、半数以上を失ったことになる。


































この狭い地域で、日米両軍の将兵約500名が命を落としたのである。 当時は累々たる屍の山であったであろう。 あまりの激しい戦闘で、日米とも戦死者の遺体の収容が出来なかったと伝えられる。










経塚・勝山付近には他にも第1臼砲連隊が所在していたが、すでに隣接する地域にどこの部隊がいるのかさえわからない状況で、連携の取れた攻撃などは実施すべくもなかった。



第9中隊は安波茶地区を経由、西から前田高地に進出して前田高地の守備にあたる任務を帯びていた。 29日未明の第2大隊の前田高地進出の状況を知っていれば、この経路を選択することはなかったであろう。

米軍の言う138高地とは、日本軍の146高地(4月28日の写真参照)のことである。





独立歩兵第273大隊には、前田高地進出のための経路に関して、何らかの情報伝達があったと思われる。






































前田東方高地、すなわち130m閉鎖曲線高地のことである。この高地を確保することで、日本軍は米軍の増援阻止を図ろうとした。
 そのために投入した部隊の損害は大きく、この高地は「魔の高地」と呼ばれるようになった。














この写真は、日本の書籍において沖縄本島南部の具志頭95高地とするものがある。しかしながら、米軍側の資料には、具体的に崖の上に立つ将校の名前も付されており、307連隊であることが確認されている。












日本軍は前田高地に立て籠もり、高地自体を確保はしていたが、すでに壕を出て組織的活動をすることが出来ない状況となっていた。